私の終戦日記  早川照雄(My father)
            (1910〜1997・福島県生まれ)

 早川照雄はわたくしの父です。かつての東京物理学校(現・東京理科大学)卒業後に北満へ渡り、哈尓浜日本中学校の教師となりました。1939年に内地から母を迎え、哈尓浜市で所帯を持ち、3人の娘に恵まれました。その末娘がわたくしです。この日記は、哈尓浜日本中学校の教え子であり、同校の同窓会報の編集を長く担当されていらしたH氏の要請により、1992年に書かれたものです。
 「(徳)部隊」とは「関東軍731部隊」のことです。父の日記では、この部隊に召集で入隊したことになっていますが、召集以前、まだ教師として在職中にも、「長期出張」という名目で、父はこの部隊に呼ばれて、研究に参加しています。それを何故書かなかったのかは、わたくしにはわかりません。またこの部隊解散の折には、隊にいた者全員には「青酸カリ」が渡され、部隊の機密の公開を余儀なくされた時には、それで「死ね。」ということでした。この「青酸カリ」はかつての「帝銀事件」に使われたものと同じものでした。以下、父の日記です。


【奇妙な「(徳)部隊」】

 私が終戦を知ったのは1945年8月20日の朝、朝鮮の釜山埠頭であった。当時なぜ釜山にいたのか、それを知ってもらうために私の過去を語らねばならない。
 1945年5月、私は召集で孫呉の111部隊に入隊したが、初年兵教育もそこそこに「(徳)部隊」(仮称)に転属を命じられた。ところが、不思議なことに部隊内の誰もが「(徳)部隊」の所在を知らず途方にくれた。やむをえず新京の軍事司令部にいってきいてみようということになり孫呉駅から列車の人となった。しばらくすると、突然私の名を呼ぶ人がいるので、ひょっと顔を上げると、なんとそれは哈尓浜日本中学校のT先生(国漢担当)だった。彼も私と同じ二等兵で、しかも行き先も同じだったので一緒に新京へいった。さっそく司令部を訪ね「(徳)部隊」の所在をたしかめたら「それは哈尓浜だ。」といわれ、またぞろ逆もどりしてやっと「(徳)部隊」にたどりついた。
 この部隊は最初から非戦闘部隊として組織されたもので、将校は学者、その他は軍属という一風変った編成であった。彼らは同一兵営内に家族とともに住み、どうみても軍隊らしくない軍隊であった。
 そこへわれわれ25人の兵隊が転属していった。われわれ転属兵は、シャバに家族を残して入隊したもので、ほとんどが技術者、技能者又は理科系大学の出身者だった。数日後、各人はそれぞれ専門の部署に配属されたが、私は確率統計(推計学)の研究部門にまわされ、ここで与えられた課題の研究に専念した。

 1945年8月13日、部隊は突如朝鮮へ移動することになった。理由は新しくできた研究庁舎で特殊な仕事をするためということだった。さっそく取るものも取りあえず引込線に用意された貨車に乗りこんだ。ところが、いるはずの隊員やその家族は一人もおらず、結局はわれわれ転属兵の「専用列車」と相成った。「おかしいナー」と思う間もなく列車は朝鮮に向かって哈尓浜を離れた。道中、食料も水も金もないので列車が停車するたびにその調達に忙しかった。普通なら一昼夜で行くところを5日もかかってやっと釜山に着いた。途中でわかったことだが、部隊は秘密保持のため研究員とその家族に資料、器材、器具を持たせて帰国させようとしたようである。

 【妻子を求めて逆戻り―まずは新京まで】

 私達25人中18人は家族が内地にいたので、迎えにきた「特別船」でサッサと帰国していった。「渡りに舟」とはこのことで、世の中にはこんな幸運な人もいる。しかし残りの7人は家族が満州にいたので、いまきた道を戻らなければならなかった。8月22日私とT先生は、わずかな食料を手に、家族の安否を気づかいながら、ひとまず釜山から安東に向かって旅立った。
 安東へ着いたのが2日後の8月24日。満州では鉄道が円滑に動いていないので、これから先はまったく五里霧中。食料も金も寝る所もない。そこで安東高女を訪ねて相談した。親切な女の先生のお蔭で寄宿舎で食事をし、在満教務部安東支部で700円の手当をもらい、さらに国民学校の教頭先生のお宅で列車の出るまでご厄介になることにした。
 だが、ありがたいことにその翌日、新京行きの列車に恵まれ、安東駅から満人にまじって乗りこんだ。そのあとは急に疲れが出て眠気に襲われ夢うつつのうちに新京に着いた。(8月26日)
 新京以遠は、ソ連軍が列車の運行を支配していたので、新京に留まって様子をみることにした。それにはまず寝場所と食料をどうするかだ。だが幸いにもT先生は哈尓浜日本中学校にくる前、新京の国民学校に在職しておられたので、その教え子の父親の家に転がりこみ、哈尓浜行きの軍用列車を待つことにした。機会をつかむのに1ヶ月半かかったが、その間中京軍の使役や土工をやりながら糊口をしのいだ。
 哈尓浜行きの軍用列車を待つこと1ヶ月余、さすがの私も家族のことが気になり、次第に焦燥の色濃くしていった。出征のとき校長や諸先生が「家族のことは心配するな。学校の方で面倒みるから」といわれたものの、実際はどうなっているか、この目で確かめねば不安は去らない。これが「人間」というものだ。

