豹日記 vol.10
二〇〇七年九月十五日〜十二月

(雲と海、上原美術館、『アンドレ・ドランの軌跡』展―ドラン、マルケ、鎌倉大谷記念美術館『ヴラマンク展』、横浜美術館「シュルレアリスムと美術展」―ルネ・マグリット《大家族》、「印象派とエコール・ド・パリ展」―モネ《睡蓮》、ヴラマンク、マルケ、「ムンク展」―国立西洋美術館、モネ《睡蓮》、「セザンヌ4つの魅力―人物・静物・風景・水浴―」展、セザンヌ、ルソー、ブランクーシ、モネ《睡蓮の池》、ポーラ美術館『モネと画家たちの旅―フランス風景画紀行』、旅、マラルメ、モネ《セーヌ河の日没、冬》、ルソー《ライオンのいるジャングル》、ルドン《ヴィーナスの誕生》、ポーラ・ミュージアム・アネックス『花ひらくアール・ヌーヴォー ガラス工芸と女性のよそおい』展、『笑いと逸脱』山口昌男、国立新美術館『フェルメール―「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画』展、映画『バレエ・リュス 踊る喜び、生きる喜び』、山口昌男『仕掛けとしての文化』)

【灰色海景】(『hotel 第2章』19号に加筆訂正のち掲載)
九月十五日
 また海にすこし出かけてきた。天気は雨か曇り空であいにくだったかもしれない。わたしはどんなにか海の青さを欲していたのだろうと、去年、その前、写真や映像でみたすべての海の色を代表したまばゆい青、その色に焦がれていた自分を思い知らされもした。目の前のくすんだ海、雨で視界のわるくなった海、雨の雫で見えない、波しぶきの海、土砂で茶をおびた河口付近の海、それらのにぶい色に、あざやかな青、記憶の青をそそぎこんでみるのだった。記憶や想像のいりまじったあざやかな青が跳ね返され、波打ち際よりももっと、わたしの側でとまどうようにたゆたっている…。青と灰色がかった色のあいだに、距離が生じてしまうのだろうか…。以前見たすべての海たちと今みているこの海たちのあいだに?
 青い彼らと灰色の彼らと。その融合はあるだろう。水がうねうねと、色にかぶさる。くすんだ色は、わたしがここからいなくなる明日には青さを増すだろう。つまり、わたしが青の時間にそこにいない、ということなのだ。水が変わった、空が少し明るくなった。まだらな雲が海にかぶさる。
 だが、水平線は晴れた時よりは空に近しい。つまり、その境界線は晴れた青だと、くっきりと空と分かたれているが、雨や曇りの時には、いくらかその線をうやむやにしているのだ。
 わたしはあの晴れている青い水が好きだった。けれども、このうやむやな境界線も好きだったと思い出す。水平線をはさんで、空と海が重なろうとしている、ほとんど区別がつかないその線、だがそれでもぎりぎりのところでひかれた線、その境目が好きだった。そこは空と水が出合う場所であり、見ることでかろうじてわたしもまた出会っている、ぎりぎりの場所だったように思えたのだった。そこに釘付けになったわたしがはいりこむ余地がある…。わたしはあくことなく、あの水平線を見ていたものだった。まじわるのか、まじわらないのか。そのはざまでゆれながら、このわずかな線、境界が無くなったらどうなるだろう、と思いながら。
 晴れた海は水平線がくっきりしすぎて、よそよそしかった。曇った、雨まじりの、あの水平線こそが、わたしの水をも吸って、やさしいのではなかったか。そうも思った。だがこれは、それでも青をまちのぞむわたしが、そうでない灰の色を見ていることとも関係しているだろう。青に焦がれるわたしが、青から離れている、青い空、青い海から一線を画している。その状況をなんとか良いものとしたいと思ったのかもしれない。引かれた線が、べつの線に重なる。曇り空を、うつくしいとは感じなかった。だがいつしかそれはやさしいものとしてそこにあった。
 彼らも海とこんな接し方をしたことがあったのだろう、と彼をだれともあてはめずに、にぶい波の色、うっすらと引かれた水平線、荒い波を見つめながら、共有を感じていた。それは曇り空の海景を見ていた、そこに参加していた、すべての誰かとの触れ合いだった。

【おもい雲】
九月二十五日
 海に行った折、美術館にも足を運んだ。上原美術館、『アンドレ・ドランの軌跡』展。ドランは、モーリス・ド・ヴラマンクや、アンリ・マティス、そして以前ここで紹介したアルベール・マルケらと野獣派(フォーヴ)に属していた。属するといっても、短期間(二年間)で解消してしまった同人誌のようなものかもしれない。一九〇五年秋、サロン・ドートンヌの一室に、「マティス10点、ドラン9点、ヴラマンク2点、マルケ5点の作品群が埋めつくした。それらの放つ激しい色彩と筆触を」「野獣(フォーヴ)の檻にいるようだ」と批評家が発したことから、野獣派と名がついた、とカタログにある。だが、わたしの眼は、もはや一九〇五年の眼ではない。それを異端だと思わないからだろうか。そこに何らかの激しさを認めたとしても、それは画家から溢れるなにかが、景と感応しているのだ、あるいは季節をとらえようともがく姿として、その想いが色に現れているのだ、と思ってしまうのだった。あるいはその想いが湧き出るほどに激しいのだ、と。
