Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2019-02-20

春、かれらに触ることができたかしら─府中「郷土の森 梅まつり」など

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 今年は春がすこし足踏みしているような感じがする。二月に入っても寒い日が続く。けれども、あれは二月の八日だった。昼間、チラシ投函のバイトをしていたとき、もうホトケノザとか咲いているのかしらと、ふと注意してみたら、あちこちに花開いているのを見つけたのだった。ホトケノザはもちろん、ハコベも咲いていた。そして、タンポポに似た黄色い花。ジシバリかコオニタビラコかと思っていたのだが、後で調べてみたらら違った、ハルノノゲシというらしい。またひとつ名前がわかって、うれしい。オオイヌノフグリはつぼみ。数年前まで、春の花たちは三月、啓蟄あたりで咲くのだとばかり思っていた。思い込みのせいでろくろく花たちを見もしなかった。それが間違いだと気づかせてくれたのが、たぶんホトケノザ。うちのマンションの駐輪場に、二月にもう、ひっそりと咲いているのを見かけたのがきっかけだったと思う。わたしにとっての春告げ花のひとつ。
 「春告げ花」と、勝手に使っていたが、「春告」のあとに「鳥」「魚」「草」などが入って、それぞれ、一応固定されているみたいだ。「春告鳥」がウグイス、「春告魚」がニシン、そして「春告草」が梅。
 草なのに梅、というと少し違和感があるけれど、梅もわたしのなかでも「春告花」(草ではなくって)だった。こちらは三月よりもずっと前に咲くことを昔から知っていた。熱海の梅祭りなどが一月から開催していたし、梅については意識して辺りを見渡す癖がついていたのだ。今年も二月にはいって、あちこちで、梅が咲いているのを見ている。公園で、人様のお庭のものを塀ごしに。
 そんななか、二月十六日の土曜日、府中市郷土の森博物館で開かれる「郷土の森 梅まつり」(二〇一九年二月二日〜三月十日)に出かけてきた。ここ数年、毎年のように出かけていて、去年も訪れている。ここは敷地全体が博物館になっていて、ケヤキ並木、梅園や、田んぼ、池や小川、移築してきた古民家や建物、遺跡、本館での常設や企画展、プラネタリウムなどがある。さっき、これを書くので少し調べたら、最後に行ったのは、去年の六月の中旬だった。あじさい祭り目当てで。

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 今回も、連れ合いと車で出かけた。去年のあじさい祭りの時だったか、彼が多摩川沿いに出かけるルートを発見した。うちから多摩川は近い。直線距離で五〇〇メートルほど。郷土の森も多摩川沿いにあり、川を横目に見ながら、十数キロ、上流に向かえばいいので、助手席で無責任に景色を眺めているわたしとしては、着くまでの車窓も楽しいし、早く着くし、素敵な道のりだった。
 駐車場に車を停め、入口前の物産館に立ち寄る。府中の野菜、お菓子、地酒、絵ハガキなどがあり、小さな道の駅といったかんじ。郷土の森で採れた梅干しも売っている。
 そうして入場。博物館本館を過ぎ、復元移築された建物たちのエリアに来ると、もう小さな梅園があった。紅梅、白梅が、そろって咲いていて、それ目当てで来たのに、すこし驚いてしまう。うれしい驚き。さらに小川をわたると、広い梅園。かなり花の咲いた梅もあったけれど、まだ開花の遅れている種類の梅もあって、全体で三分咲きぐらい。けれども、咲いた花たちばかりが目について、なんとなく、もっと咲いているような気がする。梅たちのほんのりやさしい匂いも嗅ぐ。子どもの頃から白梅に親しんでいたこともあって、相変わらず白梅が好きだけれど、紅梅がこんなふうに混ざって咲くのも、趣きがあると思う。なにより、あたりの空間が色が増えることで華やかになる。

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 去年の梅まつりの時も来ているので、なんとなく勝手がわかる。梅園のさらに奥に、ロウバイも咲いていたなと、そちらへ。ただ、今年は園内マップをもらいそこねたので、適当に歩いていた。すると水遊びの池の近くに、「珪化木」と案内標識を見つけた。ここ郷土の森博物館のミュージアム・ショップで見かけて、初めて知った樹木の化石。なんだろうと行ってみたら、模型のティラノサウルスの近くに、本物の珪化木たちが、置かれていた。府中市民の方の寄贈によるもので、秋田県大仙市出土、白亜紀後期の七千万年前ぐらいのものとあった。ちなみにティラノサウルス(たしか国立科学博物館から譲られたものだったと思う)をここで見るのは久しぶりだった。苑内はそれほど広いのだ。その時にはたしか珪化木はなかったなと思ったら、二〇一六年に設置されたものだった。ともかく、こんなところで、この頃のお気に入りの珪化木に会えるなんて思いがけもしなかった。こういう出会いは、わくわくする。なにかたちが、貴重なものを授けてくれたようでもある。

