Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2019-10-30

水たちの贈り物、くらわんか中伊豆から西伊豆へ

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 十月下旬の日曜と月曜で、伊豆に一泊の旅行に出かけてきた。伊豆も箱根と同様に東京に住んでいる自分には行きやすい場所なので、もう何度も出かけている。
 なのに、なぜ…。きっかけは些細なことだ。ウインドーショッピング的に宿を検索したり、パンフレットを見ることをたまにしている。掲載された美味しそうな料理や温泉の情報などを見ているだけで楽しい。
 そんななか、西伊豆の土肥で、よさげな宿を見つけたので、出かけることにしたのだった。空想を楽しんでいたのが現実に、といった感じ。
 伊豆にはもう何度も…と思ったが、これまでは東伊豆が多かった。運転免許がないわたしにとって、電車などではすこし遠い西伊豆は少なかったし、海が好きだったので、海のない中伊豆にもあまり興味がなかったから、行ったことがない。だから、泊まることにした土肥は初めての場所だった。もっとも今回は車だけれど。
 何度も行っている伊豆半島。でも初めて…。そんなことをおそらくどこかで意識していた。西伊豆と中伊豆をメインに旅のプランを考えた。旅に出かけるまえに脳内で、宿を探すように旅をすること、それと現実の旅を合体させること。旅行ガイドやネットなどで出かけるところをあらかじめ探す。今は観光協会などで出しているパンフレットがPDFで取り出せるから便利だ。そんな作業を楽しんでいる自分がいる。
 なので、今回の旅行はそんなふうに、ほぼ、あらかじめ決めたルートにしたがってのものになった。最初は三島と沼津の真ん中あたりにある、清水町にある柿田川湧水群。ここは以前から気になっていたところ。富士山の雨や雪解け水が地下に染み込み、約八五〇〇年前の噴火の跡である三島溶岩流の先端から湧き出た水とのこと。
 湧水群ということばに惹かれ、ずっと行きたいと思っていた場所だった。写真などで見ると、とにかく水が澄んでいる。
 実際に行くと湧水群なのだから、周りはもっと緑が深いのだろうと思ったが、国道沿いで、近くまできていても、なんというか、水のある雰囲気はまったくない。車が多く、道の両脇にはどこにでもあるスーパーやチェーン店が立ち並ぶ。だが「柿田川湧水公園」の案内の看板が。入ると芝生広場として開けたところで、噴水や人工のせせらぎがあり、本当に公園といった感じで、湧水群らしくないのが少しおかしかった。広場は柿田川の岸に沿った高台にあるようだ。広場から下った緑深い場所が湧水群で、下りきったところが柿田川。最初に第一展望台のほうへ向かう。緑が多く、渓谷といった感じだなあと思う。
 第一展望台は柿田川の最上流になるそうだ。国道下から突然に湧き出て、川が始まる。川というか大きな泉といった感じ。湧き出る水で砂が動くのがわかる。展望台にはガイドの方がいて、地下水だから、その前の週に通った台風の影響もほとんどないといっていた。ガイドの方が、あの黒いのが鮎ですよと教えてくれた。最初、どれを指しているのかわからない。「いつもこんなにいないんですが、台風で逃げてきたんでしょうね」とのこと。まだわからない。指しているものと、指されているものが一致しないと、存在しない。ことばの不思議さに気づかされつつ、一致させるべく、川を見る。澄んだ水たちの放つ様々な色合い、青にうすい緑、暗い影の光、などに惹かれながら。言葉では、そこにいるのに、実物と一致しない、存在しない鮎たち。
 だが、ほかの観光客の方から、救いのような言葉が発せられた。「あの水草みたいな黒い塊が鮎なの?」
 たしかに川のなかに水草のような黒い塊があった。水のなかでゆらゆらしている。それが鮎が一致した瞬間だった。目の前に鮎がいる、それも無数の、うごめくものたちとして。うれしかった。鮎と水。

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 第二展望台に向かう。緑のなかをぬけるのだが、そこかしこに染み出る水があり、心地よい。
 第二展望台から見る湧水は、昔紡績工場が井戸として利用していたとのことで、井戸の丸い輪のなかから湧き出る水を上から眺める感じだ。砂と陽の光、深さの関係なのだろうか、輪のなかの水がサファイアのような真の青、美しい水色で、あまりに青が濃すぎて、違和感すら感じてしまうが、これが現実の色なのだ、ということに、心地よい水を受け取る。幻想と現実の境目にある青といえばいいのか。ただただその色に魅せられた。

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 そのあとは木製の八つ橋をとおって散策する。柿田川中流の流れを見たり、あちこちに染み出る湧水や、その小さな流れを感じる。うちの近所にも湧水はある。それを思い出し、比べる。特に小さな流れが地面をぬらしながら這う姿。見た目は似ているけれど、この場所は圧倒的だ。豊富な水が、力をくれるような、清冽さが、あたりに満ちている。いにしえの人々が水に見えない力を感じたことなどを想起する。そういえば、この公園内には水の神様である貴船神社の分社があった。守っている狛犬がどこか愛らしい。

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 次は村の駅へ。ちょうど昼ご飯を食べる頃だったので。飲食店や物販店が集まっている。野菜、とくにキノコ類が東京では見ることのないものがあり、興味深い。このあたりは椎茸の産地でもあるそうだ。沼津で獲れた鰺のフライ、そしてキノコの味噌汁などで昼食を。値段は比較的安価だったが、とてもおいしかった。
 そのあとで伊豆の真ん中をさらに南下する感じで上白岩遺跡と隣接した伊豆市資料館へ。遺跡には縄文時代中期から晩期の環状列石遺構があるという。資料館はそこからの出土品などが展示されている。資料館に駐車場があることもあり、最初にそちらに行く。入口には黒曜石が石碑のように埋まっている。磨いていないので、くすんでいる。だがつい、触ってしまう。触っているうち、磨いたあとの鮮やかなきらめきも思い浮かべることができた。このあたりも黒曜石の産地なのだとか。
 資料館のなかでは、発掘された黒曜石のやじり、埋がめとして使われた縄文土器などが展示されていた。埋がめは、おそらく埋葬で使われたのではとのこと。そして石斧、顔面把手、石棒。顔面把手は、部分出土のようだったが、土偶みたいだった。口を開けた姿がなにかを伝えるようで、印象深い。

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 資料館を出て、道を挟んだところにある上白岩遺跡へ。遺跡は広いくぼみのなかにあったが、遺構や住居址のある場所には入れず、くぼみにそってコの字になった三片を下方から歩いてそれを眺める感じだ。コの字の上方に竪穴式住居を復元したものがある。だいぶ手入れされていないようで、入口に大きな蜘蛛が陣取った蜘蛛の巣。茅葺きの屋根も孔があいていたり、蔓草が巻き付いている。
 二つの場所は旅行ガイドなどには載っていない。伊豆市のサイトに載っていただけだ。観光としてはあまり力が入っていないようだった。そもそも、伊豆・縄文遺跡と検索して、知った場所だったから、観光スポットではないこと、予想できそうなものだし、なんとなく行く前から想像してはいたのだが、それ以上に、静かでひとけがなくて、そのことをすこし寂しく感じた。それは夕焼けをみる心持ちにも似ている。
 次の場所へ向かう途中、柿田川が注ぐ狩野川などを見る。水が豊富で少し高台。それは縄文人が住んでいたところに共通する。このあたりにきっとかっては…と思いを馳せた。
 中伊豆ワイナリーシャトーT・Sへ。ここは遺跡からかなり近く、寄れたら寄ろうぐらいな感じでいった。ワイナリーを中心とした観光施設で、ぶどう畑とホテルと醸造所、ワインセラーなどがある。ワインの試飲もでき、乗馬もできるそうだ。グラッパ(ワインの絞りかすを蒸溜させたアルコール度数の高いお酒)も作っており、販売していて、それがほしいなと思ったのだが、試飲ができず、味がわからなかったこともあり、買うことは控えた。
 けれどもこちらで作った白ワイン、シャルドネを有料試飲で一杯飲んでみる。ブルゴーニュのシャブリやムルソーなどのシャルドネ種で作った畑のワインに共通した、香りふかいおいしさ。
 庭のほうで地元野菜などを売っていて、そこで試食したスモークチーズ、そして落花生が美味しかったので購入した。ミカンを二つおまけにつけてくれた。
 敷地内を馬が歩いている。
 時刻は三時ぐらいだっただろうか。宿に向かいつつ、次の目的地、旭滝へ、
 こちらも旅行ガイドなどには載っていない。上白岩遺跡を調べたときに、偶然見つけたものだ。一気に滝壺まで直線的に落下するのではなく、岩肌を滑るような渓流滝で、伊豆のほかの滝の名所、浄蓮の滝なとと比べて穴場とのこと。なのであまり期待していなかった。入り口もなんというか、小さな案内があるばかりで、あまり積極的な感じがせず、なおさらだった。
 だが、小さな流れを遡る感じで、滝に向かう。思いがけず長い、そして高さのある滝が眼前に飛び込んできた。
 渓流といってもかなりの傾斜があり、それが力強い姿を湛えていた。うれしい驚きで、瀑布の豊かさに圧倒される。
 岩肌は石垣を積んだような形になっているが人工のものではない。「柱状節理」といって、火山のマグマが急激に冷やされて出来た溶岩なのだという。この岩肌の珍しさも、滝を見る目に、新鮮な深い感動を与えてくれるものとなった。自然の大規模な造型の深さに、柿田川でのように、思いを馳せる。そういえばこの滝もまた、柿田川のように狩野川に注ぐようだ。

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 時刻は四時近い。この日の西伊豆の日の入りは五時五分ぐらい。それまでに宿について、荷物を置いてから夕景の海を見に行きたかったので、いよいよ宿のほうへ、つまり海を目指す。中伊豆から西伊豆へ。道も直角に折れて、西に向かったので、西の空の太陽がまぶしい。ああ、この太陽が海に沈むのを今から見に行くのだなと、まぶしさのためにできた眼裏に点在する黒い点たちを、夕日への道案内のように感じた。
 宿からは海が見えない。宿に向かうときも見えなかったか、気づかなかった。それほど海から離れているわけではないのだが。土肥。土肥に限らず西伊豆には夕景の海を眺める場所が点在している。宿から歩いて一〇分ほどのところに旅人岬があるので、そこを目指す。今日初めての海。伊豆に来たのに、ここにくるまで海と出合わなかったなんてと、そのことをすこし面白く感じる。海とは出合うことがなかったが、柿田川湧水群、旭滝など、水とは出合っていたから、心にゆとりがあったというか、伊豆で海にふれる機会がないことを楽しむ余裕があったのだった。
 日の入り前の四時五〇分ぐらいに旅人岬近くについた。やっと海。まだ暮れ残っていて、南の方はなんとなく午後の色を保っている。だが曇り空というか雲が多い。西は夕焼けが始まっている。ともあれ、やっと海だ。
 実はこの日、朝方は少し雨が残っていたし、前日は雨だった。だから雨が上がって天気が保ってくれただけで御の字といった感じだったので、夕景はあまり期待していなかった。実際、太陽はちょうど雲で隠れてしまい、沈むのがわからなかった。ただ雲の形が面白い。白い龍か、若冲の描いた白い象のようなものを思い浮かべた。なんとなくの夕景だったが、十分だった。

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 夕食が六時からだったので、急いで宿に戻って、温泉に入った。内湯は時間がなかったので入らなかった。身体を洗って露天風呂へ。あたりはすっかり夜だ。雲ばかりで星が見えない。五分ぐらい湯船にいた。だが、身体がぽかぽかしている。
 お風呂から出て部屋に戻って数分で食事。朝晩の食事が部屋食なので、少々落ち着かない。だがそれを知っていて宿を選んだのだからいいのだが。
 宿には庭園があり、池があるのだが、台風の影響で水が濁っているのだという。たしかに灰色の水で、そのなかを鯉が泳いでいた。
 翌朝の天気は下り坂。雲が前日よりも厚く、全体的に灰色の光景が広がっている。宿をチェックインし、土肥の町というか、土肥金山へ。土肥は金山で栄えたところらしい。江戸時代、そして明治、昭和四〇年に金山閉山。今は伊豆市指定史跡兼観光施設になっている。その観光坑道に入ったり、砂金掘りを体験したり。小さな粒が三つほどしか採れなかったのはご愛敬。
 土肥金山へ向かう途中、土肥の港などを通ったが、月曜日ということもあって、賑わいがない。海も曇り空のなかで、灰色の水を湛えている。そういえば土肥温泉の宿もどこも古いものが多く、なにか全体的に静かすぎるような感じがした。旅行ガイドなどでも、東伊豆や南伊豆が多く紹介されているのに対し、西伊豆は堂ヶ島ぐらいで、後はあまり積極的に紹介されていない。土肥や隣の戸田に割かれたページは少しだ。そのことに合点がいったような、そんな寂しさがあった。
 土肥を後にして、西伊豆を南下する。この後に寄った観光スポットはとりたてて書くことがないので省略。
 黄金岬、安良里、田子、堂ヶ島。うねうねとした岬も多いので、内陸になったりするが、基本海沿いを通った。だが天気が悪いのがすこし残念。
 堂ヶ島をすこしすぎたところの大浜海岸へ。
 昔、どこの海辺で拾ったのだったろうか。おそらく西伊豆だ。うちに古い時代の陶片がある。その時に一緒に行った人が、これは江戸時代ぐらいの古伊万里なのだと教えてくれた。青い染付。江戸時代のものが落ちていることに、それを手にしていることに感動した。波でもまれているうちに、破片たちは鋭利さをうしない、色もこすれて、丸みをおびた温もりをはなつ。それは過去からの投壜のようでもある。その連想からか、陶片だけではない、ガラス片であるシーグラスと称されるものにも何か惹かれる。やはり丸みをおびて透明さが曇った、小さなガラスたち。
 いや、陶片やガラスたちに、それほど思い入れが強かったわけではない。その当時、拾った刹那は心動いただろうが、その後、長らく忘れたままだった。最近になって、縄文土器などに惹かれるようになって、ふと思い出し、ひっぱりだしてきたのだった。過去からの温もりを伝えるかけら、として共通項を見いだしたのだろうか。
 そうして、ひっぱりだしてきた陶片やシーグラスたちに思いをよせる感じで、調べてみると、西伊豆ならば特に大浜海岸で、そうしたものたちを拾えるという情報を得た。ビーチコーミングというそうだ。西伊豆町観光協会で出しているガイドマップにも海水浴のほか、石拾いの場として紹介されていた。
 また陶片たちに会えるだろうか。そんな思いで、ほぼ旅の最後に訪れることにしたのだった。
 浜につくと、すこし雨が降ってきた。釣りをしている夫婦がいたが、わたしたちと入れ替わりに帰っていった。季節外れの海水浴場には誰もいない。砂浜は石や陶片が流れつくからなのだろうか。流木だけでない、海藻などの漂流物もいっぱいだ。ああ、そうだったなあと思い出す。あれはやはりここではなかったが西伊豆だったのだ。おだやかな海、そしてきれいな海。でも、浜には海藻などの漂流物が多く、あまり見栄えがよくないなあと、思ったものだったっけ。きれいなものが漂流してくる、だけではないのだ。そういえば、あの浜で、トンビの死骸を見たのだった。
 雨が降っているぐらいだから、空は厚い雲でおおわれ、海も鈍色だ。灰色の砂、灰色の海のなか、石たちを探す。あるいは足元ぎりぎりまで打ち寄せる波を眺める。
 古伊万里の陶片…と大雑把に書いたが、もうすこし調べてみると、江戸時代、有田の隣町、長崎の波佐見で大量に焼かれた日常使いの磁器「くらわんか」というものらしい。江戸の人々が日常で使っていた器たちのかけらが、こうして流れついてきている…。そういえばシーグラスには、そうした人の手を感じなくても、つい惹かれてしまう。宝石というより、小さい頃にきれいだなと思ったドロップとかビー玉を見るような感じに近い。曇って不透明になったガラスだからこそ、よけいに時間を感じるのが、心地よい。
 だが、それらを意識して探すとなかなか見つからない。青い陶片と海のガラス。昔拾ったときは意識しなかったからこそ、逆に拾えたのだろうか。
 それでもすこしだけ、採取した。雨がすこし強くなってきたこともあり、帰ることにする。時刻は二時過ぎ。昼ご飯がまだだったので、堂ヶ島で食べて帰ることにした。というか、土肥から大浜まで来る途中、食べ物が食べられそうなところは堂ヶ島ぐらいしか見当たらなかったのだ。ここならお土産なども見たりすることができる。
 堂ヶ島は何回か来たことがある。遊覧船も楽しそうだったが、過去に二回以上乗っている。それにあいにくの雨だったので、今回はもういいと思った。
 鰺とシラス丼を食べる。お土産屋さんで、このあたりで作ったというダシパックの試飲が美味しかったので購入した。
 そのあと、また土肥まで戻り、中伊豆に入って…。行きに寄った村の駅にまた立ち寄り、柿田川湧水群の看板も見た。というか、柿田川のすぐ近くの国道を走った。この緑のむこうに流れている…。また近くを通ることがあるなんて。雨が強くなってきた。
 そうして数時間で、東京へ。こちらは雨が上がっている。というかほとんど降らなかったようだ。気候が違う、それだけ離れているのだなと思う。
 また日常が始まった。後日ダシパックで、この秋初めての鍋を作ってみた。香りというか、ダシが効いている気がした。拾ってきた陶片やシーグラスを洗って乾かした。思ったよりも多くきれいなものたちを採ってきていて驚いた。以前拾った時と、あまり変わらないか、シーグラスに関しては前回よりも多かった。そのことがおかしい。また雨が降った。
17:07:30 - umikyon - No comments