 【ソ連軍用列車に密乗計画】

 当時のソ連軍は旧満州鉄道の貨車を総動員して在満の物資や資材を根こそぎシベリヤへ持ち去っていた。そんな貨物列車を毎日見ていると「あの貨車にもぐりこもうか」という気持になる。だが人間の乗る余地もないし、第一ソ連軍の警戒が厳しくて近寄ることさえできない。しかし家族のことを思うと、そんなこともいっておれず、思いきって新京駅機関区の日本人機関士に相談してみた。すると「わかりました。チャンスがあれば連絡しましょう。」といってくれた。だが待てど暮らせど連絡はなかった。
 そんなある日、市内で哈尓浜日本中学校卒業生のK君(当時旅順師範生)ともう1人の卒業生(名前忘却)に会った。彼らもまた哈尓浜の両親のもとへ帰る途中で、私と同様に哈尓浜行きの軍用列車を待っていた。そこで4人は行動を共にすることにし、連絡場所を決めて別れた。

 【新京から徳恵へ】

 それから1週間後新京機関区から、10月14日夜7時にくるようにという連絡があった。4人はそろって機関区に行き、日本人機関士の誘導で機関車後部の石炭車にもぐりこんだ。これで途中何事もなければいいなアと祈りながら汽車の揺れに身をまかせた。
 それから何時間たっただろうか。汽車が止まった。外は暗くてなにも見えないが、なにやらあたりが騒々しくなった。この貨物列車には私達のほかに、大勢の満人たちも乗っていたので、それを狙ってソ連兵が「臨検」をかけたようである。やたらと自動小銃をふりまわすので満人たちはおそれおののいて逃げまわった。私も危険を感じたので石炭車から飛び下り、線路際の土手に身を伏せた。しばらくしてそォーと顔を上げると、まわりには誰もおらず私1人だった。「しまった!」と思う間もなく汽車が動きだしたので、あわててとび乗ろうと思ったが、警戒がきびしく乗車できなかった。やむなく駅の方へ歩いていくと、薄暗い電灯の下に「徳恵」という駅名がみえた。
 夜が明けて10月15日の朝、あちこちから満人たちが駅の待合室に集まり20人くらいになった。彼らも私と同じく自動小銃でおどされた連中らしく、次の列車を待っていた。誰とはなしにみんなが駅長に「通過する次の列車を徐行させてくれ。」と頼んだら、駅長はこれを了解してくれた。そこでみんな三々五々に散らばり列車の通過を待った。この計画は図に当たり私は見事無蓋車に飛び乗った。貨車を吹き抜ける初冬の風は身にしみて冷たかったが、安心したせいか、いつしか眠りこんでしまった。