 だがこの展覧会のドランには、実はそれほどひかれなかった。森を描いた《レ・レックの森の中》(一九二二年)には、枝のうねうねとした力、葉の色のかたまりとしての力(葉は、葉として描かれているのではなく、緑や茶色のかたまりとしてそこここに置かれている)、それらがなす相乗効果としての量感に、心が動いたが、慟哭はなかった。それはだが、もちろん彼のせいではない。私の見る目がないからだろう。
 前回、曇り空の海を眺めていた際、「彼らも海とこんな接し方をしたことがあったのだろう、と彼をだれともあてはめずに」、共有を感じたといったことを書いた。だが、あてはまらない彼らのなかに、実はここで見た画家たちの絵も反映していたのだった。それがすべてではなかったが、彼らを含めて、その他、未知の誰かを含めて、あるいは海と空の出会いとして、あの水は灰色だったのだ。
 ドランの《風景》(一九四二―四三年頃)は、海を高台から見下ろしている。空は雲が多く、飛行機雲のように、逆に青空が一本、雲のなかにすっとひかれている。おおまかにわけて、水平線と青空の、二本の線が背景にあるのだった。高台は暗緑色で、曇り空のした、重苦しい。光りのなさを表現したかのように、光りがわずかだ。
 マティス《エトルタ断崖》(一九二〇年)は、晴れた空と断崖だが、断崖が灰色と黒、海が紺色で、明るい海景という印象がない。それは曇り空に感応した心を海と断崖に現しているように重いのだ。ヴラマンク《砂浜の小舟》(一九二六年)は、小船とヨットと、砂浜と海。雲が多い空だが、晴れているだろう。だが不思議と、その雲の白さが暗いのだ。白は白だ。青空にうかぶ白い雲として、明るいはずなのだが、暗いと受け取ってしまうのだ。白が重さをあらわしている、と感じてしまうのだった。それは、おおむね雲のもつ重い力なのだった。
 そして、マルケ。二点。《霧のリーヴヌーヴ、マルセイユ》(一九一八年)は、霧が曇り空のように、港を覆っている。そして《曳き舟》(一九二〇年)は、暗い舟と暗い海、暗い空、灰色の半島だろうか、対岸だろうか、ともかく山。この暗さたちにやはりひかれるのだった。これはわたしが見た曇り空に圧倒的に入ってきた。そしてこの絵を見たとき、外は激しく雨がたたきつけていた。この外の雨景も絵にからみついたのだろうか。そして、その後で水平線のにじんだ、あの海を見たのだ。空と海のにじんだあの海を。
 だが、マルケの絵は、雨もよいの曇り空を通じて、私にささやきかけてきはしたが、そのささやきは、ちがうゆたかさをたずさえているのだった。いわば曇り空は通路としてひらかれたにすぎない。マルケの色、あのにじんだ水たちは、大河のように、私をもひたし、どこかに流れてゆくのだ。空をもまきこんで。
「風になびく富士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな」(西行法師)
 思(想)いは、重たくなり、どこへ行くのだろうか。

【行間の動く白】
十月五日
 鎌倉大谷記念美術館で、『ヴラマンク展』(九月十一日〜十二月八日)を見てきた。
 モーリス・ド・ヴラマンク(フランス、一八七六―一九五八)、フォーヴィスム運動に参加したこともある画家。どこかで、彼の激しい白を見たことがあって、ずっと気にかかっていた。確か東京渋谷のBunkamuraミュージアムだったと思うが、一九九一年に展覧会があり、今回の展覧会は、それ以来の個展だという。私は、その当時、まだ彼の存在を知らなかった。だが当時、電車の中吊り広告で見た覚えがあるのだ。ただ、中吊りのその絵にひかれた。その激しい壁の色に、厳しい白さに。そのとき行けばよかった。だが、私はまだ人生では、なんどもおなじものと出合えるとたかをくくっていた。一期一会ということばをすどおりできるほど、出会いは何度もやってくるような気がしていた。だから、今見に行かずとも、また、近々見ることもあるだろうと行かなかったのだ。それから何年か経って、彼の絵を数点、どこかではじめてちゃんと見た。荒々しいというのではない。その色の息づかいの激しさに圧倒され、しまった、あの展覧会に行けば良かったと思ったのだった…。
 この頃気にかけているアルベール・マルケと同じ野獣派に属していたこともあったので、マルケを調べているうち、ヴラマンクの名前も出てきた。だから、マルケの画集なり展覧会図録などを探すうち、ヴラマンクのそれも調べてみたが、こちらは画集はおろか、展覧会図録も手に入れることが出来なかった。そして展覧会は、十六年ぶり。一期一会なのだ。この機会を逃したら、またいつ会えるとも限らない。だから今回は、ぜったい行こうと決めていた…。今ここにある、出合える限りの出合いを大事にしようと思ったのだ。
