Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-09-20

好きと再会する─町田市立博物館、本町田遺跡

 雨が多かったからだろうか。雨にまぎれて、夏の暑さがいなくなってしまった。まだ暑いと思うときはあるが、気温に力がない。朝晩などはだいぶ涼しくなってきた。
 近所の公園でも、とつぜん彼岸花が咲き始めたのに気づいたのが、九月の十三日。今年はじめての彼岸花だったので、見入ってしまった。わたしはどんなにか、この花が好きだったのか。花のころになると、いつもそんなことを思い出させてくれる花のひとつだ。
 またある日、崖の上の緑地公園の入口で、コムラサキ(ムラサキシキブの仲間)を見つけた。花ではなく実のほう。もう紫色に色づいていた。こんなに早く色づくものだったのかしら。花のほうは目立たない、白っぽい小さな花たちが、夏…七月ぐらいに咲いているのを、ほかの場所だったが、見かけていた。そのうち緑色の実を、そして、とうとう紫色の。紫色のまま、数ヶ月その姿を保っているから、もっと秋も遅くなってから、色づくのだと思っていたのだろうか。この時期でもまだほんのり紫になってはいるが、緑っぽい実をつけているコムラサキもある。わたしが結実期をもっと遅いものと思っていただけなのだろう。そう、この花、いや実も、すきなもののひとつ。つい目で追ってしまう、目につくと好きだったなと思い出さずにはいられない植物のひとつ。

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 風邪をひいた。以前にくらべて、ゆっくり症状がでてくるような気がする。時間をかけて、緩慢に具合がわるくなってくる。最初は気のせいかなと思う。けれども、徐々に。風邪のために、気力がうしなわれてゆく。おっくうになる。そんななか、ネットで、なにか近くで展覧会とかないかしらと検索していたら、町田市立博物館で「まちだ今昔展─時空を超えた対話;縄文ムラと商都」(二〇一八年七月十四日─九月十七日)というものを見つけた。すぐ近くに本町田遺跡公園という史跡もあるらしい。あと数日で企画展もおわってしまう。だるかったが、町田なら電車で一本で行けるところでもあるし、九月十五日の土曜日、出かけることにした。
 土曜日も雨。微熱もあったし、出かける気が失せそうになったが、バイトから帰ってきて、簡単に昼食を済ませて、なんとか外に出る。このささいな決断が、まあ、このごろの怠惰になりがちな自分にしては、ましな行為だ、いい兆候だと、力なく、どこかで思う。
 小田急線の町田駅からバスで、というのが博物館の案内などに乗っているルートだが、うちからだと、その一つ前の駅、玉川学園前駅から徒歩でも行けそうだったから、金銭的なことも考え、そちらから行くことにした。玉川学園前駅。ちょうど、もうそろそろ一年前になってしまう、玉川大学教育博物館「二〇一七年度企画展 考古資料展―玉川学園考古学研究会の軌跡―」(二〇一七年十月十六日〜十二月十七日)に出かけて以来だ。あの折は車だったが、こんどは電車。風邪とバイトの疲れで、電車の中では、ほとんど寝ていた。各駅停車で行ったが、寝るにはちょうどいい時間。片道25分弱ぐらい。
 事前に調べたところ、玉川学園前駅から、町田市立博物館は徒歩二〇分ぐらい。地図もプリントアウトしたのだが、見事に迷ってしまった。もともと方向音痴で、方向ではなく、建物などで位置を確認するのだが、住宅地ばかりなので、確認する建物がない。それが原因。自分の方向音痴を知っていたから、遠回りでもなるべく大きな道、極力曲がらないですむ道をたどったつもりだったが、どこかで間違えた。次の大きな道、街道にたどりつかない。行き止まりや、ほそい坂、わけがわからなくなってしまった。仕方なく、地図アプリを頼ったが、北西の方角へ、と指図があるので、また混乱する。方向音痴に北西といわれても…。さんざん迷って、二〇分でいけるところ、結局一時間以上歩いてしまった。具合が悪いし、雨も降っているのに、これはさんざんだなあと思うが、どこかで楽しんでいた。迷ったのは住宅地だというばかりでなく、丘陵地に作られた町だからだ。うねうねと坂をのぼる。また少しななめにくだる。方向音痴でなくとも、たぶん方角をみうしなう(?)…。
 やっと街道に出た。鶴川街道だ。街道に出さえすれば、あとはまた高いところに続く道をほぼ道なりにすすめばいい。
 そういえば、縄文の遺跡は、知っている限りだと、高いところにあるなあと思う。時期によって、一概に言えないが、温暖化で海が内陸まで迫っていた海進の折の事情による。岬ということばがまた思い出される。
 町田市立博物館にようやくついた。