 【徳恵―陶頼昭―拉林河―五家―哈尓浜】

 急停車する列車の音に目をさますと、そこは「陶頼昭」という駅だった。ここでまた自動小銃でおどかされるのかとビクビクしていたら、こんどは雑役風の露スケが回ってきた。彼は私に近寄り「乗せてやるから金を出せ。出さなければ降りろ。」という仕草をした。私はあきらめて満人の方に目をやると、その満人が指2本をだすので、すかさず10円札2枚を満人に渡した。その満人は他の者から集めた金と一緒にして露スケに献上した。露スケはニッコリ笑って立ち去った。(やれやれ、これで第二関門通過だ。それにしても20円の通関料は安い。)と思った。列車はその夜「陶頼昭」を後にした。
 翌朝10月16日、太陽の光で目を覚ますと、朋友たち(いつの間にか朋友になった。)は饅頭(マントウ)を食べていた。私が目をあけたらマントウを1つくれた。「謝々」といって口にいれたら、おなかがすいていたので本当においしかった。人の情けというものは民族が違っていても変わるものではないナーとつくづく感じた。
 太陽が中天にきたころ、また列車が止まった。あたりの様子をそォーと見ると、警備が厳しく数人の部下を連れたソ連の将校が次々と車内をあらためている。今までとちがって今日は逃げられそうにない。もうこうなったら開き直って成行きに任せるしかない。いよいよ私達のところへやってきた。一応見まわして、他の満人にはなにもいわないのに私にだけ「降りろ。」という。逆らうとうるさいので素直に降りたら次のように尋問された。「お前は軍人か?」(サルダートという発音からこう判断した。)私は「ニエト」と答えた。するとまた「クトウ」ときたから「ウツエテリテーチャー」と答えたら、態度が一変し「ついてこい。」といわれ、駅の方へつれていかれた。そこは「拉林河(ラーリンホ)」という駅だった。
 そこで一昨日「徳恵」で離ればなれになったT先生とK君らが私を待っていた。予期していなかっただけに驚いた。T先生たちはどういういきさつで露スケの警備兵と仲良くなったか知らないが、パンや缶詰などをもらって上機嫌だった。私が尋問を受け、ここへつれてこられたのも、実をいうとT先生が警備兵に「後から仲間の先生がくるからよろしく。」と手回ししていたからだそうだ。人生なにが幸いするかわからない。お陰で4人揃って哈尓浜行きの貨車に乗ることができた。
 翌朝未明(10月17日)「五家(ウージャ)」に着いたが、先着の列車が停まっていて動けない。それならというわけで線路づたいに歩くことにした。もう哈尓浜は目のまえだ。なつかしい紗曼屯の横を通り、哈尓浜日本中学校近くにあるT先生の家に着いたのは、10月17日の朝であった。思えば8月13日「(徳)部隊」の貨車で哈尓浜から釜山へ。釜山からまた哈尓浜へと丸々2ヶ月。一生で一番長い旅をした。

 【哈尓浜の家族との再会】

 T先生のところで少し休ませてもらい、その間、公舎内の先生方に私の家族のことをきいてみた。すると、もと住んでいた家はソ連兵に接収され、今は馬家溝公園近くの元N校長宅の一室にいるらしいということだった。
 さっそくかけつけて玄関をノックしたが応答がない。やむをえず、外側から窓越しに室内をうかがっていたら、子供の方でも内側から室外をうかがっていた。しばらくにらみっこをしていたら、子供が父親であることに気づいたらしく母親を呼びにいった。そこではじめてドアが開かれ「親子の対面」と相成った。対面したときはたしかにホッとしたが、あまりにも変わり果てていたので言葉もなかった。家内は接収のとき、身回り品を持って門を出たとたんに、満人の略奪に遭い、着のみ着のままで途方にくれ、仕方なく教頭宅に助けを求めたが、あまりいい顔をされず、翌々日道一つ隔てた別の公舎の一室に入れてもらったそうだ。ふとん、鍋、食器は知人のK氏から借用したが、炊くに米なく、買うに金なくまったく困り果てていた。
 向こう隣が教頭宅なので、挨拶だけはしておこうと思いドアをノックした。中から様子をみていたが、私であることがわかったので招じ入れた。教頭は私に「男狩り」のもようを語った。その話を聞きながら、見るともなしに家の中を見ていたら大量の食料が買いこまれてあった。米だけでもカマスにして数俵は下るまい。篭城を見越しての買い溜めであろう。あまり長居されては困るような素振りだったので半時間ほどで失礼した。
 翌日M校長がこられ、三ヶ月分の給料として700円おいて帰られた。そのとき校長はわが一家の変ぼうぶりに大変おどろかれた様子であった。