 そして、ここ、鎌倉大谷記念美術館で。出展は二十三点と少ないかもしれない。だが、彼の様々な白をうかがい知ることができた。それは彼の絵をかつて見た、その思い出のなかにある白とまざりあい、力をもって、私に語りかけてきたが、それは白ばかりではなかった。緑、黄色、青、色彩のすべてが力を持っていた。荒々しいと称されるが、それともすこし違う。《花―ひなげしとジロフレ》(一九五五年)は、静物画。花瓶にひなげしたち。静物画は西欧では、伝統的に動かない、死んだものの意味合いが強いというが、花が生き生きと力を持っている。力を凝縮させて、そこここに留まっている、といった感じでもある。《秋の風景》(一九五〇年頃)は、黄色い積み藁と青い空。積んだ藁も生き生きとしている。その黄がのたうちまわるようだと思った。だが、その藁に(あの花瓶のひなげしたちにも)生が投影されているのだ。その生と観る者の生が共鳴しているのだ、と思った。雲の白が、かつて見た彼の絵の印象のとおりにうねっている。白は静かな色ではない、動く色、おのおのの印象を投影する流動的な色なのだと思った。ちょうど白い紙の上に描かれた文字、筆によって、自由な躍動が生まれるように、行間をとおして、空白をとおして、わたしたちがそこにもぐりこむことができるように。《ポプラ並木》(一九五〇年)では、並木に荒くぬられた暗緑色、黄色に、風を感じた。ここでも雲がまざまざと白い。そして、それもまた、風を塗りこめていた。風を孕んでいた。白から吹きすさぶ風が、わたしと、並木と、遠くの森を、つらぬくよう吹いていた。そして、《アルジャンタンの村》(一九二六年頃)。青い白い空に、白い壁をもつ家々、中央にくすんだ道が伸びている。この絵の第一印象が、いちばん、かつて私がみたであろうヴラマンクたちを彷彿とさせるものだった。いい悪いではなく、この白い壁、白い雲が、いちばん、彼を感じさせたのだ。白い壁は、厳密にいえば白ではない。茶色、灰色、褐色が混ざっている。その白い混ぜものに、十六年の歳月の間にみたヴラマンクの数点の絵が、中吊りポスターが、投影されていたか、混ざり込んで見えたのだ。雲もまた波打つように動をはらんで流れるのだった。
 残念なことに展覧会図録はなかった。作品リストをもらい、ヴラマンクの絵はがきを数枚買った。アルベール・マルケは展示されていなかったが、絵はがきが売っていたのでこちらも一枚買う。私の小さなマルケ・コレクションはこうして少しずつ増えてゆく。ヴラマンクも増えてゆくだろうか。

【憂鬱な距離の自由】
十月十五日
 「シュルレアリスムと美術展」(二〇〇七年九月二九日〜十二月九日、横浜美術館)に出かけてきた。シュルレアリスム、といってもルネ・マグリットにばかりひかれてしまうのだが。会場に入る前、廊下ごしにちらっとマグリットの《大家族》(一九六三年)が見えた。チラシやポスターにはこの写真が載っていたのだが、それらを見ないで来たので、この出会いはふいうちでうれしかった。宇都宮美術館に所蔵されているので、いつか観に行こうと思っていたものだったから。ともかく、マグリットの作品のある展示室に改めて入る。《大家族》。曇り空と波打つ海。空に鳩のかたちが浮かび上がり、そのかたちの内側は羽毛ではなく、白い雲が浮かぶ晴れた空になっている。曇り空の方は夕方かもしれない。水平線近くの空がオレンジ色になっている。鳥と晴れた空が合体しているだけでなく、曇り空と晴天が同時にあること、真昼と夕方(明け方かもしれない)が同時にあること、そのありえなさたちの集大成としての絵に感銘を受ける。ここにはすべてが詰まっている。だから“大家族”なのだろうか…。そして、大きさについて。この絵は以前から知っていたが、実は“大家族”というからか、かなり大きいものと思っていたので、一〇〇×八一センチと、さほど大きくないことに意外さを覚えた。だが、それもふっとよぎっただけだ。絵の大きさが見る私を圧倒させるのではない、絵が圧倒させるのだから。けれども、画集などで見ただけではわからないものだとは思った。絵を前にして、直にどこかでふれあっているような感覚がおとずれる。《人間の条件》(一九三五)も画集で見かけて好きになった作品だった。この作品も、思っていたよりも小さいことに驚いた。二四×一九センチとハガキの倍位だ。もっと大きいものを観たい、と最初は思ったが、絵の持つ力の前で、すぐさまそんなことはどうでもよくなる。描かれているのはキャンヴァスと砂浜のある海景。キャンヴァスからはみ出て外の海につながっているのか、海と浜がキャンヴァスに入り込んでいるのか…。迷路のような情景が、描くものの理想だと思わせもする。