2019-10-10

古いものが新しさ、日々、教えてくれる加曽利貝塚縄文秋まつり

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 少しここを空けてしまった。その間に、まだ暑いときもあるが、だいぶ秋が進んできた。彼岸花も咲いた、いや、もう殆ど終わり。好きな花で、毎年、埼玉県の巾着田に群生を見に行っているのだが、今年は例年よりも開花が遅れていて、九月末から十月初旬が見頃だというので、十月の土日に行こうと思っていたのだが、何気なく調べたら、思いがけず、これもこのところ毎年出かけている、千葉の加曽利貝塚の縄文秋まつりが、十月五日、六日に開催されるという。去年もおととしも十一月三日あたりに開催されていたから今年もそうだと思っていたので、一ヶ月ほど早いことにびっくりした。そして開催される前にわかって心底良かったと思った。そう、彼岸花は残念だが、加曽利貝塚のほうに行くことをすぐさま決めた。もしかするとあの遺跡公園で彼岸花が咲いているのを見ることができるかも……という頭もあった。

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 加曽利貝塚は、縄文時代中期(五〇〇〇年前)の北貝塚と、後期の南貝塚(約四〇〇〇〜三〇〇〇年前)でちょうど8の字の形になる、日本最大級の貝塚。二〇一七年の一〇月に国の特別史跡に指定されていて、貝塚博物館や貝層断面観覧施設のある遺跡公園として整備されている。正式名称は加曽利貝塚縄文遺跡公園。ここから出土された縄文土器は、発掘地点をアルファベットで区切っていたが、そのB地点から縄文時代後期(約三五〇〇年前)のもの、E地点から縄文時代中期(約五〇〇〇年前)の土器が出土していて、それぞれ、加曽利B式、加曽利E式と呼ばれる。これに似たものは主に関東地方で出土されており、土器の年代を推測するための指標となる標式土器となっている。土器は逆三角形に近いかたちのもの。

 公園には竪穴式住居の復元したものもあり、縄文ゆかりの植物も植えられている。博物館では今年は企画展として「写真で見る加曽利貝塚の万葉植物」(九月七日─十一月四日)が開催されていた。
 祭りは物販、飲食の販売、ステージイベント、縄文土器が当たる抽選会、火おこしや弓矢、縄文服の試着、ガイドツアーなど、盛り沢山。今年は人数を限ってだが、発掘調査体験も行っていた。現在、実際に調査している現場に入るという。
 十時開始だが、博物館は九時から開いているので、九時から十時の間に着くように、車で出発した。
 ほんの少しの雨。うちから千葉は意外と近い。首都高などを使うと一時間強ぐらいで着く。九時すこし前に到着したので、車の中で時間をつぶした。あの森、あの緑深いところが、貝塚だ。
 まだ祭りの準備中の加曽利貝塚へ。博物館にまっすぐに向かい、企画展や常設を見る。企画展は万葉植物のパネル展だったので、ざっと植物たちとそれにまつわる歌をながめた。この常設には、触ることのできる縄文土器片と、やじりなどの原材料となった黒曜石がある。さらに腕輪としてつかっていたオオツタノハ貝を腕にはめてみることができる。それらを順番にさわって感触を確かめた。そして土器や土偶を眺める。久しぶりだなと思う。土たちが感触ごと、わたしにしずかにやさしい。

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 十時すこし前に、博物館の外に出て物販エリアへ。まだ開店前であったが、一部のお店では販売が開始されていたので、さっそく購入した。土器風マグカップと、加曽利式土器の形の箸置きなど。これらは素焼き風だったので、なんとなく土器に近いものを感じた。ほかに、別の店ではTシャツ、手ぬぐい、縄文の人たちが食べていたドングリを使った食べ物、あと何だったかしら。ある店で、レジン樹脂で黒曜石のやじりをまねて作ったものが売られていたが、これはちょっと頂けないなあと思う。なぜ本物の黒曜石を使わないのだろうか。それがオリジナリティということなのかもしれないが、違和感があった。
 十時になり、いよいよお祭りが始まった。縄文土器(加曽利貝塚土器づくり同好会の方々が作ったもの)が当たるかもしれない抽選、発掘体験の抽選に応募したあと、ガイドツアーに途中参加した。また博物館の中に入り、説明を受ける。ガイドツアーに参加するのも三回目だが、毎年発見がある。今年は、千葉で発掘された土偶のなかに、なぜか遮光器土偶(部分)があり、東北から移住してきた人がいたのでは? という話を聞いた。そして、加曽利貝塚で大量に見つかっている小さな貝、イボキサゴ。前回や前々回に聞いたときは、ダシとして使われていたのではということだったが、今回は、細かく砕かれた跡があるものもあり、これはおそらく漆喰のように、壁を補強する目的で使われたのではというのが新鮮だった。
 さらに、現代人よりも身長が十センチほど低い縄文人だが、その骨は現代人よりも太いというお話。展示された屈葬されたかたちの骨を見る。たしかに力強い骨だ。
 円環ということに対して、強い思い入れがあったのではなかったかということも触れられていた。環状列石的なサークル。
 屈葬された人は胎児のような姿でもある。これも円環だと、ぼんやりと思った。
 ツアーの後、復元住居のほうで焼き栗を無料ふるまいしてくれるというのでそちらに行った。焼き栗は熱く、煤がついているが、殻をむいて食べると自然な甘さが美味しかった。おそらくここで作った縄文土器で焼いたもの。
 また、実際に復元住居で火が炊かれていたので、入ってみると、こちらではマテバシイだという、ドングリを縄文土器のなかで煎っていた。こちらも二つほど頂いた。香ばしい木の実だ。

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 ただ、復元住居、台風の影響だったのだろう、だいぶ傷んでいたのが気になった。屋根だったのであろう茅の類いが側に落ちている。そういえば、公園のあちこちで、太い木の枝なども散乱していた。
 焼き栗のふるまいが十一時。この後、急いで昼ご飯を食べて、十二時からのイボキサゴスープの無料ふるまいの列に並ぶ。例年おいしく頂いてはいるが、塩味が薄い。だがこれは当時の再現ならば仕方ないのだろうか。イボキサゴは小さな巻き貝で、身は取りづらいといえばそうだが、爪楊枝があれば、食すことができる。小さなサザエのようで、美味しい。前にも書いたが、わたしはこのイボキサゴ、この加曽利貝塚で名前を知る前から、名を知らぬかわいい巻き貝として大切に思っていたので、愛着があるのだ。

 今年はクラフト体験で、「黒曜石アクセサリーづくり」というものがあったので、珍しく参加してみた。黒曜石のネックレス。縄文時代に使われていた、あのキラキラした黒い光のやじり、ナイフ的なものを身につけてみたかったのだ。
 紐で網を作って、そこに黒曜石を入れてペンダントトップを作る。黒曜石は隠岐、長野、北海道、三つのうちから一つ自由に選べた。各地方で、少しずつ黒曜石の感じが違う。すこしくすんでいたり、はっきりとした黒だったり。個人的には長野のものがいちばんしっくりした。ガラス質の光を放って、わたしが黒曜石に抱いているイメージにいちばん近いというか。
 アクセサリーは今まで全く作ったことがなかったので心配だったが、なんとか完成させることができて良かった。子どもの頃から、基本的にこまごましたものを作るのが好きだったことも役立ったのかもしれない。
 ただ、所用時間が四〇分から一時間ということだったが、それ以上かかってしまい、連れ合いを待たせてしまったのがちょっと申し訳なかったが。

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 そうこうするうち、祭りはほぼ終わり。ちなみに抽選でもらえる土器、発掘体験、どちらも当たらなかった。だが参加するだけで楽しかった。発表を待つとき、それでもすこしドキドキしたし、その感触が新鮮だったので、それだけで良かったのだ。
 施設は土の匂いがした。くすんだような温もり。断面は自然と人がつくった美しい作品のようで、心にしみる。貝たち、イノシシの骨、土器もまざっている。

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 公園内の彼岸花はもうすっかり終わっていた。アザミが咲いていた。ムラサキシキブの紫の実が色付いていた。これが今日みたリアルな万葉の植物なのだなあと思う。去年はたしか、リンドウを見たのだったっけ。

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 毎年、このお祭りに行くと新しい発見がある。だが、それは本当はどこででもそうなのだ。
00:01:00 - umikyon - No comments

2019-09-01

夏と秋が交差して調布市郷土博物館など

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 もう九月、秋といっていいのだろう。八月下旬から風が変わった。秋の気配というか、暑さのなかにも涼しさのようなものが感じられるようになった。
 数日雨が続き、その後、急に秋が来たような感じだった。
 幾分過ごしやすくなってきたなあと思いつつ、終わりゆく夏にいちまつの寂しさを感じてしまう。
 春、夏は好きな季節なのだ。世界がはじまり、盛り上がって、いくぶん停滞して。それが春と夏。秋はおわりのはじまり、冬は、どこか暗いものを感じてしまう。ねむっているような、はじまりを待っているような。それがおわりということなのかもしれない。
 もっとも、夏の暑さをきついなあと感じてはいるのだが。この夏はとくに。意外と夏的な暑さが短かったからかもしれない。身体が夏に慣れる前に、猛暑がやってきた。その猛暑がだらだら続くなあと思ったら秋の風が。
 うちの近くの田んぼを再現した公園を通ると、稲穂が垂れており、用水路には落葉があり、すっかり秋の気配で、驚いた。なのに夏の暑さ、蝉時雨。あれはミンミンゼミだっただろう。秋と夏が混在していた。

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 それに、すこし前にサギ草を展示していたお寺ではもうコスモスが咲いていた。汗ばみながら、ここにも秋を感じていた。
 そんな八月の下旬のある日、うちから割と近いところに調布市郷土博物館があると知ったので出かけてきた。
 多摩川にほど近いところにある。駅でいうと京王多摩川が最寄り。対岸は、ホームセンターなどがあるので、よく出かけていたのだが、こちら側はほとんど通りすぎるだけで、知らなかった。車で行ったのだが、わかりにくい。というか、進入禁止が多く、博物館は目の前にあるのに、行くことができないのが、なんだか笑えた。ぐるりと遠回りしてやっと入る。
 昭和四九(一九七四)年に開館したという。建物が落ち着いて、親しみやすい。調布市のある武蔵野台地、多摩川周辺には、縄文時代の遺跡も多数あると、どこかで聞いたので、常設にあるであろうそれを目当てに行った。

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 常設は二階。一階では企画展をやっていた。そして入口すぐのところに新選組局長近藤勇の座象と、閲覧スペースに新選組関係の書物。そうだった、近藤勇は調布が生誕地だったのだ。当時の武蔵国多摩郡上石原村辻(甲州街道上石原宿の北方)、現在の調布市野水。
 先走ってしまうが、二階の常設に、近藤勇生家の宮川家のジオラマ模型の展示があった。屋敷の広さは七千平方メートル、広い庭の中に母屋に数種の倉に納屋と、模型からも豪農だったことがうかがえる。
 パンフレットなどには、近藤勇のことはあまり載っていないから、これら(特に一階の閲覧コーナーなど)はもしかして、大河ドラマ(二〇〇四年の『新選組!』)かなにかの後に展示されるようになったのかもしれない。
 と、近藤勇に思わず食らいついてしまったのは、小学生の頃から、新選組副長の土方歳三が好きだったから。
 そうだった、多摩川、浅川(多摩川の支流)という名前は、かつて土方歳三ゆかりの川として、特別の語感として響いたものだった……。
 今、多摩川のわりと近くに住んでいて、買い物の途中などに眺めることが多くなり、そのことをほとんど忘れていたのだが。とはいっても、車で橋を渡るとき、多摩川の流れにほかの川以上の何かを感じていたのは、もしかすると、その記憶がまだ心の奥からしみ出してきていたからかもしれない。
 土方歳三の生まれたのは武蔵国多摩郡石田村(今の日野市石田)だから、多摩川でいえば、調布よりももっと上流にあたるのだけれど。
 話が脱線した。
 調布市郷土博物館へ戻ろう。
 企画展では「お米にまつわる調布ものがたり」(九月一日まで)が開催されていた。多摩川の氾濫などがあったり、湧水もあり、水分が多い土地で、田んぼ作りには適さないので、そこでの工夫の紹介があった。深田で、「泥っ田」というらしい。田んぼの上に丸太を浮かべその上に足を載せて苗を植えたり、大きなカンジキを履いて沈まないようにして稲を刈り取ったり、田舟という、刈り取った稲を運ぶ舟を作ったり。
 この調布市郷土資料館の周囲もかつては田んぼだったという写真も展示されていた。
 そして、お目当ての二階の常設展示室へ、
 武蔵野台地に人が住み始めたのは約三万年の旧石器時代で、縄文時代のムラとしては、特に縄文中期(約五千年前)のもの、原山遺跡や飛田給遺跡などがあるらしい。さらに晩期のもので、下布田遺跡など。
 
 原山遺跡にほど近い北浦遺跡出土の「縄文土器深鉢・勝坂式」(縄文中期・紀元前三〇〇〇年前)。先日、町田市民文学館ことばらんどで、覚えた勝坂式土器の特徴である「動物や植物をモチーフにした」もので、鎌首をもたげたヘビのような装飾が土器の中央から口縁にかけて施されたものが印象に残った。
 原山遺跡出土の人面装飾付彩文有孔鍔付土器(縄文中期・紀元前三〇〇〇年前)の土器の胴部下のほうにある土偶のような人の顔の意匠……。用途は不明らしい、太鼓として使ったとか、酒造りに使われたのかも、とあった、
 ヘビのような、人の顔のような……。この“ような”というところの謎に、あるいは惹きつけられるのかもしれない。この謎に、おそらく大切ななにかが埋め込まれている。それは連綿と今につづくものであろう。わたしとかれらをつなぐ糸でもある。
 ほかに怖いような小さな土偶たち(原山遺跡出土)、土製耳飾(下布田遺跡出土)の精緻な模様に見入った。

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 庭に出てみると、かつて川にかかっていた石橋と庚申塔があった。庚申塔というのはわたしは実はよく知らない。近くにあった記憶がほとんどないのだ。こうした博物館とかで見るだけのものになってしまっている。そのことをすこし寂しく思う。
 出かけてから一週間が経つ。もう九月に入った。うちの近くの田んぼの稲もすこしづつ色が変化している。あと少しすると収穫なのだろう。気の早いヒガンバナの花が咲いているのも見た。基本的に彼岸のあたりに咲くはずなのだが。その前日におなじヒガンバナ科のキツネノカミソリを見たばかりだった。こちらは八月に林の中などで咲く。もう終わってしまったかなと、林の中をはいっていったら、枯れつつあったが、一本だけ見つけることができて、うれしく思ったのだった。夏の名残。キツネノカミソリとヒガンバナ。夏と秋が交差している。

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17:38:42 - umikyon - No comments

2019-08-15

異質たちの混在。縄文時代をよむ、ことができるかしら町田市民文学館ことばらんど

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 立秋も過ぎたけれど、今年の夏は始まりが遅かったので、まだ夏本番のようだ。残暑という感じがしない。
 立秋の日の翌日の夕方、国分寺崖線にあたる坂を自転車で通ったとき、ヒグラシの声を聞いた。今年初めてのカナカナ。坂の両側は斜面に残った少しの林、そして湧水。
 ヒグラシの声を聞くと、夏なのだなと実感する。
 どこで見つけたのだろうか。最近訪れた博物館などではなかったから、ネット検索などでだったのだろう。町田市の町田市民文学館ことばらんどというところで「縄文土器をよむ 文字のない時代からのメッセージ」(二〇一九年七月二〇日─九月二三日)という企画展を開催していると知ったので、出かけてきた。