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 わたしが珪化木にひかれたのは、たんに植物が好きだからだと思っていたが、それだけではないのかもしれない。珪化木は、地中に埋もれた樹木が長い年月をかけて、地層の圧力などで木の成分が二酸化珪素に置き換わってできたもの。二酸化珪素が結晶化すると石英や水晶になるので、瑪瑙のようにキラキラしてもいる。木の原型を保ちつつ、そんな性質も併せもった不思議な化石。樹木であり、石である…。このキメイラ的なことに触手が動いたのかもしれないし、縄文土器のように年月を隔ててここにあるということに思いを寄せたのかもしれない。植物が永遠のような姿として、きらめいている。
 その珪化木に苑内で出会うことができるなんて。それはほんとうに切り株のまま化石になったものとして、そこにあるようだった。まわりの草木となじんで、あたかも地中には根があるようだった。丸太のまま化石になったようなものもあった。さわってみた。きらきらしてはいたが、わたしが持っている小さな珪化木ほどつるつるしていない。わたしのものは磨かれているのだろう。きらめきながら、ざらざら。そんなことが、よけいにリアルさをおびていて、心に響いた。
 そのあとでロウバイの小径へ。ここは苑内のへりといったところで、すぐ向こうに多摩川が見える。ロウバイは花期が梅よりも早いので、もう盛りは過ぎていると開花状況を知らせるHPにはあったが、十分だった。ロウバイは蝋梅と書く。蝋のような質感をもった花びらたちが、黄色く、さんさんと輝いている。これは蝋は蝋でも蜜蝋だ。蜂たちの蝋の色だ。花びらにそっと触ってみる。すこし肉厚。

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 さらに、ロウバイの小径を過ぎて、本館のほうへ戻る感じで歩くと、ふるさと体験館がある。その近くの水辺に、もう一つのお目当て、ネコヤナギがあるので、それを見にゆく。これも去年来て、知ったのだった。
 あのほんとうに猫のしっぽみたいなあたたかそうな毛、花穂(かすい)というのだが、それが昔から好きだった。寒さに耐えている感じがいとしい。
 今年もふわふわとそこにいた。猫のしっぽが枝からたくさん。こちらも触ってみる。毛がなめらかだ。そういえば、子どもの頃、宝箱にこの花穂をひとつ、ふたつ、入れておいたっけ。

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 そうして入口近く、いや出口ともいえるが、本館へ。こちらの常設展の縄文土器や土偶にまた会いたかったのだ。あじさい祭りの時に『府中市郷土の森博物館 常設展ガイドブック』という本を入手していたので、少しだけ土器や土偶の由来がわかった。本宿町遺跡で出土した縄文時代初期の土器、縄文時代中期の土偶、清水が丘遺跡で発掘された縄文中期の土器、武蔵台遺跡(武蔵台東遺跡と隣接していて、ジオラマもあった)の縄文初頭の土器と石器、石棒、武蔵台東遺跡の中期の土器と土偶など。清水が丘遺跡は、苑内に柄鏡形敷石建物跡が移設保存されている。床に石を敷き詰めた縄文中期から後期の建物跡。土器や土偶を、見て、どこかで、触ったような錯覚をもった。というか、目でみることで、感じようとしていたのだ。遠い、でもどこかなつかしい気配。

