豹日記 vol.11
二〇〇八年一月五日〜四月二十五日

(ミュシャ展図録、「ベル・エポックの輝き―魅惑のジュエリーからガラス工芸まで―」(大丸ミュージアム)、ラリック、庭園美術館、ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』、香水(プールファム、レールデュタン)、ロートレック展、池田満寿夫―知られざる全貌展、小説という冒険または遊び(ミルハウザー、中野美代子『鮫人』)、「ルノワール+ルノワール展」、ホトケノザ、イヌフグリ、『迷宮美術館』、『失われた時を求めて』、桜、イアン・マキューアン『愛の続き』、千鳥が淵、ミルハウザー『ナイフ投げ師』、「ガレとジャポニズム展」、三月〜四月詩誌お礼)

【こぼれおちてしまうもの】
一月五日
 暮れに、ある方(Hさんとしておく)から一九九二年発行のミュシャ展図録(一九八九年〜九二年の没後五十周年記念)を頂いた。Hさんは私よりもだいぶ歳上なのだが、絵の志向が共通することが多いので、何かにつけ、展覧会のチラシ、案内、絵はがきなどを送っていたのだが、その御礼だとのこと。こちらはガラクタみたいなものばかり送っているので、申し訳なく思ったが、心遣いが柔らかく伝わってくる、ともかくありがたく、うれしかった。
 最近のものは持っているが、比べてみると、初めて見るものが多く驚いた。ここ数年、ミュシャ展に何回か行っているが、だいたい同じものが展覧されており、その結果、カタログも似たような図版ばかりだから、一冊あれば事が足りるのだった。十五年ほどで、少しだが、観る側の志向も変化したということだろうか。
 おおざっぱにいってしまうと、今のものは、ミュシャ前期(一八九四年位〜一九〇〇年位)のパリで活躍しているときのものが多いか、力をいれている。アメリカ時代(一九〇四年〜一九二三年、但しこの間も別荘というかたちで、ボヘミアにも住んでいる)、母国チェコに帰ってからの後期(一九二三年〜没年の一九三九年)のものもあるが、前期ほどの頁を割いていない。頂いたカタログは後記のものも充実していた。じつはこう書いている私も、後年のスラヴ叙事詩を書いていた時代よりも、パリにいる頃のほうが気に入っていた。明るさといっていいのか、新奇さといっていいのか、異邦人としての彼が吸収したものが、ポスターという新しい発表の場を得たこととの相乗効果により、生き生きと画面からこぼれ、花咲いているような気がしたからだ。芸術をとおし、スラヴ民族の団結を促す、といった理念のもとに描かれたそれらは、総じて暗い。暗さが悪いというのではないが、民族主義的なリアリズムの影をまといはじめる。パリ時代のそれは、異文化の坩堝的な要素も多かったはずだ。絵も、アカデミックになり、時代を逆行しているようでもあった。あるいは、ポスターが広告ということならば、広告としての有用性のほうに天秤を傾けて見える、ということかもしれない。パリ時代のそれは、有用性からこぼれおちるものに満ちていた…。そう思っていたのだが、このカタログを観て、その考えを幾分改めさせられた。有用性からこぼれおちるものが明るいのがパリ時代だとすれば、暗いのがチェコ時代ではなかったか、そこからこぼれるものが芸術だとすれば、それはおなじ根をもったものなのではなかったかと。こぼれおちてしまうものは、意味によって代置できるものではない。けれども、これは、とくに《スラヴ叙事詩》(一九一四年─一九二六年の連作)にいえることだが、民族の団結を促すという意味を付帯しようとしたそこからは、やはりこぼれるもの、還元できない美の表現が、薄れている、とはいえると思うが。
 ともあれ、今まであまり注意を向けていなかった、後期のものに、ひかれるものが多くあったのだった。《異教徒の彫像を持つ女》(一九二一年)は、油彩で、余白がない分だろうか、画面は暗いが、太陽のような彫像を抱え持つ女の表情が明るい。表情だけで明るさを湛えているようだ。《フラホル協会の壁画のための習作》(一九三五年頃)は、パステルと水彩なので、その分明るいが、それだけでなく、森というか木々のなかに、木の精のように描かれた半裸体の女性、その足元で祈る男性と、子どもを抱きながらうずくまる女性などが描かれているが、それは、ギリシアの神のように、風をはらんで明るいのだった。半裸の木の精の腕から、たなびくリボンが、風をつたえて輝くのだった。《月桂樹の小枝をつけた少女の顔》(一九三五年頃)は、チョークと水彩で少女の頭部が描かれている。月桂樹の冠をつくる葉が、黄色、赤、黄緑、緑、とまるで四季をかたどったように色が変わっており、あとは茶色のチョークで顔や髪の毛が描かれているだけなので、冠だけが、鮮やかに色をはなって、みるものをその色彩に、ひきいれるようだった。冠の下の少女の表情が、たとえば一八九八年に描かれた《四つの花》の連作にでてくる薔薇のそれを思わせる華やかな明るさで。
 《クオ・ヴァディス》(一九〇四年、油彩)というはじめて見る作品がある。一九八〇年まで行方不明になっていたもので、この図録時の展覧会で、修復し、はじめて公開したものとある。Hさんからの手紙には、この絵がとくに好きだとあった。ギリシア思想を体現するペトロニウスと、カーテンの向こうから使途ペテロが顔を出すという、キリスト教的なもののあいだに、髪で胸を隠し、腰巻をした裸体の女性がいる。腰巻と香炉からたちこめる煙で、裸体が覆われるだけでなく、ギリシア的なものと、キリスト教的なものが結ばれるようでもある。あるいはそのはざまで、こぼれおちるものとしての女性が、美なのだ。ペトロニウスを見上げる女性の表情が内側から輝くようだ。「クオ・ヴァディス」とは、「主よ、何処に行き給ふ」の意味。たちこめる煙のなかへ。
 図録を頂いた翌々日、新宿伊勢丹に行く。すると「甦るアールヌーヴォーの輝き―ガレ&ミュシャの輝ける時代」展をやっていた。予期せぬ催しだった。ここでまたミュシャに出会えるのは奇縁だと思った。展示即売会タイプだが、サラ・ベルナールを描いたもの、煙草“ジョブ”のポスター、モエ・エ・シャンドンのメニューなど、前期のおなじみもものが結構観られた。あかるくこぼれおちるものたち。
 ラリックの香水壜、宝飾品もあった。関連商品の販売コーナーで、海野弘著『アール・ヌーヴォーの世界』(中公文庫)、Hさんに送ろうと、レターセットなど、ミュシャ・グッズを買う。
 奇縁はつづく。Hさんから年賀状がくる。目黒の庭園美術館は、元は宮様の邸宅なのだが、ラリックが室内装飾を施している。そこが今春、今まで一般公開していなかった部屋も見せることになった、ラリックの深み、ゼイタクにまた触れることができることになる、と書いてあった。ゼイタクというのは、こぼれおちるものの謂だ。
 そして、わたしはちょうど、その時、ミュシャにポスターを描かせていたサラ・ベルナールが、ラリックの宝飾を身に着けていたことを、『アール・ヌーヴォーの世界』で知ったのだった。