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 チラシやHPから。
 「(前略)本年は町田市が誕生してから六〇周年を迎えます。明治時代以降において横浜と八王子をつなぐ生糸の輸送ルートである絹の道(町田街道)は、様々な物資の流通ルートとしても利用されたことから、街道沿いの地域を中心に商都として繁栄してきました。さらに市制が施行され、駅前をはじめとして急速に開発と発展が進んだ時期でもあります。町田市内は九〇〇地点以上の遺跡が確認されており、なかでも縄文時代の遺跡は数多く、出土遺物も内容が豊富です。本展では、昭和三〇年代の町田の人々のくらしと、開発に伴い行われた発掘調査で明らかになった原初の町田の人々のくらしを、考古資料と民俗資料の異なる視点からご紹介します。」
 
 町田市にある縄文の遺跡は、早期(藤の台遺跡など、約七五〇〇年前)、前期(本町田遺跡、約六〇〇〇年前)、中期(御嶽堂遺跡、木曽団地遺跡ほか、約五〇〇〇年前)、後期〜晩期(なすな原遺跡、田端遺跡ほか、約四〇〇〇年前〜二八〇〇年前)と、長い年月にわたって、あるらしい。
 博物館にはいってすぐの考古篇の展示では、各遺跡からの出土品が展示されていたが、年代が違うので、土器もいろいろあった。この違いについては、先に行った「縄文展」(二〇一八年七月三日─九月二日、東京国立博物館)で、概観したばかりだったから、なるほどなあと納得した。前期の本町田遺跡のものは、縄ほかで、紋をつけていて、中期の金森遺跡や鶴川遺跡群J地点のものは、粘土を貼り付けたような造作があって…。
 写真撮影が可ということを、後で知ったので、展示を見るときはそれをしなかった。だが、展示物を写真に撮ることは苦手だ。それよりも、展示をもっと見ることに注意をはらったほうがいいのではないかと、つい思ってしまうから。それに、土器や土偶は、見て、感じることに、注意をむけたい。だから、撮れなかったことを、あまり残念に思わない。こうして書くときに、すこし不便だけれども。結果、不確かなことを、勝手に書いてしまうことになるかもしれない。
 博物館にあった「本町田遺跡を知ろう」という印刷物に、「本町田遺跡から出てきた縄文時代前期の土器は、現在の甲信地方で見られる土器の特徴を持つため、多摩丘陵や境川を辿って西からやってきた人々が」作ったのでは…とあった。たしかに山梨などで見た土器と雰囲気が似ていると思った。藤の台遺跡出土の《顔面取手土器》などは特に。本町田遺跡出土のものではないが場所的にはとても近い。それにすぐ後に出かけた本町田遺跡公園でも、やはり顔面取手土器の一部が展示されていた。ここでも、「現在の長野県や山梨県にあたる地域の縄文時代中期の人々が土器の一部として作り始めたと考えられています」とあった。
 ともかく藤の台遺跡出土の《顔面取手土器》は、前回ここで書いた縄文展などでみた《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市)の、表が女性、裏が蛇の、そんな土器に近しいものだった。男と女、死と再生、慈しみと恐れ…。
 またうろおぼえで書いてしまうが、チラシにある顔の土偶、《中空土偶頭部》(田端東遺跡出土、縄文時代後期)は、国宝の北海道函館の《中空土偶》と顔も造りも似ているので、あちらの愛称が出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」によって「茅空(かっくう)」なので、町田で「まっくう」としているとあったのが、すこしほほえましかった。
 
 「まちだ今昔展」の今昔のほうにあたるのだろうか、民俗資料のコーナーでは、縄文土器に触ることができるコーナーがあった。前期、中期、後期と、三つの時代のものが、数個ずつおいてある。前期のものは土器に紋がついていて、中期のものは突起があって、後期のものは目立った紋がなく…、ここでも違いがわかるのがうれしかった。それぞれの時代のものを丁寧に触る。
 雨のせいか、土曜日なのに、人がほとんどいない。そのせいもあるだろうが、土器や土偶たちが、しっくりと、わたしに小声で語りかけてくれるようだった。来てよかった。
 