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 常設展示室から出た、入口と出口を結ぶ廊下に、体験ステーションというコーナーがある。昆虫標本をみたり、昔のおもちゃで遊んだり、昔の衣裳を着たりすることができるのだが、そこに石の矢じりと縄文土器片もあったので、こちらは触ってきた。とくに土器片のほうは、たくさんの人が触ってきたようだ。最近の手と、作られたかつての手を思う。果てしない温もりのようなものを感じた。
 本館は、プラネタリウムも新しくなったらしい。今度機会があったら覗いてみよう。ミュージアム・ショップに行く。ここは博物館だからなのか、他の郷土資料館的な施設よりも、科学的なものが多く置いてある気がする。ガイドブックにも「府中の歴史・民俗・考古・自然・天文、すべてについて紹介されている総合博物館」とある。
 そう、梅干しや府中のお菓子などのほか、過去の企画展の図録、書籍、絵ハガキ、布製品、陶器、昔ながらの玩具、隕石、化石、鉱物なども売っていて、盛り沢山で、ちょっと楽しい。化石ガチャ、鉱石ガチャもある。そして、珪化木も売っていた。わたしにきっかけを与えてくれた、あの……。感慨をこめて、その化石を見る。四つほど売られていた。ここで見たことがきっかけで、去年の暮れに別の場所で購入して、すでにうちにひとつあるというのに、結局今回、また買ってしまった。うちにあるものと、すこし違うかたち選んで。これで二つも持つことになるなと思ったが、最初に珪化木の存在を教えてくれたこの場所に、敬意を表してというか、記念として、どうしても、連れて帰りたくなったのだ。苑内にあった切り株のような珪化木も頭によぎった。
 土曜日が過ぎて、月曜日。晴れて少し暖かい。カラスノエンドウやヒメオドリコソウの葉を見かけた。五分咲きぐらいの梅、通りかかると、甘酸っぱいような香りがした。もう春だと思っていいのかもしれない。ネコヤナギみたいなハクモクレンの冬芽、毛むくじゃらのそれに触る。すこしずつ膨らんできたのかもしれない。春はもうすぐ、いや、もう来ているのだろう。珪化木は、前からいたものと、仲良くふたつ並んで、小さな箱に収まっている。これを書いている机のすぐ脇で、見えるところに置いている。触ると、つるつるとなめらか。植物とこんなふうに出会うこともあるのだった。

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2019-02-10

瞬間の波、永遠の海─江の島

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 海が好きなのに、もうずっと海をみることがなかった。なので行ってきた。うちから一番行きやすい海、江の島へ。車だと近いのは横須賀、三浦海岸辺りなのだろうけれど、電車だと江の島だ。小田急線でほぼ一本でいける。
 江の島・鎌倉あたりは、昔から一人でたまにこっそり出かけているところだった。わたし自身は車の免許がないので電車で。生まれた時から小学校にあがるまで、小田急線沿線に住んでいたからかもしれない。今、小田急線沿線に住んでいるのは偶然なのだが、ありがたいことだ。ともかく江の島や小田原にははどうも愛着がある。小さい私は、踏切で海のほうへゆく特急ロマンスカーを見るのが好きだった。枕木のずっと向こうが海なのだ…。
 家人と出かけた。今回はじめて、江の島1dayパスポートというのを買ってみた。うちからだと江の島までの電車賃プラス八〇〇円ぐらい。それで展望灯台や江の島岩屋などの施設料金も含まれ、土産や飲食その他もも割り引きになるらしい。
 以前一人でのときは、新宿の始発から利用したこともあり、特急券をプラスしてロマンスカーに乗っていったものだった。今は小田急線沿線に住んでいるので、わざわざ乗るまでもないと、急行や快速などを乗り継いでゆく。

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 日曜日だったが、冬という季節もあるのだろうか、電車は比較的空いていた。片瀬江ノ島駅についたのが、午前十一時をまわったころ。
 終点の片瀬江ノ島駅までは内陸だから海が見えない。けれども、近づくにつれて車窓の陽射しが明るくなってきたような気がした。駅に到着すると海はわりと近い。江の島弁天橋のほぼたもと。この橋をわたれば江の島だ。わたしが最後にきたのはいつだったか。そのときよりも、橋のまえの国道一三四号線沿いに並ぶ店たちが、ずいぶん今風になっていたようだ。明るいというか、都会風というか。こんなことを寂しがるのは、年をとったということなのだろう。じつはその変貌のせいで、道を間違えてしまった。あらためて江の島へむかう。あたりは海。トンビに注意との看板。そうだった、トンビが多いのだったけ。ピーヒョロロと鳴きながら、頭上を旋回する姿をなつかしく見上げる。
 橋の途中で富士山が見えた。当たり前だけれど、うちから見えるものよりも、ずっと大きい。すこし雲がかかっていて、くっきりというほどではないが、見ることができてよかった。

