関富士子「植物地誌」について考えたこと
 現前化の有様 

関富士子さんから瀟洒で、気の行き届いた装丁の詩集が届いています。
 
今日は(2004.10.16)西山を散策したあと、自宅のすぐ近く、京都の桂坂という高級住宅街にある、最近できた郊外型簡易スーパーの真新しく綺麗な駐車場に行き、私はこの詩集を、京都盆地を見渡せる丘陵のうえで−従って陽は長いのですが、−陽の光では文字が読めなくなるまで、メモを取りながら読んでいました。西山丘陵の峰々が抜けるような青空に映え、やがてスカイラインが初秋の茜色に染まっていく。自然に触れつつ、「植物地誌」という詩集を読むには絶好のロケーションであったと思います。
 
まったく、・・・考えさせられることの多い詩集でした。で、考えていた内容ですが、(これが大笑い。)
関さんには何の関係もない、私の関心事ですが、実はごく最近あるひとから、何十年ぶりかで、"Warum ist überhaupt Seiendes und nicht vielmehr Nichts?”
(なぜ一体に存在するものであって、むしろ無ではないのか?)という、
「存在と時間、Sein und Zeit」刊行直後の(その時期の)、Martin Heideggerの
フライブルグ大学教授就任講義(die Antrittsvorlesung 1929)で有名な
「Was ist Metaphysik? 形而上学とは何か?」の結語の文章を聞かされ、哲学に取り組んでいた私の若気の至りがうずいているのです。
 
それで細目で、哲学的な長編の詩論を一旦は書いたのですが、アップする段階で下記のように大幅に縮小してしまった。分量からして、適当ではないと思う。それをかいつまんで書けば、次のようになります。
 

 
まず人間の植物や自然との関わり方はさまざまで、学問が自然を現前化(知識として知る)したり、通常の理解で植物に発語される言い方のほかに、何となく理解され、日常触れることもあるのに、気がつかないまま、自然を理解していることがある。これを読み解くのも哲学の仕事である。同時に学問的でない、様々な「日常的な」様態において意識に掬える限り、自然は言葉にできる、その限りで花も木も存在に照らし出されるということ。これは詩の作業でもある。
 
詩の作家は、これらの踏査可能な日常的な出来事を自由に闊歩して作品に仕上げればよい。が、しかし、その様々な人間的な記述において叙情性を見たり、論理に哲学的な読みをしたり、生命的な記述に生物学的な観察・感動、果ては宗教的な現象が見えるかも知れない。

それは詩が、人間の意識に可能な深みと諸々の思想と共有した領域で語られていることにほかならない。哲学的に問題にされる人間の諸問題は人生論の仕事であり、自然に対して形而上学的な哲学の問題は哲学の仕事であって、自然を記述する詩の仕事とは、別個のものである。言葉にする対象は自然であって、言葉は人間の自然の「理解」を語ろうとする。そこが人間的な問題で、結局様々な人間的な諸分野からの関心事がここでは混在しているということであろう。何がどうなっているかは、個別的な作品・作者の問題である。
 

それで、関富士子さんの詩集、「植物地誌」についてですが、私はこの関さんの詩集をこれら、私の関心から出てくる観点から、さまざまに読み解くことができる。それは際限がありません。ここでは言葉がそれに足るだけのことを指摘しておきましょう。
 
上述のように自然を表現する言葉としては要件を満たしているが、そして参考にされた図鑑のものか?、学問的な記述も詩行のなかに多くの分量で見られます。それを私はむしろ学問もひとつの糧として、自分の感受性に関さんが取り込もうとしたと読んだ。学問も、数学・実験・観察・分類などを通して、自然を現前化させるひとつの方法でもある。
 
さらにもうひとつの可能性として検討したように、この硬質な言葉に並ぶ、詩集の(学問や哲学からすれば)「日常的な」説話の部分は、上記の意味で自然を、通常の説明的な言葉の使用では解らないものを、伝えるための方策であるように思う。植物に語りかけ(ヒナギク)、交わり(ニワトコ)、物語(ヤマユリ・フユイチゴ・バラ)を展開させたり、言葉遊び(カバノキ)・環境(オランダガラシ・カヤツリグサ)や料理法(ダイズ)を記述したり、それらは新しいファンタジー(マクワウリ)、一種のメルヘン(レンゲソウ)、妖精の伝説(キクラゲ)でもある。「日常」生活の事実や行為を詩の言葉で記述するのである。(詩篇の分類は本来できない。私が勝手に便宜上分けてみた。)
 
殆どが平易な散文であり、現代詩の特徴となっている言葉の飛躍は少ない。むしろ事柄の性質と読者に語りかけている文章の特性からすると、少ないほうが良かったと私は思った。一見すると詩集ではないようにも見える。しかし収録詩が詩であるのは、上記の私が詩と哲学に区別した「関係・構造」によると考える。哲学も発見した「自然」、それが花であり木であっても、それらを「見る、関係を持つ」ことによって現前化する作業がこの詩集にはあった。
 
すでに「詩学」(2003.12)においてわたしが注目していた詩をあげておきます。
 
キクラゲは、「広葉樹の、枯死した木管楽器に群生、または孤立する集音器。」と規定される。

鳥の叫び声、岩場を行く足音、落ち葉のかさつき、獣の喃語(ナンゴ*評者、睦言・ひそひそ話)、せせらぎの音。どんなかすかな物音も集音器によって漏らさず拾われ。木管の体内の・・・空洞に導かれる。/耳たぶは食用菌・・・
森の中の物質(生命)交代が音の流れのなかに現前する。それはひととのかかわりのなかにまで、広がっていく。

強い風の吹く夜には、木管楽器の体内に森じゅうの音声が集まって、・・・辺りに交響(コウキョウ*評者)する。/その音楽は、森からはるかに遠い街でも、眠る人の耳に一晩じゅう鳴り続けている。
見事に生物の生死、営みが「音」に変換され、私たちの手許まで届いて来ます。
 

付言、これを書いているのはもう二日後の10月18日ですが、結局のところ私は詩の表現の傾向や表現そのものは説明しなかったように見える。
 
個々の植物に関わらず、関さんは植物を現前化する方途を無手勝流というか、技法を尽くして、私たちの前に開陳すべく作業をした。私はそれを哲学的に分析して見せたことになる。
 
哲学的な分析がいつもそうであるように、個々の作品の個性、内容には大きく立ち入れない欠陥が私の評にはあることは了解されたい。これは事理に属することなのです。
 
むしろ哲学書についてはよく言われますが、原典・原書に読者が直接立ち向かうこと、これが思想を理解する一番の早道なのです。それが詩においても個別の「その詩を知ること」なのです。そしてこの読者側の作業は、現在、一番
日本の詩に欠けていることでもあります。
(17 10 2004H16)


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