描いたものがそのまま対象と結びつくのだから。「この絵のなかでマグリットは写実と現実を混合させた」(『ルネ・マグリット』マルセル・パケ)。こうしてマグリットを見る感動のなかには、いつも言葉にしたくなる何かがつきまとってくる。「思考を目に見えるものにするために、私は絵画を利用するのだ」とマグリットは言っている。《無謀な企て》(一九二八年)も、妻の裸体を描く画家がいる。というよりも描くことで、妻の肉体が造られてゆくのだ。ピュグマリオンのように、造ったものが命を持つ。これも、写実と現実の混合であるばかりでない、描いたものと描かれたものの境界をはずし、創造と生を一致させ、不可能を可能にしているのだった。絵は、腕を塗っている最中なのだが、その腕の絵の具の輝きが、塗りたてのようで、いま見ているこの瞬間に、生がうごめいている、あるいは瞬間がみるたびに瞬間と重なっていることで、永遠に連なっているかのように感じるのだった(実は、画集で見ただけでは、ここまで感じなかった。今まさに描かれつつある腕、といった面持ちのあの輝きを見るまでは)。だがマグリットはこうしたことが《無謀な企て》だと知りすぎるほど知っている。「作品と目に見えるもののあいだの間隙」、距離を、彼は知っているのだから。あるいは知っているからこそ、その距離、その空間で、描いているからこそ、「超現実的な魔力をも浮上させ、現実を裏切る力」でもって、私たちを神秘を差し出してくるのだ、誘うのだ。この間隙はメランコリックだが(私たちは、決してひとつになれない)、自由をもそこに掲げている。裸体の女性の上半身が青く塗られ、彫像と生身の一致をさらけ出す《生命線》(一九三六年)、画面上に空と海浜、砂から穴があき、そこから見えるのは、森、森の土からまた穴があき、家々が顔をのぞかせている《人気のあるパノラマ》(一九二六年)。空のような海の下に森がある、森の下に家がある、穴をつうじてメビウスの輪がくりひろげられ、見る私たちは画面から迷路におちいってしまう。こうしたありえなさを描くことで、現実や想像力をゆさぶり、「現実を超え、その現象が本来もっていた秘密をその現象自体から呼び起こし、人を惑わすような魅力を覚醒させる」のであった(「」内、前掲書)。距離を通して、現実のなかからエキスを拾い上げること。
 またマグリットのことばかり書いてしまった。展覧会会場のテーマの一つとして、「風景」が掲げられていた。シュールレアリストの描く風景には水平線、地平線が数多いとあり、そのことについて、初期シュールレアリスムに参加したピエール・ナヴィルの言葉を紹介しているのが印象に残った。「彼は、ホルモンや神経に関係する人間の生理的な衝動は想像力とつながっているといいます。衝動のかなたには想像力がいくつもの扉を開いていて、その扉の背後には「果てしない地平線しか存在しない」。そして「イメージが想像力となる際に記録するものは、まさにこの地平線なのだ」。(中略)人の内側にあって衝動を司る「自然」が、その人の想像力に働きかけて見せてくれる風景を忠実に写し取ること」(カタログより)。果てしない距離があるが、この試みは真摯だ。そしてまた、《大家族》《人間の条件》《人気のあるパノラマ》にも水平線、《生命線》には地平線があったと、その果てしなさを想うのだった。

【水ゆらぎ】
十月二十五日
 「印象派とエコール・ド・パリ展」(日本橋三越、十月二日―一四日)に行ってきた。B6のチラシのような券には、十九世紀前半から二十世紀後半までのフランス絵画の流れを吉野石膏コレクションから…とある。美術館ではないし、企業コレクションなので、小品ばかりかもしれない、とあまり期待せずに行ったが、うれしくも予想を裏切られ、やさしくおだやかなもの、水をもらった。構成は印象派以前のミレーあたりから、印象派、フォーヴイスム、エコール・ド・パリと、時代を追ってのもので、へんてつもない構成だが、この流れがまずここちよかった。森から、ひらけた野原に出る、川に沿って歩く、すると河口が見えてくる、そんなふうで入りやすいのだ。ミレー、コローには、あまりひかれない。なぜだろうかといつも思う。その森は、水は、印象派に似ているのだが、冷たく閉ざされているようで、生気を感じることができない。だからピサロ、シスレーになると、ほっとする。雲や水が息づいてくるようだ。そのぬくもりで、会場をあたためるようだ。そう、こんな感じだ、と彼らとの再会を感じる。彼らの絵が、そうしてもっとも親しい友人である彼をもうすぐ又私に引き合わせてくれる…。モネだ。モネは七点ある。《ヴェトゥイユ、サン=マルタン島からの眺め》(一八八〇年)は、空と水と草花が、荒い筆で描かれている。特に草花は黄色や赤で点を打ってあるだけなので、何の花なのかわからない。《ヴェルノン教会の眺め》(一八八三年)は川岸に教会、空や教会や家々が川面に反映している。