生ましめんかな――原子爆弾秘話――   栗原貞子
                                  (1913年・広島市生まれ)

 
  こわれたビルデングの地下室の夜だった。
  原子爆弾の負傷者たちは
  ローソク一本ない暗い地下室を
  うずめて、いっぱいだった。
  生ぐさい血の臭い、死臭。
  汗くさい人いきれ、うめきごえ。
  その中から不思議な声がきこえて来た。
  「赤ん坊が生まれる」と言うのだ。
  この地獄の底のような地下室で
  今、若い女が産気づいているのだ。
  マッチ一本ないくらがりで
  どうしたらいいのだろう
  人々は自分の痛みを忘れて気づかった。
  と、「私が産婆です。わたしが生ませましょう」
  と言ったのは
  さっきまでうめいていた重傷者だ。
  かくてくらがりの地獄の底で
  新しい生命は生まれた。
  かくてあかつきを待たず産婆は
  血まみれのまま死んだ。
  生ましめんかな
  生ましめんかな
  己が命捨つとも

――『栗原貞子詩歌集・1946年8月・中国文化連盟叢書』より――

1945年8月6日、米軍機は広島に原爆投下、その直後に一つのちいさないのちが産まれた。これは実話である。産婆の名は「三好ウメノ」、このあたらしいいのちの誕生の直後に亡くなっています。この話を伝え聞いた栗原貞子がこの作品を書いているのです。

栗原貞子は18歳のとき、アナキストで準禁治産者である栗原唯一と、両親の猛反対を押し切って結婚、この夫の影響を受けて、戦争の虚妄と残虐を見つめつづけることとなる。
夫の唯一は軍属として上海に行っている。ここで気付くことだが、内地にいて日本軍部の片手落ちの情報に翻弄され、「日本の勝利」を信じさせられた多くの人々との違いである。中国大陸に渡り、日本軍人の残虐行為を自らの目で見た人々、あるいは、過酷な現実を思いしらされた満蒙開拓団の人々たちは、いつか訪れるであろう「日本の夢の崩壊」をはやくから感じとっていたのではないか、と思えてならない。
栗原貞子はそれ以後「ヒロシマ」にこだわりつづけた詩人であり、歌人である。


【訃報】

栗原貞子さんは、2005年3月6日午後8時15分、広島市安佐南区長束3の22の1の自宅で死去いたしました。92歳でした。


前ページ     次ページ


声 「非戦」を読む 目次に戻るHaizara net(top page)Shimirin's HomePageUrokocitySiteMap