『武満徹| Visions in Time』展
裂け目という接点――音の河の交互作用

 まず端緒は瀧口修造の《バーント・ドローイング》、瀧口によると「火と水の交互作用の試み」で偶然できた紙を焦がした作品が目に入る。ふいの裂け目から、火と水が出会いコラージュされること。そんな風に武満徹の音は、絵や言葉、あるいは日々との交互作用によるコラージュの糸(音)としてそこにあるようだった。またその交互作用は、瀧口修造他〈実験工房〉のメンバー、宇佐見圭司、イサム・ノグチ、ルドン、クレー等の個々の作品間にも流れ、会場内を緻密かつ錯綜した壮大なコラージュ空間にもしているのだった。
 たとえば音と絵の交互作用。武満は「作曲をすることは、われわれをとりまく世界を貫いている《音の河》に、いかに意味づけるか、ということ」とカタログのなかで言っている。この音の河は、樹木のなかに、雑踏のなかに、彼の愛するクレーの絵画にも流れているものだ。彼らは音の河によって、交互作用のなか、ふれあい、共鳴しあっている。
 武満はルドンの《眼を閉じて》に惹かれ《閉じた眼》という曲をつくる。「閉じた眼と謂う言葉が、私に、開かれた耳、と謂う言葉を聯想させたから」。水と空と花がにじむなかを閉じた眼の女性がいる。身体は溶けていないが、彼女はおそらく閉じた眼の裏側で、外の世界とにじみ、溶けていたのだ。ルドンの絵の前で、武満の『閉じた眼』を聞く。出逢ったたましいのなかをつらぬく、接点をゆく音の河。わたしはルドンの絵を観ていながら、眼を閉じていたのだった。
 武満の《鳥は星形の庭に降りる》のためのイメージ・ドローイング。五線譜と夢に見た鳥が五角形の庭に降りてゆくスケッチ。夢の鳥が絵をくぐり、音に流れてゆくことがうれしかった。音が鳥を記憶することが。その絵と音が、記憶をもくぐりぬけて刹那になること。これは武満の図形楽譜にもいえることだ。円(コロナ)中央に向かってグラフのように無数の線が書き込まれている。絵と絵ではない裂け目において共存している楽譜。こわれたような譜面から音がひきだされる。それは、日常の裂け目にも似て――武満のあの不協和音めいた、偶然を模した音によって、絵に流れる音の河を交互作用の場に立たせている。音から図形楽譜が生まれることでも、音と絵は往還しながら裂け目をたゆたうのだった。
 そして言葉との交互作用。ジョン・ケージの《マルセルについては何も言うまい》。たくさんの単語が書かれた何枚かのガラスがはめ込まれた作品。遠近をつけた単語たちは、とじこめられた蝶のようだ。飛ぶ姿のまま、標本にされた音のない言葉たち。それは音の河の瞬間でもある。接点をもつ音の裂け目として言葉は武満に向かっているのだった。「言葉と交渉をもつと、私のなかに他者があらわれ、私の考えは緩やかにだがひとつの方向性をもった運動として収斂されて行く」
(4月9日〜6月18日 於:東京オペラシティアートギャラリー)

(初出:『現代詩手帖』2006年9月号)


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