悲しめる友よ    永瀬清子
             (1906〜1995)


悲しめる友よ
女性は男性よりさきに死んではいけない。
男性より一日でもあとに残って、挫折する彼を見送り、またそれを被わなければならない。
男性がひとりあとへ残ったならば誰が十字架からおろし埋葬するであろうか。
聖書にあるとおり女性はその時必要であり、それが女性の大きな仕事だから、あとへ残って悲しむ女性は、女性の本当の仕事をしているのだ。
だから女性は男より弱い者であるとか、理性的でないとか、世間を知らない
とか、さまざまに考えられているが、女性自身はそれにつりこまれる事はない。
これらの事はどこの田舎の老婆も知っていることであり、女子大学で教えないだけなのだ。

――『短章集・2・流れる髪・1977年思潮社刊』より――

この短章の背景にはキリスト教的な「男尊女卑」の考え方がないとは言えないだろう。しかし、永瀬清子が友へ伝えたかったことはもっと原初的なものではないかと思う。わたくしは元来「男女平等」とか、「フェミニズム」とか、「ジェンダー」とか、そういう類の言葉は好きではない。男性が女性に勝るものがあるとすれば、たかだか「腕力」くらいなものだと常々思っているからだ。あとの問題は「性差」にすぎない。互いの性を取り替えることはできないのだから、女性であるがゆえのもっとも豊かな特性をもって、この詩のように生きることはできないものか?わたくしの母よりも遠い世代にいらした詩人永瀬清子のこの詩を「母の教え」のように大切に抱きつづけてきました。

これらの事はどこの田舎の老婆も知っていることであり、女子大学で教えないだけなのだ。

わたしはある方から、頻繁に忠告されている「詩の作法」があります。それは「知性を表に出すな。詩はあらゆる知性をうしろに押しやってのち、感性のみで書け。」というのです。わたしにはもともと知性なんてないよー。
亡くなった詩人吉原幸子の「偲ぶ会」の折、吉原幸子の豊島高校時代の恩師であった詩人の那珂太郎が「献杯」の挨拶の前に言った言葉が忘れられない。「吉原幸子という詩人は、あふれる知性をすべてうしろに追いやって、感性だけで詩を書いたひとだった。」と。同じ言葉に出会った。

この詩は「愛するひと」を失った女性の友人に向けられたメッセージの形となっていますが、おそらくご自身に向かって言い聞かせているのかもしれません。
言い換えれば、愛するものよりも一日でも長く生きて、そのひとの枕辺に寄り添い、見守り、そして見送らない限り死ぬことは断じてならぬという、女性の愛の決意なのでしょう。


前ページ     次ページ


『愛の詩』を読む 目次に戻るHaizara net(top page)Shimirin's HomePageUrokocitySiteMap