Suigara-yama_OoazaHyo(Kyoko_Umino)

2019-08-15

異質たちの混在。縄文時代をよむ、ことができるかしら町田市民文学館ことばらんど

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 立秋も過ぎたけれど、今年の夏は始まりが遅かったので、まだ夏本番のようだ。残暑という感じがしない。
 立秋の日の翌日の夕方、国分寺崖線にあたる坂を自転車で通ったとき、ヒグラシの声を聞いた。今年初めてのカナカナ。坂の両側は斜面に残った少しの林、そして湧水。
 ヒグラシの声を聞くと、夏なのだなと実感する。
 どこで見つけたのだろうか。最近訪れた博物館などではなかったから、ネット検索などでだったのだろう。町田市の町田市民文学館ことばらんどというところで「縄文土器をよむ 文字のない時代からのメッセージ」(二〇一九年七月二〇日─九月二三日)という企画展を開催していると知ったので、出かけてきた。

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 町田市では、町田国際版画美術館、町田市立博物館にいったことがある。だが、町田市立博物館は今年の六月に閉館してしまったとのこと。出かけたことのある場所が閉館というのは少しさびしい。
 今回の町田市民文学館ことばらんどでの展示に、市立博物館所蔵のものも一部出品されているらしい。あとの展示はおそらく町田市考古資料室のものなのだろう。
 この施設は行ったことがなかった。文学館の展示ということで、申し訳ないが、あまり期待していなかった。入場料も無料なので、簡易的な展示だと思っていたのだ。
 電車で一人で行こうかと思ったが、暑さに負けて車で連れて行ってもらった。近くの駐車場に止めて、歩く。最初、裏口に行ってしまったりして、すこし迷ったが、表に回るとレンガ造りの建物が、やさしい印象だ。レンガは土系の色合いのせいだろうか、なんとなく落ち着く。一階は資料閲覧など、二階で企画展が行われていた。
 二階にあがってみて、びっくり。入口から見ただけでも、縄文土器などが、多く出品されているのがわかった。最初に町田市教育委員会の「ごあいさつ」のパネルがあり、章立てもされて、かなり本格的な展示、企画展、うれしい驚き、ごめんなさいだった。
 チラシやHPなどから。これは「ごあいさつ」の文章をつめたものといった感じ。
 「町田市には、一〇〇〇カ所以上の遺跡があり、特に縄文時代の発掘資料は全国でも有数の質と量を誇ります。近年、縄文土器の個性的な造形が注目されており、町田からもそのような資料がたくさん発見されています。
 土器はもともと調理道具ですが、なぜ縄文土器には過剰なまでに装飾が加えられたのでしょうか。文字がなかった縄文時代ですが、きっと土器のカタチには縄文人が強く表現したかった何かがあったはずです。この展示では、縄文人が土器の形にどのようなメッセージを込めたのか、いわば町田で最古のことばが何であったかを探ります。
 あわせて、町田を代表する縄文資料もたくさんご紹介いたします。数千年前、実際にこの地域でつくられ、使われていたものから、町田にあった素晴らしい縄文文化を感じてください。」