【虹の肌─オパール】(『hotel 第2章』19号に加筆訂正して掲載)
一月十五日
 「ベル・エポックの輝き―魅惑のジュエリーからガラス工芸まで―」(二〇〇七年一二月二〇日―二〇〇八年一月六日、大丸ミュージアム)に行く。ベル・エポックとは、一八九〇―一九一五年位のフランスを、大戦直後から、懐かしむようにして、振り返り気味に「良き時代」と呼んだもの。大丸・東京は新店舗となり、その記念展として、古き良き時代を選んだのだった。あるいは「輝かしき時代」とチラシに書かれているように、現在から振り返ることを、現在から明日を見つめること置き換え、輝かしい希望をジュエリーや、ガラスの輝きに重ねて、ということか。
 小さい頃から、悪い癖がついている。期待はずれを怖れて、明日のこと、まだ起こってないことを考えるとき、いつも、悪いほうに考えてしまうのだった。そうすれば、実際起こったことは、たいてい考えていたよりも、ずっといい。辛いことであれば、思っていたほうよりも程度が少ないので耐えられる。想像力をゆがめてしまうのは、想像のほうが現実よりも美しいことをどこかで頷いているということもあるだろうか。いや、現実に、そうではないといってほしいのだ。想像していたよりも、実際は、もっといいものなのだと。私を取り巻く世界にそういってほしい、ということもあるだろう。この展覧会に即して言えば、想像というほどではなく、今まで宝飾品、ジュエリーについては殆ど興味をもったことがないので、期待をまったくしていなかった。だが、ガラス工芸というからには一八九〇年代〜という時代的にもガレやドームが何点かは見れるだろう、そう思って出かけたのだった。
 入ってすぐ、そのガレやドームの作品たちが展示されていた。香水瓶、ランプ、水差したち。これらが見れただけでも充分だと思った。ガラスが最初にもうこんなに出てしまった、あとの展示はジュエリーばかりになるのだろうと、そこにいる時から、次に起きることに期待しないでいたのだった。
 宝飾品に、なぜあまり惹かれないのだろう。宝飾品は値が高価だから、ある程度ステイタスとしての意味を付帯されてしまう。そのせいもあるだろう。高価だから美しいと短絡的に思われてしまう。宝石や金属は、貴金属というくらいに、その存在自体が貴重で、故に高価になってしまうが、それは美しさとは本来関係のないものだ。だが宝飾品には、そうしたモノのもつ貴重さ、値が張るもの、といった要素もまた付帯されて存在する。そこに不純なものが混ざるような気がするからかもしれない。そうしたものを持つ側も、高価なものを身につけることで、ステイタスとしての差別化をはかるだろう。そうした行為には美しさは存在しない。また展示をみる人々も、絵画展に比べて、総じてマナーが悪いのが眼につく。まるで宝石店に友人ときているみたいに、声をはりあげて品定めをする。
 装飾品が嫌いなわけではない。付帯されることが、悪いというのではない。石自体の持つ輝き、金属の独自のきらめき、そしてデザイン、こうしたものの混在としての宝飾品のもつ美が、見えにくいものになってしまうということだ。けれども、そこから美を見つけださねばならないのだろうが。
 遠くに、ルネ・ラリックのランプが見えた。好きなラリックがあるのだとほっとする。だがその前に、宝飾品の展示たちが始まっていた。それはラリックのものたちだった。ラリックはガラス作家になる前、五〇歳位まで、ジュエリー作家として活躍している。《踊るニンフのプラーク》(一八九八―九九年)はブローチ。プラークとはプレートのことで、小さな板状のものをいう。象牙を模した乳白色の人工素材のものに、ヴェールをまとった五人のニンフたちが浮き彫りにされている。まるでガラス素材のように、それらはラリックらしい柔らかさと硬質を、脆さをつなぎとめた凝縮の時間を、繊細な存在感をみせつけていた。《レダとハクチョウのペンダント》(一八九八年頃)は、ブルーのエナメルの湖に、金属の白鳥、裸体の長い髪のレダ、蓮が金属で立体的に現されている。その金の裸体は、陽を浴びたようだ。エナメルの湖は波紋まであり、静謐さをたたえ、神話の世界、その瞬間を、そこから、その小さな世界から見事に立ち上らせているのだった。ほかに《ガラスとエナメルのネックレス》(一九〇三年頃)は、木の実を模したガラスの玉が、金属の枝で点々と結ばれているのだが、ガラス素材のもつ輝きが、単純に心に残った。そして、後のガラス作家としての彼(年代でいうと、一九一〇年頃から)との、その素材の出会いにも思いをはせた。ガラスがジュエリー作家としての彼と、ガラス作家としての後の彼を橋渡ししているのだと。そうして、一番ひかれたのは、《オパール・リング》(一九〇〇年)。デザイン的には、ラリックらしいところが少ないかもしれない。楕円形の大きなオパールに、金に緑のエナメルで彩色したリング。まず、オパールのもつ虹色の色彩に惹かれた。話しがそれるが、私はオパールが好きなのだ。プルーストの『失われた時を求めて』に、夕暮れの湖面は、オパールのように輝いているといっていた箇所がある。その水面の色彩を、実際に、海でだったが、確かに見たことがあった。それ以来、オパールは、私にとって、水面を閉じこめた大切な石となったのだ。ともかく、こんなに大きなオパールを見たことがなかった。わたしの水面がそこにあった、と同時に、やはり、それは後期のガラス作家としてのラリックを思わせるものだった。彼は、オパルセント・ガラスという、オパールの色彩を持つ半透明の乳白色のガラスをよく使っていた。これらのガラスは、女性の肌になることが多いのだが、ルノワールの白地に様々な色を塗り込めた女性の肌のように、凝縮した個性だった。オパールの色彩と、オパルセント・ガラスの色彩が、重なり、やはり彼らを橋渡しにしているのだった。あるいは、彼のなかに連綿とやどるものを、眼で見えたようでうれしかったのかもしれない。この展覧会でも、《シュザンヌ》(一九二五年)という立像があった。水からでてきたばかりのような、水の青さをも身体にしみこませたかのような、柔らかい色彩の肌を持つシュザンヌ。
 《オパール・リング》の解説に、「オパールは不幸を運んでくるという迷信があったがラリックはそれを否定している」とあった。否定というより、彼にはそうしたことに関心がなかったのだろう。彼は「石そのものの本質的要素によって選ぶのではなく、石の持つ審美的要素で選んでいる」のだから。そうして気づく。ここにあるラリックの作品たちは、ガラス、エナメル、半貴石、人造象牙など、素材としてはどれも高価なものではないのだと。家に帰って図版を見ると、確かにその通りで、トンボの櫛などもあったが、素材は動物の角などで、当時は安価に手に入ったものらしい。ダイヤを使う場合も屑ダイヤが使われている。ラリックにあっては、「作品の価値が宝石そのものに依拠するのではなく、あくまでもデザイン力で勝負する作品が追求された」のだと。展覧されていたラリックの宝飾品たちにひかれた理由がわかったような気がした。そこには付帯するものがなかった。それは作品そのもののもつ吸引力だったのだ。宝石の価値に依拠したのではない、素材のもつ美しさとの(それはエナメルでもガラスでもいい、もちろんオパールでも)混合だったのだ。だが、こうしたラリックの作品は、高価な宝石を使ったものよりも、投資性が低いと、富裕層から見放されてしまったとある。「素材の資産価値が直接的に見られてしまう場では」、ラリックのそれは見劣りしてしまうのだと。「(にも関わらず、ラリックのジュエリーは安価ではなかった)」とあったのがなぜか面白い。絵画では素材の資産価値を云々することはあまりない。だが宝飾品はそうではない。彼は、資産価値のあるなしで素材を選んでいたわけではないので、逆に高価なダイヤなども使って宝飾品を作っている。だが、そうしたものは、ダイヤだけを抜き取られ、べつのものにリフォームされてしまって殆ど現存しないそうだ。これはラリックに限らず、ほかの宝飾品たちの場合でも同じだ。つまり、こうした場所でデザインを重視して作品を作るにはどうしたって限度があるということだ。だからこそ彼はガラス作家になったのだろう。素材の資産価値をもとめられることがない。そして素材のもつ力を引き出せる。オパールセント・グラスの虹の肌。
 展覧会場では、ラリックの宝飾品から、ラリックのガラス作品たちのコーナーになった。途中で、遠目にみたランプたちの場所だ。香水瓶、立像、灰皿、見なれたものたちが硬く優しく色を放っている。そして、いよいよ、カルティエ、ティファニーらの宝飾品のコーナーになり、展覧は終わった。変わらず、どうしても、ひかれるものがなかった。きれいだとは思うし、細工も凝っているのだが、なにかよそよそしいのだ。ただ、展覧会の目玉である、日本初公開だというココ・シャネルのティアラ(一九三〇年頃)は、少し気になった。アクアマリン、クリスタル、リュベライトなどの大粒のカラード・ストーン(色石)で、素材のもつ鮮やかさを最大に活かしたシンプルなティアラ。だが、それも、素材から美と無関係な資産価値がそこから見いだせなかったからかもしれないが。
 それでも、その段階ではもはや失望はなかった。ラリックのジュエリーはそれでもとても教えてくれた。それは宝飾品に対する私の偏見をも少しだけ脇にのけてくれもした。
 会場を出る。ラリック社の製品が置かれている売場に行ってみる。ガラスに髪が蛇になったメドゥーサの頭が浮き彫りにされているペンダント、指輪などがいつものように売られている。正月だったので、ラリック福袋も売られていた。五万円、十万円(は売り切れていた)で、ペアグラス、ペンダント、灰皿などが入っているらしい。グラス、花瓶、どれも古いラリック作品のコピーで、全体的に、もちろん往時の精細はないのだろうが、ラリックがそこに、今ここにあることを(季節行事にまで参加しているのだから)、それでもやさしいものとして受けとめたのだった。