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 町田市では、町田国際版画美術館、町田市立博物館にいったことがある。だが、町田市立博物館は今年の六月に閉館してしまったとのこと。出かけたことのある場所が閉館というのは少しさびしい。
 今回の町田市民文学館ことばらんどでの展示に、市立博物館所蔵のものも一部出品されているらしい。あとの展示はおそらく町田市考古資料室のものなのだろう。
 この施設は行ったことがなかった。文学館の展示ということで、申し訳ないが、あまり期待していなかった。入場料も無料なので、簡易的な展示だと思っていたのだ。
 電車で一人で行こうかと思ったが、暑さに負けて車で連れて行ってもらった。近くの駐車場に止めて、歩く。最初、裏口に行ってしまったりして、すこし迷ったが、表に回るとレンガ造りの建物が、やさしい印象だ。レンガは土系の色合いのせいだろうか、なんとなく落ち着く。一階は資料閲覧など、二階で企画展が行われていた。
 二階にあがってみて、びっくり。入口から見ただけでも、縄文土器などが、多く出品されているのがわかった。最初に町田市教育委員会の「ごあいさつ」のパネルがあり、章立てもされて、かなり本格的な展示、企画展、うれしい驚き、ごめんなさいだった。
 チラシやHPなどから。これは「ごあいさつ」の文章をつめたものといった感じ。
 「町田市には、一〇〇〇カ所以上の遺跡があり、特に縄文時代の発掘資料は全国でも有数の質と量を誇ります。近年、縄文土器の個性的な造形が注目されており、町田からもそのような資料がたくさん発見されています。
 土器はもともと調理道具ですが、なぜ縄文土器には過剰なまでに装飾が加えられたのでしょうか。文字がなかった縄文時代ですが、きっと土器のカタチには縄文人が強く表現したかった何かがあったはずです。この展示では、縄文人が土器の形にどのようなメッセージを込めたのか、いわば町田で最古のことばが何であったかを探ります。
 あわせて、町田を代表する縄文資料もたくさんご紹介いたします。数千年前、実際にこの地域でつくられ、使われていたものから、町田にあった素晴らしい縄文文化を感じてください。」

 展覧会は、ことばらんどで扱うから、最古のことば、文字のなかった時代の土器が土偶に、ことばを見出そうとするという、一環した、テーマにそったものとなっている。
 展示は三部構成、一部は「縄文時代の表現」。そのなかでも章立てされ、最初は「縄文土器の装飾」。はいってすぐに、惹かれている系列の縄文土器があった。縄文中期(約五三〇〇年前)の深鉢で忠生遺跡B地区(根岸町)。キャプションには「頭にヘビを乗せた想像上の動物?精霊?」とあったが、どうなのだろう。正面といっていいのかわからないが、それっぽいとして、顔のようなものとうねうねとしたヘビっぽいものが複雑にからみあっている。後ろはヘビの尾のようにも見えるが、やはりそう断言してはこぼれてしまうものたちがあまりにも多い装飾がほどこされている。
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 わたしが惹かれている系列と書いたのは、二〇一八年に東京国立博物館の縄文展で見た《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市御殿場遺跡出土、縄文時代中期)や、『縄文聖地巡礼』(坂本龍一・中沢新一、(株)木楽社、二〇一〇年)に載っていた《人面香炉形土器》(曽利遺跡出土、縄文時代中期、井戸尻考古館蔵)だ。表がおだやかな女性らしい姿で、裏がたくさんのヘビがうごめいているような怖さがあり、表と裏で趣がまったく違うもの。なのにひとつの土器として破綻なく、凝縮の存在としてそこにある……。
 どこかでも引用したが、好きな言葉なので、また前掲書から。「縄文の人たちは、美人を見ても、同時にその後ろに蛇を見る感覚をもっていた(中沢)」。
 今回見た深鉢はそれほど明確に裏と表で分かれてはいないが、異質なものたちが混在しているという点では同質だと感じた。静と動、昼と夜、死と生……。分離しないものたちが、土器のなかでうごめいている。

 「縄文時代の表現」のパネルに、「なぜ、縄文人はムダともおもえる装飾や模様を土器や土偶、石器などにつけたのでしょうか」とあった。たしかにコトバ的な要素がそこにあったのだろう。けれどもコトバ以上のものたちが、そこにはあった。文字がなかったからこそ、文字以上のもの、表現がエネルギーをときはなち、土器や土偶に凝縮していった。それはコトバ以上のなにかなのだ。
 日常で使ったであろう土器が、なぜあんなに装飾的なのか、なぜ惹かれるのだろうと、ながらく自分にも問いかけていた。
 それだけではないだろうけれど(断定のコトバからは何かがこぼれてしまうから)、ひとつには、異質たちが混在しているように、日常に非日常的なものが混在している、その在り方に惹かれているのではなかったか。
 展覧会では、このあと、土器や土偶の展示が続き、装飾について考察されている。ヘビやイノシシ、トリの顔、数字の概念、植物、幾何学的模様……。どれも解説のコトバとしてしまうとそうかしら?と思うものもあったが、土器や土偶としては、しみるものが多かった。
 ところで、個人的なことを。縄文関係の展示などで、よく勝坂式土器ということばを眼にしていた。加曽利式土器のような、時代や場所、特徴を表わす分類の一つなのだろうなと思っていた。そのとおりなのだが、「勝坂式と呼ばれる中期(約五〇〇〇年前)の土器には、動物や植物をモチーフにしたものや、円形、三角形、方形、渦巻など幾何学的なものも多くみられます」とパネルにあった。
 あとでウィキペディアを見たら、「関東地方及び中部地方の縄文時代中期前半の土器型式名もしくは様式名」で、「隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的である」とあった。
 わたしが惹かれる系列のものたちは、勝坂式のものが多かったのだ。

 展覧会は、このあと第二部として「縄文時代の暮らし」へと移る。復元された敷石住居跡の展示があったことに驚いた。忠生遺跡D地区の中期(約四五〇〇年前)の実物大レプリカ。敷石住居とは、解説によると「中期の終わりごろから出現する床に石を敷いた竪穴住居」のことだとか。背景画(森山哲和氏とあった)があり、住居内として、縄文人二人が生活する様子が描かれているのが、より想像をかきたてられた。

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 そして「食べる」「祈る」「着る・飾る」と章が続き、三部目は「土器から見る町田の縄文時代」として、草創期から晩期までの縄文土器の変遷がわかるものとなっていた。
 わたしは勝手な素人だから、装飾的な中期から後期のものがやっぱりいいなあと見ていた。。

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 ここで、町田市の縄文キャラクター「まっくう」の元となった土偶の頭の展示があった。この土偶は閉館した町田市立博物館の展示で見たことがある。「まちだ今昔展─時空を超えた対話 縄文ムラと商都」(二〇一八年七月一四日─九月一七日)。去年の九月だったのか。数年前のような気がしていたが。「中空土偶頭部」(田端東遺跡出土、縄文後期(三四〇〇年前))。国宝の北海道函館の「中空土偶」と顔も造りが類似していて、あちらの愛称が出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」によって「茅空(かっくう)」にちなみ、町田の「まっくう」と称している。
 再会したことがうれしかった。この土偶が出土されたのが、東京都指定史跡の田端環状積石遺構というストーンサークルのすぐ近くなので、この場所での祭祀と関係があったのではと解説にあった。

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 この展覧会は、写真撮影が可ということなので、一通り展覧会を見てまわったのち、二巡目に写真を撮った。展覧会の図録のようなものがなかったので、その代わりといった気持ちが大きかった。出品されているものの他に、案内やキャプションまで。写真を撮ることは本来あまり好きではなかったが、こうした撮り方はありかしらと今更思った。
 名残惜しかったが、次の場所へ。ここから車だと、やはり去年訪れた、市立博物館の隣の東京都指定史跡の本町田遺跡が近いのだ。
 前回は電車で一人で行ったが、道を間違えたことを憶えている。今回は車だったが、連れがこんな道を行くのかと、ほそい坂道をナビで案内されたことに驚いていたのが、なんとなくおかしかった。このあたりはわかりにくいのだ。坂をのぼって、降りて、また登って…、坂下に川があった。恩田川とある。縄文人は水のあるところの近くに住んだ。そして坂の上に、最初に博物館。まだ閉館したばかりなので、建物は残っている。いずれは解体してしまうのだとか。去年、閉館前に、展示が見ることができて、それでも良かったと思う。
 博物館を過ぎてすぐ、というかほとんど隣接して本町田遺跡。縄文時代と弥生時代、両方の住居が発見、復元された貴重な遺跡だ。復元された住居が縄文、弥生、それぞれ一つ、あとは住居址として場所が固められている。

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 去年訪れたときは、ツルボが咲いていたなあと思い出す。九月だからまだ暑かっただろうに、暑さはそれほど記憶にない。今回はものすごい暑さ、それよりも、陽射しが強い。午後四時を回っているのに。
 その折も書いたが、竪穴式住居の違いはほとんどわからない。縄文時代のものは丸太そのまま、弥生時代は木材の加工が見られるそうだ。
 両方とも中に入ることができる。弥生時代のものは、ライトがあったが、縄文時代のものは、なかった。だが天井に明かりとりとして開いているところがあり、さして暗いと思わなかった。扉がないから、入口から陽が差し込んでいるし。どちらも定期的に燻されているのだろう。すこし香りがした。それに外は暑かったが、中は存外涼しい。

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 また来ることができて良かった。
 帰り道に、鶴見川を通った。そうだった、先に見た恩田川とこの鶴見川が、縄文時代の人々にとって大事な水の供給源だったのだったっけ。
 日が暮れるのが、夏至の頃から比べると幾分早くなった。多摩川を過ぎて、野川を過ぎて、また国分寺崖線下を通る。この坂上も縄文時代や古墳時代の遺跡があったのだと、いつものとおり思う。
 家に帰って、近くの農家から買った枝豆をまたゆでて頂く。まだ、というべきか。夏の間、数軒で枝豆が売っているのだが、もう売っているのは一軒だけだ。これもまもなく終わるのだろう。立秋すぎても暑い。けれども、こんなふうに秋になってゆくのだろう。
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2019-08-05

ちかしいもの、よそよそしいもの─朝顔、サギ草、港区郷土歴史館

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 うちのベランダで、五月に種を蒔いた朝顔たちが、今を盛りと花を咲かせているのがうれしい。
 青、空色、濃い赤、団十郎に近い茶色がかった桃色。それにしても暑い。やっと夏だ…。朝顔たちは、水を特に欲するようなので、朝晩二回、水やりをしている。こうやって季節とふれあっているのだなあとぼんやりと思う。
 
 お隣の家の飼い猫なのだろう。六月下旬から、マンションの駐輪場で、親子の猫をよく見かける。七月終わり、八月に入り、だいぶ子猫も足腰がしっかりしてきた。

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 金曜日に、港区立郷土歴史館にいってきた。先日訪れた水子貝塚公園史料館にチラシがあったのだ。「港区と考古学」という特別展を開催中とのことだった(七月二〇日─九月二三日)。

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 わたしは以前港区に住んでいたことがあった。もう二十年ぐらい前。郷土歴史館のある白金台といえば、自然教育園という公園に、自転車で毎週末のように出かけていた、なじみのある場所だった。そしてかつて住んでいたところの考古学、とくに貝塚などがあるとのことで、行ってみたくなったのだった。わたしがかつていたところは、どんな場所だったのだろう。
 ただ、港区郷土歴史館、あのあたりの土地勘はあるはずなのだが、地図でみても、いまいちピンとこなかった。訪れてみて納得した。元は公衆衛生院だった建物を複合施設として保存活用していて、郷土歴史館は、その中の一つとして、二〇一八年十一月にオープンしたばかりの、比較的最近の施設だったのだ。
 その多少の古い土地勘のため、普段と違ってほとんど予備知識なく出かけたので、白金台の駅に降りて、ずいぶんと立派な、かなり大きい建物がそびえ立っていて、その姿にまず驚いてしまった。今まで訪れた郷土歴史館、郷土資料館的な施設は、もうすこし地味か、奥ゆかしいものだった。入館料も無料だったり、せいぜい二〇〇円ぐらい、総じて敷居が低い感じがした。だが、眼前にある建物は荘厳で、派手で、建物見学は無料だけれど、常設+企画展は値段が高く(常設三〇〇円、企画展四〇〇円、セット券六〇〇円)、その値段に、外観からして、なんとなく納得した。

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 企画展も常設展も、自動改札みたいに、QRコードで出入りする。そして展覧会は……個人的にはいまいちだった。考古学なのに、紙資料の展示が多く、発掘されたものの展示がすくない。なのでイメージがわかない。
 常設展も、タブレットを駆使したりして、それが今風だったが、どこかよそよそしい。港区には、伊皿子貝塚など遺跡も多く、その貝層や、発掘された土器片などもあったのだが……。ただ、常設展の解説で、港区は小さな起伏が多く、高台が拡がっているという場所がなかったので、大規模な縄文集落が存在しにくかったとあったことには合点がいった。わたしがかつて住んでいたのは坂下だったが、とにかく坂が多いところだった。どこにゆくにも坂を越える。降りて、登って。きつい坂はつきものだった。起伏の多さ、そのことにだけ、かつてとのつらなりを感じた。
 また、企画展はともかく、常設も写真撮影禁止というのも、残念だった。
 ただ、無料のコミュニケーションルームだけは写真撮影も可で、鯨の骨格標本や、縄文土器、やじりなどにふれることができるという。
 そちらにいったが、もうしわけないが、スタッフの方が多すぎた。いちいち、さわりませんか、浮世絵をごらんになりませんかと、声をかけてくるのに、少々辟易した。といっても、縄文土器や、貝層、黒曜石などにはさわったのだけれど。

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 わたしが古い人間ということなのだが、郷土資料館的なところに、あまりデジタルを駆使してほしくない、不似合いな気がした。だいいち、タッチパネル、さわっても、紙でも十分なことしか表示されていなかったし。デジタルでかつてのなにかを再現したり、そうしたことは、必要だと思うのだけれど。
 せっかくのひさしぶりの港区だったのに、あちこち、よそよそしいなあと思いつつ、館内をあとにした。同じ歴史的建物でも、近くの庭園美術館のほうがやさしい。
 その隣の敷地の自然教育園に足を運ぼうかと思ったけれど、閉館が四時半で、あと四〇分ぐらいしかない。敷地内は広いので、入るには微妙な時間だったから、あきらめ、別の用事のため、白金台から都営三田線で田町駅(三田駅)に向かった。
 田町のあたりは、港区に住んでいたときも、あまり訪れたことがない。白金台はそれでも、前述の庭園美術館などに、越してからも足を運んでいたが、田町はもうずいぶん長いこと行ったことが無かったから、駅に着いて、街の景の、かつてとの違いにびっくりした。浦島太郎状態といえばいいのか。まるで、面影がない。当時は、高い建物もあまりなく、都内にしては、地味な親しみやすい場所だったが、きれいになっていて、画一化されて、ビジネス街といった感じだろうか。地図を見るともうすこしゆけば運河だった。そちらまでゆけば面影を感じることができるかしらと思ったが、暑かったし、ここにくるまで、だいぶ歩いていたので、気力がなかった。
 用事をすませ、家人と待ち合わせして、田町駅前で飲食した。夜になって田町の裏どおりをすこし歩く。この感じは、同じだなあと、すこし面影を見いだした。息づくなにか、変わらないもの。
 次の日の土曜、うちの近所のお寺の前を通りかかったら、「今年も世田谷区の花、サギ草が咲きました」と看板があった。毎年境内で、咲いたサギ草の鉢植えを展示公開してくれているらしい。そのことを去年知って、今年はまだかしらと、実は心待ちにしていたのだった。
 たかだか一年前のことなのに、もう咲く時期を忘れてしまっていた。なんとなくせたがやホタル祭りとサギ草市が開催される七月中旬が開花時期だと、勝手に勘違いしてしまっていて。
 去年の日記を調べたら、ちょうど八月の同じ日に、サギ草のことを書いていたのがおかしかった。
 辺りはうんざりするほど暑かったが、サギ草を眺めているとき、暑さを完全に忘れていた。時間にして五分十分だったが、ずいぶん長い逢瀬だった。涼やかに飛びたつように小さなサギたちが咲いていた。カメラに収めようとすると、ほんの少しの風でも、羽たちが動くので、ぶれてしまう。そのぶれてしまうことが、かえって、鳥のはばたきのようで、いとしかった。
 同じ土曜日の朝、無人販売の枝付き枝豆を購入した。枝付きどころか根付き…。もうだいぶ枝豆の色が悪くなっている。この夏もだいぶ枝豆を購入して、おいしく頂いたが、もうそろそろ終わりだろうか、夏らしい、いや、暑すぎる夏が来たばかりだというのに。
 セミがマンションの渡り廊下で仰向けになって、動かなくなっていた。また緑深い崖の下の交差点で、比較的大きな雌のカブトムシが動かなくなっているのも見つけた。
 死んだのちに、存在を知るなんてと、そのことを残念に思う。カブトムシは、クヌギやコナラのあるあの森で育ったのだろう。
 わたしは、今の生活に、こんなふうに、親しんでいるのだなと思う。かつてもきっと、あの場所で、そうだったのだろう。よそよそしくなったのは、わたしのほうなのだ。

