わたしが一番きれいだったとき   茨木のり子
                  (1926〜大阪生まれ)


   わたしが一番きれいだったとき
   街々はがらがらと崩れていって
   とんでもないところから
   青空なんかが見えたりした

   わたしが一番きれいだったとき
   まわりの人達が沢山死んだ
   工場で 海で 名もない島で
   わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
   
   わたしが一番きれいだったとき
   だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
   男たちは挙手の礼しか知らなくて
   きれいな眼差だけを残して皆去っていった

   わたしが一番きれいだったとき
   わたしの頭はからっぽで
   わたしの心はかたくなで
   手足ばかりが栗色に光った

   わたしが一番きれいだったとき
   わたしの国は戦争で負けた
   そんな馬鹿なことってあるものか
   ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
   
   わたしが一番きれいだったとき
   ラジオからはジャズが溢れた
   禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
   わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

   わたしが一番きれいだったとき
   わたしはとてもふしあわせ
   わたしはとてもとんちんかん
   わたしはめっぽうさびしかった

   だから決めた できれば長生きすることに
   年とってから凄く美しい絵を描いた
   フランスのルオー爺さんのように
                 ね

――『見えない配達夫・1958年・飯塚書店刊』より――   

わたしの年上の友人に、16歳で大連から引揚げてきた方がいらっしゃいます。その方が「わたしの青春は戦争ばかりだった。勉強はろくにできず、女学校までいってもわたしたちが学んだことは小学生までの知識で終わっているのよ。そのうえ引揚げの時には一冊の本も持ち出せなかったの。だからね、25歳までは絶対に結婚しないって決めていたの。」とおっしゃっていました。そして約束通り25歳で結婚されてお幸せなご夫婦となられました。
もう一人、亡父の従妹にあたる女性も、戦争のために女子大でほとんど学ぶことができないまま、卒業証書だけをいただいてしまった。その無念さのため、戦後、その時の恩師を招いて自主塾を開き、文学の勉強をやりなおしたのだそうです。この詩と、その方々とがいつもわたしのなかで重なっています。
「わたしが一番きれいだったとき」……でもあの方々はいつまでもきれいです。


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