『音の梯子』(七月堂)―関富士子
音の梯子を降りられない

 今どき、近眼の人はコンタクト・レンズを目の中に入れることが多いので、わたしは、関さんが目がね族、あるいは近眼ちゃんなのかどうかは知らない。以前から何となく感じていたのだが、この『音の梯子』でも、関さんは眼が悪いのではないかと思われる節々があるようだった。つまり、詩の世界の設定の仕方に、ある種、レンズ効果のようなものを感じたのだ。
 人間の目が頭部の全面、顔についること、視界はそう広くはなくて、広く見渡すには首を動かすことが必要だ。後ろにいたっては身体の向きそのものを変えなければならない。したがって、誰だって、物を見るということは、何となく感じられる境界域を含めた限られた部分や場所をみることである。けれど、レンズを通してものを見るということは、裸眼で見る以上に、それが強調される。レンズの内と外は、知覚意識上異世界なのだ。
 また、前詩集などから察しても、詩人は理科的な「観察」というのが好きらしい。観察といえば、天眼鏡やカメラのズーム・レンズは付き物であり、極端には顕微鏡というのもある。だが、そんなものばかり覗いていたら、物の大小とか遠近感覚には狂いが生じることにはならないだろうか。自在に拡大され縮小される世界では、通常に見慣れたものも変容した姿をさらす。「ある朝目覚めたら甲虫になっていた」人は、関さんかも知れない。関さんが迎えかねない明朝なのである。
 からかうのは止めにしよう。とはいうものの、からからって遊ばないと何となく不安になるような空間を感じた読者はわたしだけだろうか。世界から曖昧に切り取られた、更にその一段も二段も深い水のような場所に、引きずり込まれるのを感じたのは、はたしてわたしという読者一人だけだろうか。
 それは、その場所が、見えないレンズで覗きこまれ、拡大され、充分に涵養された、「心」という場所だからではないのかと、わたしは思う。そう、全身をレンズにして深いところを覗きこむと、「砕け散る星から飛んできた/熱い氷」(「モクセイの木」)があるのだ。
「庭園設計」はとても好きな詩だ。

 まだどこにも存在しないわたしの庭の
 植物を育てたことのない土
 そこに初めてうえられる樹木の名を記すとき
 一枚の咬みのえに光が差し風が吹き雨が降り
 種がこぼれる

  中略

 ことの成りゆきを見ているうちに
 たくさんの季節が過ぎていく
 まだどこにも存在しないわたしの庭に
 植えられるだろう一本の木の
 名を書き始め書き終える
 そのあいだにも時間はめぐって
 双葉はすでに枝を伸ばし
 彼の上に大きな影をつくっている

 心であるが故に、ときには洪水だって起きる。「水門を閉める男」は、心の洪水とは関係ないかも知れないが、土砂降り雨の無彩色の風景に青やオレンジ色にペンキ塗りされた水門が出てくると、もうわたしには、泣けそうに寂しい心的風景に思えてくる。
 心というと、本当に手垢まみれの言葉なのだが、今は他の言葉がみつからないので、こう書いた。

     あ
   あ
 あ
   あ
     あ

発声練習をする人の声は、「ほとんど声が出ず苦しげに途切れてし/まう」。そして「再びよろよろと音の梯子を昇っていく。降りるこ/ともならず、中空にぶらさがって揺れている。」(「音の梯子」)という悲しみが、空間に反響し、事を、本を、閉じさせない。読者であるわたしも、レンズの世界に閉じ込められてしまったのだ。わたしの明日を、一体どうしてくれる!と叫んでみようか。


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