みなもと   谷川俊太郎
            (1931〜)


   からだがからだにひかれて
   こころはずっとおくれてついてくるのだ
   はだとはだがふれあって
   ことばはもっとあとからかたられる
   うつくしいもみにくいもない
   ただそれだけのことを
   太古から人間はくりかえしてきた
   たそがれのへやのうすくらがりに
   あせがひかりいきがにおい
   あたらしいいのちのはじまりのために
   ちかうべきなにごともない
   その無言にいま
   しずかにまぎれこんでくるおんがく
   群衆のような弦楽器たち
   予言のような管楽器たち
   ふたりをひきさくこころとことばの
   あまりにもはやすぎるさきぶれとして

――『うつむく青年』 1971年。サンリオ出版刊 より――

詩人谷川俊太郎の膨大な作品をすべて読んだという方がいらしたら、お目にかかりたいものだ。この方の全集を作ることは一大事業となるだろう。彼の膨大な詩の仕事には溜息が出る。エリオットは作品「荒地」のサブ・タイトルに「わたしにまさる言葉の匠、エズラ・パウンドのために」と記している。わたくしはこの「匠」という言葉を、谷川俊太郎に捧げたい。

この詩に出会った時、ふと思い出した短歌がある。

  愛などと言はず抱きあふ原人を好色と呼ばぬ山河のありき (春日井建)

どうも、わたくしは「連想ゲーム」が好きなようだ。わが悪癖に苦笑せざるをえない。自分の作品ではないものを紹介しながら、実はわたくし自身が炙りだされる結果になるのだろうということに、もうすでに気付きはじめている。怖いことを始めてしまったものだ。後悔先に立たず。

チベットの山奥のある村には「寂しい」という言葉がないそうだ。人間が初めて発した「言葉」はなんだろう?おそらく「愛」でも「寂しい」でもない。「からだ」でも「こころ」でもない。生命への危機感に関する言葉ではないかと考える。闇の怖さ、命がけの狩猟の怖さ、食料を入手できない時のひもじさなど……。「死」の恐怖はなかったと思う。それは生誕と同じくらい自然な出来事だったのではないかと思うからだ。初めの言葉、それは「こわい」だったのではないかとわたくしは勝手に推測している。「寂しさ」とは人間が集落を失った後の、かなり進んだ文明の言葉ではないだろうか。

さらに、もう一つ「連想ゲーム」をやってしまおう。辻征夫の詩「春の問題」から、数行紹介します。前述したことの証言者になっていただくために。

どだいおれに恐龍なんかが/殺せるわけがないじゃないか ちきしょう/などと原始語でつぶやき/石斧や 棍棒などにちらと眼をやり/膝をかかえてかんがえこむ/そんな男もいたろうか  (詩集・隅田川まで より)

   ふたりをひきさくこころとことばの
   あまりにもはやすぎるさきぶれとして

この谷川の詩は、「言葉」がやって来る前の「おと」の世界なのだろうと思う。言い換えればこの詩の世界は「母音」の世界なのではないだろうか?この詩に書かれたすべてのことが「寂しさ」という言葉のさきぶれなのではないか?


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