死んだ男   鮎川信夫
          (1920〜1986・東京生まれ)

たとえば霧や
あらゆる階段の足音のなかから、
遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。
――これがすべての始まりである。

遠い昨日・・・・・・
ぼくらは暗い酒場のいすのうえで、
ゆがんだ顔をもてあましたり
手紙の封筒を裏返すようなことがあった。
「実際は、影も、形もない?」
――死にそこなってみれば、たしかにそのとおりであった。

Mよ、昨日のひややかな青空が
剃刀の刃にいつまでも残っているね。
だがぼくは、何時何処で
きみを見失ったのか忘れてしまったよ。
短かった黄金時代――
活字の置き換えや神様ごっこ――
「それがぼくたちの古い処方箋だった」と呟いて・・・・・・

いつも季節は秋だった、昨日も今日も、
「淋しさの中に落葉がふる」
その声は人影へ、そして街へ、
黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。

埋葬の日は、言葉もなく
立ち会う者もなかった
憤激も、悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった。
空にむかって眼をあげ
きみはただ重たい靴のなかに足をつっこんで静かに横たわったのだ。
「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」
Mよ、地下に眠るMよ、
きみの胸の傷口は今でもまだ痛むか。


――「鮎川信夫全詩集(1945〜1965)・1965年・荒地出版社刊」より。――


 この「M」とは、鮎川信夫の身近な詩友であり、戦病死した森川義信です。わたくしは森川の詩作品の多くを把握していないのですが、そのわずかな作品のなかから、鮎川の作品中にある「階段」という共通語が見られます。これは鮎川と森川との意識的な「活字の置き換えや神様ごっこ」だったのではないでしょうか?ここに森川の作品二編の抜粋を書いてみます。鮎川の上記の作品と同様に、二編とも「階段」は第一連に置かれています。そしてその「階段」はいつでも「昇るもの」ものではなく「降りる」ものであると思われます。

衝にて  森川義信

翳に埋れ
翳に支へられ
その階段はどこへ果ててゐるのか(後略)

勾配  森川義信

非望のきはみ
非望のいのち
はげしく一つのものに向かって
誰がこの階段をおりていったか(後略)


 鮎川自身も1942年に近衛歩兵連隊に入営し、翌年スマトラに送られましたが、1944年発病のため帰国し、彼は生き残りました。鮎川はこのように記しています。

「一人で死んでゆかなければならぬ人間にとって、死の一般的観念などは無意味であり、且現実に不在のものといふべきだ。『Aの死、Bの死』といふ個別的な死を我々は目撃するのみである。」

 「幸か不幸か私は生き残り、戦後の詩運動に携わるようになった。大戦から得た唯一の積極的な教訓は、森川の死から受けたと言ってよい。自己という病いから癒えるために、死んだ友のことを考えることは、私には一つの救いになったとおもう。いつも詩を一種の遺書と見做すような気持ちが私にはあるが、それもおそらく彼のせいだろう。」

 戦争で生き残った者のある種の後ろめたさ、そして戦争で死んだ者への深い鎮魂、これは詩人に限らず、多くの戦争体験者の方々が抱いた「引き裂かれるような思い」だったのではないかと思います。八年のシベリア抑留生活を経て生き残った詩人「石原吉郎」と、その抑留中に死んだペシミストの「鹿野武一」との関係も思い出されます。詩作とはあるいは「死者との対話」からはじめられる作業なのかもしれません。


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