この草、この空、この水、モネの筆で描かれたそれらをみると、いつもふるえる。まったき再会、完全な再会。モネの水に、わたしの水がにじむようだ。いや、モネの水をみることによって、わたしのなかの水が呼び起こされるのだろう、こんな風に水がふるえることがうれしいのだ…。そして《睡蓮》(一九〇六年)。夕暮れのような桃色の空が反映した池に睡蓮。よく見かけるモネの睡蓮だ。好きで、家にも大きな複製画が飾ってある。だから逆に食傷気味になっていて、この頃はなにかの展覧会でそれらの睡蓮を見ても、さして気にとめなくなってしまっていたものだった。だがどうしたのだろう。はじめて《睡蓮》をみたときの衝撃はなかったけれども(国立西洋美術館、松方コレクション。これは魔術的な出会いだった)、わたしのなかで水が波紋をひろげるのだった、呼ぶように、呼ばれるように。それは、初めての出会いで感じた噴出の水の体験を思い出させる、匂いのような感覚だった。あるいは、かつてみたすべての《睡蓮》と、わたしのみた夕景に重なるようだった。わたしのみた花としての睡蓮が、ではない。その水の反映の、空の桃色に、とてもひかれ、なつかしくなったから。そのなつかしさが、わたしのなかの水を揺らしたのだった。水の匂いが歓待する。
 ルノワールはそれほど好きではないが、当時、腐肉のようだと批判されたあの肌の色をみるとどこかでほっとする。すこしばかり赤らんだ独特の肌の質感は、以前、ティーカップにすら、感じられたので、興味深く思ったことがあったが、今回も、それが家の壁に認められたので(《エッソワの農園》一九〇八年)、知人にまた再会したような、知人と友人のあいだぐらいにいる人の、かわりのなさに出会ったような心地よさを感じた。そしてカタログやチケットを飾る《シュザンヌ・アダンの肖像》(一八八七年)、青い眼の少女。これはパステルなのだが、遠目には油彩のようにみえる。そして、その肌の質感は、たしかに油彩にくらべると軽やかなのだが、あたりまえなのだが、ここでも、ルノワールの肌なのだ、腐肉なのだ(もちろんいい意味で使っている)。再会のなかで、変わらない笑顔をみたような気持ちになる。
 アルベール・マルケが二点あった《コンフラン=サント=オノリーヌの川舟》(一九一一年)、《ロルボワーズの風景》(制作年不詳)、どちらも川があり、重くぬりたくったような水の色、すべてを映す反映というよりは、飲み込んで、その色たちになったかのような、あのマルケ独特の水の色に、やはり再会を感じ、うれしくなる。だがこちらはなぜだろう、さびしいような、重いような、そんな水を、わたしのなかで澱がかきまぜられたようなゆらぎを感じるのだが。
 ヴラマンクも六点あった。つい最近ヴラマンク展にいってきたばかりだったので、先日話し込んだ友人とまた出逢ったようだった。《川辺の舟》(一九一一年)のよどんだような川面に、マルケのそれともちがう(モネのそれは、やわらかな鏡のような反映だ)、激しさをひめた力を、ヴラマンクの水を感じた。《風景》(一九一一年)は、セザンヌ時代とよばれるときに描かれたとあり、立体的な山、橋、木に、セザンヌの量感との類似を思うが、その空、その山の色に、ヴラマンクの力ともいえる筆をやはり感じた。橋の下の水が、ゆたかに流れる。
 ほかにも、たくさんの画家のものがあったが、もう水がいっぱいになってしまった。わったしのなかの水がたぷたぷとゆれている。水に生かされている、ゆられている…。
 会場を出て、展覧会カタログを買う。カタログはないだろうと思っていたので、うれしかった。おまけに中身が充実している。図版はもとより、図版解説、展覧されている絵画の歴史、作家略歴など、カタログの王道を歩んでいる。美術館の企画展のそれよりも、親切な位だ。そう、以前はあちこちのデパートでよくこんな展覧会をやっていたものだったと、そして、こんな風なカタログが造られていたものだったとどこかで懐かしく思い出しながら、ページを開く。このコレクションは、これらの絵を含むもっと多いものが、山形美術館の常設で観れるらしい。記憶の箱にまた水をそそいで。

【広場、深呼吸】
十一月五日
ムンク展(十月六日〜一月六日)に行ってきた。国立西洋美術館は好きな美術館だ。もう何度も訪れているので、その日もなじみの場所にきたとまず思うのだった。それはどちらかというと公園であるとか、芝生のある広場であるとか、そういった場所にきた感触だ。だが独特の匂いに似た感触がある。照明を落としてあるからだろうか、影の匂いがするようなのだ。曇り空の広場。人々がうごめく。その人々は、座っていたり、歩いていたりする。絵に描かれている人々も混じっている。空には風景画も溶けているはずだ。絵に描かれた人はときに皮膚を裏返しにして、普段なら見えないであろう何かをかいま見せる。だからここをにいることはともすると実際の広場にいるよりもリアルな体験をもたらすだろう…。広場の風がかわった。展覧会場に入ったのだ。