 【哈尓浜から新京へ】

 家族と再会できたものの、あすから生活のために働き口を探さなければならない。終日足を棒にして歩きまわったが、敗戦国民など雇ってくれる所はどこにもなかった。このままでは一家は餓死か凍死かである。
 そんなとき、ひょっと新京の「土方仲間」のことを思い出した。彼らは別れるとき「哈尓浜で食いつめたら、いつでも新京に帰ってこいよ。」といった。このことをT先生に話したら、急転直下「新京へ戻ろう。」ということになった。哈尓浜へきてわずか1週間のことである。
 当時ソ連は機械や器材を南満から貨車で運び、一旦哈尓浜で積み換え、それから本国へ輸送していた。だから南満からきた貨車は哈尓浜で空車になる。それをそのまま返すのはもったいないというわけで、哈尓浜在住の日本人難民を有料で運んでいると聞いたので、早速手続きをとり、借りたふとん、食器などを返却し、お世話になったKさんにお礼を述べ、10月25日昼、T先生一家とともに、わずかな食料と水を持って貨車に乗り込んだ。車内は日本人難民でいっぱいだったが、同じ日本人同士なので気兼ねなく、翌日26日に新京に着いた。
 休む間もなく、まっすぐに以前お世話になったK氏を訪ね、働き口の斡旋を依頼した。するとK氏は「私はいま、ある事業を始めたいと思っている。その時にはぜひ手伝ってもらいたいので、それまでここに居てはどうか。」といってくれたが、なんとか他人に気兼ねせず親子一緒に暮らしたかったので貸室を物色した。ところがなんとすぐ隣の老夫婦の離れが空いているとのこと、さっそくお借りした。4畳半のせまい部屋だが、土間があり、そこに七輪をおいて炊事をすれば余熱が室内に入り、結構暖かかった。夜具もある人から分けてもらい、久しぶりに一家揃って安心した夜を過ごすことができた。

 【新京での仕事】

 K氏は終戦前、洋服の縫製と販売を手広くやっていたので、市内の各所にたくさんの工場と売店を持っていた。ところがそれがほとんど空き家になっている。家内工業的な仕事をやるにはもってこいの場所である。これから冬場に向かって日本人が一番必要なものは暖房器具である。それに目をつけたK氏は、この空き家を利用して「電気コタツ」の製造を思い立った。
 「電気コタツ」の構造は普通の「コタツヤグラ」の下に無線機用の抵抗器(棒状)をつけただけの極めて簡単なもので、「ヤグラ」は満人木工所で作らせ、抵抗器は元満電技師が国府軍から内密に入手して組み立てた。しかし、せいぜい1,000個も作れば、大体日本人家庭に行き渡るので11月下旬の製造を打ち切った。「電気コタツ」の製造が終ると、また失業の身となる。

 【大中電気公司の設立―1946年3月】

戦前、スンガリーの太陽島に大きな精糖工場があり、その社長に王雲閣という方がいた。中京軍に追われ一族とともに、金品財宝をかついで新京に来ていた。彼は九州帝大応用科学科の出身で、日本語の達者な科学者であった。その王先生は豊富な資金を利用して事業を始めようと、その場所を探していた。ちょうどK氏の空家があったので、そこを借りて電球の製造をすることになった。私もK氏の推薦で、この仕事に参画することになり職にありつけた。
会社の設立には、技術者、機械の設備、材料の入手が必要である。技術者は、当時「東芝」の重役で満電に出張中に終戦に遭った工学博士T先生と、満電の技術者O氏の2人が、その養成に当たることになった。養成には日本人も満人も区別はなかった。機械の設備には3ヶ月かかった。材料の入手は、元満電の技師たちが国府軍から内密に仕入れた。
 これで一応準備が整ったので、1946年3月中旬から1ヶ月間電球の試作を始めテストを重ねた。どうやらテストも良好だったので「大中電気公司」と定め、5月初旬いよいよ発売に踏み切った。物資がなかった時代だから予想通りよく売れた。売上げが伸びれば給料も上がり、高粱メシからたまには米のメシも食卓に上がるようになった。ただしあくまでも子供優先で親の口には入らなかった。

 共に新京に来たT先生一家は、しばらくK氏宅に逗留しておられたが、新京では顔が広かったので、知人を頼って出ていかれた。それ以後T先生にはお会いしていない。

 【その頃の新京の情勢】

 新京は首都であり軍都であったから、国府も中京もここをねらっていた。戦後いち早く入ってきたのが国府軍で、直ちに市内を制圧したが郊外の方はまだ中京下にあった。その中京軍が次第に増強され、時々市内に侵入してきたので、ついに市街戦となった。流れ弾が民家に飛びこむこともあり不安な日々が続いた。ところがある日、中京軍が突如撤退したので、国府軍は難なく新京周辺を支配した。両軍の戦闘は3日だったが、一時はどうなるかと心配した。
 数日後、蒋介石が予告なしに入京し「みなさん、安心して生業についてください。」と演説したので、情勢は次第に平静をとり戻した。しかし、日本人が安心して歩けるようになったのは5月の末であった。