 展覧会は、ことばらんどで扱うから、最古のことば、文字のなかった時代の土器が土偶に、ことばを見出そうとするという、一環した、テーマにそったものとなっている。
 展示は三部構成、一部は「縄文時代の表現」。そのなかでも章立てされ、最初は「縄文土器の装飾」。はいってすぐに、惹かれている系列の縄文土器があった。縄文中期(約五三〇〇年前)の深鉢で忠生遺跡B地区(根岸町)。キャプションには「頭にヘビを乗せた想像上の動物?精霊?」とあったが、どうなのだろう。正面といっていいのかわからないが、それっぽいとして、顔のようなものとうねうねとしたヘビっぽいものが複雑にからみあっている。後ろはヘビの尾のようにも見えるが、やはりそう断言してはこぼれてしまうものたちがあまりにも多い装飾がほどこされている。
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 わたしが惹かれている系列と書いたのは、二〇一八年に東京国立博物館の縄文展で見た《顔面取手付釣手土器》(長野県伊那市御殿場遺跡出土、縄文時代中期)や、『縄文聖地巡礼』(坂本龍一・中沢新一、(株)木楽社、二〇一〇年)に載っていた《人面香炉形土器》(曽利遺跡出土、縄文時代中期、井戸尻考古館蔵)だ。表がおだやかな女性らしい姿で、裏がたくさんのヘビがうごめいているような怖さがあり、表と裏で趣がまったく違うもの。なのにひとつの土器として破綻なく、凝縮の存在としてそこにある……。
 どこかでも引用したが、好きな言葉なので、また前掲書から。「縄文の人たちは、美人を見ても、同時にその後ろに蛇を見る感覚をもっていた(中沢)」。
 今回見た深鉢はそれほど明確に裏と表で分かれてはいないが、異質なものたちが混在しているという点では同質だと感じた。静と動、昼と夜、死と生……。分離しないものたちが、土器のなかでうごめいている。

 「縄文時代の表現」のパネルに、「なぜ、縄文人はムダともおもえる装飾や模様を土器や土偶、石器などにつけたのでしょうか」とあった。たしかにコトバ的な要素がそこにあったのだろう。けれどもコトバ以上のものたちが、そこにはあった。文字がなかったからこそ、文字以上のもの、表現がエネルギーをときはなち、土器や土偶に凝縮していった。それはコトバ以上のなにかなのだ。
 日常で使ったであろう土器が、なぜあんなに装飾的なのか、なぜ惹かれるのだろうと、ながらく自分にも問いかけていた。
 それだけではないだろうけれど(断定のコトバからは何かがこぼれてしまうから)、ひとつには、異質たちが混在しているように、日常に非日常的なものが混在している、その在り方に惹かれているのではなかったか。
 展覧会では、このあと、土器や土偶の展示が続き、装飾について考察されている。ヘビやイノシシ、トリの顔、数字の概念、植物、幾何学的模様……。どれも解説のコトバとしてしまうとそうかしら?と思うものもあったが、土器や土偶としては、しみるものが多かった。
 ところで、個人的なことを。縄文関係の展示などで、よく勝坂式土器ということばを眼にしていた。加曽利式土器のような、時代や場所、特徴を表わす分類の一つなのだろうなと思っていた。そのとおりなのだが、「勝坂式と呼ばれる中期(約五〇〇〇年前)の土器には、動物や植物をモチーフにしたものや、円形、三角形、方形、渦巻など幾何学的なものも多くみられます」とパネルにあった。
 あとでウィキペディアを見たら、「関東地方及び中部地方の縄文時代中期前半の土器型式名もしくは様式名」で、「隆帯で楕円形を繰り返す文様など通時的な変化を追えるものもあるが、器全体を豪壮、雄大な造形で表現することに特色があり、動物、人物などの顔面把手、蛇を模した把手などがつけられる土器は特徴的である」とあった。
 わたしが惹かれる系列のものたちは、勝坂式のものが多かったのだ。

 展覧会は、このあと第二部として「縄文時代の暮らし」へと移る。復元された敷石住居跡の展示があったことに驚いた。忠生遺跡D地区の中期(約四五〇〇年前)の実物大レプリカ。敷石住居とは、解説によると「中期の終わりごろから出現する床に石を敷いた竪穴住居」のことだとか。背景画(森山哲和氏とあった)があり、住居内として、縄文人二人が生活する様子が描かれているのが、より想像をかきたてられた。

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 そして「食べる」「祈る」「着る・飾る」と章が続き、三部目は「土器から見る町田の縄文時代」として、草創期から晩期までの縄文土器の変遷がわかるものとなっていた。
 わたしは勝手な素人だから、装飾的な中期から後期のものがやっぱりいいなあと見ていた。。