 少女を先頭に、帽子をかぶった男性たち。ムンクの《不安》(一八九四年)に描かれた葬列をなすような黒衣の、無表情な人々たち。その顔が、裏返しになった皮膚の一端からのように、不安なのだろうか、重たい気分のようなものを差し出してくる。《マドンナ》(一八九五年)は、眼をつむった裸体の女性の上半身。マドンナからイメージするものたち、慈愛であるとか、やさしさや愁いなどがここには見受けられない。暗い生がつむった表情から浮かび上がる。だから左端に小さく胎児が座っているが、それもキリストとはみえず、死児であるかのようだ。そう、マドンナは死の女神のよう、死の眠りを生きるもののようだ。広場を歩くのではなく、オフィーリアのように広場を流れる忘却の河を流れるようだ。背景は暗緑色。澱んだ水のようでもあり、そこに彼女の意識、内面がにじんでみえるようでもある。《絶望》(一八九三―九四年)はうつむいた男性と、夕焼けのような赤と黄の縞の入った背景。この背景は、水ではないが、男の絶望(絶望なのだろうか、そう名付けてはいけない、もっと複雑にねじれた内面)が、オーラのように放出され、溶けだしているからこんな色をしているのだ、と告げているように見える。その背景からまたわたしたちのほうに、渾然一体となったオーラをはなって。《声/夏の夜》(一八九三年)の白い服を来た女性では、その白い服が、骨のように見えてしまう。内面がにじみでるのではなく、すけて骨がみえるようにみえてしまうのだ。そこにまた、そしてその無表情な表情から、生がかいま見れるのだ。死をともなって。
 今あげたものは、七章にわけられた展覧のなかの第一章「生命のフリーズ」に属するものばかりだ。「生命のフリーズ」とは、ムンクが自らつけた諸作品を総括する名前。個々は個々であるが、それらをまとめた題名のようなもの。内面や意識のオーラ、あばくというよりかいまみえてしまう、にじみだしてしまう、そうしたものたちにつけられた仮の名前のようなものだろう。広場には《吸血鬼》(一八八三―年)もいる。後頭部に口づけする女の背後から、シミのように浮かび上がる影がある。にじみでる影、生の断面のようなその影にひきこまれそうだ。名付けられない感触が広場をつつむ、たまに体当たりしてくる。よろける、息がくるしい、息をすいこむ、はく、深呼吸。いままであたりまえにしていた呼吸を、エキスのように心地よく感じる。
 第二章から第七章は、個人の邸宅、劇場、大学や市庁舎の装飾や壁画や下絵。広場は西洋美術館に戻りつつある。だが宙ぶらりんだ。つまり、それらのムンクにはあまりひかれなかった。それらからはムンクのはがれた内面があまり見えないのだ。それは見るわたしの側の問題だろうが。《浜辺の三人の少女たち》、《工場からあふれ出す労働者たち》、《雪の中の労働者たち》、これらの人々から、直に差し出してくるものが少ないように感じたのだ。これらの壁画からは、彼らしさが薄れているようにも思えたのだ。彼らしさ? ここにいる人々は私を息苦しくしない。よろけさせない。不安よりももっとことばにならないもの、絶望よりも言葉にならないもの、それらのはなつものが薄れているように思えたのだ。
 私が西洋美術館と感じる広場のいちばんお気に入りの場所は暗い泉のような(だが澄んだ水を湛えている)、常設展示の松方コレクションだ。時間があまりなかったので、残念ながら急いで回ってしまったが。常設だが、収蔵数が多いからだろうか、展示されているもののなかには、必ずいつも何点か知らないものがある。あるいは知っているものがいない。図録でしか見たことがないものもある(アルベール・マルケもあるらしいのだが、展示を見たことがない)。必ずいるのが前回も少し触れたモネの《睡蓮》(一九一六年)。広場の暗い泉はこのイメージだろう。時間がなかった。これだけでも見たかった。近くで、少し遠のいて、座って。広場をしめった風が流れる。波紋がわたしに少しだけ語りかけてくる。また、何度めかの。それはもはや新鮮さはなかった。だが優しい共鳴だった。しずかな波だった。遠巻きにみると、広場全体が池(泉ではない)になって、風をおくってくるようだった。息くるしいわけではないが、息をすいこむ。呼吸することがことばではあらわしにくいやりとり、なにかをうけとったというしずかな了解のように。広場は現実感をゆさぶる場所となる。ゆらいだ水のように。影がふかくなり、さそうように。ゆさぶられた現実は、あたらしいのではない、本来もっている力を思い出させる。深い呼吸が波紋をよぎる。
