Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2019-02-05

えにしと住んでいる場所たち。赤塚へ。(板橋区立郷土資料館)

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 どうやって見つけたのだろうか。ネットの検索で、板橋区立郷土資料館で「再発見!いたばしの遺跡〜いたばしの旧石器時代・縄文時代〜」(平成三十一年一月十九日─三月二十四日)という催しがあるということを開催のだいぶ前、おそらく去年知った。会期中なら比較的簡単に見つけられるけれど、その前だと、ちょっと引っかかりにくい。会期前の後日もう一度試してみたが、なかなか探し出せなかった。縁があったのだろうか。見つけることができてよかった。
 板橋区立郷土資料館は、赤塚城跡、赤塚溜池公園に隣接している。赤塚はかつてわたしが住んでいた街でもある。自分のことなのに、大雑把にいってしまうが、十年ほど前、十年ぐらい住んでいたのではなかったか。
 特に近くにある赤塚植物園は、毎週のように出かけていた。だが、郷土資料館のあるあたりは、数えるほどしか訪れたことがない。郷土資料館にいたっては一回入ったぐらいではなかったか。あの頃から縄文などに興味があればなあと、また思う。縄文時代に興味を持ったのは、ちょうど赤塚を引っ越した直後だった。けれども、まだ行けるような場所にいるうちで、よかったとも思う。
 ともかく、二月になってすぐ、比較的陽射しで暖かく感じられるある日に出かけてきた。
 うちからだと、千代田線・副都心線の地下鉄ルートが便利だ。この副都心線は、赤塚にいる最後の頃に出来た比較的新しい路線で、今回、電車に乗っていても途中駅までは、あまりなじみが無いことが、すこしおかしかった。北参道、東新宿、雑司ヶ谷…。なじみのある場所に行くのになあと。池袋を過ぎたら、なつかしい駅名が続く。千川、小竹向原、平和台を過ぎたら地下鉄赤塚。
 あちらがわの出口が、わたしが家に帰るのに使っていたほうだなあと、感慨にふけりながら、逆の出口へ。郷土資料館までは、実は二キロ以上ある。途中の植物園に行くのにも、自転車でしか行ったことがない。徒歩で行くということは、すなわち、もはやここの住人ではないということなんだなと思う。それでもいつもみたいに地図を確かめたりすることがないから、ゆかりがある場所、ともいえるのだけれど。
 ほぼ十年ぶりなので、店などは変わっていたところもあったけれど、全体的な印象としてはあまり変わっていない。今住んでいる場所と、どこか似ているなあと思う。比較的緑が残っているからか。それもあるけれど、周りに高い建物がないからだろう。
 愛猫のべべのかかりつけの病院があった。もう危篤状態です。こちらではもはやなす術がありませんといわれるまで、通っていた…。すこし思い出すのがつらかった。もう十年以上前なのに。けれども、こうしたことも含めて、受け入れなければならないのだろう。この病院へ来るとき、今歩いている大通りからではなく、暗渠となった川の上を自転車を走らせてきていたのだった。その緑道も確認する。

 東京大仏の近くの大仏蕎麦のお店。かつて、なぜかわたしの案内で、赤塚植物園、東京大仏を巡る句会を開いたことがあり、その昼食をたべたところでもあった。案内の電話番号、以前は〇三がなかったが、今はちゃんと市外局番から始まっている。変わったのはそれだけだ。いや、それが変わったということなのだろうか。おいしかったなあ。
 大仏蕎麦の近く、郷土資料館にゆく前に、途中にある赤塚植物園へ。毎週のように行っていたなあと思っていたが、考えてみたら二月のこんな時期には、訪れたことがない。花が少ない季節だから。けれども、絶対に寄ろうと決めていた。大切な場所だった。

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 入ってみると、たしかに花が少なかった。まだ梅も咲いていない。睡蓮池がむきだしといった感じで、冷たげな水を湛えている。はいってすぐに、赤い実が目についた。ピラカンサスに似ているなあと思ったらヒマラヤトキワサンザシとあった、花のような赤。咲いているのは、福寿草、水仙、椿ぐらいだった。けれども、黄色い福寿草が、地面に鮮やかだった、そして、案内板で現在見頃のものとして提示されていた、タラヨウの赤い実。
 タラヨウというのは葉っぱの裏に傷をつけて字を書くことができる樹木で、その縁で郵便局の木にもなっているもの。葉書の語源という説もある…ということは知っていた、というか、ある詩人の方に教えてもらっていたのだが、赤い実がなることは知らなかった。タラヨウの実は、さきほど見たヒマラヤトキワサンザシほど派手さはないが、赤さが奥ゆかしいようで、やさしかった。冬にともった小さなぬくもり。

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 ニリンソウはまだ芽すら見つからなかったが、板橋の花だったなあと、姿を思い浮かべながら、植物園を後にし、今度は不動の滝へ。不動の滝公園となっているが、通りから見ることができるところだけのぞいた。わたしが住んでいた頃から、水量が少ないと思っていたが、それ以上に少なくなっていた気がする。今住んでいるところの近くにもやはり不動の滝(喜多見不動)がある。不動の滝つながりなのかしらと、ふとくっつけてみる。そういえば、植物園でもらった「みずみどり」という小冊子に、荒川と武蔵野台地との間の高低差、崖下から染み出る湧水のことが書いてあった。うちの近くの国分寺崖線とおんなじだ。川の近くの崖下というのは、湧水が染み出るところなのだなと、あらためて思う。
 だいぶ寄り道してしまったが、いよいよ板橋区立郷土資料館へ。隣接した板橋区立美術館は、工事中で閉鎖している。溜池では釣りをする人たちが見えた。
 池のほとりの建物が、目当てのところだ。こんな素敵な場所だったのか。

