月経――アウシュヴィッツによせて    野田寿子
                         (1927〜)

    ―そこだけは
   いつもじぶんがいるというかくれがを
   おんなはもっている

   そこにいけば
   つかれたてあしに血がのぼり
   とおいはじめや とおいゆくてが
   じぶんのまんなかにつらぬいて
   よみがえってくるばしょを
   おんなは みんなもっている

   そこにいるときは
   めにはみえないおんなというおんなが
   かさなりひびきあうのを
   からだじゅうでかんじている

   けれども だれひとり
   口にだしてはいわない

   そこにとどいた根は
   けっしてかれることがない
   そこにはだれもふみこめない――

  扉をしめたその時
  すべては終ったと思ったにちがいない
  彼等ナチスの親衛隊ら

  何回めかのガス炉おくりを終えて
  オフィスマンのひけどきよろしく
  明るい食卓をおもいうかべたか
  彼等ヨーロッパの死刑執行人らが

  ナンバー一、二、三、百、千、万
  髪 肉 皮 骨 あぶら
  のたうち 焦げ とける瞬間になお
  まはだかの女達のももを伝っていた月経を
  見つめていた眼をごぞんじか
  おみごとな合理主義者ども

    ―せかいじゅうのおんなたちが
   ひそかな自分のばしょからみつめていた
   
    さからいつづけ
   ゆたかなままで息たえた月経を

   まっ白な眼をあげ おんなたちは息をのむ
   “なんと!むすこだ
   自分たちをねらうのは“
   
    わかれて久しいむすこたち
   むすこは母を忘れた
   むすこはしらない
   かつてかれらにつながり かれらを守った
   ひそかな母の場所を
   おんなたちが生きるおくふかい場所を

   おんなだけのかくれがだったのか
   ここは……

   せかいじゅうのおんなは
    ガス炉に流れる月経をみつめ
   じりじりとたちあがる――

  きこえるか
  狩り場のまんなかを歩いてくる女達の足音が

  灼けはてた土地にさまよう息子を呼びながら
  創られた姿そのままに歩きだした女たち

  むすこたちをうばいかえすのだ
  息絶えた月経を かれらにそそぎこむのだ

  そこにしか女はいない
  自分をとりもどしに行く女たちに
  もうかくれがはない

――『黄色いてつかぶと・1962年・地球社刊』より――

野田寿子は、大学卒業後に結核のため帰郷し、福岡県立高校の教師となる。教師をしながら〈女〉〈母〉〈子ども〉の視点から詩作をつづける。この作品は、真壁仁編『詩の中にめざめる日本』(1966年・岩波新書刊)に採録されて有名になった。

わたしは、「愛の詩」を書きはじめた時には、さらに「声」を書くであろう自分について想像すらしていなかった。この詩は「愛の詩」として用意しておいた作品である。しかし「声」に収録するにふさわしい作品だったではないか。すでに「愛の詩」に収録している作品のなかにも「声」に移したい作品はある。根底にあるテーマは同じだったのですね。

「戦争」をするのはいつでも男たちだった。それに翻弄された女たちの肉体の深奥から発した「怒りの声」がこの詩を産んだのだと思います。いつの時代にも、おんなたちは「戦争」に殺されるためのむすこ達を産んだ覚えはない。


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