【遊びとことば】
一月二十五日
 そしてラリックは続く。一月五日の日記に、庭園美術館の室内公開についてHさんからの賀状で知ったと書いたが、一月十二日〜十四日の三日間だけ、室内特別展示をすると知り、出かけてきた。この期間は写真撮影も可とのこと、玄関に入ってすぐのガラス扉のレリーフと、シャンデリアをラリックが手がけているので、特にそれをカメラに収めたいと思ったのだ。旧朝香宮邸宅。朝香宮殿下は一九二五年のパリ万国博覧会の折、現地でアール・デコに出会い、一九二三年の関東大震災で壊れた家を新たに作り替えるにあたって、万博に出品していたアンリ・ラパン、ラリックらに装飾を頼んだ…。ということを、二階の踊り場で、学芸員の方が説明していた。結婚祝いだという大きなオルゴールがあり、その実演を聞くにあたっての解説だった。オルゴールはだいぶ痛んでいたので、音が悪かったが、逆にそのことが八〇年ほどの時間のなかをくぐりぬけてきた音色として、室内に響きわたるのが、心地よかった。
 ラリックのガラス大扉レリーフの女性については、前にここで書いたと思うが、その背筋を伸ばして立った女性の姿が、招くというよりも、入るわたしたちに軽い注意を促しているようなのだった。ここには細心の注意をして入らなければいけないとでもいうように、何故ならこれらは、細心の繊細さをもって丁寧に作られたものなのだから、と。彼女は、背中から羽根が生えているが、羽根は葉のようであり、樹木の精のようにも見えるのが、なにか自然との接点を模索しているようで、入り口(出口でもある)として、ふさわしく思うのだった。スポットライトが照らされているが、往時は室内からの電球の明かりで、立像には肌色を、羽根には陽光めいた色彩を、ちらめかせていたのだろう。
 入ってすぐの、白い大きな香水塔が眼を惹く。多分これだけのためにしつらえられた部屋なのだろう。ここから香りをくゆらしていたのだ。次室の大客室の二つのシャンデリアと、その次の間の大食堂の照明がラリックの作品。シャンデリアは垂れ下がる花たち、客室を飾る花の役割をも果たしているようだ。食堂の照明はパイナップルと桃だろうか、果物のレリーフ。こちらはデザートの一端を繊細に引き受けているようだった。
 他の照明(たとえば、様々な色のステンドグラスを金平糖のような形にして吊り下げてあるのが、天井に万華鏡のような光を投げかけているものもあった)、壁紙、暖炉、飾り棚、階段の手すりの透かし彫り、鉄で花を模したラジエーターカバー、それぞれが凝っている、見るにあたって気が抜けない。浴室、トイレまでもがほとんど荘厳といっていい、異彩を放っていた。映画などで、キッチンが映る。料理をしている。そこには生活感がないといつも思うのだが、その感覚が浴室から、洗面所からまざまざと押し寄せてきた。注意ぶかくここにいなければいけない、接しなければならない。室内の装飾たちが、あちこちからささやきかけてくる。そのことと訳のわからない繋がりをもって、日常について、生活するということについて、室内の様々な意匠が、ことばをかわしあっているのだった。
 ここは何回か来ているが、通常は展覧会を開催する美術館として存在しているので、展示作品と融合して(それだけ、美術性が高いということなのだろうが)、今までそのことをあまり気にとめたことがなかった。今回のような邸宅公開ということで(これも美術性が高いからだが)、展示するものが、室内そのものになることで、装飾性が浮き彫りになるだけでなく、付随して、そこでなされていたであろう生活がたちあらわれてくるのだった。だから朝香宮の人々の、だけではなく、わたしの、というだけではなく、それらを含めた生活、生活と装飾の関係性、たちについて、ここでは知らない言語で会話がされているように感じたのだった。知らない言語、だが、もうちょっとでききとれるかわかるかもしれないことばが。
「規則の限界内での自由な反応を即座に発見し、創案せねばならぬ。そこにこそ遊びがある。…この余裕は、遊びに特有なものであって、遊びの生む楽しさをある程度説明するものだ。それはまた「遊び」という言葉の次の場合のような注目すべき、意味ぶかい使い方をも説明する。すなわち、芸術家の「演技・演奏(ジュ)」、あるいは歯車装置の「遊び(ジュ)」といった表現の中にも認められるもので、遊び(ジュ)は前者においては演技・演奏者の独自のスタイル、後者においては機械のかみ合わせのゆとりを示す。」(『遊びと人間』ロジェ・カイヨワ)
 この規則の限界内での創案、独自のスタイルは、こうした室内装飾にもあてはまるだろう。ラジエーターカバー、シャンデリアという機能を果たしながら、独自の意匠を凝らすこと。また、これはゆとりとしても、わたしたちに作用してくるはずだ。装飾性が全くない家具、器具に囲まれて暮らすことは、おそらくとても窮屈で寒々しいものになるだろうから。
 装飾はこの意味で、「遊び」と呼べるだろう。そして、ラリックのガラスの大扉に告げられたような(気がした)、装飾に注意深さを持って接することというのは、「遊び」と相反するものでは決してない。それは演技・演奏を観る、聞くわたしたちの態度としてふさわしいものだから。
 こう書いていても、室内でささやかれていた家具たち、装飾たちのことばについてはまだわからない。日々のなかで、遊びと接することと、それらは照応しあっているのだと思うのだが。注意深く日々を聞くこと。
 帰り際、ラリックのガラス大扉をもう一度見た、写真を撮った。挑むような、けれども同時に優しさを全身から放ちながら、レリーフのなかの女性は、開いた玄関から外を、帰るわたしたちを見つめている。それは無言の饒舌だ。

【花の束のめまい】
二月五日
 ブルガリにプールファムという香水がある。はじめて店頭でその香りをかいだとき、花々につつまれるような至福感に満ちためまいをおぼえたものだった。それは麻薬的な衝撃だった。ミモザ、オレンジ、ジャスミン、ローズ、アイリス、ムスク、ビャクダンらの花の束たち。以来、ずっと気に入って使ってきた。けれども香りに人は慣れてしまう。花の束の香りは、思い出よりもはやくどこかに逃れてしまうものなのだ。
 中学校はどぶ川の近くにあった。通いはじめは川を通るたびに汚臭が気になったが、いつからだろう、割りと早い時期(おそらく数ヶ月)で、まったく何も感じなくなった。不思議に思ったが、慣れとはこういうことなのか、と教えられたものだった。
 くらべるのが少々香水のほうがかわいそうだが、それと同じことなのだろう。悪臭と比べれば、慣れは緩慢だったが、確実に、プールファムの、花の束の匂いを感じなくなっていったのだった。それでもずっと、何年も使っていた。最初の衝撃が忘れられなかったから、そして、そうした体験をさせてくれたあの花の束たちに、親密さを感じていたから。それは匂いがわからなくなっても、失われることのない体験の思い出だ。だが最後はつけた瞬間から、アルコールの臭いしか感じることができなくなっていた(アルコール臭が感じられることも不思議だったが)。これは本当は、オーデ・パルファムという、香りの濃度の濃い、長時間保つタイプの香水なのだが。
 慣れが原因ならば、他の香水に浮気をすれば慣れから逃れることが出来るかと思った。迂回をしたら、またあの花の束の香りが、戻ってくることになるかと、あの目まいに近づくことができるかもしれないと思ったのだ。また、もし別の香りが気に入ったとしても、数種類使いわければ、その別の香りのほうも、慣れから遠ざけておくことができるのではないか、とも思ったかもしれない。ロシャスのオー・デ・ロシャス、グレのカボティーヌほか、色々試したが、ニナ・リッチのレールデュタンが一番気に入った。プールファムで感じた花々の衝撃はなかったが、それはなつかしいような柔らかな花のふるまいだった。それはなにか思い出に近しいものだった。今香りの成分をしらべてみると、ジャスミン、ローズ、ビャクダン、ムスクと、プールファムとかなり共通の花の匂いが使われていることに気づく(ちがうものとして、ほかにカーネーション、くちなしなど)。結局花たちが束の中から呼び合っているのだろうか。けれどもレールデュタンはそれでも別の香りだった。やさしい、どこかほっとする匂いだった。おまけにボトルデザインが良かった。蓋が二羽の白い鳩がモティーフとなっている。発売は一九四八年、第二次世界大戦後だ。時期的にも、このデザインに平和をこめられたらしい。それは私のひかれるアール・ヌーヴォー的なデザインとして映るのだった。流動的な線、自然との出会い。ちなみに、カボティーヌも蓋がうねうねとした緑のガラス製の葉っぱで、そこにアール・ヌーヴォーを感じて使ったのだった。こうしたことは、大事な無駄、ゆとり、つまり遊びである。ラリックの香水も、ラリック好きとしては気になったが、匂いがすこしきつかったので、飾りとして、ミニチュアボトルを買ったこともある。ラリックが一九二〇年代、デザインしたコティの製品も探してみたが、現代のはデザインが気に入らなかった。ロシャスのビザーンスは、ビザンティンをイメージした、つまりヨーロッパとアジアの接点をイメージした、青い壷のような瀟洒なボトルで、香りもなかなかいいのだが、入手困難で、ミニボトルをようやく手に入れられただけだった。ともあれ、レールデュタンが、香りと形ともに気に入り、手に入りやすいものだった。
 レールデュタンをおよそ半年かけて一本使いきった頃、まだ少し残っていたプールファムをおそるおそる使ってみた。もちろん、最初に受けた衝撃はなかったけれども、失われた香りがまた戻ってきてくれたのがうれしかった。花の束が、おずおずと差し出されているようだった。私はまた、花たちに再会できたのだ。
 今いけばどぶ川も、強烈な臭いを放つのだろうか…。だがこちらは、前よりも状態が改善され、臭いがしなくなってきているというが。
 この頃は、レールデュタン、プールファム、交互に使っている。脳の海馬という記憶をつかさどるところと、香りを感じるところは、近いと、前にもここで書いたが、香りたちは思い出と親しいものだ。だが、慣れと新鮮さのはざまで、日々をみつめることを、香水たちは教えてくれもするのだった。レールデュタンは、時の流れ、という意味だという。ともあれ、ふたつの香水は、季節のちいさな便りをしたためた玉手箱のように、花の束から、ひめやかに香りを送り届けてくれるのだ。