 外に出てしまう。ロダンの《地獄の門》。このブロンズは、敷地内に入らずとも、通りすがりに見えるので、建物の外観とともに、地獄をこういうのはおかしいが親しいものだ。広場が今日もここにある、あなたがみなくてもいつもここにある、といってくれているようなのだ。呼吸をする。ムンクのぬりたくった夕景の色が、うっすらと染まった地獄の門の向こうの空とふれあっている。広場は日々に点在する。

【はがれた子供、時間の水】
十一月十五日
 「セザンヌ4つの魅力―人物・静物・風景・水浴―」展(ブリヂストン美術館、十月六日〜十一月二五日)に行く。ここの企画展はチラシなどにも「特集展示」と書いてあるとおり、一室だけを企画にあてた小規模な展覧会。あとはエジプト美術から印象派から現代までの石橋財団所蔵作品の常設展示となる。セザンヌはもとより、この常設も好きな作品が多かったと記憶するので出かけたのだった。
 まずセザンヌ。やはり《サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール》(一九〇四―〇六年)にひかれた。その山のごつごつとした形、緑の森の静謐さと荒々しさを共にふくんだ質感に、強烈かつも静かさを湛えつつ、反比例の矛盾を一挙に解決してしまったかのような複雑さをもって、わたしにやってくるのだった。ぐいぐいとおしつける反面、すっとしみこむようなのだ。それは以前にみた《サント=ヴィクトワール山》たちと同じだが違う山だった。たった一枚の、力をもった山の表情の無数として現出するようだった。それはここにあった《曲がった木》(一八八八年―九〇年)の持つ荒々しさと静けさにも通じる。緑の森のなかの、曲がった木の叫びと、そうあることの声のなさ、声のない重さ、いきりたちながら、まがっていることがこめられたかたちとなって木を、木の表情を語っているのだった。
 セザンヌを特集している部屋を出る。以前、どこかで書いたコンスタンティン・ブランクーシの彫刻《接吻》(一九〇七―一〇年)に廊下で出会う。「もはや子供でなくなったとしたら、すでに死んでいるのです」と彼は言っている。その彼の作品からは、子供の新鮮な驚きが、あふれだす。隙間なくくっついてしまって、ほとんど四角い箱のようになってしまった男女の接吻する姿。それは一体化への夢でもある。わたしたちはひとつになれないから。
 常設にあるルソーの《牧場》(一九一〇)は、牛と人間と木が描かれているが、変わらず木の幹が低すぎ、人間が小さすぎ、牛が大きすぎる。牛は茂った大きな木の幹よりも上に頭がある。それでもそれはまざまざと新鮮な想いをつづるようでやさしくせまってくる。子供の驚きだけではない、子供の世界とまだ分かたれていない遠近感(子供は、おぼえることで、他者と自分をひきはがしてゆく)がそこにあるからこそ、郷愁をおびてやさしいのだ。わたしたちはけっして世界と未分化であった状態にもなれないから。
 今回ここではじめて観た、ルドンの《供物》は女性の全体像を描いた小さな油彩作品。顔も衣裳もさだかではないからか、それは花のように見えた。ルドンの描く花と同じ色彩だったのた。やわらかい夢の入口で咲いているあの花のように衣裳がひろがっていた。目覚めることを、目覚めながら夢を見ることをうながすかのように。
 そして、またモネの《睡蓮の池》(一九〇七)。あらい素描のような油彩の、夕焼けに染まった池の反映が眼をひく。そこにある止睡蓮の花自体は、ほとんど目立たない。花はおそらく、画家のなかで、とても親しい友人として描かれたのだ。この友人なら、ちょっとのあいだ脇においておいても、まだ離れてゆくことはない…。その脇にいてもらう間中、せわしない夕焼け、その移り変わりを、引き留めようと思った…。だからこそ、せわしなく動く筆だった。急がなければ、夕景の色は永遠に失われてしまうから。それは昼と夜の間でもある。昼と夜という時間をも、池の水は反映し、ゆらいでいる。画家のつかみとった、とろうとした時間が浮いている。だからこそ、この夕焼けを含んだ水は、誘うように鮮やかなのだ。私は眼が水のなかに瞬間もぐり、水にひたされるような感触を刹那、感じたのだった。
 日が落ちるのが早くなった。美術館を入ったときは午後遅くだったが、出たらもう夜だった。時間の水を持ち帰るようにして、街を歩く。外は雨が降っている。

【日々にこぼれたひとしずくの】
十一月二十五日
 箱根に行ったおり、ポーラ美術館の「モネと画家たちの旅―フランス風景画紀行」(九月二二日―二〇〇八年三月二三日)を観てきた。こちらも旅先だし、展覧会も旅にまつわるものだ。それだけでなにかわずかだが共有を感じる、親密な空気がそよぐようであった。
