Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2006-11-05

角の門の部屋


 ベルギー王立美術館展(九月十二日―十二月十日)に出かけた。開催している国立西洋美術館にも、大原美術館とともに、わたしは愛着を感じているのだった。元々美術館を設立する目的で、造船会社社長松方幸次郎が集めた数千点の絵画。ここまでは大原孫三郎と共通点がある。そして恐慌で大部分が散失、わずかにフランスに残された四百数十点の絵画が、戦後に国立美術館を建てることを条件に返還され、一九五九年に創立、現在、常設館で松方コレクションとしてそれらを観ることができる…。ともあれ、上野駅で降りる。上野公園の緑に入ると、すぐに美術館が見えてくる。西洋美術館はひさしぶりなので、なにかそれだけで、うれしかった。前庭にロダンの《地獄の門》、《カレーの市民》たち…。ここもやさしくむかえいれてくれる場所としてわたしのなかで残っているようだ。
 今回のベルギー…展は、一六、一七世紀フランドル巨匠たちから、象徴主義、シュルレアリストの作品まで、ベルギー四〇〇年の絵画の足跡をたどるもの。実は一六〜一八世紀のものはどうもあまり肌に合わなかったりで、ぼうっと観てしまったのだが、何点か。
 まず目玉のピーテル・ブリューゲル〔父〕(?)《イカロスの墜落》(一六世紀後半)。真偽が疑われている作品であるとか、バベルの塔の崩壊のように、太陽に近づきすぎたイカロスの羽を溶かすことで、人間の奢りを云々…も置いておく。画面の右半分だけあかるい空と海面。太陽は水平線にうっすらと見えている、まるで空と海をつなぐ点のように半円形に。それは、イカロスの羽を溶かした太陽とは無関係のように、穏やかに静かだった。そしてあかるい海面の脇、手前にある船の影のなかに(つまり太陽に近づきすぎて墜ちてきたにもかかわらず、影のなかに)、イカロスの二本の足と飛沫だけが見えるのだった。まるで船から転落しただけのように、羽もみえない。そして他のイカロスを描いた作品にいるはずの、彼の父親であるダイダロスが空に浮かんでいない。つまり、わたしたちには題名をしらなければイカロスとむすびつけにくい絵なのである。当時の人たちには、共有の了解があったのだろう。けれども、この暗示、この喩は圧倒的だとおもった。空が金色なまでにあかるい。そして光と影、光から墜ちてきたのなら、影に結びつくのは当然ではなかったか。画面左下から中央は、海沿いの道が二段になっている。海に近い下段のほうでは、家畜をつれたひとりの男が空を見上げているが、上段のロバに荷をひかせている男は下をむき、淡々と歩いている。下段の家畜たちも、驚いてはいない。イカロスが失墜しても日々は連綿とありつづけるのだ、日常は存在するのだ、そのことに恐ろしいまでになまなましさをかんじた。イカロスの逸話は、可能性への、境界への挑戦として、長らくわたしには想われていた。それもあってショックだった。それでも、日々はありつづけるのだ。
 そしてフェルナン・クノップフ《白、黒、金》(一九〇一年頃)。ヴェールをかぶった女性と、ヒュノプスの白い頭像。頭の横から片羽がみえている。全く同じ構図の《青い翼》なら観たことがあるので、はじめての作品だとは思えなかった。ちがいは頭像の羽が青いか白いかだけである。なつかしさの底から、女性が右を、下に置かれた頭像と左を向いている、その視線のあわなさに、いちまつのさびしさがにじんできた。クノップフの絵は、いつも接合がない。そうしてその裂け目、その分離を際だたせることで、さびしさがにじんでみえるのかもしれない、とふとおもった。彼はひとりだ。ヒュノプスはギリシャ神話で眠りの神。夜の息子、死の弟、夢の父親。ヒュノプスは象牙の門と角の門の番人でもある。象牙の門は、人々を惑わせ、愚かしい思いに誘う虚偽のまぼろしが群をなして通る門、角の門は、予言と霊感の真実の夢が通る門。この門はきっと、とても接しているにちがいない。ぎりぎりの場所でわたしたちはいつもまちがえるから。クノップフの絵に片方だけ羽があるのは、願望が達成されていないかららしいが、角の門のほうだけを見ているからかもしれない。際だった境界から生える角。
 そしてルネ・マグリット《光の帝国》(一九五四年)。今回はこの絵にいちばん惹かれたのだった。
 暗い木に囲まれた湖畔だろうか、白い家の窓から明かりがもれ、すぐ横前に外灯が灯され、それらが夜の水面に反映し、にじんだ光りを溶かしている。そして空は、まったくの昼間なのだった。青空、浮かぶ雲たち。
 絵の説明に、アンドレ・ブルトンのことばとして、むすびつかないものの一致、それを体現した一枚、とあったが、わたしはどうしたのだろう。光たちが昼の夢と夜の夢を結びつけていると思ったのか。象牙の門と角の門。いや、光によって、空と家と水のすべてが睦み合っていると思った、というほうが近い。それは切ないまでに圧倒的にとけあっていた。それはまるで、男と女の、互いの肌すら溶解してしまうような、完全な瞬間の一致だった。むすびつかない一致ならば、それはありえない一致なのだけれども。だから、たぶん、わたしはいたむような感覚にもおそわれたのだ。ありえなさが角の門をくぐっている。けれどもどうしたって目覚めなければいけない、離れなければならない、そのことに。あるいはわたしはその窓のむこうにある部屋に、「見知らぬ館」を、つまり詩の場所を感じたのだ。あの明かりに、角の門をとおってもれだす夢を、たとえばコトバ以前のコトバの凝縮がにじんでいるように思えたのだ。昼の光と夜の光が睦みあい、もとめあう刹那の瞬き、まったき愛撫。象牙の門がいつものように口をあけはじめた。昼は昼になるだろう。まもなく夜が夜だけをつつむだろう。それでもコトバはそっと水に降りるだろう。扉をも照らす外灯、そして空の反映。
 松方コレクションをそして観るのだった。改装後、初めて来たことに気づく。以前より展示作品が格段に多くなったことがうれしい。ルネサンス、バロックを経て、ロセッテイ、ギュスターヴ・モロー、ヴラマンク、ゴーギャン、エルンスト、そしてモネ。モネの作品も以前より多く展示されていた。この《睡蓮》(一九一六年)をはじめて見たおりに、共有の感触がつらぬいたものだった。画家の眼とわたしの眼が水に溶けていたと。今《睡蓮》を前にしても、もはや思い出でしかないが、角の門がちいさな声でささやいているので、声のほうを見やる。そう、今度は同じモネの《陽を浴びるポプラ並木》(一八九一年)に、《光の帝国》で感じた接合の感触を、そしてかつての《睡蓮》の共有をわたしは感じたのだった。まっすぐのびたポプラが、川面に反映している。ポプラをとおして、空と水が結ばれている。一致たち。そう、それでも、わたしはこうした刹那にまた会うことができるのだ。夜の息子、死の弟、夢の父親、角の門。それでも、それだけが、目覚めて後も絶対的に残るものなのだ。正午の灯りがともる部屋、痛みとともに。何度でも。

写真:ルネ・マグリット《光の帝国》

posted at 00:01:00 on 2006-11-05 by umikyon - Category: General

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