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 橋をわたれば江の島。立派な青銅の鳥居をくぐって、お土産店のたちならぶ弁財天仲見世通りへ。貝細工を売っている店、海産物、食べ歩きできる類いのもの、アクセサリー、食事処、こうしたお店たちはは眺めるだけで、楽しい、お祭りのようだ。
 ここは古くから信仰されてきた場所でもあるので、観光地なのだけれど、雑多な賑わいのなかに、どこかそうした歴史や、神聖なものの気配が残っている。日本三大弁天の一つである江島神社の弁財天、「奥津宮(おくつみや)」、「中津宮(なかつみや)」、「辺津宮(へつみや)」……。名前を聞くだけでも、海への信仰、祈りが感じられる。そして龍や亀への信仰。
 すこし古色蒼然とした気配と、観光地としての今の様子。それはわたしにとっても親しみぶかいものだった。疎外感がない。賑やかさのなかで、お土産などをみつつ、上へ、というか奥へ向かう。江の島サムエル・コッキング苑の前で、連れ合いがタコせんべいを買った。タコをプレス焼きしたせんべい。わたし一人だったら多分買わない。いや、彼も一人だったら買わないかも。食することができてよかった。タコがそのままプレスされているからか、風味がよい。タコがはいっていない小麦粉部分にも香りがしみこんでいるようだった。お酒でいただく。トンビが近くを飛んでいる。
 そのあとで、江の島サムエル・コッキング苑と、中にある展望灯台へ。これもパスポートがあるから入ったが、なかったら、おそらく訪れなかった。苑は植物園的な感じだが、申しわけないが、四季を通じて、わたしにとってはあまり関心をひくものがなかったし、展望灯台はわざわざお金を払って登らなくても、江の島からの眺望で十分そうだったし…。
 こちらも今回、入ってよかった。江の島よりもさらに高い、展望灯台からの景色が楽しめたこと、そして資料館での解説。ここは明治の貿易商サムエル・コッキング氏の別荘地だったらしい。それが縄文の遺跡でもあったとある。竪穴式住居跡が発掘され、そこから出土された縄文土器はおよそ九〇〇〇年前の縄文前期のものだったとか、さらに黒曜石の石器が出土、どちらも静岡東半分部分との交流を示して…。
 この日は縄文などとは無縁の遊びをしている感覚があったので、うれしい驚きがあった。苑内は遺跡でもあったのか…。展望灯台から降りて、苑内を、そうと意識して巡る。立派なスダジイの木があった。縄文時代、食されていたドングリのなる木だ。関係がないかもしれないが、勝手に縄文と結びつけて、立派な大木を眺める。花期になったら、きっと独特の、生の放出的なにおいをあたりに漂わせるのだろう。

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 そのあとで、海のみえる食堂で昼食を。釜揚げしらすと鰺のたたきの二色丼と、サザエのつぼ焼き、そして連れ合いは江の島ビール、私はワイン。
 ほかの店と迷ったけれど、海が見えるところ、サザエのつぼ焼きが食べられるところということで選んだ。味はまあまあだった。海が見えて、サザエのつぼ焼きが食べれて。十分だ。
 そう、なぜかサザエのつぼ焼きに固執している。それほど美味しいと思っているわけではないのだが、こうして海辺に来ると食べたくなる。海にきたというイベントの象徴になっているのかもしれない。サザエの蓋部分を、連れて帰った。小さい頃、これでおはじきをした記憶もある。そうだった、子どもの頃、家で食卓にサザエが出たという記憶はあまりないのだけれど、プランターや鉢に、サザエの貝殻が乗っかっていたおぼえがある。カルシウムが植物にいいとのことだった。そんな記憶たちも重なって、海でサザエのつぼ焼きを食べたくなるのだろうか。
 午前中に江の島にきていたが、食事をしたのはもはや二時近かったかもしれない。そのあとでごつごつとした岩場の稚児ヶ淵、岩屋へ。個人的にはこの稚児ヶ淵のあたりに一番来たかった。波が迫る岩場と磯で、意外と荒々しい海を近くで感じることができるから。

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 またトンビが目についた。食べ物を狙う子なのかもしれないが、わたしはどうも昔からトンビが好きなのだ。上昇気流に乗って輪を描いて飛ぶ姿が美しいし、猛禽類なのだが、ピーヒョロロという鳴き声が、その姿とすこし違和のあるのも、やさしい。勝手な思い入れなのかもしれない。わたしが住んでいる辺り、内陸ではほとんど見かけることがなく、海辺の鳥というイメージもあるかもしれない。旅先でしか会うことがない鳥……。