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 HPなどから、企画展の概要を。
 「私たちが暮らしている“いたばし”には、いつから人がいたのでしょうか? 南関東では、およそ四万年前の生活の跡が最も古い時代と考えられ、西台後藤田遺跡では、同最古級の資料が見つかっています。この他にも、岩宿遺跡に次ぐ国内で二例目の発掘調査事例となった茂呂遺跡など、旧石器時代を研究するうえで重要な遺跡が数多く調査されてきました。また、旧石器時代に続く縄文時代でも、一時縄文時代最古とされた稲荷台式をはじめ、縄文時代前期の標識資料とされた四枚畑式など、考古学的に知られる遺跡が数多く存在しています。更に、四葉地区の遺跡では居住内貝塚と共にイノシシを模したと考えられる獣面把手や縄文土器が出土しています。こうした旧石器時代と縄文時代の遺跡や出土資料から得ることのできる情報を元に、区における人の生活の始まりとその内容について紹介します。」

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 そのほか、縄文後期では小豆沢貝塚、赤塚城址貝塚などがあったとか。特に赤塚城址貝塚は、この郷土資料館の隣接地だ。赤塚と名のつく場所に、貝塚があったなんて…。
 つい、展示品も、赤塚のものに目がいってしまう。ほぼ完全な姿で残っている土偶、注口のある土器、堀之内式土器…。そのほか四葉地区の遺跡からの出土の土器が充実していたと思う。
 また縄文土器たちを見ることができたなあと、会場内で思う。大雑把なことを書いてしまうが、多摩地区のもの、石神井で見たものと、見た目というか、印象が似ている気がする。石神井は、隣の区だし、近くだから、そうかもしれない。時代もなにも、考えなしに書いてしまうが、派手さがあまりない。けれども、しっくりとくる。なじみやすいといえばいいのか。おだやかに、時の向こうから、よりそうように、土器たちがそこにあった。
 企画展の会場内では写真撮影が禁止されていたので、常設展の縄文コーナーで写真を撮った。

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 そのあとで、中庭に移築保存されている、古民家へ。旧田中家住宅という。江戸時代後期の建物だとか。こちらも、現在の家の近くの次太夫堀公園民家園などの建物を思い浮かべてしまう。そういえば、うちも崖下にあたるけれど、崖のうえは、縄文の遺跡があったのだっけ…。
 ということで、名残惜しかったが、貝塚があったという赤塚城跡のほうへ。美術館の南側の山を登る感じ。ここは桜がきれいだったり、さらに南にゆくと梅林があったりするので、その時期に来たことがあった。もっとも桜の時期は、赤塚のここではなく、川越街道をはさんで、練馬区にある光が丘公園にいっていたので、あまり来たことがなかった。梅祭りも開催されていたので、梅林に何回か来たことがあったのだった。
 そんなところに、貝塚が…。ただ遺跡を示す碑の類いがないので、どこなのかわからない。持ってきていたガイドブック(『武蔵野の遺跡を歩く』)に東北斜面と書いてあったが、ガイドブックの地図をみると、逆のかんじだ。しばらくうろちょろして、要領を得ないまま、もしかして…と思えるところを、写真に撮った。あとで家に帰って郷土資料館でもらってきた企画展のチラシをみると、小さく「旧板橋区史より 赤塚城址貝塚」という地図が載っていて、そこについている印で、ようやく貝塚の跡がわかった。もしかして…と思えたところ、そして、古民家にいったときに見上げた斜面、このあたり、なんだか遺跡っぽいなあと思ったあたりが、それだったので、ちょっとうれしくなった。

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 赤塚の駅についたのが午後一時近く。貝塚を探している時は、午後三時すぎ。だいぶ西に日が傾いていた。
 帰りは、また赤塚の駅のほうへ歩きはじめたのだが、早朝バイトをしてきてのことでもあって、けっこう疲れていた。バス停があったので、ふと時刻表をみると三十分に一本ぐらいの本数なのに、まさに今が到着時刻だった。正確には一分前。もう出たのかな、そしたらしょうがないと、思案していたらバスがきたので、つい乗ってしまった。行く先は赤塚ではなく、ひとつ向こうの成増駅。成増は住んでいた頃から隣駅だったが、そんなに頻繁に訪れたことがないので、バスの走る道も、知らないところだった。帰りも赤塚を通って、感慨にふけりたいなと思ったが、まあ、しかたない。成増駅についた。ここも考えてみれば、久しぶりの場所だ。おいしく頂いた回転寿司の店がまだある。
 副都心線から千代田線、千代田線直通の小田急線へ。途中『縄文時代の歴史』(山田康弘著、講談社現代新書)を読む。郷土資料館で、さきほどみたばかりの製塩土器についての記述があって驚いた。海水を煮て塩を作る土器。塩をつくることに特化している、文様がまったく描かれていない土器なので、つい素通りしてしまったのだが、ここでこの記述に出会ったことが、やはりえにしのようで、うれしかった。
 小田急線で自宅最寄り駅に降りる。この崖上のあたりにも縄文の遺跡があったのだ、そしてうちのある崖下は、海だったのだ…。近くを流れる仙川の貝層断面を、こちらは世田谷区立郷土資料館でみたことがあったっけ…。そんなことを思いながら自転車をこいだ。自転車に乗っている場所が、現在住んでいる場所なのだ、かつて赤塚がそうだったように。もう夕焼け、いや日が落ちたのだろう。暮れ残った西の空に富士山が見える。ここが今のわたしの住むところ。

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posted at 00:01:00 on 2019-02-05 by umikyon - Category: General

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