【クセニティス、遍歴するロートレック】
二月十五日
 ロートレック展(二〇〇八年一月二六日〜三月九日、サントリー美術館)に行った。トゥルーズ=ロートレック(一八六四年―一九〇一年)の、生涯三七年のうち晩年十年にスポットをあてた展覧会。ポスター、肖像画、版画、スケッチ。だが、その十年、二十代後半から三十七歳までの間に、主要な仕事はなされているから、ほぼ網羅している回顧展といった印象を受けたのだった。
 ロートレックは、多分わたしにとってはじめて知った画家になると思う。生まれた時だったのか、物心ついた時からなのか、家に複製画が飾ってあった。今はないし、手元にある画集やカタログに載ってないので、作品名などは解らない。記憶では、それは油彩画で、太った婦人の上半身が描かれてあった。服は灰色、髪の色は褐色。美しいとはいえない女性だが、存在感があった。この作者がロートレックだと親から教えられる。その表情は、子どもの眼には、こわい、厳格なものに映ったが、毎日観ている、というより見かけているうち、親近感がわいてくるのだった。それは絵そのものに対してでもあり、ロートレックという名前にも親しみを覚えることになるのだった。小学生低学年だったと思う。多分食玩のようなものだったのだろう。スーパーで、額付きの三センチ四方位の小さなロートレックの絵を見つけ、親にねだって買って貰ったことがある。中学になると、ロートレックの絵はがきを何枚か買っている。それは、絵にひかれてなのか、名前につられてなのかわからない。おそらく両方だろう。また、画家の生涯など、以前はあまり気にとめたことがなかったが(絵と人生を結びつけて考えることをあまりしなかったので。今では、それは半分正しく、半分間違えていると思っている)、ロートレックについては、早い時期から簡単な略歴を知っていた。南フランスの男爵の家に生まれ、遺伝と骨折のために、十五歳で成長が止まり、歩行も困難になったこともあり、観察者=画家となる。モンマルトルの歓楽街で、絵筆をとり、役者、歌手、娼婦などを描き、アルコール中毒、梅毒などを併発、三十七歳で生涯を終える。画集も数冊ある。一冊は高校生の頃に買ったものではなかったか…。こう書いてみると、ロートレックはわたしにとって、かなり特別な位置を占める画家であったことに、あらためて気づく。一番はじめに名前を知り、一番はじめに絵はがきを買い、一番はじめに略歴を知り、一番はじめに画集を買ったのが、ロートレックのものなのだから。だが、それは先にも書いたが、親近感のなせるわざだった、親戚かなにかのように身近に感じていた故だったので、特別なこととは少しも感じられなかったのだった。
 そして、このロートレック展。だが実はまとまったロートレック作品を観るのはこれが初めてなのだった。そして印象はおおまかにわけて二つになる。一つは、絵はがきや画集で親しんでいた絵たちの実物に出会えた喜び。この喜びには、喜びにより、親密さを増してゆくような意味合いもあり、どちらかといえば個人的な感情といっていいだろう。たとえば、『ジャヌ・アヴリル』(一八九三年、踊り子ジャヌ・アヴリルが片足をあげて踊っている、彼女の宣伝用ポスター)、『ディヴァン・ジャポネ』(一八九二―九三年、日本風のカフェのポスター、カウンター中央に、黒衣に黒い帽子のジャヌ・アヴリルが座っている)、役者アリスティド・ブリュアン(つばの広い帽子に、マフラー、四角い、いかつい顔)を描いた一連のポスター作品から感じたものがそうだ。一瞬、なじみのあったそれらに、生で会えた喜びがやってくる。だが、その親密さをやぶって、やってくるものがある。これが、第二のものにつながるだろう。それは、ロートレックの、だろうか、あるいは彼らのだろうか、ロートレックの力と、ジャヌ・アヴリルのもつ力、アリスティド・ブリュアンのもつ力、それらがせめぎあい、かさなりながら、存在をにじませ、あふれさせ、凝縮したなにかとなって、手招きしてくるように感じられるのだった。それはどちらかといえば表情に近いものだ。表情に現れる、人間の生の瞬間が捉えられている。それはもちろん静止しているが、なにか動きの総体のようなのだ。存在の動き、としての表情が、画面からあふれ出してくる。ジャヌ・アヴリル、アリスティド・ブリュアン、そして、歌手のイヴェット・ギルベールを描いた版画集、どれも実物よりもおそらく、みた目でいえば、表面的なことをいえば美しくない。イヴェット・ギルベールは、ポスターの下書きを見て、「こんなにも無惨に醜くしないで下さい」と、他の画家のデッサンを選んだそうだ(後に、和解する)。写真に残っているほかの人たちと、絵を比べてもそうだ。ちなみにサラ・ベルナールのデッサンもあったが、ミュシャのそれとまったく違っていた。ミュシャのそれが、生を線に移行させ、線を生き生きと美しくさせていたとしたら、ロートレックは、女優の生と筆の生そのものをからめた生としての表情だった。ロートレックのそれらは、薔薇のようには美しくない。だが、そうした表面的なものを描いたのではない、とロートレックの絵からはにじみだしてくるものがあり、それこそが美なのだった。絵が、力強く、生を美として語りかけてくるのだ。そこにあるものは、生そのものなのだ、と。《彼女たち》(一八九六年)という一一枚の版画集がある。これは殆どが娼婦たちを描いた連作で(一点だけ、女道化師)、今回ほとんどはじめて見た。コルセットをしめているところ、髪をあげているところ、目覚めるところ、かがんでいるところなどで、好色性はほとんど感じられないし(そのために、売上げはとしては失敗だったらしい)、やはり、彼女たちはあまり美しいとはいえない。だが、その肩、その首の一端からすら、生がうごめいているようなのだ。シーツのしたに、生がたしかに存在しているのだと、絵は伝えてくるのだった。このうごめく生の感触は、家にあった複製画からもじわじわと感じていたのだった。彼女は決して美しくなかった。だが存在として美しかったのだ。
 ロートレック展の会場で、ふと『永遠と一日』(テオ・アンゲロプロス監督)の台詞を思いだした。サーカスのスケッチ(たとえば《フッティとショコラ》一八九九年など。フッティは白人の道化師、ショコラはキューバ人でいじめられ役)を見ていた時かもしれない。「クセニティス」「亡命者(という意味)か?」「どこにいてもよそもの」。クセニティスは、ギリシャ語の方言だ。貴族であるロートレックは、歓楽街では、よそもの、クセニティスだったろう。もっとも、サーカスの住人、役者、娼婦、彼らもまた、日常からという意味で、よそものの意味合いを帯びる者たちなのだが。あるいは異人。「〈異人〉とは、それ以上さすらいはしないものの、〈漂泊〉の自由を放棄したわけでもない潜在的な遍歴者である。」(『異人論序説』ちくま学芸文庫、赤坂憲雄)それは、他者として疎外されるものでもあるが、拘泥することなく、そこにいつづけることができる者でもある。こうした遍歴こそが、生を吸い込み、からめとることができる、と思わずいってしまいたくなる。よそ者としての、彼らの生。ある種の哀しみとともに。哀しみというのは、こういうことだ。わたしは『永遠と一日』のこんな台詞がとても好きだったとまた思い出す。「なぜ私は一生よそ者なのか。ここが我が家だと思えるのは、まれに自分の言葉が話せた時だけ。自分の言葉…失われた言葉を再発見し、忘れられた言葉を沈黙から取りもどす…そんなまれな時にしか自分の足音が聞こえない…。」我が家はまれにしか存在しない。たとえば、絵からあふれる生の間だけ。わたしは、この台詞がとても好きだった。ともかく、このクセニティスとしても、ロートレックは、わたしに存在する、わたしを遍歴するのだった。わたしは、彼を身内のように感じていると書いた。「どこにいてもよそもの」。それはわたしが、自身をどうしたってそう感じてしまうことにも由来しているのだ。

【時と生の幻視】
二月二十五日
 「池田満寿夫―知られざる全貌展」(一月二六日―三月二三日、東京オペラシティアートギャラリー)に行ってきた。初期の油彩から、版画、彫刻、陶芸と、ほぼ美術関係は網羅した回顧展といっていいかもしれない。というのは池田満寿夫は、他にも、小説家、映画監督、脚本家、TVタレントなど、多岐に渡る活動をしていたから。彼もまた、わたしにとっては、ロートレックのように、小さい頃から、なんとなく身近に感じていた人物だった。彼の原作、監督作品『エーゲ海に捧ぐ』(一九七九年)は、映画は観ていないが、宣伝か何かで、幼少の頃に、名前を聞いていた。なにかエロティックなイメージがあり、子どものわたしには、それは大人のあやしい神秘的な世界を彩るものの、代名詞のようなものとして映ったものだった。大人たちが子どもに見せまいと隠しているエロスが、その頃のわたしには、なにか秘密の宝箱のように思えたのだ。
 高校生だったか、古本屋で小説『エーゲ海に捧ぐ』を見つけた。子どもの頃に抱いた気持ちは、殆ど忘れていたのだが、見つけるとそれでも、懐かしいような気持ちになった。なにか親戚のおじさんに久しぶりに会ったような気がしたのだった。本は、淡々として、かつ流れるようなきらめきをもった文体で描かれていたと記憶する。そう、内容はあまり覚えていないが、主人公が、留学先のイタリアかどこかから、洗濯物を日本にいる恋人に送るのだが、その中に、留学先で同棲している女性の派手な、汚れた下着が混じっていて、そのことでさんざん、なぜあたしが他の女の、こんな汚れた下着を洗わなければいけないんだ云々、お経のようにまくしたてられるシーンだけ覚えている。けれども当時のわたしには気に入った文章を書く人だったらしく、その後、エッセイ、小説等、見かけるたびに買っている。展覧会脇の書籍販売で見た感じだと、今ではほとんど手に入らないようだ。そのなかの一冊に、詩画集『女と男』(角川文庫)がある。ヴェルレーヌの詩で、訳が澁澤龍彦、画が池田満寿夫だ。元々が秘密出版されたポルノグラフィーということで、かなりエロティックな詩で、画も、女性や男性たちが、あからさまに性器をむきだしにしているきわどいものだ。ともあれ、画家としての池田満寿夫にもこのあたりで出会っている。塑像家としての彼には、こんな感じで出会っている。ウイスキーだったかの景品で、池田満寿夫の美女グラス、なるものがあった。ロックグラスで、グラスのまわりに裸体の美女が寝そべっているふうな浮き彫りになっている。酒屋さんで一目見て、すっかり気に入ってしまった。それは親しみぶかい、やさしげな裸体として映った。わたしはウイスキーは飲まないし、多分当時は未成年だったかと思うけれど、ともかくどうにかして手にいれ、お茶を飲み、ジュースを飲み、ワインを飲み、と何年も愛用のグラスとして活躍してくれたのだった(ある日、家に帰ると、そのころ一緒に住んでいた家族に割られ、捨てられ、あとかたもなくなっていたのが、ショックだった)。ほかには、彼は若い頃、富岡多恵子と暮らしていた関係で、富岡多恵子の初期の小説に、池田満寿夫をモデルとした若い画家がわりと出てくる。富岡多恵子は、はまってかなり読んだので、そのあたりでも、なんとなく顔なじみのように思ったりもしていたのだった。
 さて展覧会。初台にあるここは、勤務先から二駅なので、アクセスがいい。七時まで開館しているので、会社の帰りにいける。なじみの人に会いに出かけるような気持ちをどこかにもって、出かけたのだった。
 彼の絵画のほうは、前からなんとなく知っていた。その限りでは、どうも良さがわからなかった。今回も、やはりそうだった。油彩、エッチング、デッサン、どうもぴんとくるものがなかった。
 けれども陶芸作品たち。ほぼはじめて見るものばかりだが、こちらは惹かれた。彼は、陶芸の際、偶然できるかたちを重視したという。また、陶芸家として出発したわけではないので(昨陶は一九八三年四九歳から九七年六三歳で亡くなるまでに渡ってだ)、既成概念にとらわれず、土に命を見たとあった。展覧会会場では、入ってすぐに、《裸形・茜城》(一九九三年)という、赤褐色の陶でできた作品がある。いびつな塔、風化しつつある廃墟のようなかたちだ。色と、茜ということばから、夕景に染まる塔を連想した。《古代幻視・クノッソス》《古代幻視・パルミュラ神殿》(一九九三年)は、萩窯で作られた、薄茶色で、やはりいびつな塔の形だ。他に《裸形・翠柳城》《裸形・甲城》《裸形・牛城》(一九九三年)もそれぞれ塔の形で、濃い灰色。これらの塔は、土のもつ時間と、人間が重ねてきた時間を合致させ、そこに存在しているようだった。どれも塔のかたちをなしていないのだが、だからこそ、本質としてさらけだされているようでもあった。わたしはそれらから、太古からの時間を感じたのだった。裸形のままあるかたちから、古代幻視の風が吹いた、と作品に寄せていいたくなる。《裸形・啼鳥岩》(一九九三年)は、禿鷹のような姿の石にみえるが、それもまた石が偶然似た形になった、といった風で、禿鷹の姿を踏襲しているのではない。だが、そこに、わたしたちがはいってゆける余地があるような気がした。鳥の歌がこもっている、鳥の生命とともに、わたしたちは存在してきたのだと、悠久の時間をそこに感じたのだった。どれも、側面にかなり大きくMasuoとサインが彫られている。そうすることで、その瞬間、作者の命が、土の命と触れ合うことができるかのように。またそれを観るわたしたちとも命たちが響きあうことができるかのように。
 この後、油彩、版画などが年代順に並べられ、最後にまた彫刻、陶芸作品が並ぶ。彫刻《仏塔》シリーズは、高さ十五センチほどの小さなものだが、素朴な、柔和な表情の仏の顔と、やはりいびつな塔でできており、時間を見つめる視線を感じた。《仏塔14》(一九九四年)は、椅子のようなかたちの中央に仏の顔がある。一の字に線を彫られただけの目で、眠りについているようでもあり、瞑ることで内包するなにかを現しているようでもあった。展覧の最後のほうに、釉薬をかけて焼いた陶の額があった。《佛画陶額4》(一九九四年)は、なめらかな陶に、釘でひっかいたような面長の仏の顔で、その簡素さに、たとえようもないやさしさ、赦しに似た何かを感じた。そして《富士》(一九九六年)も陶の額で、こちらは版画のように、富士が青、山頂が白と、わけられているが、単純な線だ。けれどもどっしりとした存在感があり、やはり生をささやくようだった。彼は山梨にも窯をもっていたから、そこからの風景だろう。彼の日々と、富士という山の時間が出会って、生を迸らせているような、そんな存在感があった。
 展覧をひととおり観たあと、また陶芸作品だけ、観る。なんども観る。かたちを、その時間と生を眼に焼きつけておきたいと。彼はもはや、ほとんど顔なじみの人(といったイメージという意味だが)ではなくなっていた。凝縮した時間と生を送り込んでくる、陶芸作家としてそこにいたのだった。それはとても心地よい新しい印象だった。

