Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2018-12-05

好きと苦手、仕事と楽しみと日々、そのはざまで (湧水たち)

null

 秋が長らく苦手だったと、書いただろうか、たぶん書いているだろう。ここ何年かで苦手意識はだいぶなくなってきたけれど、好きな季節といわれれば、やはり春。花が少なくなってくる季節、葉が落ちる季節、秋が苦手だった。そして寒い、陽射しに力がなくなる冬になる。咲いている花はほとんどない。それが心まで寒くなるようで。
 秋の紅葉も、終わりへむかってのお祭りのようで、どこか寂しい。色づいた葉が落ちてゆく。秋も冬も苦手だ。はやく春になればいい、そうずっと、思ってきた。
 ここ何年か、と書いたが、もはや十数年かけて、なのかもしれない。すこしずつ、ゆっくり、紅葉を、うつくしいと思えるようになってきた。夕暮れのような、最後のかがやき。そして太陽がまた昇るように、葉も次の年には、また鮮やかな緑をつけるだろう。

null

 土曜日、早朝バイトがおわってから、仕事をかねて、湧水のある公園、おもに二カ所、回ってきた。取材というか、まあ、そんなこと。そちらは、どこかで書くから、置いておいて。
 二つともはじめてゆく場所。両者はずいぶん近い。間に美術館をはさんで、おなじ道沿いにある。もとは続いた緑だったのかもしれない。
 道にそって川が流れている。かつては田んぼの用水だったとか。出かけた公園とは別に親水公園として整備されている。
 春でも使える写真を撮りたかったので、それが少々気がかりだった。自転車で出かけたら、いきなりの木々の緑というか、紅葉あるいは黄葉。見事だなあと思う反面、心配になった。だが、水辺だけを撮す分にはなんとかなるかもしれない。これらの間で、ゆれうごく自分の心が妙だとおもった。紅葉をみたい気持ちと、紅葉をのけて、春っぽさを仕事のために、もとめている自分と。
 どこかから写真は借りてこられるかもしれないので、そこまで気にしなくともいいのだけれど。

null

null

 最初に訪れた公園は、柿が熟した木、湧水を元にした池、古民家などが、やさしかった。井戸ポンプもあった。飲み水にはできないが、今も現役らしい。そういえば、わたしが子供の頃にも、うちに井戸ポンプがあった。こことは離れているが同じ世田谷区内だ。じつは世田谷というか、今住んでいるうちの近所でも、井戸ポンプがあちこちにある。古くなって使えなさそうなものもあるけれど、実際に新設して使えるものも。ある時、ポンプをうらやましそうに眺めていたら、実際に水を出してくれた方がいた。「飲めないんですけどね〜」と微笑んで。そんなことをふと思い出す。井戸水に出合うたび、心がさわぐのだった。
 美術館の緑地をすぎて…というか、どこからどこまでが美術館のものなのか、実はよくわからなかった。秋の森たちは、狭間を曖昧にしている。親水公園もそうだ。親水公園なのか、別の公園なのか。川沿いに進んで、次の公園へ。どちらも崖というか、高低差があるところに作られているが、こちらのほうが、その差を生かした庭園という感じなので、その視点からは趣があった。山にいるような錯覚。思いがけず湧水地点も見ることができた。この湧水地点の写真だけは使えるかも、とやはり胸算用し、それで安心したのか、秋の景色、色づいたモミジたちに心惹かれる。

null
null

 それと、ここには昭和初期に建てられた家が保存されている。建物の中も見学できるので入ってみた。建物は高台に建っているので、庭の緑が俯瞰できる。こちらの窓から、あちらから…少しずつ趣が変わって、家から見るための庭でもあるのだなと、あらためて気づかされる。

null


 最初に訪れた公園だったか、付近の地図に、もうひとつ小さな湧水がある公園があると書いてあったので、いってみる。だが、簡単にしか地図を見なかったので、道に迷った。スマホで調べても載っていない。見回すと、高台の坂道と坂道の間の小さな三角地帯、ひときわ紅葉が目立つ場所がある。たぶんあそこだろう。やっぱりだった。けれども工事中だった。公園予定地なのだろうか。スマホで検索できなかったのは、そのせいかもしれない。立ち入り禁止の外側から、おおよそのものは見ることができた。紅葉、黄葉している木々の下に、木の散策路、橋があり、そこに流れ、湧水たちが。

