死のなかに   黒田三郎
                 (1919〜1980・広島県生まれ)

 
   死のなかにいると
   僕等は数でしかなかった
   臭いであり
   場所ふさぎであった
   死はどこにでもいた
   死があちこちにいるなかで
   僕等は水を飲み
   カードをめくり
   えりの汚れたシャツを着て
   笑い声を立てたりしていた
   死は異様なお客ではなく
   仲のよい友人のように
   無遠慮に食堂や寝室にやって来た
   床には
   ときに
   食べ散らした魚の骨の散っていることがあった
   月の夜に
   あしびの花の匂いのすることもあった

   戦争が終ったとき
   パパイアの木の上には
   白い小さな雲が浮いていた
   戦いに負けた人間であるという点で
   僕等はお互いを軽蔑しきっていた
   それでも
   戦いに負けた人間であるという点で
   僕等はちょっぴりお互いを哀れんでいた
   酔漢やペテン師
   百姓や錠前屋
   偽善者や銀行員
   大食いや楽天家
   いたわりあったり
   いがみあったりして
   僕等は故国へ送り返される運命をともにした
   引揚船が着いたところで
   僕等は
   めいめい切り放された運命を
   帽子のようにかるがると振って別れた
   あいつはペテン師
   あいつは百姓
   あいつは銀行員

   一年はどのようにたったであろうか
   そして
   二年
   ひとりは
   昔の仲間を欺いて金をもうけたあげく
   酔っぱらって
   運河に落ちて
   死んだ
   ひとりは
   乏しいサラリーで妻子を養いながら
   五年前の他愛もない傷がもとで
   死にかかっている
   ひとりは

   そのひとりである僕は
   東京の町に生きていて
   電車のつり革にぶら下っている
   すべてのつり革に
   僕の知らない男や女がぶら下っている
   僕のお袋である元大佐夫人は
   故郷で
   栄養失調で死にかかっていて
   死をなだめすかすためには
   僕の二九二〇円では
   どうにも足りぬのである
   死 死 死
   死は金のかかる出来事である
   僕の知らない男や女がつり革にぶら下っているなかで
   僕もつり革にぶら下り
   魚の骨の散っている床や
   あしびの花の匂いのする夜を思い出すのである
   そして
   さらに不機嫌になってつり革にぶら下っているのを
   誰も知りはしないのである

――『時代の囚人・1965年・昭森社刊』より――

黒田三郎には「戦時中」の作品はない。南方から戦後一年目に帰国するときに、彼は書いたものを一切焼いてしまっている。したがってこの詩集に収められている作品は戦後に書かれたものである。これはあるいは当時の「引揚者」に課せられた「制限規約」のためだったのかもしれないと思える。さらに「時代の囚人」より以前に出版された詩集「墓碑銘」も戦前に書かれ、炎焼をまぬがれた手帳に残っていた作品のみを集めたものです。掲載された雑誌その他から探すつもりもなかったらしい。なぜか黒田三郎の戦争前後の自作詩に関する執着心が薄いのが気がかりである。「戦争」が影を落としていた時代の「思想弾圧」に対して、黒田三郎は大変虚無的であったように思う。

   引揚船が着いたところで
   僕等は
   めいめい切り放された運命を
   帽子のようにかるがると振って別れた

これは、亡父母から聞かされた話だが、「引揚船」とはいえ、それは「貨物船」である。人々は荷物のように乗せられて、その引揚船の団長の統制のもとに祖国へ向かうのだ。その団のなかにもしも「伝染病者」が出た場合には、祖国の港を目前にしながら、全員が船から降りることは許されない。一日も早く祖国の土を踏むためには、思想だけではなく、そうした「管理統制」もあったのである。祖国の港に降り、さまざまな手続きを済ませて、彼等はやっとそれぞれの運命に向かって別れていったのである。それきり二度と会うことのない人々だったかもしれない。

「戦争」のもっとも大きな罪は多くの人々のいのちを奪ったことだ。その悲惨さを「数」で示すことは悲しいことだ。しかしそれも知らせなくてはならないだろう。さらにその「死」に人間の感性が麻痺させられることはもっと悲しいことだ。「戦死者」とは「戦争時」に死んだ人々だけではない。生き残った人々は死ぬまで「戦争」を影のように引きずったのではないだろうか。それぞれの人生のなかで……。


前ページ     次ページ


声 「非戦」を読む 目次に戻るHaizara net(top page)Shimirin's HomePageUrokocitySiteMap