Minami-hatoba_1(Shirouyasu_Suzuki)

2010-12-30

長田典子詩集『清潔な獣』の感想

 送って戴いた詩集を手に取ってパラパラと捲って、ページが活字でぎっしり埋まっているのを目にして、閉じたまま時間が経ってしまった。どうも散文になじめない。131頁の詩集の作品は全部で10編、その殆どの作品が行分けで書かれた部分より散文で書かれた部分の方が多く、行分けの2頁で終わる詩は最初の「蛇行」だけで、後の9編の詩は、短い詩で6頁、長い詩になると18頁に及ぶ長編なのだ。それらの詩の外観からして気楽には読めないという気がしたのだった。それから日が経って、Webで作者の長田典子さんのMixiの日記を見ているうちに、どうやら近々ニューヨークに行って長期滞在するらしいことが分かって、行かれる前に読んだ感想を伝えようという気になり、再び手に取って読んだのだった。
 一気に読むというわけにはいかなかったけれど、全部の詩を読んで、特異な人物が登場する話として面白かったと言えば面白かったが、これらの作品をどう受け止めるかというところでまた迷った。というのは、詩の言葉の主体が作者自身と受け止められるのは行分け21行で書かれた「蛇行」だけで、他の詩は言葉の主体としては虚構の人物が設定されていて、その人物の内面の独白というか自分を語るという形で詩が展開して行くというように書かれているから、作品を成り立たせている言葉を直接作者に結びつけて受け止めることができないように感じたのだった。とすると、その言葉は人物の言葉として、作者がその人物になりきって書くとき、その人物になりきるということと、その人物の持つ意味合いが問題になるが、小説や戯曲であれば、その人物と他の人物との関係や運命から作者がその人物に持たせている意味合いが語り出されてくるが、この詩の場合は人物が語る言葉だけが書かれているので、そこが曖昧になってなってしまうのだ。従って、作者は単に自分が人物になって言葉を楽しむために書いているようにさえ感じられてしまうのだ。読者であるわたしはおいてきぼりにされた感じになってしまう。
 この詩集の栞に川口晴美さんは「この詩集のように明らかに作者でないキャラクターの語りで、しかも散文詩形だと、これは小説ではないかと考える読者もいるかもしれない。だが、これはまぎれもなく詩だ」と書いている。それは「ストーリーを語るために言葉がつかわれているのではなく、痛みとともに生み落とされた言葉の連なりに牽引されてストーリー(のようなもの)がぼんやりあらわれてくる。たどっていくと見えてくるのはキャラクターたちの葛藤や成長ではなく、ただその存在の内側に巣食った卵としての言葉が作者によって次々と孵されていく気配だ」ということなのだ。つまり、作者が人物になりきるのは、その存在の内側に巣食った卵としての言葉を孵す気配を感じさせるためであり、それが詩だというわけだ。「卵としての言葉を孵す気配を感じさせるのが詩だ」といわれてみると、なるほどそうかと頷いてしまう。しかしそうかなと、ここでわたしの考えは一旦止まる。
 川口さんの「卵としての言葉」という言い方は、詩集の最初の詩「蛇行」の「蛇か わたしは 蛇なのだ」と蛇になった「わたし」が「歪んだ湖面から発破音の響く場所へ/瓦礫の隙間へ/わたしの卵を産み付けに行く」という詩句から来ている。この詩について、川口さんは「過去を孕んだ『わたし』はその全身で現在に触れることによって卵としての言葉を生み、それによってまた過去を引き寄せる。そして、現在を生きながら生み落とした言葉を、壊れ失われてしまった過去へ届けようとする」と書いている。つまり、卵としての言葉は「わたし」の過去から生まれ、過去に返されるというわけだ。言い換えると、「蛇行」という詩は、作者が朝食で卵を割った時から出勤途上にかけてダムの湖底に沈んだ村の記憶の断片を思い起こして、疎外された自らの本性を自覚するところを言葉にしたという作品だ。そこで「卵を産み付けに行く」と語られていることの意味合いは、ダムにされて失われた生まれ育った土地と重なる本来の自己を取り戻すということのように考えられる。この「蛇行」に呼応した作品「湖」にはダムの湖底に沈んだ村出身で、ドメスチックバイオレンスを受けている男から逃れられない女の死を意識した悲痛な独白が綴られているが、その独白の中で自分の来歴を語りながら、「落ち着いて。/わたしは逃げたの逃げ果たせたんだよ。」という言葉が繰り返されて語られる。ここに作者の長田典子が自分で創りだした人物たちに乗り移って言葉を語る構造があるように思える。現在の自分の有り様を言葉にして、そこからすり抜けるという構造だ。語られる言葉としての現在がそこにあり、人物たちはそれぞれの現在を生きている存在となる。そこで言葉を書く作者と言葉で語る人物とが重なるわけである。つまり、その言葉の主体性が問題になる。
 この詩集には「蛇行」の他に「また来てね」「いったい1」「いったい㈼」「夢の坂道」「いったい㈼」「カゲロウ」「世界の果てでは雨が降っている」「湖」「モスコーミュール」の9編の詩が収められていて、それぞれの詩は、作者が創りだした人物の自分を語るいわば「心の叫び」としての言葉が書かれている。その人物たちとはどういう人たちなのかというと、「また来てね」の人物は、67階のホテルの大きなベッドで、自分を抱き寄せて幸せに感じさせてくれる誰でもよい男を待って、一人で自分の誕生日を祝って去り際に「また来てね」の言葉を残して行く中年の女性であり、「いったい1」と「いったい㈼」の人物は、学校の私服解禁日にブランドもののファッションを身につけて行き、張り合っているクラスメートに当てつけてやりたいという思いで、そのブランドものを買うために、テッシュペーパーの立ち売りのアルバイトをするが、騙されてアルバイト代を貰えず(「いったい1」)、男に身体を触らせて金を稼ぐ風俗の店でアルバイトをする羽目になる(「いったい㈼」)乳房の小さい少女であり、「7:54」の人物は、自分が飼っているハムスターが飲み会で一夜帰らなかった時、凍えて硬くなっていたのを炬燵で温めたら生き返って回転車を走って回すようになったを見て、その仮死して生き返る姿を、自分を振ったミカという女性のストーカーをしている自分に重ねて、彼女が乗る電車の発車時間の7時54分に駅に向かっていく男であり、「夢の坂道」の人物は、藁の懐かしい匂いの男に引かれて男の部屋に入り、抱かれ、毳立った気分になって男の縫いぐるみの熊の籾殻を散らし、男の農業の学術書を散らかし、湖底に沈んだ自分の村のあの人を思い出し、男の言いなりになる女であり、「カゲロウ」の人物は、子どもに与える物はすべて消毒すという病的な潔癖性の母に育てられて他人との接触を強度に嫌うようなって、人の吐く息が充満する電車や人混みに行くときは他人が3センチ以内に入って来ないぶかぶかの動物などの着ぐるみを着て外出する程の人嫌いだが、ブランドを着たがっている女に自分との共通点を感じて、彼女の後をつけ回した末に路上で背中をカッターナイフで切りつけて、「オマエの血液は清潔な水辺の匂いがする/オマエの血液に触れると俺も清潔な獣になれるんだ」とほざく男であり、「世界の果てでは雨が降っている」の人物は、母親から鍵を預かるのを忘れて家には入れないで、自分が訳の分からないことを口にしたり、思ったように動けなかったりするのは、自分のお腹の中にいる駱駝さんが自分を運転していると思い込んで、雨の降る日に、おじさんという者に性的な悪戯されても愛情を感じ、一緒に「月の砂漠」を歌うランドセルを背負った小学校の女生徒であり、「湖」の人物は、男の暴力を受けながら、その度にそれに耐えるように湖畔で見た溺死体に話しかける、自分の村がダム湖の湖底に沈んでしまった女であり、それから最後の「モスコーミュール」の人物は、モスクワでピアノのレッスンを受けているが、不揃いな八分音符しか弾けずに先生にいつも叱られて、やがてその不揃いの八分音符が自分の故郷の言葉のせいだと自覚するターニャという名の女性なのだ。
 これらの人物たちは言ってみれば思い込みによる一方的なコミュニケーションを持つことによってぎりぎりに生きている人たちだ。そういう人たちの自分語りを、読者を予定した作品に書くということは、その人たちの存在のあり方を読者と共有することによって、ある意味では、作者自身も含めて個人を疎外している社会のあり方を告発していると受け止めることも出来る。序詩のように置かれた「蛇行」から察しられるところでは、その告発と彼ら彼女らに通じる自分の気持ちも込めて、これらの詩は書かれたものと思われる。そこのところを川口さんは「長田典子は、世間的に言えばさまざまなイタイ存在に憑依し、自らの記憶や傷と触れあったところから、詩を書き出している」と説明している。
 わたしにとっての問題点は、この「さまざまなイタイ存在に憑依し」というところにある。確かに長田典子の詩として言葉を語っている人物たちは、思い込みでぎりぎりに自分を支えているというところで「イタイ存在」に違いない。そういう人たちに長田典子は憑依して、彼ら彼女らの言葉を書いたというのであれば、長田典子の言葉ではなくなる。つまり、確かに長田典子が書いた言葉であるには違いないが、長田典子は表現者でない彼ら彼女らになり切ることによって、自分が主体となって表現者として生きる現在を逃れてしまったのではないだろうか。これらの詩として書かれた彼ら彼女らの自分語りのことばが小説の中の人物の語りの言葉であるなら、意味合いが全く違ってくると思う。人物たちは作者の対象になり、読者に向けられた「その告発と彼ら彼女らに通じる作者自身の気持ち」を表す存在になるからだ。
 では、長田典子はこれらの人物が登場する小説を書けばよかったのかというと、そうではない。多分書かれた小説は風俗小説なってしまって、「その存在の内側に巣食った卵としての言葉が作者によって次々と孵されていく気配だ」というところはなくなってしまうに違いない。ここが問題点として微妙なところだ。
 結論として、長田典子さんはこれらの詩を書くことで、創造した人物になり切るという仕方で、沢山の言葉を夢中になって書くことが出来る鉱脈を見つけて、詩の言葉の主体のあり方の問題点を提起したということですね。わたしとしてはその人物たちを自分語りから要約するのに結構手間取って、そこに長田さんの言葉に込めた粘り強さを感じたのでした。
 

posted at 18:28:37 on 2010-12-30 by shirouyasu - Category: General

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