【冒険へのいざない】
三月五日
 日経新聞、スティーヴン・ミルハウザーの小説『ナイフ投げ師』紹介文に、「著者はあるインタビューで「小説とは冒険にほかならない」と述べている。この場合、「冒険」とは、読者を日常生活のくびきから解き放つ「危険と隣り合わせの驚異の世界」への誘いのことだが、赴くところは世界の果てとは限らない…」とあり(越川芳明氏、三月二日)、ちょうど小説について、なんとなくだが似たようなことを感じていたので、興味をひいた(ミルハウザーも好きな作家なので、そのうち読むつもり、今回のこれは短編集だそうだ)。
 少し前に、『遊びと人間』(ロジェ・カイヨワ)を読んでいた。遊びを定義づけ、考察している優れた本だが、その中で、大雑把に言ってしまうと、遊びはまず現実と境界を設けた上で行われること(競技、賭事、演劇空間)、歯車の「遊び」について、「厳密正確のさなかに残さるべき自由を意味する」、また、境界が設けられてはいるが、遊びと現実の間、「両者のあいだにはある関係が保たれている」といっている。例えば競争の遊びは、現実の競争社会との関連がある。また例えば「偶然と組み合わせの遊びは、数学のいくつかの展開の源泉であった」等、両者はわかたれているが、浸透しあい、影響しあっているのだった。けれども、「遊びは仕事の準備訓練ではない」。
 これらのことを、芸術との関わり合いとして読んでもみていた。もっとも遊びを競争、偶然、模倣、眩暈と、四つに区分けする際に、模倣の中に最初から演劇をそのカテゴリーに入れているのだが。
 境界をひいた中で、「規則の限界内での自由な反応を即座に発見し、創案せねばならぬ、そこにこそ遊びがある」。
 “jeu”、「すなわち、芸術家の「演技・演奏(ジュ)」あるいは歯車装置の「遊び(ジュ)」」。
 また、遊びの危険性について述べられたことにも、芸術との関連を見いだした。「遊びは贅沢な活動であり、余暇を前提としている。飢えている人は遊びはしない。」「遊びは虚構の障害である」が故に、現実認識が抽象的になってしまう可能性がある。けれども、事態はいつも両刃の刃であるのではないか。「これは遊びの本性に由来するものであり、もしこの欠陥がなければ、遊びは豊かな創造性をも同時に失ってしまうであろう」。
 わたしは、ずっと飢えとのこの問題を、重石のように感じていた。飢えている人は遊びをしない。だが、だからといって遊びを責めるべきではない。飢えていることを除くことが問題なのだ。「人はパンのみに生きるにあらず」ともいうではないか、と、自答してみるのだが、重石はずっと残っている。いや、たぶん残っていていいのだ。そうしたことを担いながら、境界線を持たなければならないのだ。遊びがなければまた生きられないのだ。と声を立ててみるが、まだその線はあやふやだ。だが、現実と遊びは、均衡を保っているのではないか、どちらか一方だけの世界とはありえないのではないか。そんな風に思ってみる。どちらも境界をたもちながら、浸透しあってともにあるのだ。「遊戯者は日常生活から遠ざかることを求めて遊ぶのである」。この遊戯者は、どちらの世界にも属しているのだ。江戸川乱歩は、ポーのことばを好んで使っていた。「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」。だがどちらもまた、わたしたちの体験なのだ。あるいは夢が昼にとって必要であるように、昼もまた夢にとっては必要なのだ。
 小説を読むこともまた、なにか境界をひいた世界をかいま見せてくれるものだろう、遠ざかることを求めて、かどうかはわからないが(そうかもしれない)、文章はわたしを現実とは位相の世界に確かに連れていってくれる。ということを、冒頭でも書いたが、思っていたのだった。くびきからはなたれても、わたしたちは、また現実にもどってくる。たがいに行き来することで、世界は影響しあって、均衡をたもっているのだ。
 この一年くらい、なぜか小説を読むことが難しかった。詩集、詩誌は読んでいたのだが、小説の世界に入ることができなくなっていた。詩誌は仕事の必要もあって読んでいたのだが、おそらくそのせいだろう。詩もまた現実に依拠しながら、別の位相から世界を見つめるものだ。あるいは境界そのものから発生する裂け目のことばだ。わたしはこの裂け目に入りすぎていた。ここからまたさらに小説の世界に入ることができなかったのだ。小説と世界の裂け目は、また別にあるから。たぶん、いや、わからない。
 先日、久しぶりに小説を読んだ。正確には戯曲。中野美代子『鮫人』(日本文芸社)。桐田真輔さんが「断簡風信」で好意的に紹介されていたので、読みたくなり、お借りしたもの。鮫人(コウジン)とは中国的な人魚のこと。阿片戦争のすこし前の中国が舞台の幻想的な「鮫人」と、チンギス・ハーンの頃の蒙古帝国の宰相、耶律楚材の一代記「耶律楚材」の二つの戯曲作品からなる。会話としてのことばや独白としてのことばたちが綿に水がしみてくるように、景色、風俗、心理の錯綜、時間、もろともをまきこんで、どんどんはいってくる。わたしはまたこの小説のめくるめくいざないの世界にはいることができたのだ。均衡をたもった冒険、注意ふかく綱をわたるようにして。「両者のあいだにはある関係が保たれている」。
 三月に入り、陽差しがやわらかくなってきた。去年のようにまたあちこちの梅を見に行こう。あまやかな匂い、わずかに黄がかった花びらが、陽差しをうけながら虫を誘う。冒険は背中あわせにあちらこちらで手招きしているのだ。それはときに胸がいたい。

