石の歌   新井豊美
      1935〜2012 

  
   コノ雨ノナカ
   岸ニ腰ヲオロシテジックリト
   石ガ歌イダスノヲ待ツベキカ
   ソレトモヒトオモイニコノ石ヲ
   水ニ沈メテ
   立チ去ルベキカ

   あなたの潔癖な手が灰色の雲をぬぐってゆく
   磨かれた朝の廊下に陽がこぼれる
   それは長い日々のあいだのなんでもない
   しずかな朝がもたらした恩寵の一刻
   かたくなな石の口がふとひらいて このいちにちが
   澄んだ声で歌いだし するとわたしのなかの
   仮死の小魚が尾鰭をピクピクと動かしはじめる
   天候とか 気分とか 風向きとか
   解けてみれば愛とはそのように平凡なもの
   あれからわたしたちはつれだって流れをくだり
   流れはいつか花野の中に迷い込み
   はんの木の下の青い澱みで わたしたちは
   もつれあい戯れあい

   だがそんなことが真実あったのだろうか
   母よ こころは変容しやすい関係の物質で
   凍った雪に陽がさせばうっとりとしたり
   溶けたものがまた堅く凍りついたり
   過剰にぬぐい去るあなたの手があなたの頬をぬぐい
   うすい胸や汗ばんだ首筋をぬぐい
   わたしたちの昼と夜をぬぐいとって
   あなた自身をわたしの目から完全に消しおえたときから
   わたしは敗北という宿命の幸福に身をゆだね
   まっしろな「消滅の場」となることを夢見て日を数え
   こうしていつまでも
   つめたい石を抱きつづけるのだろうか

   六月の緑が苦しくせめぎあい
   流れに沿って灰色月の行列がどこまでもつづくいまは
   あの花野も金色の鯉が戯れていた澱みも
   木の下に置き忘れてきたわたしたちの明るい鏡も
   水かさの下に息をひそめ泥の中でけだるく蹲っているが
   それでもふるい歌の一節をあきもせず反復している
   あれは老いたローレライの声だから
   石の思いは石のもの
   失うことこそ他者のはじまり
   濡れそぼる岸を捨て踵を返して立ち去りさえすればよい

   するとわたしはすでにわたしではなく
   わたしは失われ
   (わたし)はもうどこにも存在しないので
   あの日のようにふたたび愛の時が巡ってくれば
   水になり
   魚になり
   たちのぼる蚊柱の蚊の一匹になり
   橋になり

   ソノゼンタイニナッテミル
   ソレシカ モウ
   アイシカタガワカラナイカラ

――『切断と接続』2001年・思潮社刊 より――

読み終わってから、ふと気付いたのだが、新井豊美の詩の構造は「交錯」ではないかと思う。硬質な言葉と、非常に原初的で女性的なしなやかな言葉との交錯、あるいは背筋を伸ばしてとても美しい後姿を見せていた言葉と、振り向きざまにこぼしてしまったような危うい言葉との交錯のようなもの。もう一つの「交錯」は内なる母性の潔癖性と、そこからはみ出してしまう豊饒な女性性との交錯と言えばいいだろうか?
これらの「交錯」が新井豊美の詩を、美しく危うい詩構造の完成へと向かわせているように思う。不思議な詩である。それゆえに惹かれる。
この新井豊美の詩の特性は、彼女の詩の出発点が「青春期」ではなく「母」になってからということもあるいは作用しているかもしれない。

第一連の片仮名の詩行は、ローレライに託された詩人の心の逡巡であろう。そして最終連の片仮名の詩行は、おおらかに投げ出された愛の方法である。
その二つの連は大きく変転している、その迷宮の案内役として中間部があるようだ。

   天候とか 気分とか 風向きとか
   解けてみれば愛とはそのように平凡なもの

   それでもふるい歌の一節をあきもせず反復している
   あれは老いたローレライの声だから
   石の思いは石のもの

気にかかることはここにだけ「母」が登場する。これは内なる「母」と「母上」との双方の意味に受け止める。互いにうなずきあう相手として「母」が呼び出される?あるいは「ゆるしあう者同士」としてか?そして「決別する者」としての母でもあるだろう。

   母よ こころは変容しやすい関係の物質で
   凍った雪に陽がさせばうっとりとしたり
   溶けたものがまた堅く凍りついたり

詩人はこのように「愛」への思いをさまざまな角度から、幾度も幾度も検証する。そしてこの最終連が引き出された。実はこの最終行がわたくしをこの詩に立ち止まらせた「理由」なのです。この三行は震える思いで読みました。そしてわたくしは涙ぐんだりもしたのです。 

   ソノゼンタイニナッテミル
   ソレシカ モウ
   アイシカタガワカラナイカラ


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