 博物館を出て、すぐ近くの本町田遺跡公園へ。およそ、五五〇〇年前の縄文前期の住居址と、二〇〇〇年前の弥生時代中期の住居址が発見された「複合遺跡」。現在は、それぞれの時代の住居が一軒ずつ復元されていて、東京都の指定史跡にもなっている。
 恩田川と鶴見川の分水嶺にあたる場所、丘陵地帯になるらしい。やはり岬…。高いところにあることは、この場所からでも、わかった。下のほうに住宅地が拡がっている。復元された竪穴式住居は、外から見ただけでは違いがわからない。

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 中にはいったが、暗いこともあり、あまり熱心に中を見なかったので、違いがなんとなくしかわからなかった。違いは、縄文時代のほうは、丸太や枝をそのまま使っているが、弥生時代のほうは、道具が発達したことで、木材を板などに加工している、そのことによるらしい。
 雨が幾分か小雨になったが、まだ降り止まない。
 晴れたらどんなにか、とは思ったが、やはり来てよかった。公園近くに、カブトムシの幼虫のための腐葉土を溜めている木の箱があったから、縄文時代の人々が食べていたドングリたちの実る、コナラやクヌギなどもあったのだろう。
 竪穴式住居の脇の芝生に、ツルボが咲いているのを見つけた。紫色の小さなブラシみたいな花。これも好きな花だったなあと、咲いているのに出会って、また思い出す。それが、こうした場所であるのが、どこかうれしかった。
 小さなガイダンスルームで、遺跡出土品の展示、パネル解説などを見る。顔面取手の蛇。ぬけがらのよう、どこか、やさしい。
 丘陵から下るかんじで、帰り道。びっくりするというか、あきれるぐらいに近かった。行きのわたしはどんなに道に迷っていたのか、わらってしまう。こんどからは大丈夫、まよわずにいけるだろう。雨がようやくやんだ。

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 土器たちに触れて、数日後、まだ微熱がつづく。風邪が沈殿している。あちこちで彼岸花たちを見かける。かなり咲き出した。昨日、早朝バイトからの帰り道、崖のしたで白い曼珠沙華がすこしだけまとまって咲いているのを見つけた。赤い花は彼岸花というのに、白いほうは曼珠沙華と、言ってしまうのはなぜかしら。そんなことを思った。真っ赤な彼岸花が群生しているとすこし怖いぐらいだが(毎年のように埼玉県の巾着田にいってそんな群生を見ている)、白花の曼珠沙華は群生しているのを見たことがない。昨日見たのも、群生というほどではない。せいぜい十本かそこらだろう。けれども、その姿の群生しているのを思い浮かべることはできた。やはり、それはそれで、怖いぐらいだろうと思った。幽玄というか、しずかな、荘厳なこわさ。
 この上あたりも、遺跡発掘調査を最近していたなあと思う。崖の上だもの。どこかで、あちこち、つながっているだろうか。また雨が少し降ってきた。

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19:39:16 - umikyon - No comments

2018-09-10

細い水を畏怖する 愛しいものへ

 九月に入ったが、まだ暑い。けれども、風が変わった。「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行・古今和歌集)を、こんなとき痛切に感じる。感じることで、歌を詠んだ時代と、どこかと共鳴しているようで、それがやさしい。
 それに、早朝バイトに出かける時間、午前五時前なのだが、だいぶ日の出の時間が変わってきた。ついちょっと前までは、完全に朝といえるほど、明るかったが、今は東の空が明るんできたぐらいで、まだ日の出に至っていない(九月一〇日で東京の日の出は五時二〇分)。西の空にいたっては夜の雰囲気すらある。これからもっと暗くなって、早朝ではなく、深夜に出かけるような気分になるのだろうなと、ぼんやりと思いながら自転車をこいでいる。
 そんな日の出前の、あれは五時五分ぐらいだったろう、朝焼けがまたきれいに見えていたので、思わず、スマホで写した。これからほんのしばらくは、こうした朝焼けが楽しめるのかもしれない。それもまた、この時間ならではの季節を感じるということなのかもしれないなと思う。

