中右史子詩集『夏の庭』
またぐこども

 まず、「たとえあなたが牢獄に囚われの身となっていようと、壁に遮られて世の物音が何一つあなたの感覚に達しないとしても──それでもあなたにはまだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか」というリルケの言葉に出会い、「ここまで詩を書き続けてくることができました」、とあとがきにあったので、個人的にかなりおどろく。それはわたしの「もはや子供でなくなったとしたら、すでに死んでいるのです」というコンスタンティン・ブランクーシの言葉とひびいていたから。わたしもまた、ほとんどこの言葉と出会った頃が、詩を書くことをつよく意識した時期と重なっていたのだった。
 『夏の庭』は、そんな子供たち、幼年時代を拾ってやってくるのだった。子供たちの挽歌にもにた、身振りが詩に手招いてくれる、むせそうな息吹とともに。

 「川の中で/兄の眼玉が暮らしているのだと思う」(『夏の写真』)たとえば、このなつかしいような、かつ水をまざまざと行間からしたたらせてくることばはなんなのだろうと思った。眼玉ということばが、詩的異形の世界になんなくつれていってくれる。「兄の水彩は/洗われて/流される」(同)そこは、水彩のあざやかかつにじんだ世界でもある。それは、新鮮な瞳であるだろう。「つ つ つうつ/洗濯している白スーツ」(『こさめに』)のあざやかなおどろきに、肌をつたうほどの雨音、というよりも雨音と触感(「ゆびのさきの川に/つ つうつ」(同))と、白という色、みていること、みられていることが、とけあっているのではないか、と感じられるのだった。ここに鏡像段階以前の幼児を想起することもできる。自己が確立していないその時期、彼は、雨音になり、ゆびになるのだ。それは混沌ではけっしてない。ヤコブソンは、日常のパロールの保守性にたいし、「耳なれぬ言葉」をいれることで、「より深い現実への視線を恢復させる」といっている。それは、行為にすれば、「子供の身振り」も含まれるという。再構築された子供は、現実を明確にとらえ、本来ありうる空間、あるいは原始的な場所をまたぎ、そこでなされた行為を吹き込む媒介者となるのだった。
 『地下室の夏』では、意識下に降りてゆくような、ゆたかさと喪失が混在している。「ガリ版の鉄筆が動くかもしれず/黒猫が秘密会ギしているかもしれず」それは子供をつうじてというより、子供の感性をまといつつ、時代の遺失物をかきよせるやさしくも真摯な手だ。「ピンポン玉がころがった。/またひとつなくなった。」
 あるいは『すみれ色のくつ』。「春、まっ白な蚕を踏む。」「私は忍者ではなく、ゆうれいになりたいと言った。」「歩いても歩いても私の足は ねむたい花を踏んでしまう。」ここにつらなる死のイメージは、私という身体をたもちながら、透けて、うつってくるのかもしれない。「…その子に少し似ていると思って。」それは痛みをともなったちいさな色だ。追いかけてくる恐怖をもうつしこんだ、死と再生の入り口だ(「家に着くまで/振り向いてもいけない。」)。媒介する童子、とうことばが手招きする。そう、死あるいは生。
 『日曜の庭 ある一匹の犬の死について』では、亡くなった犬と兄と私が、車窓にうつった景色のように、幼児の時期のように重なり、死と生の共存を語るようだった。子供はまだ死をおぼえているから。
 そして表題作『夏の庭』もそうだが、描かれている季節は夏がおおい。『地下室の夏』『夏の坂』『裏山、クワガタの木』…。夏は、むせるほどににじむ季節だからか。装丁が黄色い和紙なのも、向日葵を思わせる。「今は亡い 白い駅までの道 坂がある/ぎこちなく陽と影のなか ゆるぎなく 坂がつづく。」(『夏の坂』)陽と影がであうなか、「揺るがしている」坂は、汗をまきとり、母を追って「泣きまみれながら登った」しずくも蒸発させているのだろう。痕跡にたまった幼児がたたずむ。それは日々のなかで迷子になったわたしたち自身だ。
 だが、この子供は単体ではない。自在な幼児ではあるが(日常に違和をもたらすそれは、えてして自由で孤独だ)、父や母、そして祖母を、否定であれ、肯定であれ、連綿とその肌の奥で触れつづけているのだ。
 「祖母は、あの人と一緒の墓に入れなさいとだけ遺言した。//私は、この遺言に似ていくことに、決めた。」鏡像段階を経て、またそこに遡及し、さらにもっと自我がいない場所へ。そこには先祖もいるのだから。だがわたしたちは残念ながらそこにとどまりつづけることはもはやできない。やはりヤコブソンは「既知のものを土台にしてのみ、未知のものが了解され、衝撃を与える」といっている。わたしたちの既知はもはや大人の日々だろう。連綿と祖母がどこか遠くで流れている。子供たちが水を伝えてくる。私たちは「夏の夜は何度でもここへ訪れる」(『日曜の庭 ある一匹の犬の死について』)だろう。

 幼年から拾ってくるといった。それはだがけっして戻れない、場所へのノスタルジーでもあるが、とどまりつづけることが困難な場所でもある。なぜならそれは意識の奥底に息をつめて潜る行為だから。潜ったままではいられないから。幼年時代が水をわたってやってくるのは、そんな水面下の水鳥の調べが必要なのだ。

 偶然なのか。あるいは、必然のように、この詩集『夏の庭』と出会った頃、こんなことばを知った。
「種子の中に人の世の宝石はつまっているのです。幼少時の幻想から創造的な芸術は始まるのです」プゾーニ(オペラ『ファウスト』)
 いない子供たちをとどめておくこと。

中右史子『夏の庭 a ground in summer』(えこし会 二〇〇六年七月)


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