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2019-07-30

水のある処(コ)たち─古代蓮、水子貝塚公園

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 ようやく梅雨が開けた。陽射しが恋しかったが、肌に絡みつくような暑さも一緒についてきた。そうなのだ、恋しい陽射しには、きつい照りつける夏という要素が一緒についてくることを忘れていた。ばかだなあと思う。両方そろってこその夏なのだ。
 まだ梅雨明け前の日曜日、埼玉県行田市の古代蓮の里に、蓮を見に出かけてきた。
 蓮の開花期の六月十五日から八月四日までの間、売店や古代蓮会館などの施設が、早朝開花する蓮に合わせて、営業を午前七時からにして、駐車場も有料になる。なんというか、その間中、長い蓮祭りのような感じになるのだった。
 古代蓮は、一四〇〇〜三〇〇〇年ぐらい前の種が、昭和四八年に偶然発芽したものが元になっている。古代蓮は行田蓮と呼ばれ、行田市の天然記念物に指定されている。この蓮は、なんと長生きなのだろう。長い時を経て、眠りから覚めた蓮たちに圧倒される。
 蓮の花の開花期間は、あまり長くない。四日間ぐらいの命だとか。そして午前中には花を閉じてしまう。その花の開花時間、開花期間の短さと、古代蓮というありかたのギャップも興味深い。

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 ここ数年、毎年のように出かけている。水が好きだから、水の中から咲く花が好きなのだろうか。いつも蓮や睡蓮などに惹かれる自分に自問する。さらに時というものを考えさせられ……。いや、蓮はともかく大輪の花を静かに咲かせそこにある。午前中だけ、朝の早い時間だけ。そのはかなさと生命力に……、理由を推測することはむずかしい。そのどれも一因ではあるだろう。ただただ、蓮に惹かれる。だが、たとえば上野の不忍池の蓮とかも好きといえば好きだが、この行田の古代蓮に特別な思い入れがあるのは、やはり長い眠りから覚めた子たちだからだろうか。
 開花期間は六月中旬からだけれど、七月の中旬ぐらいが特に見頃だったらしい。わたしが出かけた七月の下旬は、少し盛りをすぎた感じ。とはいえ、まだ咲いている蓮も多く、つぼみもあり、花びらが散って緑の花托になったものと、三種の様態が見ることができて、そのこともかえって良かった。なにか、ここにもやはり時や一生のようなものを投影させてしまうのだった。
 この日も雨がぱらついたのだが、その雨が、蓮の葉にたまって、いや、朝露といっしょになって、露の珠たちを、あちこちでつくっていて、それが輝いてみえたのもうれしい驚きだった。

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 先にも書いたが、蓮は午前中にはもう、花をすぼめてしまう。見頃である時間は午前七時から午前九時と早い。だから例年遅くとも九時前には着くようにしていたのだが、この時はすこし遅くなってしまい、午前九時四〇分ぐらいになってしまった。一番美しい開花状態を少し過ぎた……。けれども、雨のおかげだったのだろうか、いつもより開花状態をながく保ってくれていたような気がする。そして朝露。これも朝早くでないと、本来ならほとんど残っていないのだが、雨と混じって、十時を過ぎでも、あちこちに溜まっていてくれたことがありがたかった。つぶつぶ、ころころ、きらめいて。長い梅雨も、いいこともあるのだなと、蓮たちを見ながら思う。
 だが雨もよいの天気のせいか、蓮のまわりに飛び交う虫たちをほどんど見なかった。代わりに蛙を発見。それとオタマジャクシも水の中に。蛙を見るのは久しぶり。

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 苑内の蓮たちを一通りみた後、十一時前だったか、すこし早い昼食を。ここの売店のうどんはコシがあっておいしい。せっかくだからと蓮根入りのものを頂く。行田市のご当地グルメというのだろうか、ゼリーフライとフライも食した。そして物産などを少しみて、行田を後にする。いつもなら、近くにあるさきたま古墳群に立ち寄るのだが、この日は別に行きたいところがあったので。

 家への帰り道、ルートを変えて、埼玉県富士見市の水子貝塚公園に寄ったのだ。古墳時代よりもさらに昔へ。古代蓮の眠っていた頃にも重なるだろうか。縄文時代としては時代は重なるだろうけれど、水子貝塚自体はもうすこし古いもの。縄文時代前期から中期にかけての遺跡で、国の史跡でもある。公園には、復元した竪穴式住居跡があり、展示館と資料館がある。展示館では貝層や、竪穴式住居跡の発掘当時を再現した展示がおこなわれ、資料館では、縄文時代を中心に、旧石器時代から平安時代までの遺物が展示されている。 わたしは小学校から高校ぐらいまで埼玉に住んでいた。この富士見市はおとなりの市。なのに、今まで行ったことがなかったし、存在も、うろおぼえに聞いたことがある程度だった。その頃は縄文時代に興味がなかったから。わたしが住んでいた市、夏などに避暑におとずれていた川岸の小高い小さな林、そこも貝塚だったということに後年、というか最近気づいた。しらずに中学生、高校生のわたしはそこで憩っていた。夏にはキツネノカミソリが咲いていたっけ。

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 縄文時代に興味を持つようになって、ぜひ水子貝塚公園には行ってみたいと思っていたので、行田の古代蓮の里から、帰り道をほんのすこしルートを変えることで、寄ることができるとわかって、訪れたのだった。
 復元した竪穴式住居のある公園は芝生もあるので、遺跡というより、ほんとうに公園といった感じで、親子連れ、子どもたちが多く、あちらこちらでボール遊びなどをしている。遺跡という空間と日常的な憩いの場であることの均衡がとれていないようだった。あとで案内してくださったスタッフの方に聞いたのだが、竪穴式住居に、サッカーボールなどが当たることもあり、それを修復するのも大変なのだとか。

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 展示館に水子貝塚を紹介する上映があった。海のない埼玉だが、約六〇〇〇年から五五〇〇年ほど前の縄文時代前期中頃には、水子貝塚の周りは縄文海進で海だったという。
 わたしが小学生の時にも、やはり同じようなことを学校の授業で聞いたことがある。当時わたしが住んでいたところの付近も、同じぐらいの時期には海だったから、今でも海抜が五メートルぐらいしかなく土地が低いと、習った記憶があるのだった。海のない、内陸なのに海辺のような海抜の低さに、不思議な印象をもった。貝塚も近くにあるといっていたが、当時は縄文時代には興味がなかったから、ただ貝が埋まっているんだ、海だったんだなあと、そのことにだけ意識を向けていた。水辺に対する関心は子どもの頃からあったから。
 子どもの頃に縄文時代などに、興味を持っていたならばと少し思う。そういえばクラスの男の子たちなどは、どこかで縄文土器のかけらなどを発掘してきていたっけ。けれども、今、縄文時代のあれこれに惹かれるようになって、遅かったかもしれないが、気づくことができて、それはそれで良かったとも思う。
 今回も水子貝塚公園に来ることができて感慨深かった。ここでも貝塚には、貝や骨のほかに丁寧に埋葬された女性、狩りなどで相棒だったのかもしれない犬などの骨も発見されている。再生の場だったのかもしれないし、生と死が分断されきっていなかったからかもしれない。遺棄するという観念も稀薄だったのかもしれない。連続性を持っていた…。水子貝塚は地点貝塚(住居跡が貝塚になったもの)と竪穴式住居で、ドーナツ型に構成されている。中央は広場として、祭りや共同的な作業などで使われていたのではとのこと。復元された竪穴式住居の一つの中に、縄文人と犬がいるみたいなのだが、わたしが行ったときは、虫の駆除中だったかで入れなかったのが少しばかり残念だったが。
 土器などが展示されている資料館には、水子貝塚だけでなく、富士見市の遺跡から発掘されたものたちが展示されていて、旧石器時代のやじり、縄文前期から中期ぐらいまでの土器が思ったよりも多く展示されていて、それがうれしかった。縄文時代早期の縄で文をつけたもの(まさしく縄文の名前どおり)、幾分装飾的な加曽利式の中期のもの、そして県の指定有形文化財になっている、羽沢遺跡出土の中期(約四五〇〇年前)のもの。これは愛称がムササビ土器という。口縁部のおそらく前面に動物の顔、後ろに尾っぽのようなものが施されている。ムササビと名前が付いているが、おそらく顔は猪で、尾っぽのように見えるところは、人間の眼なのではとのこと。猪と人間が向かい合っている……。なにか山梨あたりの土器と似ているなあと思ったら、キャプションに「この土器と同じ「猪」の装飾の付いた土器は、(中略)甲府盆地から相模原台地、多摩丘陵が分布の中心です。また胎土には甲府盆地の土器の特徴である金色の雲母を含んでいます。これらのことからこの土器は甲府盆地周辺からの搬入品と思われます」とあった。動物と人間が近しく向き合っている。造形的にも印象深かったが、そのことも惹かれる一因だったのだろうか。

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 そういえば、「水子」という地名。水子貝塚を紹介する上映や、小冊子に載っていたのだが、「コ」という音は、場所を表わし、「ミズコ」で、「水があるところ、水がわきでるところ」という意味なのだとか。このあたりは今も湧水があり、小さな川も流れており、当時はもっと水に恵まれた場所だった。近くに住んでいたのにと、このときも思った。水辺が好きで、あちこち探していたのに、知らなかったのだ。水がおおい所という地名だったのに。そして、此処、彼処、何処、この「コ」も、場所だったのだなあと、「コ」という音に思いを寄せる。
 そうして、車で帰路へ、朝早くから出かけていたので、帰ってきたのも比較的早かった。午後五時前。うちの近くの湧水が流れる崖、高くなったあたりを眺める。ここも縄文の頃には人が住んでいたのだ……。雨が上がっていた。
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2019-07-20

蛍の光、鷺の花、蝉の声 ─せたがやホタル祭りとサギ草市

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 今年の梅雨は長い。あまり陽射しを見ていない。先日、雨の中、せたがやホタル祭りとサギ草市にいってきた。七月十三日、十四日で開催、今年で三十九回目だが、行くのは三回目。
 例年、世田谷代官屋敷敷地内にホタルドームをつくってホタルを見るのだが、今年は代官屋敷が改装工事中で、敷地内に入れないので、どうするのかしらと思っていたら、向かいの信用金庫の敷地を借りて行っていた。その信用金庫の反対側のとなりに上町天祖神社があり、そこがサギ草市の会場。昼から縁日、夜には盆踊りも。

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 代官屋敷は入れないが、代官屋敷に隣接している郷土資料館は入ることができる。
 ホタル鑑賞はチラシなどによると午後五時四〇分から。着いたのが午後四時にもならない位だったので、サギ草市や縁日をざっとみてから、郷土資料館へ。
 郷土資料館もいつもとはちがう出入り口から入る。メインの通りから横道に入ったところにあり、少しわかりにくく、もしかすると休館していると思われてしまうかもしれない。例年よりも人が少なかった。ここでは例年、同じ時期に企画展でサギ草伝説のことなどを採り上げている。今年はそれにプラスして、ホタルの一生を模型やジオラマで紹介していた。サギ草伝説は、いわれなき讒訴により自害する常磐姫が、父の住む城へむけて、サギの足に遺書をくくりつけて飛ばしたが、そのサギがたまたま近くで狩りをしていた夫の手で打ち落とされ、ながしたサギの血がサギ草になった…というもの。夫はその遺書をみてはじめて姫の無実を知る。
 サギ草は、栽培はけっこう難しいと思う。サギ草市でも、だからだろうか、咲いている花を見かけることがほとんどない。でも好きな花だ。ここで何回か書いているけれど。ほんとうにサギがとびたつような、繊細な白さが心にしみる。実行委員会のテントの中に咲いているサギ草が一鉢あった。見ることができて良かった。

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 話が前後してしまった。郷土資料館に入ったのは縄文土器の展示があるから。解説パネルによると世田谷には縄文遺跡が一三〇以上あるらしい。その多くが縄文中期(五五〇〇年から四五〇〇年前)のもの。もう何回か観に来ているのだが、実際の土器たちにまた会えるのが、なんとなくうれしいのだった。
 それにうちの近くを流れる川から剥ぎ取った貝層も見たかった。縄文時代よりももっと前、約十二万年前のものだとある。この辺りも海だったのだ。ちなみに縄文時代前期の六〇〇〇年ぐらい前の貝塚の貝層の展示もあった。家から数キロ離れてはいるが、多摩川最奥部のもの。
 前回も書いたが、水に関わることが、ここでも好きなのかと、我ながらおかしくなる。
 うちの近くにも遺跡があったらしいが、遺跡として整備されているわけではないので、よくわからない。今も湧水の流れる崖の上あたりに、あちこち。湧水と、スダジイやクリ、コナラなどの植わった緑深い林にそのよすがをしのぶ。そして、あのあたりかしら…と、崖の上の緑をながめ、いにしえに思いをはせるのだった。
 郷土資料館を出たあと、まだホタル鑑賞までだいぶ間があった。縁日でなにかちょっと飲食をしてみたかったが雨なので、商店街などを散策することにした。ちなみにこの通りは毎年十二月と一月に行われるノミの市、ボロ市のメイン通り。ボロ市にもよく来ているのだが、その折は立ち並ぶ店と大渋滞の道行く人たちでごった返しているので、ちがうところを歩いているみたいだ。さらに進んで世田谷通りへ。
 時間をつぶしてホタル展示会場まで戻ってくると、長蛇の列。五時四〇分よりも前に始まっていたらしい。三十分ほど並んで、ようやくドームへ。
 真っ暗な中へ、列をなして入るのは、なんだか、お化け屋敷にいるような感覚だった。自然の環境ではないので、よけいにそう思ったのだろう。だが、中では蛍たちがひっそりと光っていた。暗がりだったからしくみがよくわからないが、通路の中央に水があり、笹があり、蚊帳のようなもので覆われていて、そのなかに蛍が飛んでいたようだ。足元や天井で、緑がかった淡い光がゆっくりと動いている。
 わたしは自然の環境で蛍をみたことが一回しかない。大人になってから、秩父の長瀞あたりの宿で予期せずにみた…。それは旅先での体験だったから、わたしのなかでは蛍は非日常の範疇に属する。
 そのあと、当時近くに住んでいた有栖川宮記念公園で、何度かみた。以前は蛍の養殖地があって、七月頃だったか、一日か二日、展示していたことがあったのだ。今はそうしたことをしていないらしい。もうずいぶん前だ。
 どちらにしても、蛍はわたしには非日常だ。だからこそ、よけい、あの淡い光に惹かれるのだろう。
 この文章と前回のうちの近くの川についての文章、近接した時期に書いている。あの小さな川のことを調べていたら、かつてはホタルが飛んでいたとあった。今でも流れているときは清流なのだから、当然と言えば当然なのだろう。ちなみにその川の水源である池のあたりは、弁財天池というのだが、旧石器時代、縄文時代の遺跡や住居跡が見つかっているらしい。
 つながっているなあと、勝手に結びつけて、心地よくなっている。
 今朝も雨。早朝バイトから帰る途中、少しだけ遠回りして、国分寺崖線上のみつ池という湧水由来の池を見に行く。たしかここもホタルを見ることができたとか……。ただ、ホタルが出没するのは六月で、もう時期的には終わっているから、今でも見ることができるのか、よくわからない。
 けれども、この池も春にみたよりも水量がだいぶ増えていて、どこかほっとした。この崖の上でも、去年、遺跡調査が行われていたなあと、ぼんやりと思う。蝉の抜け殻が落ちていた。雨がようやく止んだ。そろそろ、蝉の声が聞こえるのかしら。明日も雨の予報。
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2019-07-15