 台風のある日、仕事関係の用で練馬に出かけた。大江戸線で新宿方面からいくと、練馬の先、終点の光が丘公園は、わたしがかつて住んでいたところの最寄り駅になる。電車の中ですこし懐かしく思う。もう、あそこに帰っても誰も居ないし、べつのアパートが建っている。
 新宿駅で、いつも通販で売っている店が、期間限定ショップをだしているというので、まず行きにのぞいてみた。よくわからないけれど、通販では取り扱わない、リアルショップ専用の商品もあるようだ。そんなものの一つに、猫のポーチをみつけた。ポーチというよりほとんどぬいぐるみ。商品自体は通販にもあったが、模様がちがった。サビ猫。トラ猫に黒が混ざったような、はっきりいってあまり美しくない。けれども、大好きな飼い猫だった、べべの模様だ。わたしはどうして、こんなにべべが好きなのだろう。亡くなってもう十数年経つというのに。売っていた猫(ポーチ)は、模様がべべと同じというだけで、似ているわけではなかった。だから…。帰りに通るときまで保留にする。もし売り切れていたら、それもまた縁がなかったということだ。
 台風の影響で、帰りは電車が止まったりしていた。なので、早く帰ったほうがよかったのだが、遠回りになるのに、結局店へ行って買ってしまった。馬鹿みたいだ。けれども、ゆるせる馬鹿さ加減だ。

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 家の朝顔が、今年はよく咲いてくれている。去年、入谷の朝顔市で求めた朝顔、その種を蒔いたものだ。蒔いた時期がすこし遅かったからか、八月後半に、とくに花をよくつけてくれていた。種類は陽白朝顔。昼ぐらいまで咲いていてくれるので、それもうれしい。バイトから帰ってきて、水やりをする、午前10時ぐらい。そのときにまだ花が咲いているので、花数を確かめる。以前に咲いて、種になっているものたちもある。そのうち採取して、来年も蒔こうと思う。今年はずいぶんと楽しませてくれた。ありがとう。
 この頃、台風の影響なのかしら、雨が多かったのかしら。前にも書いたけれど、うちの近くの小川と、湧水地に、水がある。一年の大半は枯れているのに。この川と遊水地は連動している。おとなりの狛江市にある弁財天池から流れているらしいが、暗渠となっている部分も多いので詳しくはわからない。けれども、家のすぐ近くに川があるというのは、うれしい。近くといっても道をはさんで家たちが立ち並び、その向こうにもう一つの道に沿って川が流れているので、家からは見えない。なので、一本向こうの道を通って、この頃は家に帰るようにしている。今日も…また、すこし雨が降ったりだったせいか、ほんのすこし、小川に流れる水が増えているような気がする。遊水地も。こんなふうに水があるうちはほぼ毎日、川を眺めている。雨が強くなってきた。

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 『縄文の神秘』を読み終わった。最後のほうは「土偶の神秘」として、様々な土偶を写真付きで紹介しつつ、考察してゆくものだった。なぜ造られたのか。構成する条件(土偶は女性である、壊されているなど)をあげてゆき、それらに基づいて、結論的な答えを示す。それは、100パーセントそうなのだろうとは思えなかったが、うなづくところも多い、そんな推論だった。
 共感できたのは、死にかかわっているということ、再生にかかわっているということ。そういえば、あれはどこで見たものたちだったのか。壊れた土偶たちを見て、怖いと思った記憶がよみがえった。たぶん國學院大學博物館でだ。「特別展 火焔型土器のデザインと機能」(國學院大學博物館 二〇一六年十二月十日─二〇一七年二月五日)。あのときは、少し怖いと思っただけだったが、畏怖のような感覚で、あの土偶たちがわたしのなかで、共鳴をもたらすようだったのだ。埋葬であるとか、悲しみであるとか、祈りであるとか、だが、死者の側を色濃く反映させている、そんな風に思えた。だからだろうか。國學院博物館で、怖いと思った後から、少しづつ、それらがわたしのなかで蓄積していったと思う。縄文土器には、あまり怖いという気持ちは起きなかった。祭祀で使われたこともあるだろうが、どこかに生活の痕跡が残っているからだったのだろう。土偶には、生活感のようなものがない。だから、特に美術品としてみることに罪悪感のようなものを感じたのかもしれない。
 そういえば、狛江の弁財天池。あのあたりも弁財天池遺跡があり、先土器時代から、縄文、弥生、古墳、奈良や近世の複合遺跡となっているらしい。川が細く、流れている。雨がまた、水をもたらしてくれるだろうか。べべ柄の猫のポーチを、目につくところにおいている。そういえば亡くなった猫のために、毎日陰膳を出している人を知っている。いつも食べていたお皿で、台所の定位置に。きっと食べに来ているのだろう。道路のほうから、雨のなか、車が走る音がする。雨脚が少し弱まってきた。

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20:55:49 - umikyon - No comments