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 そして、待望の海だ。ここに至るまでにも、海はあったし、それを見て感慨があったが、波やしぶきを近くで感じられるのは、独特のものがある。岩の隙間に入り込む海、打ち寄せる波のかたちが刻々と変わる。ときに足元をぬらしそうなぐらい近づいて。おなじ姿をとらないということが、昔から不思議で、尊いもののような気がしていた。この瞬間は永遠なのだ。雲がまた移ってゆく。それにしても陽射しがまぶしい。潮の香りがする。海の水は比較的きれいだ。

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 磯の奥まったところ、水が井戸のように残っている裂け目に、死んだ魚が沈んでいた。こうしたことも、目をそむけず、覚えておかなければいけない。
 そのあとで岩屋に入って、整備された洞窟をめぐる。手燭を持って歩くところもあって風情があった。あとはもう帰り道。海からすこしずつ離れてゆく。まだそこ、むこうに見える。また土産物屋さんをのぞく。とても小さな貝の入った袋、そして桜貝の入った瓶詰めを買う。桜貝は、子どもの頃に好きだったもので、たしか持っていたはず。マニキュアをした爪のような、桜色の小さな貝。すこし力を入れたらすぐに割れてしまう、繊細な、羽のような貝。
 江の島弁天橋を渡る。もう最後の海だ。だいぶ日が傾いてきた。トンビが旋回している。

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 この日は、日曜日だったと書いたけれど、次の月曜日も、珍しくバイトが休みだったので、曜日の感覚がなかった。まるで土曜日のようで。満ち足りた休み、そして休みの前。髪の毛が少しごわごわしている。海にゆくといつもこうなる。潮風にあたってきたということ、海から帰ってきた証拠だ。つぎに海へゆくのはいつだろうか。
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2019-02-05

えにしと住んでいる場所たち。赤塚へ。(板橋区立郷土資料館)

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 どうやって見つけたのだろうか。ネットの検索で、板橋区立郷土資料館で「再発見!いたばしの遺跡〜いたばしの旧石器時代・縄文時代〜」(平成三十一年一月十九日─三月二十四日)という催しがあるということを開催のだいぶ前、おそらく去年知った。会期中なら比較的簡単に見つけられるけれど、その前だと、ちょっと引っかかりにくい。会期前の後日もう一度試してみたが、なかなか探し出せなかった。縁があったのだろうか。見つけることができてよかった。
 板橋区立郷土資料館は、赤塚城跡、赤塚溜池公園に隣接している。赤塚はかつてわたしが住んでいた街でもある。自分のことなのに、大雑把にいってしまうが、十年ほど前、十年ぐらい住んでいたのではなかったか。
 特に近くにある赤塚植物園は、毎週のように出かけていた。だが、郷土資料館のあるあたりは、数えるほどしか訪れたことがない。郷土資料館にいたっては一回入ったぐらいではなかったか。あの頃から縄文などに興味があればなあと、また思う。縄文時代に興味を持ったのは、ちょうど赤塚を引っ越した直後だった。けれども、まだ行けるような場所にいるうちで、よかったとも思う。
 ともかく、二月になってすぐ、比較的陽射しで暖かく感じられるある日に出かけてきた。
 うちからだと、千代田線・副都心線の地下鉄ルートが便利だ。この副都心線は、赤塚にいる最後の頃に出来た比較的新しい路線で、今回、電車に乗っていても途中駅までは、あまりなじみが無いことが、すこしおかしかった。北参道、東新宿、雑司ヶ谷…。なじみのある場所に行くのになあと。池袋を過ぎたら、なつかしい駅名が続く。千川、小竹向原、平和台を過ぎたら地下鉄赤塚。
 あちらがわの出口が、わたしが家に帰るのに使っていたほうだなあと、感慨にふけりながら、逆の出口へ。郷土資料館までは、実は二キロ以上ある。途中の植物園に行くのにも、自転車でしか行ったことがない。徒歩で行くということは、すなわち、もはやここの住人ではないということなんだなと思う。それでもいつもみたいに地図を確かめたりすることがないから、ゆかりがある場所、ともいえるのだけれど。
 ほぼ十年ぶりなので、店などは変わっていたところもあったけれど、全体的な印象としてはあまり変わっていない。今住んでいる場所と、どこか似ているなあと思う。比較的緑が残っているからか。それもあるけれど、周りに高い建物がないからだろう。
 愛猫のべべのかかりつけの病院があった。もう危篤状態です。こちらではもはやなす術がありませんといわれるまで、通っていた…。すこし思い出すのがつらかった。もう十年以上前なのに。けれども、こうしたことも含めて、受け入れなければならないのだろう。この病院へ来るとき、今歩いている大通りからではなく、暗渠となった川の上を自転車を走らせてきていたのだった。その緑道も確認する。