【肌という景色】
三月十五日
 そう、陽射しが明るくなってきた。会社へ行く途中の散策路に、森の小道のように見えるところがある。長く続く道に、木々から落ちる影と光で、道が時に縞模様に、波紋のように、蜘蛛の巣のように彩られる。温もりのような日だまりたち。ここを通るたびにいつも、印象派の画家たちの描いた風景を思い出し、眼前のそれと重ね合わせてみるのだった。
 「ルノワール+ルノワール展」(二〇〇八年二月二日―五月六日、Bunkamuraザ・ミュージアム)に行った。画家のオーギュスト・ルノワールと、その息子(次男)で映画監督のジャン・ルノワール、二人の展覧会。具体的には、父ルノワールの《ぶらんこ》(一八七六年)と、息子の映画『ピクニック』(一九三六年)のぶらんこをするシーン、《狩姿のジャン》(一九一〇年、これは十六歳の頃のジャン・ルノワールその人だ)と、『ゲームの規則』(一九三九年)の狩猟シーンなど、父の絵画世界にインスパイアされたもの、類似している映像などを並べるかたちで、展覧が構成されている。この映像のなかでは、『草の上の昼食』(一九五九年)が目をひいた。陽光あふれる池に、豊満な裸の美女が泳ぐシーンだ。対応する父の作品には、《陽光のなかの裸婦(試作、裸婦・光の効果)》(一八七五―七六年)があげられていたが、『草の上の昼食』(Le Dejeuner sur l'herbe)というタイトルは、マネの絵のそれと同じものだし(但し、こちらの訳は《草上の昼食》で、映画と区別されているようだ)、どちらかといえば、ルノワールだけではなく、印象派的なもの、その時代へのオマージュ、といった感じがあった。さんざめく光りと、水の反映、そして描かれはじめた人間そのもののの裸体(それまでは、人間の裸体ではなく、女神などの裸体として描いていた)、それらのはなつまぶしさへの讃美、といった感触があったのだった。
 けれども、映画のワンシーンばかりが流れているのは、この場ですべてを上映するわけにはいかないだろうから、仕方がないといえばしかたないのだが、尻切れとんぼの感があった。それと、会場内で、絵を見るその横で、映画の台詞、音楽があちこちから流れているのは、すこしばかりわずらわしく感じた。絵を見るときに、集中力が乱されるのだ。
 わたしはジャン・ルノワールの映画は、『大いなる幻影』と『どん底』しか見ていない。この二つは展覧会にはない。多分、父ルノワールと、あまり関連づけて語るところがない作品だからだと思う。二つとも、総じて暗いのだ。だから、ここで『恋多き女』や『フレンチ・カンカン』の明るい映像(この二つは、どちらも父ルノワールが生きた時代、一九世紀末を扱っている)に、新鮮さを感じたし、これらも含め、会場で流れているほかの映像にも、父作品からの影響を確かに感じ取ったような気もしたが、実はあまりそのことにはひかれなかった。展覧会の性質上、当然なのだろうが、なにか片手落ちなような気がしたからかもしれない。父と息子の展覧会と称しつつ、父へのオマージュ、父からの影響という面ばかりがクローズアップされ、映画監督ジャン・ルノワール個人への言及が少ない、結局は画家ルノワールを照らし出すばかりとなったことへの均衡を欠いた感覚に、戸惑ったからかもしれない。例えば晩年の父の絵のモデルをしていたデデという愛称の女性が、ジャンの最初の妻で、初期のジャンの映画にカトリーヌ・ヘスリングという名で何本か主演している。ここでも、そのなかの一本、『女優ナナ』の映像が流れていた。観たことがない映画をこういうのは何だが、これら妻の出た映画(妻にせがまれて作った映画でもある)は、すべて失敗作に類するものだという。映画会社は、ついにカトリーヌ・ヘスリングを出演させないことを条件に、彼と契約を結ぶのだが、彼の監督としての実績、本分はここからはじまる。つまり、父からの影響という点(ほとんど呪縛である)では、『女優ナナ』は流すに値するのだろうが、それ以外の、芸術性という面では、いただけないものなのだ。つまり、この展覧会では、息子が父に影響を受けつつ、そこからどう変貌し、変成していったのかが、見えにくいものとなっているか、言及されていなかったといえると思う。ここではジャン・ルノワールとしての美が伝わりにくいのだ。
 とはいえ、画家オーギュスト・ルノワール展としてだけ見ても、画業の全体を網羅した、秀逸な内容だったと思う。オーギュスト・ルノワール(以降、ルノワールとだけ称する)は、十代の頃、家計を助けるために、磁器工房で働いていた。あの白い絵の具に、重ね塗りをしたような肌の質感は、この磁器絵付け体験から来ているとどこかで読んだことがある。ここでも陶器が展示されていた。ルノワールのものと勘違いしていたが、息子のジャンが作ったものだという(父がジャンのために陶芸家への道をお膳立てしたものだったが、結局その道を進んだのは、三男のクロードだった)。果物などが描かれた皿で、そこに父の影響などは見受けられなかったが、磁器全般の持つ、重たい質感、色合いに、興味を惹かれた。陶器の塗りこめた感触に、なるほどルノワールの肌の痕跡を見たと思ったのだ。そして会場内の、《レ・コレットの農家》(一九一五年)の木立に囲まれた白い壁の農家、その葉の重なり、その壁の輝きに、陶器のつるつるとした質感が見出されるのが、なぜか嬉しかった。
 《母子像》(一九一六年)という、ブロンズ彫刻作品があった。着衣の豊満な女性が、赤子を抱いている。色合いはもちろんブロンズで、肌色をしているわけではないのに、そのふくよかさ、肉感から、ルノワールのあの女性たちの肌の質感が、そのままたちこめてくるような気がしたものだった。そう、磁器、彫刻、絵画と、連綿と流れるルノワールの何かにひかれたのだった。息子ジャンにながれる父の連綿としたものには、ほとんどひかれなかったというのに。
 さきにもふれた《陽光のなかの裸婦(試作、裸婦・光の効果)》は、草や木々とともに陽光をあびた裸婦の肌が、木漏れ日にまだらになっている。それは人物というよりも、ほとんど風景のようだ。人も草も、等しく陽光を甘受している、その瞬間のきらめきが、印象派にふさわしい明るさだと感じた。わたしはどちらかというと人物画は好まないのだが、ルノワールのそれ、とくに裸婦にひかれるのは、そうしたことによるのだろう。肌の瞬間が生として凝縮してそこにあるのだ。それは時間の凝縮といってもいい。うつろうものたちへのオマージュ。ちなみに、当時の批評家が、ルノワールの描く裸婦の肌は、腐肉のようだと批判したと聞いたことがあったのだが、それはこの作品をいったものであるという。
 豊満な裸婦たち。それはほとんどくずれんばかりの肉を持っている。この意味で、腐肉というのは、一理あるかもしれない。自然へ戻ろうとする肉の瞬間。その肉の、大地への欲望を具現化したような重みに、日だまりのもつ鮮やかさが描き込まれている。ルノワールは印象派から離れるが、それはやはり自然との瞬間の出会い、欲望なのだ、と裸婦たちが無言で語りかけてくれるような気がする。
 陽射しが明るくなってきた。

【春の花】
三月二十日
 少しだけ、車で郊外に出掛けた。車窓から、道路の端、畑か野原のようなところに、赤紫のかたまりが絨毯というほど一面ではなく、アクセントラグのように見える。通り過ぎる、また見える、また。まるでわたしたちに気づいてくれ、といわんばかりに赤紫の色をつきたててくるので、なんだろうと思って降りてみたら、ホトケノザだった。葉が、仏様が座る蓮のように見えるからこの名がついたとか。小さい花だが、春先にあざやかさを感じさせてくれて、昔から好きな花だった。車に乗る、その花に気づいたとたん、わたしのかつてもまた、しばし、わたしのまわりに集ってくれたのだった。
 もうひとつ、空色のかたまりとして、車窓から見えたものがある。オオイヌノフグリ。これは降りるまでもなく、花の名前がわかった。このまぶしいほどの青に、昔から惹かれている。ホトケノザのそばに咲いていた。再会をやさしくうなづいてくれるように、晴天の空とともに、温かかった。
 今日、家の近くでも、同じ花たちを見た。通勤路から少しだけ離れた道沿いだ。わたしはもっと、寄り道したほうがいいのだ。