 【引揚げについて】

 そんな状況のなか、6月に入るとどこからともなく「引揚げ」の噂が伝わってきた。それがたとえ噂にせよ、これを聞いたときは本当に嬉しかった。しかし反面「公司」のことを考えると、少々気がかりだった。「公司」から日本人が引揚げると、運営に支障をきたすことは目に見えていた。
 そこで王社長は「満人工員の増員と育成を急ぐ。」「日本人の引揚げを慰留する。」という2つの対策を考えた。前記はうまくいったが、後記はむずかしく、結局は元満電の技術者O氏が責任を感じて残ることになった。
ある日、元「東芝」の工学博士T先生がきて、「近日中に引揚げが始まるらしいが、優先順位は、(1)老人母子家庭、(2)家族持ち中年者(3)一人暮らしの婦人(4)単身者とする。」と語った。公司内は、この具体的な話に沸き立った。まあ、喜ぶ気持はわかるが仕事は仕事である。能率を上げて仕事に精出そうとみんなで張りきったので、王社長は感激して給料をアップし、さらにどこからか「白米」を入手して分配してくれた。
そうこうするうちに2ヶ月が過ぎた。7月某日、町内会長から「引揚げの関する打合せをするから会長宅にきてくれ。」という連絡があった。
その日会長宅で話し合ったことは、(1)引揚げ者男女名簿、(2)同家族名簿、(3)同地区別家族名簿、(4)同家族名簿一覧表、(5)中国側に提出する書類、の5点の作成だった。最後にこの会を「引揚げ準備委員会」と名づけ、委員長に私、委員に5人の若手男子が選ばれて正式に発足した。
さてさて、こうなると公司の仕事をやる時間がなくなり、やむをえず7月中旬で退職した。退職すれば収入がなくなり生活は苦しくなる。しかし誰かがやらなければ帰れない。引揚げの必要書類が完成したのは7月下旬、それを市公署に提出したのは8月の初めだった。準備完了。あとは許可を待つだけだ。大きな満足感が私の身体を包んだ。

【さようなら、満州】

 待ちに待った引揚げの許可が下りた。団名は「第五十団百大隊」と称し、出発は1946年8月25日正午、ということだった。出発に先立って貨車を下見しておこうと、その数日前数人で出かけた。指定された貨車は無蓋車で1両50人の割り当てだった。真夏なので直射日光を遮蔽するため、みんなで日除けを作ったり、トイレを作ったりして出発の日を待った。
 8月25日昼過ぎ、列車は静かに動きだした。さらば新京!終戦の日から1年と10日、私たちが新京に来てからちょうど10ヶ月――長くつらい生活の終わりだった。
 8月28日、葫蘆(コロ)島着。ここで3日待たされ、8月31日アメリカの貨物船で葫蘆島を出帆した。船が岸壁を離れたとき万感胸に迫り、これでやっと故国に帰れると実感した。それから3日後の9月3日の夕方、船は博多港に入った。博多の町の電灯が点々と輝いていた。検疫のためあと6日間は上陸できないが、船上からみる祖国の夜景は郷愁の思いでいっぱいだった。
 9月9日の朝、上陸が許され全員無事日本の土を踏んだ。そして引揚げ者宿泊所に一泊し、下着、衣類の支給を受け、一同さっぱりした気持で「解団式」に臨んだ。私は妻子4人を連れて東海道線で東京へ、上野から東北線で小山へ、小山から妻の里である足利へ着いた。時に1946年9月12日、忘れもしないこの日は私の36歳の誕生日だった。
 翌日、身体の弱りきった妻と三女は入院。長女と次女を連れて私の郷里福島県相馬へ無事帰国の挨拶に向かうことになった。その出発の折、6歳と5歳の2人の娘は「お父さん、一列ですか?二列ですか?」と私に聞く。それは引揚げの時の「団体行動」の時に子供たちが、必死で身につけた「命令服従」の習慣だったのだ。「もう、いいんだよ。」……


 【付記】

木下(こした)道・ビル・塀の際なにゆゑか空より狙はれぬ死角を歩く
(岩田正「視野よぎる」2002年)より。

これは、父の記録を入力しながら、しきりに思い出していた短歌である。父のこの体験は、「シベリア抑留者」「戦死者」「戦傷者」あるいはそのご家族の方々、またその時代の「敵国」となってしまった人々のさまざまな凄惨な運命などと比べれば、「幸運」だったと言えることかもしれません。しかしこれは「比較」の問題ではないと思います。「戦争」というものに運命を翻弄された人間がそれぞれに、ひそかに抱いている「声なき声」の一つだと思うのです。


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