空と地を水が──見えない、いなくなり、見えにくいものたちへ

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 以前にも書いたけれど、うちの近くに、雨などで地下水位があがったときだけ現われる小さな川がある。一年の大半は、川の筋だけが残っていることが多い。直線距離にしてどのくらいだろうか。グーグルマップで見てみると200メートルぐらい。ただそこに川としては載っていない。流れ自体はとなり町の池から始まっている。ほとんどが暗渠になっていたりしているが、全長は二キロ弱だろうか。お寺の敷地にあるはじまりの池も、昔は湧水池だったのだが、今は井戸を掘削して復元している。だから今の川はどうなっているのか、実はよくわからない。池からしばらくゆくと大通り(ここも以前は野川が流れていたらしい、一の橋、二の橋、名前だけが残っている。こちらは流路を変えたのだ)があり、それを渡ると川の名前を冠した緑道の公園がある。その下に川が流れているのかどうかも不明。一度緑道から、川の跡を下ってみようかと思ったが、緑道が終わってから、すぐにわからなくなって断念した。そして一キロとちょっと行くと、うちの近く。ほとんど突然に川は現われる。ちなみにそこからさらに100メートルほど上流にあたる部分に、ほんのすこしだけ、こちらはもっと短く50メートルにも満たない川が現われ、すぐに暗渠になってゆく。最初、これが同じ川かどうかわからなかったが、区で出している公園マップみたいなものをもらってきて見てみると、そちらには流れが載っており、うちの近くの川も、その短い流れも、おそらく同じものなのだろうと推測できた。道が入り組んでいるから、わかりにくかったのだが、マップで見ると、すっきりと暗渠がつながってみえたのだ。
 ともかく、うちの近くの川。近所の湧水も流れ込んでいるからか、それに地下水由来だからか、水が流れているときは、とても澄んだ流れとなっている。近所の湧水といったが、こちらも今はほとんど湧き出ていない。やはり地下水位があがったときだけ。
 昔、十年ぐらい前だろうか、インターネットで検索したら、その湧水が、名水として記事になり載っていたことがあった。その当時でさえ、さらに遡って十年以上前の記事のようだったので、もはや今ではネットでは記事自体を探すことができない。
 十年ぐらい前に、その記事を頼りに家の近所を探してみたことがあった。湧水…名水…、庭に細長いくぼみがあるお宅があって、多分そこなのだろうと思ったが、見たときは流れていなかったし、わからないままだった。うちの近くに名水と呼ばれるものがあったなんて……、探検する気分だったのを憶えている。わくわくとした気持ちが最初にあり、見つからなかったことで、それをすこしさびしく思ったものだった。そのときも、小さな川は涸れたままだった。うちの近くといっても、道を一本挟んでいて、普段はほとんど通らない。なので、川はもはや涸れたままそこにあるのだろうとずっと、何年も思っていた。流れが復活することがあると知ったのは、何年前だったか。数年前に過ぎないのではなかったか。
 そして、去年だったか、名水として載った湧水ではなく、その数十メートル先で、別の湧水が流れ込んでいるのを発見した。小さな流れが小さな川に合流するような感じだ。これもうれしかった。なぜ水に関することが、こんなにわたしをゆさぶるのだろうか。

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 この頃、梅雨ということもあって、雨水が多いから、多分……と当たりをつけて、流れを見に行くと、結構水量が復活していた。それに雨だというのに水が澄んでいる。そしてつい最近まで、川のほとりには古く、読めなくなった立て札があったのだが、それが新しくなっていた。
「 かつては、狛江市の泉竜寺を水源とする清水川が府中崖線に沿って、この場所を流れていました。この場所は府中崖線の崖下にあたり、湧水がしみ出る場所でした。近年の都市化に伴い、水量は少なくなってきましたが、今でも地下水位が高くなると湧水を見ることができます。」
 崖線とは、河川や海などの浸食作用でできた崖地の連なりで、崖線には、連続した緑が存在する場合が多く、崖下には、雨水や地下水からなる湧水が流れ出ることも多い。うちの近くにはこのほかに国分寺崖線もある。
 ここも崖下だったのかと思う。周りは平坦で、高低差もないし、あまり崖下という感じもしない。けれども、たしかにもうすこしはなれると登り坂があるので(それが国分寺崖線だ)、土地は低い、いわゆるハケ下ということなのか……。
 水が好きなので、実感がないけれど、やはり立て札はうれしかった。わたしはなぜ、こんなに水が好きなのだろうか。その川は、今日も、梅雨のせいだろう、きれいな水が流れていた。水が流れているだけで、じんとする。冬などはとくに涸れていることが多いのだが。雨のふる空と水の流れる台地はつながっている……。

 実はこの文章を書いている途中でパソコンの外付けHDDが壊れた。この文章も含めてすべてHDDに保存する癖を付けていたので、いろいろ少し困った。途中の原稿、メモ、写真、一切合切、保存していたデータがある日突然読めなくなった。
 データ復旧サービスに頼んで、復旧したデータを新しい外付けHDDに入れてもらった。その期間約一週間。今回のことで少なからずショックを受けた。過信を反省していた、というべきか。突然に終わりはやってくる。終わりに対して、たいていは、受け入れつつある自分がいたつもりだったが、書いたものたちなどに対してだけ、過信していたことや、よりどころにしていた保存場所が、安全ではないと思い知らされたことに対して、心を暗くしていたのかもしれない。
 新しい外付けHDDにフォルダーがあり、その名前が「復旧データ」とあったのが戒める証拠のようで、もの悲しかった。そこを開くと、今までのデータが入っている。
 もう過信してはいけないのだと、とりあえず外付けのSSDという記憶媒体を新たに購入した。予備というかクローンというか。それと、クラウドサービスを使うことにした。書きかけのものなどはクラウドで保存して、書き上げたものだけHDDとSSDに保存すればいい。SSDはHDDに比べて壊れにくいらしいが、壊れたとなるとデータを読み出すのが難しいらしい。けれども両方一度に壊れることはないだろう……。
 
 壊れてからの一週間、通ることは通っていたのだが、あの小さな川のことを考えることもおろそかになっていた。
 また少しづつ。知らないお宅の庭のくぼみ、名水と紹介されていたであろうそこの水もどうやら復活していた。ただくぼみの先に土管があり、そこに水が流れ、地下に潜ってゆくようだったので、あの川に注いでいる姿はわからなかったが。
 空と大地はつながっている。今日も雨。
 うちの近くで、この頃、猫の親子を目にするのが、密かな楽しみになっているのだが、あの親子たちは雨の時はどうしているのだろうか。

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2019-06-25

雨の朝顔、昼の土偶─発掘された日本列島2019

 五月の末だったか、朝顔の種を蒔いた。去年の朝顔、秋に採っておいたのだが、どこかに無くしてしまったので、種を新たに購入したもの。品種は陽白朝顔。花の中央部分から縁にかけて枠取りをしたように白が入る。花の色は赤、青、紫などの混合。この白い縁取りと花の色に魅せられて、気に入っているのだけれど、もうひとつ、思いがけずいいことがあった。多くの朝顔はその名のとおり朝咲いて昼にはしぼむけれど(西洋朝顔などは一日中咲いているものもあるが)、陽白朝顔は、昼まで花が保たれている。わたしは早朝バイトをしているので、仕事から帰ってきて、まだ咲いているというか、ちょうど花を拡げきった姿に出会えるので、それもこの花の魅力だったのだ。だが、昼近くに開いた花に出会えることは、ながらく当たり前として感じていたし、ほかの朝顔もそうだと思っていた。ということはずいぶん前から陽白朝顔ばかりを育てていたのだろう。
 入谷の朝顔市も、何回か行ったことがあるが、やはり早朝から行ったことがない。昼過ぎに到着、下手すると午後遅くとかもあった。そんななかでしぼみきらないで咲いていたのが陽白だった。そうとはしらずに、ただ白い縁と花の色に惹かれていたのだった。
 去年やそれ以前の朝顔が植わっていた行灯仕立ての鉢が、二つあったので、それに蒔いた。正確には、そのうちの一つには、去年採っておかなかった種が土のなかで眠っていたらしく、二つほど双葉を出していた。それで朝顔の種を蒔かないといけないなと思ったのだ。朝顔以外の植物たちが芽を出していたので、それを抜く。こうした作業をしていると、いつも少し心が痛む。朝顔に栄養が行き渡らない、朝顔の根が張れない、など様々な理由があるが、せっかく生えてきた植物たちに、すまないと思う。だが仕方なくむしった。むしったら、土も減ったので、朝顔の種と一緒に買ってきた土をすこし足す。
 数日後に種をかぶった芽が出てきた。もやしみたいだ。二鉢に植えたので、ちょうどというか、間引きしなくともいい感じに、一鉢あたり、五つほど。別の草たちを引き抜くのをためらうのと同じ理由で、間引くことにもためらいがある。というか、こちらは実はしたことがない。しなくても、案外いい具合に朝顔が育ってくれる。理由は今回のように二鉢に分けて、だとか、あと、間引かなくとも、朝顔自身が淘汰してゆくようなのだ。一緒に芽をだしても、弱い芽たちは自然にいなくなってしまっている。
 種をかぶった芽たち、いいのか悪いのかしらないが、同じ鉢のなかで、植え替えをする。芽どうしをすこし離して、植えるのだ。
 そうしてまた数日で、本葉が出てきた。朝顔の観察日記みたいだなあと、毎日様子を見ていることに対して思う。
 小学校の時の朝顔の観察を思い出すけれど、あのときよりも、もっと今の方が楽しんでいる。朝顔の観察は、授業の一環だったから、当時はとくになんとも思わなかった。ただ父が植物を育てることが好きだったから、学校から夏休み前に持って帰ってきた朝顔を、次の年も、引き継いで育ててくれていたのかもしれない。その後も、家で朝顔をみかけた気がするから、種を採取しておいて、また蒔いたりしていたのではないだろうか。父は三十年以上前に亡くなっているので、わからないのだが。なんとなく、夏の朝、まだすこし涼しい時間に、咲いている朝顔を数えた記憶もある。それに子どもの頃に名前を知った数少ない花の一つだ。自分で手をかけた初めての花、その思い出もどこかに残っているのかもしれない。
 今、ちょうどいい案配に本葉たちがすくすくと育っている。数日前、そろそろツルを伸ばし始めるかしらと思った、その翌日、ツルを伸ばしたものがあって、驚いた。彼らは当たり前だが、勝手にツルを伸ばすので、行灯仕立ての支柱に配分よく巻き付けるために、直さないといけない。この作業がまた楽しい。朝顔と交流をもっているよう、いやいやする子をあやすようで。


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 六月。今年は晴れ間が多いほうだと思っていたが、やはり梅雨なのだ。土曜日、二週にとも出かけてきたのだが、どちらも結局雨だった。
 一つ目は、「発掘された日本列島二〇一九」展。東京都江戸東京博物館を皮切りに花巻市博物館、三内丸山遺跡センター、名古屋市博物館、大野城心のふるさと館と巡回する。江戸東京博物館では六月一日─七月二十一日まで。去年出かけて興味深かったので、今年もぜひ行ってみたかったのだ。
 小雨の土曜日。二時半から文化庁文化財調査官による解説が行われるというので、それよりも前に着いて、館内を回りたかった。一時間ぐらい前に着いた。こちらは江戸東京博物館の常設展観覧料のみで観ることができるので、まず常設の江戸の暮らしのあたりを観て回った。写真撮影OKという案内が増えたような気がする。インスタなどを意識してなのか。
 たしか北斎の画室を復元したものがあったなと探す。なかなか見つからなかった。それは記憶にあったものよりも小さかったから。実物大だとばかり思っていたのだが、探し当てたそれは五分の一の縮尺だった。それほど印象が強かったということなのだろう。
 復元した画室は、弟子の露木為一が描いたものを再現、一九四二年、北斎八十三歳頃、現在の江戸東京博物館からそんなに離れていない榿馬場(両国四丁目)の借家で、手前に畳の上にかがんで絵を描いている北斎、奥に娘の阿栄がいる。

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 それらを観てまわったのち、企画展の「発掘された日本列島2019」へ。
 開催概要から。
 「 全国では年間約9000件に及ぶ発掘調査が行われていますが、その成果に実際に触れる機会は極めて限られています。そこで、より多くの方が埋蔵文化財に親しみ、その保護の重要性に関する理解を深められるよう、本展では、近年発掘された遺跡のなかでとくに注目を集めた12遺跡について速報展示を行います。
 また今年度は、特集として被災地の埋蔵文化財と発掘調査の紹介、さらに史跡名勝天然記念物保護の展示を行います。」
 まず説明を聞く前に展示を見ておきたかったのだ。今年は特集の関係からか、速報展示の数が去年より少ない。去年が24あったから、ちょうど半分。
 ただ、わたしが個人的に興味のある縄文時代のものは、チラシなどにもなっている土偶が発掘されていて、それを目当てに出かけたのだった。青森県西目屋村の「白神山地東麓縄文遺跡群」。こちらは展示解説によると、「白神山地東麓に位置し、岩木川右岸の段丘に立地します。発掘調査で見つかった十七遺跡は、縄文時代初頭の草創期から、終末の時期である晩期まで、連綿と営まれたものです」とのこと。
 この展示で、とくに土偶にひかれた。板状土偶、遮光器土偶。あとで聞いた展示解説では、祭りに使われたのではといっていた。そしてアスファルトで修理した痕跡がみられる土偶もあると。
 静かな想いの結晶。ものいわぬものたちの圧倒的な気配。
 この企画展でも写真撮影してよいとのことだったので、展示解説が始まる前に、縄文のあたりだけ、撮影させて頂き、そののち、ゆっくりと観てまわった。

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 そうして、二時半からはじまった展示解説に参加した。だが、ごめんなさいなのだが、これを書いているのが展覧会にいってから少し経っていることもあって、ほとんど忘れてしまっている。記憶にのこっているのは、さきのアスファルトのことと、縄文や弥生、古墳時代を語るときに出てくる言葉が、つい、祭りや祭祀というものになってしまう、といったことだけだ。たとえば、土偶は儀式、祭りで使われたのではなかったか、古墳時代の古墳の造り出し部では、なんらかの祭祀の舞台となっていたのではなかったかなど。
 ビデオ上映、今年はあまり興味をひくものがなかった。上映時間も短い。去年は発掘地に関わるビデオ上映が盛り沢山で、興味深い内容が多く、時間も長いので、見るのに苦労したぐらいだったが。今年はすこしさびしく思いながら素通りした。

 企画展会場を後にして、また常設、こんどは明治から現代のあたりを見てまわり、そのあと一階のミュージアムショップへ。
 以前はもっとミュージアムショップが広かったようだと記憶しているが、売り場面積が縮小されている。休憩所かなにかになっているようだ。
 両国駅近くに、ミュージアムショップ的な場所があったので、そちらに寄ってみる。観光案内所があり、飲食店があり、お土産屋さんがあり…。感覚的には道の駅のようだ。
 そこで、なぜか電気ブランというお酒が売っていたのでつい買ってしまった。
 ブランデーにワイン、ジン、ベルモット、ハーブなどをブレンドした比較的アルコール度数の高いお酒で、誕生は明治だ。
 古い時代のお酒ということで、どこかノスタルジーがあった。はじめて飲んだのはずいぶん前だが、飲んで驚いた。アルコール度数が高いことは知っていたが、リキュールだとは思わなかったので、甘さに驚いたのだ。甘くて、きつい不思議なお酒。飲みやすくって、けれどもむせそうな。
 外でしか飲んだことがないのだが、そのたびに不思議な驚きがいつもするのだった。甘いくせにハード。明治の味。
 電気ブラン。最後に飲んだのはいつだっただろうか。ずいぶん飲んでいない。それで懐かしくなってつい、購入してしまった。
 それから、もう十日ほど経っている。まだ電気ブランは冷蔵庫で冷やされたまま。そのうち、近々。
 二つ目の土曜日の出かけてきたところは、どしゃぶりの雨のため、なんだかうやむやになってしまったので省略する。出かけたのに中止のような、そんな中途半端な……。
 朝顔のツルは、今日も伸びていたので、支柱に巻き付け直した。彼らとの楽しい交流が始まりつつある。
23:13:00 - umikyon - No comments

2019-06-16

水の箱根の境目 ─大平台温泉、箱根湯本、ラリック

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 四月末にとある事情で箱根に行ってきたことがあった。楽しくはあったけれど、個人の意見を通しにくい旅でもあったので、六月にまた行くことにした。
 東京から近い温泉街ということもあり、何回か来ている。小学校の修学旅行も伊豆箱根だったような。もしかして一番来ている温泉地かもしれない。芦ノ湖、塔ノ沢、仙石原……。これらは泊まったことがあるので、今迄あまりなじみのない場所、大平台に宿を取った。
 ここは箱根玄関口の湯本からそれほど離れていない。湯本は車で通っていると、お土産屋さんなどが立ち並んで楽しげだったから、ぜひ散策してみたかったので、それで選んだということもある。
 そう、家から、また車で。天気は雨の予報だったが、曇っている。わたしが海が好きなので、連れ合いが海沿いを走ってくれた。西湘バイパス。海が近くなってきたなあと気配でわかったが海が見えない。だが、突然見えた。曇り空で海の色もどんよりしていたが、そのうちに晴れて蒼さを増してきた。空と海は繋がっているのだ。
 あれはなんだったのかしら、サービスエリア? 昔のドライブインみたいなところに立ち寄る。時間は一〇時近く。昼食にはまだ早かったが、この日のこれからの予定を考え、食べることにした。箱根でお蕎麦かなあと思っていたのに、湘南のしらすをつかった海鮮丼。うれしい番狂わせだった。目の前には晴れ間の下で波打つ海がある。