【知ることのかたまり】
三月二十五日
 古本屋で『迷宮美術館』(河出書房新社)を買った。巻数はついてないが、おそらく一巻目(現在四巻まで出ている)。これはNHKとBSで同じタイトルで放映しているものを単行本化したもの。といってもB5版と大ぶり、すべてカラー頁で、絵も多いし、画集のような代物だが。絵にまつわるドラマや背景を、迷宮と称して設問をして、謎解きしてゆく。スーラの絵が評価されなかったのはなぜ? 点描画なので、一定以上の距離を置かないと絵がわからない。答えは展示スペースが小さかったから、等。テレビのほうも割と見ているし(NHKは金曜午後八時〜、BSは家では映らないので判らない)、一二〇円と安価だったので購入したが、この手の知識はなぜだろう、あまり身につかないような気がする。雑学と称するものもそうだ。知ったと思っても、ほとんどすぐに忘れてしまう。感動がないからだろうか。心にひっかかりがないのだ。苦労して得た知識や感動したことは忘れない。細部は忘れても何かが残る。あるいはそこにわたしをからめることができた知識は。感動もまた、わたしにさざ波が立った、ということだから。
 「芸術には進歩も発展もない、それらはただ科学のなかにあるだけだ、と言われる。また一人ひとりの芸術家は、みな自分のために個人的な努力を一から再開するもので、だれであれ他人の努力は、なんの助けにも妨げにもならない、と言われる。(中略)しかし、芸術がいくつかの法則を明らかにするかぎりにおいて、その法則が工業によっていったん大衆化されてしまうと、従来の芸術は過去にさかのぼっていくぶんその独創性を失うものであることは、認めなければならない」。
 マルセル・プルースト『失われた時を求めて』(集英社文庫、鈴木道彦訳、4巻、三〇九〜三一〇ページ)の、このことばをわたしはずいぶんと前、十数年前から知っている。はじめて読んだときに、心に刻まれたものだ。
 だが、わたしはこれを自分なりに咀嚼してしまったせいで、長らくすこし主旨を違えて覚えてしまっていたのだった。わたしは、芸術は個人的な努力の産物で、その良さは変わることがないが、絵は科学や時代と連動しているのだ、といった主旨の文だとずっと思っていたのだった。この意味だと、「両者は分かたれているが、浸透しあい、影響しあっているのだ」と、三月五日の日記に書いていることともつながっている。同時代における社会(あるいは科学)と芸術は、無関係ではけっしてないのだ、ということ。ともあれプルーストのそれは、ひっかき傷のようにわたしに食い込み、今ではほとんどうすらいだ傷跡としてだったが、わたしのなかにずっと残っていたのだった。あるいは、それが噛み締められたかたまりのすべてだった。
 幾分思惑を外れたかたちでだったが、ともかく、こうしたことばは残る。感動というよりも、自分のなかで咀嚼し、のどにひっかかった傷となって存在しつづけていたことばたちの一端として。
 『迷宮美術館』が、だがそれではかわいそうだ。ここにあったことば、背景、謎たちは、それでも、わたしの古傷を思い出させるための一端を担ってくれたのだから。それにこれは知識を吸収する、わたしの側に問題があるのかもしれないではないか。
 ともあれ『迷宮美術館』に戻ろう。印象派以前、具体的には一八七〇年代位まで、油絵での屋外制作は極めて困難だったという。「野外制作を可能にした発明とは?」答えは、チューブ絵の具。食品用の缶詰の発明、金属の圧延技術の発達により、気軽に持ち運べるチューブ絵の具が生まれ、戸外制作が可能になったのだという。それ以前は豚の膀胱を絵の具入れにしていたが、内臓も、中に入れた絵の具も硬くなるので新しいものにすぐ変えないとならなかったのだとか。そういえば、この頃、鉄道の発達により、画家たちは都市から近郊へ、あるいは近郊から都市へ、絵を描きに出かけている。日本が開国したことにより、日本美術、工芸品の輸入、紹介が始まり、それによりジャポニズムの波もおこった。すべては連関しているのだ。
 このチューブ絵の具の発明、というところを読んで、わたしはプルーストを思いだしたのだった。絵は彼がいったように、こんな風に科学や時代と連動しているのだと、戸外で描かれはじめたそれの、新鮮な明るさとともに、吸い込む思いがしたのだった。
 前掲のプルーストの文章は、このあと、登場人物である画家(エルスチール)の絵に見られる斬新さ、新しい技術について触れている。だから、元々の主旨に近いものだと、『迷宮美術館』では、セザンヌの構成について触れてあるところだろう。《リンゴとオレンジ》(一八九五〜一九〇〇年)について、「セザンヌは従来の遠近法のように、ある一点から全体を描くのではなく、さまざまな視点から見たものを一枚の絵のなかで「構成」していたのだ。(中略)そのために、セザンヌの静物画からは、現実にリンゴを見たときと同じような感覚を得られるのだ」。この新しい遠近法の独創性により、従来のそれは独創性を幾分かうしなうのだということ。ちなみに、この多角的な「構成」を、わたしはほとんど気にかけたことがなかった。そうと認識せずとも、セザンヌの絵には惹かれていたが、知ったことにより、なにか惹かれるために、さらに後押しされるような気がしてきた。こうして知識はまたわたしにからんできてくれるのだ。
 そうした観点にたつと、『迷宮美術館』は、またわたしにさざ波をたててくれるのだった。たぶんそんな風に知ればいいのだ。そんな風に、添えられた手や杖として、ここから知識を得ればいいのだ。
 この本には、以前この日記で触れた、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』(一六五八〜六〇年頃)についても言及があった。「(牛乳をそそぐ女性の足元、右下辺りに)洗濯かごが描かれていたが、のちに別のものに描き換えられました。それはなんでしょう?」。洗濯かごを描くというのは、「食事の準備に洗濯という、召使いが抱えている家事の種類がわかる説明的な絵だったのだ」という。この頃、象徴的なモチーフによって描くのが常識だったが、フェルメールは「そのような“絵画の記号化”に疑問を感じ、即物的に絵を見せることをやめてしまう。『牛乳を注ぐ女』も、そんな束縛から解かれた彼の傑作の一つ」。答えはストーブ。ストーブを描くことで、オランダの冬の厳しい寒さ、冷たい空気感を画面に伝えようと思ったのだ、とのこと。「ストーブを描くことで記号的に説明するのではなく、鑑賞者に想像力を広げる楽しみを与える絵が生まれたのである」。わたしはこの絵の明るさにひかれたものだったが、そういわれてみると、たしかに凍てつく空気がそそがれたことにより、画面からそれが滲んできているような気がした。明るさに、冷たさが交じっていたのだと感じている。あるいは、あの絵からうけたさまざまな印象たちのひとつに、冷たさという名前を教えてもらった、といったほうが近いだろう。パズルのピースがはめこまれたように。
 このフェルメールもまた、プルーストのいう、法則をあきらかにした独創者であるだろう。これを書いていて気づいた。
 ともあれ、知識はこんなふうにかたまりに寄り添ってくれるものでもある。間違って覚えてはいたが、自身のなかにかたまりをつくり、育てるためにあるのだ。絵に出会う、ことばに出会う。そのさざめきが感動である。この感動がかたまりを作っている。それをとおしてしか、人は出会えないのではないか。このかたまりこそが、出会いのすべてである、といっていいと思っている。人であれ、ものであれ。
 もう桜も開花宣言が出たが、先日、ほんの少しだけ北のほうへ行き、満開の梅林に出かけてきた。二階建ての物見台が作られているので登ってみる。梅林ばかりでなく、梅干し農家で作っている梅の花とともに、山裾、道路の向こう、家の影、おちこちに、けぶるような淡い白さをおいている。梅林のなかで寝ころび、空を見上げると、まるで雲海のように、梅の花が広がっている。あたり一面にひろがる匂いとともに、こうしたかたまりとして、梅たちは、わたしにまた出会いにきてくれたのだった。

【さくらにぶれる】
三月三〇日
 桜が咲いた。この日付の頃はもう満開、盛りを過ぎた頃だろうか。つとめ先近くに大きな桜の木が一本あり、それが新宿でのわたしの標準木になっている。住まいのある板橋の標準木は、家近くの小さな公園にある二本の桜。というのは同じ都内でも、温度差があり、三日位は開花がずれるから。ともかく開花宣言二三日の後、月曜日、新宿の桜をみる。もう六分ほど咲いている。二二日の金曜にみたところ、つぼみは柔らかそうだったが、まだ咲いてはいなかった。桜はこんな風に、いつもいつも突然にやってくるのだ、と去年やそれ以前のわたしをまた体感する。わたしは毎年、この突然さにおののいていたのだった。見上げる。桜に焦がれているわたしがいる。それは何十年分も重なったわたしでもある。そのわたしは桜を前にして、いいがたいもの、けれどもきっといわなければならないもの、を思っている。とどかないもの、とどきそうなもの、そんなものを花びらに感じている。ということもふくめて、桜に焦がれる、ぶれたわたしがいるのだった。火曜日はほぼ八分咲き位。板橋の標準木は火曜の夜に見た。電灯にてらされ、ほの明るい。まるで桜自体が発光しているようだ。こちらは六分咲き。
 「ダーヴィンの説によれば、感情の表われ方は人類共通で、遺伝子に書きこまれているものだという」(イアン・マキューアン『愛の続き』)。新宿の標準木の元にいると、その折々、わたしと同じようなことをしている人に何人も出会う。桜のまわりをぐるぐるしたり、ただじっと見上げていたり、携帯で写真を撮ったり。きれいだねえと声をあげて子どもに注意を向けさせる若い母親もいた。その行為自体はわたしのものではないが、ことばはわたしが口に出さずに発したものに近しい。「人間の多様さを見るのは楽しいが、人間の共通性を見るのも楽しいものだ」(同掲書)。それは、ぶれながら過去と再会するように、彼らと共有することからくる楽しさ、郷愁にみちた、親密なものだ。わたしたちは過去からはなれ、彼らともはなれた存在だから。
 水曜朝、両方の標準木を見る。板橋は六分咲き、新宿は九分咲き位だが、満開になる前だというのに、もう花が散っている。地面に散った花に誘われ、別の場所の桜を、別の散り行く花の情景を思いだした。二重三重にぶれる花びら。桜は、こんな風にほかの場所のそれすら、そこに連れてきてくれるのだった。