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 ここで、町田市の縄文キャラクター「まっくう」の元となった土偶の頭の展示があった。この土偶は閉館した町田市立博物館の展示で見たことがある。「まちだ今昔展─時空を超えた対話 縄文ムラと商都」(二〇一八年七月一四日─九月一七日)。去年の九月だったのか。数年前のような気がしていたが。「中空土偶頭部」(田端東遺跡出土、縄文後期(三四〇〇年前))。国宝の北海道函館の「中空土偶」と顔も造りが類似していて、あちらの愛称が出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」によって「茅空(かっくう)」にちなみ、町田の「まっくう」と称している。
 再会したことがうれしかった。この土偶が出土されたのが、東京都指定史跡の田端環状積石遺構というストーンサークルのすぐ近くなので、この場所での祭祀と関係があったのではと解説にあった。

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 この展覧会は、写真撮影が可ということなので、一通り展覧会を見てまわったのち、二巡目に写真を撮った。展覧会の図録のようなものがなかったので、その代わりといった気持ちが大きかった。出品されているものの他に、案内やキャプションまで。写真を撮ることは本来あまり好きではなかったが、こうした撮り方はありかしらと今更思った。
 名残惜しかったが、次の場所へ。ここから車だと、やはり去年訪れた、市立博物館の隣の東京都指定史跡の本町田遺跡が近いのだ。
 前回は電車で一人で行ったが、道を間違えたことを憶えている。今回は車だったが、連れがこんな道を行くのかと、ほそい坂道をナビで案内されたことに驚いていたのが、なんとなくおかしかった。このあたりはわかりにくいのだ。坂をのぼって、降りて、また登って…、坂下に川があった。恩田川とある。縄文人は水のあるところの近くに住んだ。そして坂の上に、最初に博物館。まだ閉館したばかりなので、建物は残っている。いずれは解体してしまうのだとか。去年、閉館前に、展示が見ることができて、それでも良かったと思う。
 博物館を過ぎてすぐ、というかほとんど隣接して本町田遺跡。縄文時代と弥生時代、両方の住居が発見、復元された貴重な遺跡だ。復元された住居が縄文、弥生、それぞれ一つ、あとは住居址として場所が固められている。

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 去年訪れたときは、ツルボが咲いていたなあと思い出す。九月だからまだ暑かっただろうに、暑さはそれほど記憶にない。今回はものすごい暑さ、それよりも、陽射しが強い。午後四時を回っているのに。
 その折も書いたが、竪穴式住居の違いはほとんどわからない。縄文時代のものは丸太そのまま、弥生時代は木材の加工が見られるそうだ。
 両方とも中に入ることができる。弥生時代のものは、ライトがあったが、縄文時代のものは、なかった。だが天井に明かりとりとして開いているところがあり、さして暗いと思わなかった。扉がないから、入口から陽が差し込んでいるし。どちらも定期的に燻されているのだろう。すこし香りがした。それに外は暑かったが、中は存外涼しい。

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 また来ることができて良かった。
 帰り道に、鶴見川を通った。そうだった、先に見た恩田川とこの鶴見川が、縄文時代の人々にとって大事な水の供給源だったのだったっけ。
 日が暮れるのが、夏至の頃から比べると幾分早くなった。多摩川を過ぎて、野川を過ぎて、また国分寺崖線下を通る。この坂上も縄文時代や古墳時代の遺跡があったのだと、いつものとおり思う。
 家に帰って、近くの農家から買った枝豆をまたゆでて頂く。まだ、というべきか。夏の間、数軒で枝豆が売っているのだが、もう売っているのは一軒だけだ。これもまもなく終わるのだろう。立秋すぎても暑い。けれども、こんなふうに秋になってゆくのだろう。


posted at 00:01:00 on 2019-08-15 by umikyon - Category: General

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