乱歩変奏曲
ざわめく美 1

 『乱歩地獄』をDVDで観る。江戸川乱歩の『火星の運河』『鏡地獄』『芋虫』『蟲』の短篇小説四作品をそれぞれ違う監督が撮影したオムニバス形式の映画。
 怪人二十面相シリーズならともかく、乱歩作品は映像にするのがむつかしいと思うし、実際この四作は長らく映像不可能とされていたらしい。乱歩の描写は、それ自体で映像をぐりぐりと押しつけてくる生々しさがある。読み手は汗腺ごと開かされ、彼の描写の流入のままになってしまう。行間に流れだす読み手の想像力と文章があまりにも強固に結びついてしまうので、ほかの解釈が混入するのが困難なのかもしれない。それはおどろおどろしいからではない。たとえば『押絵と旅する男』の郷愁あふれるさびしい愛、『パノラマ島奇譚』のユートピア的幻想も、ことばとそれを喚起するわたしたちの暗黙の了解として密接な関係をつくってしまう。けれどもあなたの読書がわたしのそれと混じりあうことで、別の読書が連鎖的に発生し、なにかが生まれるかもしれない。行間に他者の映像が重なるということは、観る側にとっては、そういうことだ。
 ミラン・クンデラは『ジャックとその主人』(みすず書房)でディドロの小説を戯曲にするにあたって、これは「ディドロを主題とする変奏曲」であり、「ディドロへの賛辞」だといっている。それはけっして縮尺でも書き直しであってもならない。それは「小説への賛辞」でもあるのだから、「劇作家としての」彼が発見しえなかった形式の自由を、独創として組み入れることが変奏曲なのだ、と。あるいは「この「変奏曲=賛辞」は、二人の作家の出会いであり、ふたつの世紀の出会い、そして小説と演劇の出会いでもある」と。つまり、出会うからには、均衡が必要なのだ。彼の独創に独創を。そう、ここ『乱歩地獄』では、映画と書物の出会い、書物と映画とわたしの出会いでもあるだろう。
 四つの作品それぞれにオマージュ、変奏がなされていたと思うが、なかでも『蟲』(監督・カネコアツシ)。わたしには最後に置かれたこの作品がいちばん印象に残った。原作は主人公の柾木愛造が、幼なじみで今は女優の木下芙蓉を愛のために殺害するが、映画では主人公(浅野忠信)は女優(緒川たまき)の運転手となっている。この設定がまず挿入。思い出(過去)をばっさり切り取ることで、焦点を今に集中させている。どちらにも人とふれあうこと、というよりも生きるものと接することに嫌悪をおぼえる主人公(映画では、女優に贈る花束すら造花であった)がいる。その彼が愛造の名前のとおり愛を造るのは、生きていないものにだけである。木下芙蓉は死んではじめて彼の愛するものとなるはずだった…。ここまで映画では変奏として、「木下芙蓉」「柾木愛造」と章題として、画面に文字があらわれる。監督は漫画家でもあるということなので、そんな頁をめくるようなしかけを思いついたのかもしれない。紙芝居のようだとも思い、その連想から怪人二十面相たちが紙芝居になっていたであろう時代に思いをはせたりもする。変奏が乱歩を側面からひきよせてくるのだった。
そして最後の章題として、「蟲」という文字があらわれる。蟲とは、その美しい死体を内側から蝕むもの、時間に荷担し、壊すもののことでもあった。それは愛造にとって、生きること、自然だ。ここでそれに対抗するものとして、生に抗う不自然を置く。具体的には時間の経過と共に変化してゆく芙蓉の死体に様々なことをほどこす。この描写は原作も映画もとても生々しい。「最初はただ屍斑や陰気な皮膚を隠すのが目的であったが」、作業そのものに熱中してゆく。愛を造るのは、美を造ることでもある、というように。「彼は死体というキャンバスに向かって、妖艶なる裸像をえがく、世にも不思議な画家とな」ったのである(「 」内は小説から引用)。だが、そこで彼は死を通じて生にふれた故に芸術家になったのではなかったか。
原作ではその奇妙なアトリエは土蔵の二階だったが、映画ではかなりキッチュな作り物の木の森にかこまれた空間だ。死体となった芙蓉の脇で電球がピカピカ光っている。生でも死でもない、美とは呼べない場所。それは愛造が通う病院にある絵とそっくりであった。このことに愛造自身が気づいたとき、彼のなかで何かが壊れた。それは耳鳴りとしてなら、わかる気もするが、わたしにはまだことばにできないものだ。病院で絵を認識した瞬間から人工楽園はなくなり、マンションの一室の壁にもたれている死体があらわれる。身体のなかにいる蟲による瓦斯の発生で足が膨らんでいるのがわかる。原作では、死体の膨張をみてショックをうけた愛造が壊れるだけなので、この変奏は特に美にまつわるゆたかな調べをかもしていると思った。彼は町中でおじぎをし、謝ってまわる。自首さえするが警官は笑ってとりあわない。何に謝っているのか。生に対してだったかもしれない。美は生死とむすびついてあるものだから。「蟲」はまだ生き続けている。生死をこえた彼岸にふれることは、美醜が密接にあることを知ることでもあるだろう。愛造は、ほんとうの美にふれたことで、壊れたのかもしれない。美は生きていないものではけっしてないのだから。
それは変奏の無理のない奏法によるのかもしれない。壊すことなく、彼の個性を投入することで、ゆたかな、別の行間が重ねあわさってゆく。観終わったあと、映像のなかに、ほとんど原作の物語を読んだ折の印象を思いだし、重ねてゆけたと感じていた。そんな印象の瞬間――ヤクザ映画を見終わって外に出た人びとが肩を切って歩くあの時間――をのばしたいと、原作の『蟲』を読むうちに、こんどは白い行間に映画が流れこんでくる。わたしの読書が映像のもたらす変奏曲に共鳴したのだった。それは心地よいというには、あまりにも赤裸々な生とその裏側の感触だったけれども。死んだところから生きはじめる蟲たちのざわめく美が、身体の内側で響いている。

*『乱歩地獄』(二〇〇五年/日本/配給・アルバトロス・フィルム/DVD販売元=GENEON)


前ページ     次ページ


上海異人豹館(散文たち) 目次に戻るHaizara net(top page)Shimirin's HomePageUrokocitySiteMap