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 海から離れると、もうほとんどすぐに箱根の玄関口。山のイメージなのに、海が存外近い。知っていることなのだが、来るたびにそのことを実感する、というか。
 箱根湯本駅あたりの賑わいを車でまずは横目で見て、山道をのぼる感じで強羅のほうへ。標高差はあまりないのだが、強羅あたりで三〇〇何メートルか、道沿いの緑が、麓よりも新緑に近いような気がする。わたしが普段、家の近くでみる緑は、もはや新緑を通り越して、しっかりとした緑になりつつある。気のせいだろうか。けれども、四月末に箱根に来たときも、もうすこし山の上のほうだったが、まだ葉桜ではあったけれど、桜が見られたりしたから、あながち印象に間違いはないのかもしれない。ほんのすこし季節がゆるやかにやってきている。
 強羅には、箱根美術館目当てで行った。ここは焼き物を中心とした美術館で、縄文時代から江戸時代までの日本陶磁器を常設展示している。さらに苔庭のある庭園が見応えがあるとのこと。
 苔庭と縄文土器にひかれて、来てみようと思ったのだった。
 展示作品については、予想どおりだった。どうも焼き物には、触手がのびない。ただ縄文土器を箱根の緑のなかで見たかった。縄文土器は二点の展示があり、二つともわたしの好きな時代、縄文中期のものだった。塑像がいちばん力強い時代。とくに新潟県出土の火焔土器。ここでこんなほぼ完全な状態で、しかもかなり大きめのものに出会えるなんて。
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 ほかに千葉県出土の古墳時代の兎型埴輪などに目がいった。小さな耳、大きな足の兎。
 庭園は、思ったよりも起伏があって、それが山間なのだなと今更ながら思わされた。平地ではない、ましてや高原でもない、山の中腹の美術館(庭園)。湧水なのか、清冽な水が流れ、下草のように生えた苔が新緑っぽい緑で、目にしみる。

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 この強羅でゆっくりと昼食をして……と思っていたのだけれど、先に触れたとおり、もう食べてしまったので、予定よりも時間が空いてしまった。美術館から近い、強羅公園へ行くことにする。通りかかったことはあるけれど、なかに入るのははじめて。バラ園が見頃で、噴水のある池、熱帯植物園、クラフト工房での体験など。こちらもやはり段差を活かした公園だった。植物園的な公園は、なんとなく平地で見るものだと思っていたので、訪れたときも、場所がどこにあるのかわからなかったぐらい。とても近いところにあったのに、だたっぴろい空間が拡がっていると思い込んでいたので、見過ごしてしまったのだ。
 色とりどりのバラ、企画展的なスペースで、アジサイたちが並んでいた。バラのアイスをいただく。食べられるバラが添えられていた。食べてみても、ほとんどバラは感じられない。バラのつぼみごと食べるのだが、なんだか葉っぱを食べているみたい。かすかにバラっぽい香りがあとからすこし口の中にひろがった。
 なんにせよ、植物園の散策はそれでも心地よい、大きなナンヨウスギ。家にある珪化木はこの木の化石なので愛着がある。おもわず見上げる。

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 箱根美術館、強羅公園で遊んでいるうち、宿のチェックインの時間が近づいてきた。この宿はありがたいことにチェックインの時間が午後一時とだいぶ早いのだ。
 宿に向かう。箱根の山をすこし下りる、湯本方面に戻る感じだ。
 大平台の宿。諸事情で窓からの景色が道路沿いであまり望めないという部屋だったが、緑のなかで、道路の向こうに、箱根登山電車が通るのがみえた。二両か三両編成。意外に楽しい。
 近くに姫の水という湧水がある。飲料することができ、汲んでもよいとのことなので、ちいさなペットボトルをもって、早速いってみた。大名の姫君たちも飲んだという。宿をでてすぐにゴボゴボと音がしていた。豆腐屋さんも近くに数軒ある。水がいいということなのだろう。ゴボゴボという音に近づいてゆくと、小さな噴水のように、姫の水はあった。民家の敷地内なので、静かに噴水の下にペットボトルをもってゆく。水がとても冷たい。持った手や腕がいたい。

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 大平台は、小さな温泉街だ。勾配のある山あいの細道に、民家と保養所、豆腐屋さんに雑貨屋さん、スナックなどがある、あまり観光地観光地していない。庭なのか、道端なのか、判別しにくい場所に、最近では園芸店などでしか見たことのない、ミヤマオダマキ、ヤマボウシ、シモツケソウなどが、咲いている。山野草のように、ユキノシタ、ドクダミ、ヤマアジサイ、勝手に生えたのか、庭で育てているのかわからない。
 旅館などもおそらくあるのだろうが、来る途中や、近くには保養所ばかりだった。泊まった宿も保養所の一つだが、一般客も受け入れている。こんなふうに、観光地であってそうでない、野に咲く花と庭の花、なにかどちらでもあってどちらでもない、そんな雰囲気たちがやさしいところだ。
 ちなみに姫の水。あとで宿で飲んだけれど、飲みやすいが、おいしいのかわからなかった。けれども、飲んでいるうち、おいしいことに気づいた。
 ちなみに、この場所に来たことがないと思っていたが、植物たちにまみれた登山鉄道の線路を見て、二十年近く前に来たことがあったのではなかったかとふと思った。
 あの頃はたしかもう少し、ペンション風の宿が何軒かあったような……、泊まったのは、その一つだった。かつては、なんということのない景色だと思ったはずだが、今見るそれは、どこかやさしい。生活と旅が混在している。温泉地に人々の生活の跡が見える。土産物屋すらない、ちいさな温泉地。
 泉の水を汲んで、宿の冷蔵庫のなかに入れたのち、ここから箱根登山鉄道で二駅の箱根湯本へ。連れ合いは基本車で移動することが多いので、箱根登山鉄道に乗るのは初めてだという。
 たまたまもうすぐなくなってしまうという古い車両に乗ることが出来た。重厚というか、しっかりした内装だ。単線ということもあり、脇に迫ってくる緑たちが狭い。アジサイが蕾といったところか、もう半月もすると、アジサイだらけになるのだろう。緑たち、山たち、トンネル、スイッチバック。ゴトンゴトンと電車が降りてゆく。

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 箱根湯本駅についた。すぐにお土産屋さんや飲食店などの並ぶ商店街が続くので、そのあたりを散策。見るだけで楽しい(あとですこし買ったけれど)。
 商店街を塔ノ沢のほうへ歩き、平行して流れる左手の早川、さらにその奥の早川へ合流する前の須雲川のほうへ。この川沿いに滝通りがあり、温泉宿がたちならぶ。その宿の一角に滝があるというので、寄ってみたかったのだ。宿の敷地内ということなので、敷居が高いかしらと思ったけれど、一般客も気軽に入ることができた。すぐに飛烟の滝、さらに奥に玉簾の滝、二つもあった。敷居は低かったが、こちらの気のもちようなのだろう。なにか部外者が見にきているような気がしてしまって、あまり滝たちを感じることができなかった。そういえば湯本から強羅へ向かう道沿いにも蛙の滝というのを、車からみたなあと思い出す。
 けれども、須雲川。早川は車などで通るときに少しみたことがあったが、はじめての川。どちらの川も、綺麗な流れだが、はじめての川というのは、なんとなくそれだけで、新鮮だ。豊かな水量と澄んだ水が心地よい。温泉街の川といった雰囲気もある。あちこちから湧水がでていたり、注いでいる。姫の水を思い出す。やはり水が豊かなのだ。そういえば訪れた滝のほうでも、水を汲めるらしかったが、容器をもってきていなかったのでしなかった。そのかわり、手ですこし掬って飲んでみた。姫の水のほうが冷たかったなあと思う。

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 そんなこんなで遊んでいるうちに四時近くになった。湯本の商店街で、連れは和菓子と海産物を、わたしはここからほどちかい曽我で採れた梅干しを買って、また箱根登山電車で宿に戻る。六時から夕食なので、その前に温泉へ。大浴場と露天風呂。まだ明るいので、露天風呂から山の緑を見ることが出来た。箱根の湯は身体にやさしい。温泉のなかには、効き過ぎて身体に不調がおこることもあるのだが、箱根や伊豆の温泉はわたしの身体に合っているようだ。いつまでも湯冷めせず、身体がつるつるとする。ゆっくりとつかる。贅沢だなあと思う。
 この後、食事、そして疲れたのか、もう寝てしまって、一日が終わる。長い一日だった。翌日は早朝バイトでもう身体がその時刻になると目が覚めるようになってしまっているので、三時には…。まだ暗い。スマホで少し原稿などを書く。そのうち、まだ明るくはなかったが、鳥たちの声がにぎやかになってきた。まだ日が明けきらない山の中、暗い、それでも朝の気配がそんなことで感じられる、ウグイスの声がしてきた。夜から朝へぬけるように。
 四時を回って、五時過ぎ。もうすっかり朝の明るさ。またお風呂に入りに行った。

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 この日は一日雨。仙石原のほうに登って、箱根ラリック美術館へ。四月に来たときに企画展として「サラ・ベルナールの世界展」(二〇一九年三月二十八日─六月三十日)を開催してると知ったので。箱根ラリック美術館は、もう何回か来たことがある。ルネ・ラリック(一八六〇─一九四三)の宝飾品、香水瓶、ガラス製品、家具などが、美しく展示されている。ラリックのオパールの耀きをもつガラスの女神たち(シレーヌ、バッコスの巫女)が大好きだった。花や虫たち、鳥たちをモチーフにしたガラス作品、ジャポニズムの影響をうけた彼の作品も。
 ただ、この頃はもう、あまりそちらのほうにわたしの関心があまり行っていないのだが、ラリックはそのなかでも、いまだに見たくなる作家の一人、といえる。
 それに、企画展だ。四月にみかけたポスターは、ミュシャの描いたサラ・ベルナールをメインにしたものだった。ミュシャもさんざん見てきた。そしてサラ・ベルナール。演技しているところを見たことはもちろん、残念ながらないけれど、惹かれる存在なのだ。十九世紀末から二十世紀にかけて活躍したフランスの舞台女優、サラ・ベルナール(一八四四─一九二三)。ミュシャが売れるきっかけを作った人物でもある。わたしはむかし、あの十九世紀末というものが好きだった。文学も美術も。それもあってラリック、ミュシャ、サラ・ベルナールなどに関心があるのだ。
 サラ・ベルナールは、若手のジュエリーデザイナーだったルネ・ラリックを見いだした人物でもあるとのことで、ミュシャがデザインした百合の冠を、ラリックが制作していて(一八九五年)、その展示もあった。

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 先を急いでしまった。美術館は緑深い中にある。雨に濡れた緑のなかに小さな水の流れがあった。作られたものではない、自然の流れなのだろう。庭園になっていて、そこの散策も可能みたいだったが、雨のために、今回は遠慮した。外にクラシックカーがあり、そのカーマスコットが、オパールセングラスのラリック作品。ぜいたくな車のアクセサリーだ。
 常設展は、ひさしぶりのラリックたちで、再会したようでうれしかった。感動というよりしずかな刺激。植物たち、鳥たちのモチーフに、彼を好きだったのは、彼のこうした自然への目の向けかたによることもあったのだろうと、今更ながら思う。
 美術館の窓から庭園が見えた。モネの庭のような太鼓橋と睡蓮の咲く池。ラリックの作品たちにもよく合っている。雨に濡れて緑がしっとりと色づいている。

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 ラリックが内装を手がけたオリエント急行。このサロンカーが美術館に展示されている。予約制のカフェで、美術館とは別料金。映画『オリエント急行殺人事件』も好きだったから、つねづねこの中も入ってみたいと思っていたのだが、今回は、時間の関係もあって、入ることがかなわなかった。
 芦ノ湖のほうに行き、箱根神社へ。以前、芦ノ湖遊覧などをしたときに、湖面からせり出すように建っている赤い鳥居が気になっていた、その神社だった。
 箱根神社、九頭龍神社。狛犬が苔を着込んでいるようで、心にしみた。九頭龍神社の龍神水舎の龍たちにも。九つの頭の龍たちが口から水を出している。 「九頭龍神甘露の霊水 箱根神社の龍神水」とあった。こういういいかたは不謹慎かもしれないが、龍たちがけなげに見えた。手で掬って、水を頂く。また水だ。最後は龍神様。冷たかった。

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 例の芦ノ湖湖畔の鳥居へ。もう何十年も前から、一度来てみたかったところだった。というか、芦ノ湖で船に乗っているときは、ここに来ることが出来るなんて、思ってもみなかった。湖上から眺めることができるだけで、きっと行くことができない場所なのだと、どこかで思い込んでいたのだった。
 そんな場所に、来ることが……。境目というのは、案外、近いところにあるのかもしれない、行けそうにない場所は、こんなふうに行くことが。
 そしてせり出した鳥居、ぎりぎりまで、歩いてみた。芦ノ湖の水も意外に綺麗だ。周りは雨で視界はよくはなかったけれど。芦ノ湖に遊覧船が通った。雨脚が強くなってきた。

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 そのあとにもう一つ観光スポットを巡って帰路についた。箱根湯本のちょうど裏側の道、箱根新道を通る。滝通りよりも、さらに一つ奥だ。寄木細工の店などが並んでいる。寄木細工のからくり箱などが、どうも自分のなかでは当たり前のものになっているのはどうしてなのか。多分、子どもの頃に、家にあったからだろう。木のそれぞれの色合いの違いを利用した模様が精密な木の製品。とくに開けるのが難しいからくりの小箱が、なんというか、親しみをこして、大切な宝物となっている。といっても今、手元にあるわけではないのだが。
 旅の最後に、寄木細工の店や工房などの痕跡を見ることができて、良かったなあと思う。また西湘バイパス、雨の海を遠くに眺める。雨と空と海で、もはやそれらが曖昧だ。
 考えてみたら、箱根は神奈川県で、うちの隣の県だ、近いのだ。海が見えなくなり、しばらくして、多摩川を渡れば、うちはもうすぐ。
 どこにも寄らず、家に帰った。まだ雨。残っていたもので晩ご飯をすませる。連れ合いの買った海産物をつまみにお酒を頂く。姫の水を飲む。やはり美味しい。雨はまだ降っている。肌がつるつる。盛り沢山の水の旅だった。
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2019-05-22

川の近くの小高い緑に思いを寄せる横浜歴史博物館

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 そういえば最近、博物館的な施設に行ってないなあと、少しパソコンで調べたら、横浜歴史博物館を見つけた。企画展は「君も今日から考古学者! 横浜発掘物語2019」(2019年4月6日─6月2日)というもの。子どもむけのものだったが、好きな縄文時代も扱っていて、常設でも展示がある。また、以前から隣接して「大塚・歳勝土遺跡公園」という弥生時代の史跡があると知っていて、いつか機会があったら訪れてみたいなと思っていたので、出かけてきた。

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 車で連れてってもらった。電車だと、電車を乗り継ぎ、バスも使う感じで、少々面倒だったが、車だと存外近い。うちから十五キロぐらい。
 カーナビの地図などをみると、博物館隣接の遺跡公園はもとより、近くにはほかにも公園が多い。だからなんとなく緑が多い、のんびりしたところなのかしらと思ったが、実際に行ってみると微妙だった。傾斜が多く、たしかに緑も多かったが、商業施設や比較的背の高いマンションなども多い。丘陵的な緑と宅地を進んで、ああ、このこんもりとした緑のあたりが博物館や遺跡公園なのかなと思ったら、あてがはずれる。横浜歴史博物館は、駅に近いところらしい(最寄りは市営地下鉄「センター北」駅)。あたりに緑は点在しているのだが、商業施設や立体駐車場、マンションに囲まれた一角にあった。緑が遠く感じられて、すこし息苦しい。遺跡公園も隣接しているはずなのに、博物館入口からはわからなかった。
 そうだ、森の中にある美術館とか、そんなイメージを抱いていたので、なにか拍子抜けしたのだった。その感覚で、パーキングも屋外にあると思っていたので、ビルの中にあったので、やはり意外だった。ともかく横浜歴史博物館へ。

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 企画展は、平日は近隣の小学校の観覧などで混むらしかったが、行ったのが土曜日だったので、比較的空いていた。遺跡を掘る体験スペースなどがあり、子どもが発掘を体験している。
 発掘された縄文土器のかけらを触ることができる展示があり、それがよかった。手から感触を確かめる。ざらざらと、やさしい。しっくりする。時代を超えてここにあることに思いをはせる。
 企画展も常設も基本的にフラッシュをたかなければ写真撮影可とのこと(一部不可のところも)。写真を撮ることに気がいってしまわぬ程度に少しだけ。この案配が難しい。写真に収めてしまうと、実際は見ていないのに、見てしまったような気になってしまうから。