 東京大仏の近くの大仏蕎麦のお店。かつて、なぜかわたしの案内で、赤塚植物園、東京大仏を巡る句会を開いたことがあり、その昼食をたべたところでもあった。案内の電話番号、以前は〇三がなかったが、今はちゃんと市外局番から始まっている。変わったのはそれだけだ。いや、それが変わったということなのだろうか。おいしかったなあ。
 大仏蕎麦の近く、郷土資料館にゆく前に、途中にある赤塚植物園へ。毎週のように行っていたなあと思っていたが、考えてみたら二月のこんな時期には、訪れたことがない。花が少ない季節だから。けれども、絶対に寄ろうと決めていた。大切な場所だった。

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 入ってみると、たしかに花が少なかった。まだ梅も咲いていない。睡蓮池がむきだしといった感じで、冷たげな水を湛えている。はいってすぐに、赤い実が目についた。ピラカンサスに似ているなあと思ったらヒマラヤトキワサンザシとあった、花のような赤。咲いているのは、福寿草、水仙、椿ぐらいだった。けれども、黄色い福寿草が、地面に鮮やかだった、そして、案内板で現在見頃のものとして提示されていた、タラヨウの赤い実。
 タラヨウというのは葉っぱの裏に傷をつけて字を書くことができる樹木で、その縁で郵便局の木にもなっているもの。葉書の語源という説もある…ということは知っていた、というか、ある詩人の方に教えてもらっていたのだが、赤い実がなることは知らなかった。タラヨウの実は、さきほど見たヒマラヤトキワサンザシほど派手さはないが、赤さが奥ゆかしいようで、やさしかった。冬にともった小さなぬくもり。

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 ニリンソウはまだ芽すら見つからなかったが、板橋の花だったなあと、姿を思い浮かべながら、植物園を後にし、今度は不動の滝へ。不動の滝公園となっているが、通りから見ることができるところだけのぞいた。わたしが住んでいた頃から、水量が少ないと思っていたが、それ以上に少なくなっていた気がする。今住んでいるところの近くにもやはり不動の滝(喜多見不動)がある。不動の滝つながりなのかしらと、ふとくっつけてみる。そういえば、植物園でもらった「みずみどり」という小冊子に、荒川と武蔵野台地との間の高低差、崖下から染み出る湧水のことが書いてあった。うちの近くの国分寺崖線とおんなじだ。川の近くの崖下というのは、湧水が染み出るところなのだなと、あらためて思う。
 だいぶ寄り道してしまったが、いよいよ板橋区立郷土資料館へ。隣接した板橋区立美術館は、工事中で閉鎖している。溜池では釣りをする人たちが見えた。
 池のほとりの建物が、目当てのところだ。こんな素敵な場所だったのか。

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 HPなどから、企画展の概要を。
 「私たちが暮らしている“いたばし”には、いつから人がいたのでしょうか? 南関東では、およそ四万年前の生活の跡が最も古い時代と考えられ、西台後藤田遺跡では、同最古級の資料が見つかっています。この他にも、岩宿遺跡に次ぐ国内で二例目の発掘調査事例となった茂呂遺跡など、旧石器時代を研究するうえで重要な遺跡が数多く調査されてきました。また、旧石器時代に続く縄文時代でも、一時縄文時代最古とされた稲荷台式をはじめ、縄文時代前期の標識資料とされた四枚畑式など、考古学的に知られる遺跡が数多く存在しています。更に、四葉地区の遺跡では居住内貝塚と共にイノシシを模したと考えられる獣面把手や縄文土器が出土しています。こうした旧石器時代と縄文時代の遺跡や出土資料から得ることのできる情報を元に、区における人の生活の始まりとその内容について紹介します。」

