葬式列車  石原吉郎
            (1915〜1977・静岡県生まれ)

 
  なんという駅を出発して来たのか
  もう誰もおぼえていない
  ただ いつも右側は真昼で
  左側は真夜中のふしぎな国を
  汽車ははしりつづけている
  駅に着くごとに かならず
  赤いランプが窓をのぞき
  よごれた義足やぼろ靴といっしょに
  まっ黒なかたまりが
  投げこまれる
  そいつはみんな生きており
  汽車が走っているときでも
  みんなずっと生きているのだが
  それでいて汽車のなかは
  どこでも屍臭がたちこめている
  そこにはたしかに俺もいる
  誰でも半分はもう亡霊になって
  もたれあったり
  からだをすりよせたりしながら
  まだすこしずつは
  飲んだり食ったりしているが
  もう尻のあたりがすきとおって
  消えかけてる奴さえいる
  ああそこにはたしかに俺もいる
  うらめしげに窓によりかかりながら
  ときどきどっちかが
  くさった林檎をかじり出す
  俺だの 俺の亡霊だの
  俺たちはそうしてしょっちゅう
  自分の亡霊とかさなりあったり
  はなれたりしながら
  やりきれない遠い未来に
  汽車が着くのを待っている
  誰が機関車にいるのだ
  巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
  どろどろと橋桁が鳴り
  たくさんの亡霊がひょっと
  食う手をやすめる
  思い出そうとしているのだ
  なんという駅を出発して来たのかを
 
――詩集『サンチョ・パンサの帰郷』・1963年・思潮社刊 より――

石原吉郎は1938年、23歳で徴兵検査を受ける。1940年、25歳で入隊。1945年哈爾浜にて敗戦を迎える。同年12月ロシア軍に連行されて、1946年シベリア抑留の身となる。1953年11月30日、抑留から解かれてナホトカ港を出港。12月1日舞鶴港に帰港。抑留期間はなんと8年におよぶ。祖国に戻った石原はすでに38歳であった。
この作品は、石原吉郎のシベリア抑留体験について書かれたものであることは説明しなくても理解していただけると思います。貨車に詰め込まれ収容所に送られてゆく人々のすでに「死」と隣合わせの風景です。

石原吉郎の著書「望郷と海」にはこのような言葉がある。「詩とは〈沈黙するための言葉〉である。」さらに「私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。」また「戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命に対する罪である。」とも。
石原吉郎の抑留期間は長く、彼への戦後の訪れは祖国の人々から大幅に遅れました。それは石原の深い孤独となって心を病み、執筆活動においても常に「低迷」と「苦渋」が感じられます。わたくしには、このシベリア体験の極限状況と人間の不条理を「詩の言葉」にすることに対して、石原には常に「戸惑い」があったのではないかとすら感じられるのです。さらに「決して伝わらないだろう。」という「断念」もあったのではないでしょうか?
また石原は「シベリア体験者」=「反戦」という、一括りの図式を用心深く避けたように思えます。その一例が「反原爆運動」を拒否したことでした。「見たものは〈見た〉と言え。」戦後の石原吉郎はあくまでも孤独な「反戦」を貫いたように思えます。


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