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 久しぶりの縄文土器たち。どうしてこれらがこんなにも好きなのだろう。常設展で歴史劇場での上映、横浜の辿った三万年の歴史を約十五分の映像で辿る、というものがあったので鑑賞した。縄文時代は自然とともにあり、弥生時代にはいってから鉄が使われるようになり、争いも起こった……そんなことを言っていた。あるいはそれもわたしが縄文時代に惹かれる理由なのだろうかとぼんやりと思う。
 たしか企画展のほうだったと記憶しているが、顔面取手土器の展示があった。横浜市都筑区の高山遺跡や大熊仲町遺跡から出土したもので、縄文中期のもの。ここには説明がなかったが、それほどこことは離れていない、およそ十キロの町田市の本町田遺跡に訪れたときに、顔面取手土器の一部が展示されていて、「現在の長野県や山梨県にあたる地域の縄文時代中期の人々が土器の一部として作り始めたと考えられています」と解説があったことを思い出した。わたしはどうもこの顔面取手土器が好きらしい。ああ山梨の釈迦堂遺跡博物館でこの系統のものを見たなあと頭のなかで反芻する。縄文土器に土偶の頭をつけたような、土器と土偶の混成のような。

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 話が前後してしまうが、帰りにミュージアムショップでこの顔面取手の部分、顔面だけをミニチュアサイスに復元したものが売られていたのでつい買ってしまった。縦横およそ二センチほど。この文章を書いている(作成しているといったほうがいいのか)パソコンからすぐ見えるところに飾って。こんなふうに小さなガラクタたちで、わたしの机のまわりは満ちている。囲まれてゆく。
 博物館は緑から離れた感じでそこにあったと書いた。大塚・歳勝土遺跡公園も、博物館に着いたときはどこにあるかわからなかったが、博物館の三階部分、屋上から道路にかかった連絡橋を渡って行けるのだった。遺跡公園はそれほど高いところにあるということ。橋を渡るという行為をそのときは気にすることはなかったが、象徴的ともいえそうだ。ビルたちに囲まれた場所から、緑深いところへ。現在から過去へ。弥生時代の遺跡、木柵や溝、土塁で囲んだ環濠集落のムラ、大塚遺跡と、そのムラの外に溝で囲んだ方形周溝墓と呼ばれる墓の歳勝土遺跡、さらに古民家もある公園。大塚遺跡のほうには、復元された竪穴式住居や高床式倉庫などもあった。
 公園内にはそのほかに、周辺地形の模型があり、この公園のすぐ近くに縄文遺跡が何カ所か点在しているのがわかった。車でここに来る途中に、鶴見川の支流の早渕川が流れているのを見た。この川の近くのすこし高いところ、ということなのかもしれない。
 車で来るときにあちこちに見えた点在している緑たちのどれかが縄文遺跡なのかなと思う。間違えているかもしれないが、おそらく一部はそうなのだろう。あの緑が……そう思うと気持ちよかった。
 この公園ではとくに大塚遺跡のほう、復元竪穴住居が点在しているところに惹かれた。あまり縄文時代のそれと違いがわからないからなのだろう。少し調べたが、外観的にも内部構造的にも大きな違いはないようだ。ただ縄文と明らかに違う高床式倉庫もあったけれど。

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 ともかく吹いた茅葺きの感じが心地よかった。この復元した住居跡群は、丘の頂上といった場所にあるのだが、そこに向かう途中、雑木林もあったが、竹林といったところも多かった。遺跡公園になぜ竹林なのだろうかと少し意外だったが、竹林の静かな感じも新鮮だった。

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 うちの近くまで帰ってきて、実際にはうちを通り過ぎて、崖の上、丘の上のこんもりとした緑たちのあたりを眺める。いつもの風景だ。この緑、この小学校のあたりも、縄文の遺跡があったんだよなあと思う。近くには川や湧水。
 そしてこの日、前回、神代植物公園に出かけたときに買った蚕豆に続いて、また蚕豆を買って食べた。出かけるたびに蚕豆だなあとすこしおかしくなる。もうすぐそれが枝豆になるのかしら。季節が変わりつつある。
18:34:58 - umikyon - No comments

2019-05-05

キンラン、ギンラン、令和に緑に会いに行く──神代植物公園

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 元号が令和になった。わたしのパソコンでも、知らないうちに令和の漢字変換が何の支障もなくできるようになっていた。まるで前から存在していたように。このところの、元号が変わったこと、それにともなう公式行事などに、あまり関心がない。どこか他人事だ。
 もともとあまり平成に思い入れがなかったからかもしれない。昭和生まれなので、どちらかといえば昭和のほうが愛着がある。平成は最後までなじめなかった。昭和は西暦と五の倍数という共通項があるので、計算しやすい。昭和の元号に二十五年足せば西暦になる。昭和二〇年が一九四五年、昭和五十五年が一九八〇年といった感じだ。平成はそれがないので変換しずらい。もっとも令和も元年が二〇一九年、二年が二〇二〇年だから、そうなのだが。ただ、令和という文字は意外と気に入っている。
 世間は十連休だが、わたしのバイトは祝日とか関係ないといえばいえる。そのこともあって、他人事なのかもしれない。その連休もそろそろ終わる。ちなみにバイトと祝日、関係ないと言い切らないのは、祝日や日曜は仕事量が少なくなる、いくぶん暇というか楽になることによる。こんなふうにどこかで何かが関係しあっているのだろう。
 連休はわたしは通常通り。五月四日は土曜日で、五日が日曜。日曜は週一回のバイト休みの日なので、土曜日はなんとなく、特別な日だ。休み前の日。

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 みどりの日でもある。その特別な日に、神代植物公園に出かけてきた。去年、たまたま、やはり五月四日に出かけたのだが、その折り、無料開放日だと知ったのだ。公園の新緑たちが見たかった。それに隣接した深大寺あたりの蕎麦も、食べたいと思ったのだった。
 連れ合いはずっと連休中は休みだった。だから、やはりわたしの生活に、連休が関係ないとは言い切れない。その連れ合いと車で行く。うちから神代植物公園は車だとかなり近い。十キロぐらい。途中の道は比較的空いていたが、去年、植物公園の駐車場に車を停めるのに結構並んだ記憶があったので、すこし不安だった。今年は十連休だし、もっと混むのではと。だが去年よりも出かけた時間がすこし早かったせいか、さして並ばずに停められた。時刻は午前十時をすこし回ったぐらい。まだお昼には早い時刻だったが、連休中だし、昼時は今よりもっと混むだろうと、最初に蕎麦を食べることにした。
 神代植物公園の駐車場からだと、深大寺の北参道からゆく感じ。いわゆる門前の蕎麦屋といったことなのだろうが、深大寺蕎麦として、二十軒ぐらいの蕎麦屋さんが並んでいる。国分寺崖線の育んだ湧水も各所に流れ、それを元にした池などもあり、深い緑と水、団子屋さんにお茶屋さん、植木屋さんに、観光みやげを売るお店もあり、家から十キロという距離をいつも忘れてしまいそうになる。どこかもっと遠いところに旅にきたような。この錯覚はいつも心地よい。
 去年食べたお蕎麦屋さんは、いまいちの味だったので、今年は別のお店へ。というか、有名な蕎麦どころであるのだけれど、これまで深大寺蕎麦ば、おいしいとおもった記憶がない。並ぶのがきらい、行列が出来るお店は避けている、ということもあるかもしれない。
 今回はいった店は、はじめてのところ、すこし端というか、にぎやかな目抜き通りではないので、それで比較的すいているといった感じ。おいしかった。ほどよいコシがあって。いままで深大寺で食べたなかでは一番だった。

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 そのあとで、植物公園へ。公園内も、蕎麦屋さん周辺もそれなりに人は多かったが、さして気になるほどではなかった。とくに植物公園のほうは、敷地が広いから、人は緑にまぎれてしまう。
 薔薇はまだ、すこし咲き始めたかんじ、藤はそろそろおわり、シャクヤクやボタンも咲き始め、ツツジ、サツキも……。植物は好きだが、これらの花たちは、じつはそれほど好きというわけではない。ただ、緑が多い、やわらかに、春というより初夏を満喫している、あの葉たちの色合いが心にしみた。
 芝生広場で、グリーン・マルシェというイベントをやっていた。食べ物や飲み物、植物や雑貨などのお店の出店、ワークショップ、コンサートなど。
 林の中で、エビネが咲いているのをみつける。蘭科の植物だが花が小さいこともあって派手さがあまりない。色も茶色だった。だが、林の下で、ひっそりと咲く姿は、それでも凜として存在感があった。山野草としては人気があったと思う。家で父が育てているのを見た。それからもたまに、デパートや、植木市の類いで鉢植えを見たおぼえがある。林の中で見るのは初めてかも……と感慨にふけろうとした矢先、エビネの近くでやはり蘭科のキンランを見つけた。こちらは久しぶりにその姿を見た。小学生高学年から中学生ぐらいのときに、父とよく近所の雑木林を散歩した。その林に生えているのを見た。それ以来だ。あの林の下のキンランが思い出の中からなにかを突き破って、立ち現れた。
 ただ、そのかつての林でも、中学生のある年からは、姿を見かけることがなくなった。もはや当時でも、減少しつつある花だったのだろう。
 植物公園から離れ、深大寺周辺をまた抜けて、こんどは神代植物公園水性植物園へ。湧水が湿地を作っていて、気持ちの良い場所だ。アヤメが少し咲いていた。菖蒲園もあり、稲作も行われるようだ。まだ水田に水が張ってあるだけだったが。ああ、田んぼ池だなあと、その水をいとしく思う。

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 今まで知らなかったが、ここに小高い場所があり、そこは深大寺城があったのだとか。空堀と土塁、腰郭などの遺構が残るのみで、緑の山といったところ。今回、そこを登ってみた。この一画に、キンランとギンランが咲いていた。キンランは目立つ黄色なので、目に付いたが、ギンランはなかなか最初、さがせなかった。白くて、キンランよりも小さい姿なのだ。でも、その白さをいったんみつけたら、もうあちこちに。びっくりした。
 これも、父と行った林に生えていたものだ。こちらはキンランを見なくなってもしばらく林で咲いているのを見た。林の下で、一面に咲いていた記憶がある。けれども、キンランもギンランも、ともにあの林で見た以来だ。キンランのほうはおおかた記憶どおりの姿だったが、ギンランのほうは、記憶のなかではもっと緑ががっていた。あの林の色を花びらににじませていたからだろうか。あの林の気配が、この神代植物公園のそれに流れ出す。これらの蘭は、菌根に依存する性質から人工えでは育てにくいことがあり、鉢植えで見たことがない。今はどちらも激減し、絶滅危惧種となっているらしい。ともかく見ることができて良かった。あの林を、そして父を思い出させてくれて。

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 湿地のほうへまた戻る。ヒメウツギが白い花を咲かせていた。名前はよく聞くのだけれど、実は最近まで名前と実際の花が一致しなかったもの。もう、おぼえた。ウツギ。卯木が咲く季節だから卯月。好きな季節、旧暦四月の花だから、ずっと名前とその姿を一致させたかった花のひとつだった。

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 それと、植物公園で、もうひとつ。ナルコユリか、アマドコロか、ホウチャクソウかわからなかった花がけっこうあちこちに咲いていた。どれも、白い釣り鐘状の花を下に向けて咲かせる。うちに帰って調べたら、どうやらホウチャクソウだとわかる。ナルコユリに比べて、つける花の数が少ないのだ。ホウチャクソウ…。記憶のなかでもごっちゃになっていて、このどれかを、やはり父が栽培していた。どれも昭和の話だ。その昭和の終わりに父も病気で死んだ。

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 帰る間際になって、雷の音。いそいで、車に戻ったら、とたんに雨…いや、雹が降ってきた。卯月をすぎ、初夏というより、夏の天気。
 家に帰って、蚕豆をゆでた。今年の初蚕豆。サヤからとりだすとき、残酷なことをしているなあとすこし思う。サヤの裏についた綿のような繊維質が豆を大切に守っている。緑の色たちに会いにいったあとだから、この緑を食したくなった。その日の締めくくりにふさわしいような気がしたのだった。だがというか、やっぱり、茹でた蚕豆はおいしかった。
 令和が始まった。平成をいつかそれでも懐かしく思い出すことがあるのだろうか。緑たちが新鮮だ。
23:45:06 - umikyon - No comments

2019-04-20

しらない緑と、水がやさしい──用水路たち

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 桜は、ほぼ終わり。季節が過ぎてゆく。新緑がつぶつぶとやさしい。わたしは花をつける草の名前はわりと知っているほうだと思うけれど、残念ながら、木の名前をあまり知らない。この新緑の時期、そのことを痛切に感じる。名前がわからないから、木々の新緑、としかいいようがない。花を眺めて、個々の名前をつぶやく。すると花たちと、なにか交流が持てたような気がいつもする。その交流が、木とは……。いや、木たちがつぶつぶとした葉を生やしはじめているのをみて、幸せな気持ちになる。まわりの色がやさしく輝いている。つつまれたような、緑たちの、生のよそおいを、あわく浴びて。そこにも、たぶん交流といったものはあるのだ。ただそれは景色全体として、そうなっているようで、そこにはほとんど名前がない。たまに柳の枝が揺れているなあと思う。桜がすっかり葉桜に…。カエデたちが緑の手のような葉っぱを……。そのぐらいしかわからない。名前がわからなくても、交流できるといえばいえる。けれども、なにか、大切なことを、知らないでいるのではと、つい思ってしまうのだ。
 そういえば、よく名もなき花とかいうけれど、それはすこし違うといつも思ってしまう。名もなき花というのはないのだ。そう呼ぶ人が知らないだけなのだ。わたしが名をしらない木たちが、つぶつぶと、やさしい。

 数日前、早朝バイトが終わったあとに、とある雑誌に載せる記事のための、取材の下調べということで、ひとりで自転車で散策した。下調べなら、散策という言葉はおかしいかもしれないけれど、感覚的にはまるで旅にでも出たような、少なくとも途中からはほぼ自分のための遊びとなっていたので、散策とした。

 企画は、昔このあたりにあった水田のための用水路をめぐる、というもの。このあたりに関していえば、ルートとしては、上流から順に緑道、現在も流れている一級河川、用水路を復元した公園、用水跡という石碑がたっている小さな道、別の一級河川、用水路が名前を変えて小川のようになっていて、親水公園となっている……、そんな感じだ。
 早朝バイトのある所からすぐのところが、最初の緑道になっているので、まず、そこからスタートした。
 バイト先からすぐのところだし、ふだん、素通りしてしまうところだ。ただ、緑道だといわれるとそんなふうに見えてくるのが不思議。緑道は川の岸辺にむかって終わる。まるで用水路が川にそそぐように。

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 その川は、おなじみの川だ。けれども、よくわからないが、今、ここにある川は、かつてと流れ方がだいぶ違っていて、別の場所を蛇行しながら流れていたようだ。そして現在の川が流れているあたりは用水路が流れていたらしい。ちなみにこの難しさは、もう少し下流でも生じる。親水公園となっているあたりには、また別の一級河川があって……、その始まりのあたりが水神橋というのだけれど、その川のほうに、「ここはかつて用水路が流れていました」とある。
 つまり、二つの川と用水路、三つの流れがあるのだが、その流れの、かつてと今の違いがよくわからないのだ。
 このわからなさが(もしかして、昔の用水路の川筋を今の川たちに再利用したということなのかもしれないが)、謎として、心をすこしざわつかせた。
 先走ってしまうが、その水神橋のすぐむこうの下流で、ふたつの川たちは合流する。一方の川に、もう一方が注ぐのだ。そうして数キロ先で、注がれた川も多摩川に合流し、さらに十数キロで羽田の海にそそぐ。
 話をもとにもどそう。最初の緑道から、川へ。その川沿いの岸辺の路もまた緑が多い。川の水も澄んでいる。護岸が自然に近い形で行われているのも目に心地よい。今の季節は菜の花の黄色が鮮やかだ。
 この岸をゆくとすぐに用水路を復元した公園に出る。ここは用水路を復元しただけでなく、水田も復元し、毎年稲作も行われている。わたしの大好きな公園で、かなり頻繁に訪れている。一年三六五日のうち三〇〇日以上は、多分。もうすぐ、そろそろ水を張った田んぼの上に鯉のぼりが泳ぐだろう。水を張った田んぼは池のようになるだろう。今はレンゲ畑になっている。

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 ここで川から水を引いて復元した用水路は、およそ六〇〇メートル。またおなじ川に注ぐ。そう、この公園も用水路もおなじみで、季節ごとにわたしに大切ななにかたちを伝えてくれる場所だ。