 こちらは、もはや記事としては使えないので、かえって存分に秋として、景色を眺めた。小さな水と木の三角地帯。

null

 そうして、通り過ぎてきた美術館の入口近くで、銀杏が色づいていたのを確認したので、そこも立ち寄った。もはや取材は関係ない。プライベートだ。いや、もともとプライベートも仕事もかなり稀薄なのだけれど…。どちらもわたしの好きや、書くことに関係しているから。
 銀杏って、こんなにまぶしかったかしら。みあげる空に、あざやかな黄色がよく似合っていた。あまりに似合いすぎていて、目にしみるほどだった。太陽の色。
 帰り道、また親水公園や、最初にいった公園を通る。行きとは違う風景だと思う。モミジの赤が鮮やかだ。そう、自転車で家からほんの少しの場所なのだ。来たことがなかったけれど。よく通る道から一本入っただけなのに、今通っている道もはじめて通った。その日は土曜だと書いた。次の日の日曜日は、週一回の休み。仕事と遊び。日常と非日常。境目は曖昧なのかもしれない。そういえば、秋と書いているけれど、もう冬なのかしら。十二月。それでも、やはり、秋を味わえてよかったなあと、思うのだった。

null

 そうして、また数日後、日曜を過ぎての平日、早朝バイトが終わってから、もう一カ所、公園をみにいった。こちらは、前出の公園たちと違い、何度か訪れたことがある。
 だが、公園というか、崖下のへりに流れがあって、それだけを公園の外から見る感じで訪れただけだったので、せっかくだから、公園の中も入ってみようと思ったのだった。いや、実は崖下の流れのほうから入れるのかどうか、心配でもあった。別の入り口があるのではなかったかしらと。たとえば崖の上からとか。
 この公園はかなりひろい運動公園でもあって、崖下の流れのある場所だけ、すみっこで親水園として、流れにそって、ひっそりとあるので、そちらのほうから行くのではなかったかと。
 さて、出かけてみたら、崖をのぼる道は、いきなりあった。というか数本あった。わたしは今まで何を見てきたのか。流れしか見ていなかったのだ。
 いちばん端、来たところから一番近い道をのぼった。ちょっとした山道のよう。登ったところは木々に囲まれ、あずまや、古くから祀られてきたらしい小さな神社、フィールドアスレチック用の遊具などがあった。のぼりきってしまうと、奥行きは案外なかった。すぐに道になって。けれども、木々が多いのであまりそれは感じられない。崖の上から、下のいつもの流れを見ることができた。新鮮だった。流れのすぐ向こうに仙川という川が流れている。湧水たちは、おそらくここに注ぐのだろう。

null

 崖を降りて、また流れにそって歩いてみた。初めて訪れたときから、湧水なんだろうなと、調べもしないで、思っていたのだが、それを示す看板があったのを今回はじめて気づいたた。本当に今まで、下の流れしか見てこなかったのだろう。看板には、「この流れは「自然の湧水」です」とあった。うれしくなった。勝手にそうなんだろうなと思っていたことが、裏打ちされたようで。
 わたしは湧水という言葉にどうしてこんなに惹かれるのだろうか。この親水園では、湧水地点はわからなかったが、こちらもまた出かけてみてよかった。崖の上にのぼって、知らない景色に出合った。あたらしい発見があった。こちらは紅葉、黄葉がみごとな木々はなかった。けれども、斜面では、落ち葉たちが足元で踏む度にかさかさと、心地よかった。まだ平日、週もはじまったばかり。仕事と遊びのはざまで。使えないであろう古い井戸ポンプが置いてある家をとおりすぎた。しらない鳥が鳴いた。もはや秋ではない、冬なのだろう。



posted at 00:01:00 on 2018-12-05 by umikyon - Category: General

Comments

No comments yet

Add Comments

:

:
: