伝説    会田綱雄
       (1914〜1990)

  湖から
  蟹が這いあがってくると
  わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
  山をこえて
  市場の
  石ころだらけの道に立つ

  蟹を食う人もあるのだ

  縄につるされ
  毛の生えた十本の脚で
  空を掻きむしりながら
  蟹は銭になり
  わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
  山をこえて
  湖のほとりにかえる

  ここは
  草も枯れ
  風はつめたく
  わたしたちの小屋は灯をともさぬ

  くらやみのなかでわたくしたちは
  わたくしたちのちちははの思い出を
  くりかえし
  くりかえし
  わたくしたちのこどもにつたえる
  わたくしたちのちちははも
  わたくしたちのように
  この湖の蟹をとらえ
  あの山をこえ
  ひとにぎりの米と塩をもちかえり
  わたくしたちのために
  熱いお粥をたいてくれたのだった

  わたくしたちはやがてまた
  わたくしたちのちちははのように
  痩せほそったちいさなからだを
  かるく
  かるく
  湖にすてにゆくだろう
  そしてわたくしたちのぬけがらを
  蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
  むかし
  わたくしたちのちちははのぬけがらを
  あとかたもなく食いつくしたように

  それはわたくしたちのねがいである
  こどもたちが寝いると
  わたくしたちは小屋をぬけだし
  湖に舟をうかべる
  湖の上はうすあかるく
  わたくしたちはふるえながら
  やさしく
  くるしく
  むつびあう

――『鹹湖』(1957年 緑書房刊)より。――

生きているものたちは等しく、そしてやさしく、互いの生命を食い合いながら生きているのだろう。
この作品(会田綱雄は「詩」ではないと言う。)を、貧しく、心やさしい人間たちの哀しい生命の連鎖、あるいは美しい生命の原風景として読むことも許されているだろうと思う。初めてこの詩に出会ったときのわたくしはそのようにして受け止めた。そしてこの作品をそれからのわたくしの詩作の道標とした。今もその想いはかわらない。
しかし、リルケの言葉「詩は体験である。」を引用しながら、会田綱雄はこの詩の背景となった時代の状況と、人間たちについてこのように語っている。
1940年の冬、25歳の会田綱雄は志願して、軍属として南京特務機関に入った。そこには、1937年冬の「南京大虐殺」を目撃した人間が何人かいて、その生々しい思い出話を聞くことになる。その後で「戦争のあった年にとれる蟹は大変おいしい。」という話があった。それは日本人が言うのではなく、占領され、虐殺された側の民衆の間の、ひとつの口承としてあるのだと。しかし彼が南京にいる間に、付き合った中国人が蟹を食べる姿を見たこともなく、市場でも見ることはなかった。
1942年特務機関から開放されて、上海に行った会田綱雄は、友人と居酒屋通りを歩きながら、そこで蟹売りに初めて出会った。友人は、生きたままの蟹を縄でしばってもらい、それを吊るして居酒屋に入り、そこで茹でてもらって、酒を飲みながら共に蟹を食べた。その蟹は大きくおいしかった。しかし会田綱雄は「南京の蟹」の話はその友人にはしなかったと。
戦中の中国大陸で、無残に死んでいった人々、そして出会った人々、その人々が会田綱雄に落としていった大きな影、深いうらみ、不思議な懐かしさ、友情、それらのすべてがこの作品のなかに統合されたという。
そしてこの作品は、時間の流れと共に、読者のなかにある無意識の共同性のなかにおいて、おそらくは「伝説」という詩になっていったのだと思う。


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