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 そのほか、縄文後期では小豆沢貝塚、赤塚城址貝塚などがあったとか。特に赤塚城址貝塚は、この郷土資料館の隣接地だ。赤塚と名のつく場所に、貝塚があったなんて…。
 つい、展示品も、赤塚のものに目がいってしまう。ほぼ完全な姿で残っている土偶、注口のある土器、堀之内式土器…。そのほか四葉地区の遺跡からの出土の土器が充実していたと思う。
 また縄文土器たちを見ることができたなあと、会場内で思う。大雑把なことを書いてしまうが、多摩地区のもの、石神井で見たものと、見た目というか、印象が似ている気がする。石神井は、隣の区だし、近くだから、そうかもしれない。時代もなにも、考えなしに書いてしまうが、派手さがあまりない。けれども、しっくりとくる。なじみやすいといえばいいのか。おだやかに、時の向こうから、よりそうように、土器たちがそこにあった。
 企画展の会場内では写真撮影が禁止されていたので、常設展の縄文コーナーで写真を撮った。

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 そのあとで、中庭に移築保存されている、古民家へ。旧田中家住宅という。江戸時代後期の建物だとか。こちらも、現在の家の近くの次太夫堀公園民家園などの建物を思い浮かべてしまう。そういえば、うちも崖下にあたるけれど、崖のうえは、縄文の遺跡があったのだっけ…。
 ということで、名残惜しかったが、貝塚があったという赤塚城跡のほうへ。美術館の南側の山を登る感じ。ここは桜がきれいだったり、さらに南にゆくと梅林があったりするので、その時期に来たことがあった。もっとも桜の時期は、赤塚のここではなく、川越街道をはさんで、練馬区にある光が丘公園にいっていたので、あまり来たことがなかった。梅祭りも開催されていたので、梅林に何回か来たことがあったのだった。
 そんなところに、貝塚が…。ただ遺跡を示す碑の類いがないので、どこなのかわからない。持ってきていたガイドブック(『武蔵野の遺跡を歩く』)に東北斜面と書いてあったが、ガイドブックの地図をみると、逆のかんじだ。しばらくうろちょろして、要領を得ないまま、もしかして…と思えるところを、写真に撮った。あとで家に帰って郷土資料館でもらってきた企画展のチラシをみると、小さく「旧板橋区史より 赤塚城址貝塚」という地図が載っていて、そこについている印で、ようやく貝塚の跡がわかった。もしかして…と思えたところ、そして、古民家にいったときに見上げた斜面、このあたり、なんだか遺跡っぽいなあと思ったあたりが、それだったので、ちょっとうれしくなった。

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 赤塚の駅についたのが午後一時近く。貝塚を探している時は、午後三時すぎ。だいぶ西に日が傾いていた。
 帰りは、また赤塚の駅のほうへ歩きはじめたのだが、早朝バイトをしてきてのことでもあって、けっこう疲れていた。バス停があったので、ふと時刻表をみると三十分に一本ぐらいの本数なのに、まさに今が到着時刻だった。正確には一分前。もう出たのかな、そしたらしょうがないと、思案していたらバスがきたので、つい乗ってしまった。行く先は赤塚ではなく、ひとつ向こうの成増駅。成増は住んでいた頃から隣駅だったが、そんなに頻繁に訪れたことがないので、バスの走る道も、知らないところだった。帰りも赤塚を通って、感慨にふけりたいなと思ったが、まあ、しかたない。成増駅についた。ここも考えてみれば、久しぶりの場所だ。おいしく頂いた回転寿司の店がまだある。
 副都心線から千代田線、千代田線直通の小田急線へ。途中『縄文時代の歴史』(山田康弘著、講談社現代新書)を読む。郷土資料館で、さきほどみたばかりの製塩土器についての記述があって驚いた。海水を煮て塩を作る土器。塩をつくることに特化している、文様がまったく描かれていない土器なので、つい素通りしてしまったのだが、ここでこの記述に出会ったことが、やはりえにしのようで、うれしかった。
 小田急線で自宅最寄り駅に降りる。この崖上のあたりにも縄文の遺跡があったのだ、そしてうちのある崖下は、海だったのだ…。近くを流れる仙川の貝層断面を、こちらは世田谷区立郷土資料館でみたことがあったっけ…。そんなことを思いながら自転車をこいだ。自転車に乗っている場所が、現在住んでいる場所なのだ、かつて赤塚がそうだったように。もう夕焼け、いや日が落ちたのだろう。暮れ残った西の空に富士山が見える。ここが今のわたしの住むところ。

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