【花を渡る、あるいはナイフを投げる】
四月五日
 千鳥が淵の桜を見にゆく。満開で人が多い。堀に沿った緑道を四列ぐらいになってゆっくりと進む。緑道の真ん中に桜並木、堀の向こうに桜。晴れた日ならば、堀に桜が映る。人が多いのに閉口するかと思ったが、そうでもなかった。彼らは概ね静かだったからかもしれない。静かに桜を眺め、写真を撮る。緑道も少し進むと、列が乱れ、ゆったりと歩いたり、すこしは立ち止まったりできるようになってくる。まるで混雑する展覧会のようだ。絵の前で、あまり長くはいられない。わたしは人の頭の上の方や、堀、その向こうの桜たちを眺めながら歩いていた。だから人を気にしなくなっていたのだろう。桜並木、堀に映った桜、対岸の桜。気にしないどころか、ほとんどわたしの前から人がいなくなってしまった。岸につながれた小舟のように。なぜなら連れが二人いたから。二人のことはもちろんどこかで気にしていたので、つながれたままの小舟が岸から離れてゆく、そんな感覚があった、というよりも、だからこそ安心して、水にはいっていったのだろうが、ともかく、わたしから桜以外のものがなくなってしまった、わたしという小舟に桜の海が静かに押し寄せてくる、桜ばかりが…、そんな状態になっていた。こんな感覚はほとんどはじめてだった。桜、桜、桜、わたしは桜におぼれ、のまれてゆくようだった。いっぽんの綱のうえに花びらがかかっていた。それはほとんど隠れてしまっていたので、綱がないようだった。実際はあるからこそ、花ばかりになっていたのだが。なければ、人々のなかで、孤独を思い、桜にわけいることはなかったろうから。ともかく、桜、桜、桜にのまれていた。それは数秒だったかもしれない。気が付くと桜に酔った自分がいたと、むせそうになっていた。それはそうとは気づかないで、ある境界をわたったようなものだった。境界のこちら側に帰ってきて、そう気づいた。わたしは瞬間だったが、たしかに桜のほうへ渡っていたのだ。こんな風に、あちらとこちらは連綿とつづいているものなのだ。だが注意しよう。踏み出した一歩がわからないまま、帰ってこれなくなることもあるのだから。
 スティーヴン・ミルハウザーの短編集『ナイフ投げ師』(白水社)を読む。三月五日の日記で、この小説への日経新聞の書評を引用した。「読者を日常生活のくびきから解き放つ「危険と隣り合わせの驚異の世界」」が冒険で、「小説とは冒険にほかならない」のだと。
 だが、この日常生活と冒険のあいだにひかれた線は、見えにくいものなのだ、だからこそ注意しなくてはいけないのだとも、この小説は随所で語っていると思った。わたしたちが小説を読む、その行為自体は易しい。だが、冒険とは危険と隣り合わせなのだ。表題作の「ナイフ投げ師」は、ナイフ投げという芸をつきつめるあまり、殆ど殺人者と区別がつかない場所までくる。「ナイフ投げ師はやり過ぎたのだと私たちは感じずにはいられなかった。(…)このような芸が奨励されたりしたら、私たちみんなの安全すら危ういではないか?」。「自動人形師」、「パラダイス・パーク」も、それぞれ自動人形、遊園地を、突き詰めすぎてしまった芸術家の物語だ。「この新しい芸術は優しい芸術ではない。その美はほとんど耐えがたい烈しさをたたえているのだ」(「自動人形師」)。一線を越えてしまうと、もはや破滅しかないこともある。「極端な奇想のあとではもう、全面的な破壊のもたらすいかがわしい戦慄しか残されていなかったのだ」(「パラダイス・パーク」)。だがこの一線は見えにくいものでもある。「出口」では、軽い情事だったつもりが、気がつくと、生死にかかわる自体となる。連綿と気づかないうちにつながっているのだ。
 だが、わたしは、わたしたちは、こうした恐怖、危険にも関わらず、それでも、冒険にひかれてしまう。「ある訪問」では、「私」は蛙と結婚している友人の家に訪問する。それは一見尋常なことではないが、その行為自体は、ここでは、ほとんど瑣末なこととして綴られる。私と友人の違いは線を越して、さらに手綱をひいてられるのか、その違いであるかのようだ。友人夫妻には「空中での混じりあい、和やかな溶解」がある。「私の暮らしに欠けているのは、まさにこうした調和なのだ」。ここでは、友人が冒険を生きていることに対する羨ましさが感じられる。すれすれの場所で手綱をとって生きてゆくことに対しての。
 こうした解釈の発端、取っ掛かりは、ある時、ある箇所で、ふっと花びらのように降りてくるものだ。『ナイフ投げ師』を、最初から、こんな風に線を越えたかどうかで読んでいたわけでなかった。「協会の夢」では、遊園地のような百貨店が描かれている。そこでは小川、滝、洞窟、鍾乳洞、古代遺跡までもが売っている。「私たち」は、こんな「新しい売場に一種奇妙で不可解なものを見る思い、ほとんど何かの侵犯を感じとるような気持ちは次第に薄れていき、代わりに、実は私たち自身の認識の方こそ間違っているのだという確信が強まっていった。これら新しい売り場は、慣れ親しんだ世界への異物の侵入どころか、その親しい世界の延長にほかならない」。それは「購入可能なものの境界線を一気に拡張した」だけで、「合成素材が多用され、古風な玩具や有名な絵画や年代物の家具の高級複製品がいくらでもあるこの世界にとって、少しも異質ではない」のだから。これら境界は、こんな風に難なく越えられてしまうのだ、あるいは境界ごと、世界は動いてしまうのだと、この文章こそが境界線をたずさえて、わたしに降りてきたのだった。注意しないといけないもの、そして、だが、奇異なものではなく、そこここに満ち溢れてあるものでもある、ということ、小説を読むように、それはあちこちで開かれているのだと。
 『ナイフ投げ師』の最後に置かれた短篇「私たちの町の地下室の下」は、ほとんど散文詩のように読んだ。「私たち」は、町に、迷路のようにいりくんだ通路をもつ地下室をもっている。それは信じるものだけがもっているものであるかもしれないし、無意識と意識の物語かもしれない。「結局のところ、通路に降りていくときに私たちが感じるのは、何か内なる圧迫が突如はち切れるかのような、拡張の感覚なのである」「ここで初めて、地下に戻ったところで初めて、高さへの真の高揚を──地下から想像された町それ自体を──味わえるのではないかという気になる」。地下はノスタルジアではない。なぜなら、その暗がりには、「消え去った暮らし」が伝えられているわけではないから。また、地下に移り住むことはできない。もしそうしたら、「私たちは新しい、より深い通路を掘りはじめるに違いない」。バランスをとった一線たち。その際で、見られたものは、いつもとても惹かれるべきものなのだ。現実と幻想の間、日々と夢の間、日々と冒険の…、ことばとことばでないものの。
 桜が散っている。朝、ベランダに桜の花びらが落ちていた。ベランダから見渡す限り、桜はいない。だが、こんな風に一輪、やってきてくれることで、繋がっているのだと思った。連綿と。注意ぶかく見つめること、受けいれること。

【重なる虫たち】(『洪水』2号へ)
四月十五日
 「ガレとジャポニズム展」(二〇〇八年三月二〇日〜五月十一日、サントリー美術館)に行った。ここは二月に出かけたロートレック展と同じ会場だが、ガラス器や陶器の展示ということで、総じてその時よりも照明が暗い。作品たちはガラスケースに収められていて、台の底からライトを当て、照らされているのだが、それがときにガラスのランプのように見え、暗がりに点在する明かりのようで、特に端や通路の真ん中に置かれた作品は、夜の海に点在する、小島の灯火のようでもあり、ここちよい空間を醸し出していた。鳥かなにかのようなわたしたちが島から島へとわたってゆく。そのライトは、計算されつくしているのだろう。作品たちを、その質感、あるいはガラスの中に描かれたものが、表面から透かしてみる作品などを、よく見せていた。こう見えてほしい、という作者の想いを、くみとっているようでもあった。家にあったとしたら、ここまで完全に見ることは難しいのではないか、とも思ったが、どうだろう。それはそれで、別の趣があるのかもしれない。朝日によって、夜の灯りによって、時間と共に変化してゆくガラス器たち。
 エミール・ガレ(一八四六―一九〇四)。「ガレとジャポニズム」ということで、日本的なものたちが数多く出品されている。花器「鯉」、鉢「蓮に蛙」、花器「草花に蝶」、「獅子の煙草入れ」、「梅に鳥」、「雪中松に鷹」、花器「富士山」、「竹」。ざっと名前だけを連ねても、たぶん日本的だという、その雰囲気は伝わるのではないだろうか。花器「魚籠」(一八八〇年代)などは、編んだ魚籠(びく)そのものを模した茶色の陶器に、海草が這っている。折り紙形花器「富士山」(一八七八年頃)は、富士山や桔梗、蝶が描かれた陶を折り紙に見立ててあるのが、珍しく思え、興味をひいた。多分ガレには、魚籠や折り紙が珍しく、面白いものとして映ったのだろう。その新鮮な驚きが伝わってくるようだった。
 だが今名前を連ねたものは、出来上がった作品に対して、こういうのは気がひけるが、習作のようなものだろう。一八六七年のパリ万博で、二一歳のガレは初めて日本美術に触れる。一八七一年のイギリスでの万博を機に、ガレは日本美術の収集をはじめ、一八七八年のパリ万博で、自ら作ったジャポニズム的な作品を出品する。「この頃のガレのジャポニズムは、(…)装飾を、形態を、そのまま写す段階に留まっている」。それはそうだろう。対象のスケッチから始めるように、模写から始まるのだ。外観どおりに写すこと。対象との出会い、つきあいはそこから始まるのだ。ガレはそうした模写時代を経て、虫や鳥などの小動物や、鳥たちとの距離をせばめてゆくようだった。展示作品をみて、なんとなくだがそう感じた。そこに距離があったとしても、その距離をせばめる意志のようなもの。蝶や蜻蛉、虫たちはヨーロッパでは「人よりも劣る存在として、美術品にはあまり登場しなかった」ものだったが(こうしたことを聞くと、神を頂点としたヒエラルキー的な考えが浸透していたのだろうかといつも感じる)、日本美術の影響で、彼らはそうしたものたちへ視線をむけるようになったという。ガレもまた、蝶や蜻蛉を好んで使っているが、それは徐々に日本からの影響、模写をくぐりぬけ、自らの作風へと、昇華してゆく。
 そうしたものの登場は大体一八八九年頃(この年、またパリ万博があった)からだ。蓋付杯「アモルは黒い蝶を追う」(一八八九年)は、「悲しみの花瓶」シリーズだそうで、黒っぽいガラスに、弓矢をもったアモル(エロス)が、プシュケ(霊魂)の化身の黒い蝶を追っている。題名どおりのことばがガラスに彫られている。これなどは、神話を取り込んでいるからばかりではなく、もはやジャポニズムといえない。それは肉体と精神の対話の物語であり、ガレの独自の、悲しみをうたった詩としてそこにあるのだった。一八九〇年の花器「翡翠」は、淡黄色、淡青色のガラスに、コウホネ、オモダカなどのしげる水辺にカワセミ。これは、一九〇〇年の香水瓶「沼地」の深い緑の瓶に、貝が乗っている姿や、一九〇〇年頃の、花器「貝殻・海藻」の貝が付着した、海から引き上げられた古代の壷のような姿と重なる。一九〇四年の花器「海ユリ」の海ユリとは、ウニやナマコに近い生物だそうだが、水中の生物と、花を合体させたようだが、水をたたえていることで、「翡翠」と通じる。それはたとえばもぐること、といったつながりかもしれないが、翡翠やオモダカなど日本的なものをモティーフにしているにせよ、彼独自の、彼の作り上げた水の世界としてわたしたちに語りかけてくるのだ。コウホネは、海ユリや海藻とともに、彼に直に響いてくることがあったのだ。それは彼独自の作品なのだ。
 こう


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