集団疎開   高良留美子
            (1932〜東京生まれ)

   
   道は白く 北へ向かって延びている。夏の終わりの光は
   まわりの田畑に降り注ぐ。その道を二列縦隊で行く子ども
   たちの一隊。道端の陋屋(ろうや)の乾いて崩れかかった
   板壁に打ちつけられている大学目薬の広告――その青地に
   白文字の金属板だけが 風景のなかで鮮やかだ。
    松林と赤とんぼの群がかれらを迎える。かれらはまだな
   にも感じていない――遠足気分ではしゃいでいる!
   朝 かれらは昨夜の惨めな経験のあとをお互いの顔に見出
   してたじろぐ。そして自分たちが大馬鹿だったことに気づ
   く。
    だがもう遅い。歓声と旗に送られ 専用車両でレールの
   継ぎ目を一つ一つ運ばれてきた時間を逆に廻すことはでき
   ない。反乱は成功しない。検閲と飢えのなかにかれらは置
   き去りにされる 戦争が終わるまで。だが戦争はいつ終わ
   るのか?
    村人たちは遠くにいる。村の子どもたちもだ。開墾地に
   は豆や唐もろこしが植えられ かれらは毎日隊を組んで小
   一里の山道を歩いてゆく。石ころだらけの薩摩芋畑の草と
   り 肩に喰いこむ陸稲の重み 棹のしたで跳ねる小豆の殻
   ――。かれらは自分たちの労働がどう換算されるか知らな
   い。
    冬がくる。地平には雪に蔽われた山々が横たわる。かれ
   らは電球のまわりでひびわれた手を暖めながら めいめい
   自分の汚れ物を洗う。こっそり便所のなかで 隠しておい
   た食べ物を喰う。夜 かれらは家族からきた手紙を何度も
   数える。
    戦争はかれらから遠のいている。だが春先の雨は遠い汽
   笛を 思いがけなく耳の近くまで運んでくる。かれらは胸
   を締めつけられるが 脱走する勇気が出ない。
    夜なかにサイレンが鳴り 南の空が染まるのを見た翌朝
   かれらはついに帰ってくる。列車の窓からかれらが最初に
   見たものは まだ煙を上げている廃墟にたたずむ人びとと
   駅のプラットフォームを放心したように歩いている 襤褸
   を着て片手に焼けた薬缶をさげた一人の男だ。

――『見えない地面の上で・1970年・思潮社刊』より――

高良留美子は1944年、12歳の時の半年間、東京の家族から離れて栃木県の西那須野村へ集団疎開をしています。小学校5年生、6年生の約60名の集団でした。宿舎となったのは宮内庁所属の馬事研究所、木造平屋建ての独身寮だった。若い職員たちは徴兵され、馬も大部分徴用されたあとでした。
周囲には家も見当たらず、松林のなかに隔離されたような生活。そして配給だけでは食糧はもちろん足らず、子供たちはみんな農作業をし、勉強する時間はわずかであり、教師は「国語」「数学」「習字」を教える者しかいなかった。
そして上級学校へ行くために6年生は東京に帰ってきたが、東京は大空襲のために焼け野原となり、上野駅は焼け出された人たちでいっぱいだった。
それからも、茨城、新潟と高良家の疎開生活は続いたが、医師であった父上は法令により東京に残った。高良留美子が終戦を迎えたのは縁故先の新潟県塩沢町であった。


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