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 そこを離れて、また川辺に出て、用水路の跡をめぐる旅へ。ちなみにここから先は、ふだん、家の近くではあるのだけれど、あまり足を踏み入れたことがないので、よけいに旅的な気分を味わったというか、新鮮な驚きが、あちこちにあった。岸辺から、いったん大通りに出たのち、すぐにその通りと平行して走る小道へむかう。ここで用水路跡と書いた石碑を発見した。言われてみれば、下にまだ暗渠となって水が流れているような感じだ。緑道のように流筋がわかるような気がした。

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 その小道をゆくとお寺がある。いつもバスに乗るとき、その名前だけを停留所名として聞いただけのお寺。桜がきれいらしいが、もうすっかり葉桜だ。そういえば小道沿いにもすこし桜並木だったらしいような後が。しらなかった。来年は来てみよう。
 そして、お寺のさらに奥に緑深い場所があった。行ってみると、神社があった(用水路のことは完全に忘れている)。わたしがお正月などに初詣にゆく神社とおなじ氏神様の神社なのだが、こちらは人の気配もなく、さびしい感じだ。けれども、社は小高くなった頂上にあり、年を経た松なども生えていて、なにか古墳のような神聖さを感じた。だから、つい、登ってしまったのだ。登った先から、何が見えるだろうか。川が見えるのではないかしら。思えばいつもそんな期待を抱いてきたような気がする。小高くなった緑深いところを登ると、きっとその向こうに水辺が拡がっている……。子どもの頃から、よく思ったものだった。久しぶりに体験して、懐かしいというよりも、新鮮だった。ちなみに、登り切ったそこから見えるところには、川がない、それは実はわかっていた。もし見えるとすれば、真逆の方角だ。そこに多摩川などが流れているから。案の定、小高い頂上からは住宅地が拡がっているのが見えるばかりだったが、久しぶりに、あの期待を味わうことができて良かった(後日、地図を開いてみたら、近くをべつの川が流れていたのだが、わからなかった)。

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 また、小道のほうに戻って、水神橋へ。ここの川から分水しているような感じで用水路の跡、今は名前を変えた用水路が現われ、約九〇〇メートぐらいが、親水公園となる。この区間は、ほぼ初めて通るところ。この小道自体、あまり通ったことがないのと、今は川と名前が付いているので、用水路跡として認識していなかったのだ。知ったことたちで、新鮮な驚きがわき上がる。そして季節は新緑だ。ちょうどこのあたりは緑も多くなってくる。とくに親水公園になっているところは、多摩川が長い年月をかけてつくった崖の連なり、緑と水が豊かな国分寺崖線下に位置し、親水公園とは別の二つの公園と隣接していることもあって、さらに緑が深くなり、小さな渓谷を想起できるところもある。途中、二カ所、その公園たちから、湧水が注ぐのも見ることができた。だから、この用水路はきれいなのかしらと思う。さきほど、通ってきた復元した用水路も水はきれいだったが。あちらはとりいれた川の水を処理して流しているらしい。稲作に利用するのだから、きれいさは必要なのだろう。いや、それ以前に、川自体が、やはり国分寺崖線上の川で、湧水も注ぎ込む、きれいな川なのだけれど。

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 ともかく、この用水路をどこまでも、追ってゆきたかった。新緑まみれの、昼下がり。木の名前はわからない、だが用水路のかつての名前はわかる。そしてほとんどはじめての場所だった。新鮮なおどろきと新緑。澄んだ水たちが、向こうへどこまでも向こうへ流れてゆく。けれども、きりがないので、親水公園がおわりになるという橋までで、探索をやめた。ここまででも、実はけっこう時間が経っている。わたしは、どうして、こんなに水が好きなのか。わくわくと、まだ後ろ髪がひかれている。興奮冷め止まない。ちなみに、用水路は、江戸時代初期に作られたものらしい。徳川家康が命じて……、まわった用水路や川たちは、ゴミ捨て場になっていたり、下水が流れ込んだり、一時期とても汚くなったりしていたらしい。
 ゆっくりと親水公園を遡る感じで帰り道。ふと、小さな鳥居のある場所に足を踏み入れる。行きのときに気になったのだが素通りしてしまったところ。鳥居のすぐ奥に小さな祠があり、その奥に、小さな流れがあり、また小高くなっている。さきほどよりもさらに古墳のようだなあと思ってしまう。流れが堀のように見えたのだ。この社の名前などがわからなかったので、家に帰ってから調べたら、水神社とあった。だから近くの橋は水神橋というのだと合点がゆく。ちなみにこの小高い緑深いところは、うねうねと先ほどの神社に続いていた。つながっていると思わなかったので、こちらもすこし驚いた。ここちよい、いとしい発見だった。
 記事にするとなると、今回書いたこととは、だいぶ違ったものになるだろう。ただ、記事とは別に、そのときの体験を、小旅行のことを、書いておきたかった。ことばにすることで、なにかたちが、わたしと近づいてくれそうで。緑がやさしい。水がやさしい。

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17:38:31 - umikyon - No comments

2019-04-07

今年の桜は。

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 体調があいかわらず、すこし不調。その間に、風邪もひいたようだ。前回書いてから、今日まで、もう半月になってしまった。三月から四月へ。この期間に、いろいろあった。あたらしい元号が発表になった。桜が三月末から見頃になり、もはやその時期を終えようとしている。
 今年は身体がきついなと思いつつ、例年、桜の頃になると、足を運んでしまう、うちの近く、仙川沿いの桜並木を見に、何回か出かけた。
 何回か書いているけれど、仙川は基本的にコンクリ−トで護岸工事されているので、なんとなく、ものがなしく、桜が咲く頃でないと、ほとんど通らない。もうひとつの近くを流れる川、野川は自然に近いかたちで護岸されているので、こちらはよく通るのだけれど。


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 ともかく、その仙川に毎日のように桜を見に行った。最初は、まだまだだなあと、なかば信じられない面持ちで。なにが信じられなかったのか、毎年、どこか狂想ということば、なのか、狂った、幻想、ということばなのか、どこかがこわれている、日常が平然と非日常になる、そんな違和をも内包した、あたり一面の静かな狂乱に、心がざわめく。その状態にまだなっていないことで、あの得体の知れないような狂の空間になることが、まだ信じられないと思うのだった。だから、憑かれたように桜をみてしまう。そして、一日、一日経つうち、三分咲き、五分咲きと、花が満開に近づいてゆく。そのうちに夢と現実の境にかかる橋として、桜たちは枝をわたす。春が全開でやってきた、その象徴のお祭り、のような。祭りと日々が、共存している、それが春のソメイヨシノといえるかもしれない。信じられなさが、日を追うごとに薄れてゆき、気がつけば、この空間のとりこになっている。

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 場所は仙川沿い、東宝撮影所の近く、成城一丁目付近。この桜に魅せられて、もう十五年ほどになるかもしれない。
 川に桜が映る、護岸された苔むしたあまり綺麗といえない岸辺が、このときばかりは美しくなる。川に映った桜、それに覆い被さるように咲く桜、さらに散り始めてしまうと、桜と川のあいだに花吹雪になって、四方八方、桜だらけになる。この狂をどう表現したらいいのか。
 気がつくと、仙川をぐるぐる回っている。何度も何度も。もういいじゃないかと、どこかで声がする、けれども、同じ場所を、桜たちをみてしまう。みるたびに表情がすこし違うように感じられたのかもしれない。雲の位置が変わる、日差しが翳った、川面に花びらが散った、鳥が着水した、一歩歩いただけで、桜の見え方が変わるというのに、なんと瞬間は永遠なのだろうか。この変幻は、やはり、魔だった。

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 仙川だけでなく、近くのお寺の桜も見に行った。ふたつのお寺。どちらもライトアップされるらしい。ありがたいことだ。
 わたしは朝早い仕事の関係で、夜出歩くことがなく、なかなかライトアップされた桜を見る機会がない。言い忘れていたけれど、仙川の桜も、東宝撮影所の好意というか、無償で数日間ライトアップされている。ある午前中に、照明機材を設置して回っているのをみて、どこか心が微笑んだ記憶があった。

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 ともかく、ライトアップ。四月六日の土曜日のこと、次の日曜日、早朝バイトが休みだったので、家人と、夜ご飯を食べに出かけた。帰りにライトアップされた桜を見ることが出来た。
 何回も昼間や午前中にみていた、立派な桜の木。一本だけだが、大木で、その桜だけで静かな威圧感が感じられる。昼間とはちがう表情。桜自体が夜の中で白く発光しているようにも見える。この桜は、ほんの少しだけ、開花が遅かったので、六日ぐらいだと、ほかの桜は早いものはそろそろ葉桜になりかけているものもあったけれど、ちょうど満開といっていいぐらいだった。ほんのすこしだけ、花びらが散り始めて。

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 話は前後してしまうが、仙川の桜を見た帰り、さらに家の近くの公園の桜も見て回る。野川沿いにあり、野川に面した桜も見応えがあるのだけれど、田んぼが復元されていて、いまはそこにレンゲが咲きはじめているが、その田んぼの用水沿いに何本か桜が植えられていて、それがとくに目当てだった。五日の金曜日だったか、用水にカルガモが泳いでいるのを見つけた。めずらしく桜といっしょに写真に撮ることが出来た。菜の花も咲き、タンポポも咲いている。公園の入口にしだれ桜も何本かあって、そちらはすこし開花時期がずれていて、まだ三分咲き、四分咲きぐらいだったが、次の土曜日に通ったら六分咲きぐらいになっていた。

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 仙川の桜の前や後に、数回、成城学園前の住宅街の桜も見に行った。桜並木となっている場所があるのだ。こちらも綺麗なのだが、下が川ではないからか、それに車も通る道なので、あまり桜に見とれてばかりいられないということなのか、狂というほどではない。だが、せっかくの桜だ。桜がアーチ上になっているところを歩くのは素敵だった。
 そのほか、仙川の桜(ここが標準地点となっているのがおかしい)の後で、世田谷通り沿い、大蔵に向かう坂の桜並木も見に行った。こちらは桜よりも、大蔵三丁目公園の湧水で出来た池が目当てだった。池のまわりに桜はないのだが、花びらが散って澄んだ池面に浮いている。

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 そのほか、こちらは家人と車で通ったのだが、和泉多摩川、狛江の多摩川沿いの桜も。六郷桜通りというらしい。七日の日曜日も通ったが、盛りをすぎた満開といった感じだった。この日はお祭りも開かれていたので、ぎりぎり、桜の見頃と重なってよかったなあと思う。せっかくのお祭りだもの。
 多摩川の土手下で、レジャーシートを敷いてお花見をしている人たちが目立った。お花見といったけれど、ほとんどの人が花を見ていないようだった。にぎやかに飲んだり食べたりを楽しんでいる。それはそれで、桜を愛でている、春を感じている、ということなのだろう。
 そういえば仙川の桜を見に来ている人たちのほとんどが、わたしをふくめて、ただ桜の花を見に来ている。土曜日はちらほら、レジャーシートを敷いて食事をしつつ花見をしている人たちもあったが、それが例外的といっていいほど、桜に足をとめ、眺め、写真を撮っている人たちばかりなのだ。この花を愛でている人ばかり、というのも、わたしが足繁く通う理由の一つになっているかもしれない。

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 五日の金曜日、野川(仙川ではない)の橋の上で、花のついた桜の枝をひろった。子どもが折りでもしたのだろうか。桜がくれた贈り物のような気がして、連れて帰る。いつかも、こんなことがあった。やはり野川近く、田んぼのある公園でだったか。桜の枝をもちながら、公園の桜を見に行った。手折ったのがわたしだと思われないかしらと、いらぬ心配をしながら。
 家に帰ってきて、水切りをしてから、コップに花をいけた。家で小さなお花見。日曜日の七日、コップの桜はだいぶ終わりに近づいてきた。七日の今日は仙川に行かなかったけれど、あの桜ももう、見頃を過ぎただろう。六日の土曜、昨日、彼らにお礼をいった。ありがとう、今年も、花をみせてくれて。野川の桜にも。祭りは終わりに近づいている。微熱がさがらない。

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23:58:00 - umikyon - No comments

2019-03-20

穏やかな田んぼと木琴バード

 ユキヤナギが咲いている。ハナズオウ、エリカ、猫の毛みたいな蕾のハクモクレンも厚みをおびた花を咲かせた。
 梅はおわり、ヒカンザクラがさき、ソメイヨシノも蕾をほころばせている。
 大好きな春だというのに、また少し体調がおもわしくない。仕方ない、ほとんど持病になりつつある、この身体に巣くったものと、付き合っていかなければ。

 三月十六日の土曜日、國學院大學博物館にいってきた。企画展として「神に捧げた刀─神と刀の二千年」(二〇一九年一月二十二日─三月十六日)が開催されていて、その最終日だった。わたしは刀剣にはあまり興味がないので、連れのお供で。けれど、あの常設展示の考古部門が観たかった。この博物館は、縄文土器や土偶、石器類がかなり充実している。
 最後に行ったのはいつだっただろうか。
 二年ぐらい前だったかもしれない。「特別展 火焔型土器のデザインと機能」(國學院大學博物館 二〇一六年十二月十日─二〇一七年二月五日)。それから少しリニューアルしたようだ。若干レイアウトが変わっていて、前回なかったミュージアムショップが出来ていた。それと、テレビなどで紹介された影響なのか、ものすごく混んでいた。観覧料が基本無料という点に変わりはないので、理由はやはりテレビで取り上げられたからなのだろうか。前回も、その前も、ものすごく空いていたので、今回の混雑にびっくりした。
 わたしたちがあらかた見終わったあとで、企画展の、刀剣を間近にみるルートというのが、長蛇の列になったのは、さらに驚きだった。団体がきたようだった。バスツアーとか何かなのだろうか。
 空きすぎていたときは、こんなに空いていていいのだろうかと不安になったけれど、勝手なもので、ここまで混んでしまうと、困ってしまう。ただ、企画展のコーナーだけが混雑していて、常設はそうでもなかったので、わたしとしては落ち着いてみることができたのだが。

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 常設は縄文前期、中期、後期、そして弥生時代、古墳時代と続く。縄文時代の展示は土器、石器、土偶、石棒など。わたしの好きな縄文中期の装飾的な土器たちと再会する。
 石棒(石神)の展示は、石棒を真ん中にして、土偶や土版などをそのまわりに囲むように置いてある。棚がガラスで、下に鏡がはりめぐらされていて、裏面も見ることができるようになっていることも手伝って、万華鏡的に、石棒を中心とした、祈りの宇宙が拡がってみえるのに、心ひかれた。ストーンサークル。
 ミュージアムショップで、土偶と縄文土器の絵ハガキを一枚ずつ購入した。

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 國學院大學博物館、最寄り駅は渋谷だが、地下鉄の表参道駅からも行ける。行きは表参道から、帰りは少し寄り道したので、隣の明治神宮前駅に出た。このあたりは前も書いたが、以前近くに住んでいたこともあって、なじみの場所のはずなのに、ちっとも土地勘が働かない。六本木通り、外苑西通り、表参道、自転車で通っていたというのに、どこも同じように思えてしまい、方角もわからなくなってしまう。かつてよく買い物をしたスーパーマーケットもなくなってしまっていたから、なおさらよそよそしい感じがする。
 明治神宮前駅、というか、原宿に近い表参道のあたりまできて、ようやく知った場所といった感覚がもどってきた。
 葛飾北斎が《富嶽三十六景 穏田の水車》で描いたのが、この付近だったという案内板がこのあたりにあったなあと思ったら、すぐに遭遇した。この道のしたに渋谷川が流れ、田んぼが拡がり、水車があって。だが、ここ表参道には、見事なまでにあとかたもない。息が詰まりそうだ。明治神宮の森まで行けば、一息つけるのかもしれないが、そこにゆくまでもなく、地下にもぐって、電車に乗った。

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 先日、「モッキン・バード・ヒル」という曲を聴いた。曲名だけはなんとなく知っていた。モッキンバードというのは、鳥の鳴き声だけでなく、ピアノや犬の声までもまねる鳥のことで、和名がマネシツグミ。
 アメリカのスタンダード曲で、日本語版でも、みんなの歌などで紹介されているらしい。
 わたしは今まで、「モッキンバード」というのは、「木琴バード」と書いて、木琴のような声で鳴く鳥のことだと思っていた。なら、「木琴鳥」じゃないか、木琴のあとにバードと続くのはおかしいじゃないかというツッコミを自分にすることなく、ずっと。
 今までの自分の思い違いも、なんだか、おかしかったが、まねするのなら、きっと木琴のような声でも鳴くのかもしれないなあとも思った。
 「モッキン・バード・ヒル」は、でも、とてもいい曲だ。今まで聴いたことがなかったけれど、すぐにメロディーを憶えてしまった。
 シジュウカラが遠く、高い空で鳴いている。まもなくウグイスの声も聞こえるだろう。
18:25:01 - umikyon - No comments