 もっとも背景はだいぶ違うのだろうが。展覧は一九世紀末のものが多い。汽車ができ、旅が容易になった頃だ。旅は新鮮な誘いに満ちていたということもあっただろう。だがおおむね旅は、日常から離れることだが、日常から逃れるためではない。日常から一端離れて、日々を活性化させる、見つめる機会を与えてくれるためにもあると思う。また旅は不自由さの獲得する自由でもあるだろう。日々の習慣から身体を退くことは、不自由でもあるが、その労力が、習慣のもつ力を押しのけてくれる。この花、この空は、日々のなかにもあるが、わたしたちは、普段あまりそれを見ない。もの本来の力を脇におしやり、見つめることなく、日々をすごしてしまう。だがそうしないと、日々は新鮮になるが、生きにくくもなるだろう。ものの持つ力が跋扈してしまうというのは、混沌が湧き出すぎてしまうというのは、生きにくいだろう。だからある程度は仕方ないのだ。旅はそんなものたちの力を、ふっと思い出させてくれる。日々から少しだけ距離を置くことで、おしやっていた力を幾分弱め、もの本来の生のありかたを見せつけてくれる。そうしてわたしたちはまた日々に帰ってくる。旅から帰ってくる。花は、空は、そこここに、いつも、そこにあるのだ、とどこかでささやく声がする。
 マラルメは「旅をすることや異国趣味に耽ることの虚しさを知っている我々は、単に大西洋の岸辺に行って見るだけでよいのです。沖には青く霞んだ水平線が続くのみで、そこに日常生活の彼方にある何物かを見ようとしても、それは〈無限〉と〈無〉でしかないのです。」と、一八七四年に書いている(展覧会図録より)。そしてユートピアの語源は、ギリシア語の「ウ・トポス」(どこにもない場所)である。旅により、日々から逃れることはできない。旅の果てにユートピアはない。だが、日々のなかに、青い水を見ることはできるのだ。
 ポスターや図録の表紙を飾るモネの《セーヌ河の日没、冬》(一八八〇年)は、夕焼けの河だ。有名な《印象、日の出》によく似ている色づかいで、こちらはまだ実物を見たことがないが、好きな作品なので、その意味でも惹かれたが、氷塊が寒さと、きらめく輝きを画面から押し出してくる。夕焼けが、空と水面という地を染めながら、あふれだす。旅との関係でいえば、これは当時住んでいた場所で書かれたものだ。日々のなかで。そして、この夕焼けの色を、同じものではないが(空の色は同じ場所、一瞬のちですら、変わってしまうものだから)、わたしは見たことがあるのだと教えてくれるのだった。日々のなかの空。
 また《睡蓮の池》(一八九九年)等は、自分の家の庭である。旅は、地理的な遠さではない。日々のあちこちに穴をひろげ、ものの力(ここでは、刻一刻変わる光かもしれない)を、こんな風に見た、見たかった、というものとのたたかいをの痕跡が、絵をとおしてつたわってくる。旅は、そこここに、日々にあいた穴としてあるのだ。
 《睡蓮の池》にかかっているのは、日本風の太鼓橋。これは小さなエキゾティシズムだ。違和をもちこむことで、想像力がはばたき、日々のなかから、新鮮さを思い出させてくれる。アンリ・ルソーが三点あった。《ライオンのいるジャングル》(一九〇四年)、《異国風景》の猿、《エデンの園のエヴァ》。ルソーは旅を殆どしなかった。フランスから離れることがなかった。植物園や動物園のスケッチ、図鑑の写真、挿し絵などに想をえて、想像力をもって、旅の眼を造り出した。旅の眼が、日々からモノの持つ力を見据えるのだった。
 と、その場で思ったわけではない。ただ、そのときは、特に《ライオンのいるジャングル》に、新鮮な息吹を、日々にからむ視線を感じただけだ。その繁茂する植物たちの密度に、そのライオンのほとんど愛らしいといっていい姿に。
 ルソーは、展覧会では「想像の旅」のコーナーにある。ここにはルドンも数点あった。《イカロス》、《アポロンの二輪馬車》、《ヴィーナスの誕生》(一九一二年)と、ギリシャ、ローマ神話のもの。《ヴィーナスの誕生》は、アンモナイトのような貝の舟に、顔も輪郭もさだかでない美の女神が乗り、緑の海を静止しているように漂っている。生命の起源への旅のように、海が描かれているのだろう。この静けさ。海は羊水のように、死をもはらんでそこにあるようだ。旅は、生きていること(つまり死を背中合わせにして)でもあると、生死の根源を、めまいを起こさせるほどに、深い遠さを思い出させてくれるのだった。
 マラルメはまた、「遠い彼方へ、逃れよう、彼方へ」と、「海の微風」で言っている。どこでもない場所は、彼方は、ひとしずくの水のなかに顔を覗かせている。日々のなかに旅はあるのだ。無をはらんだ有限。「異邦の天地の旅に錨をあげよ」。

 他にもゴーギャン、ゴッホ(この二人は故郷喪失者として紹介されていた)、ルノワール、アルベール・マルケ、ヴラマンク、セザンヌ、キスリング、ボナール、数多の作品が展覧され、常設でも、旅にちなんだ化粧道具が展示されるなど、充実した内容だった。

十二月一二日
 朝、会社に行く道を少しそれて、公園の散策路を通った。紅葉、銀杏の色がまぶしい。特に銀杏は枯葉がしきつめられてもいるので、空と地と、見渡す限りに黄金色だ。冬の日差しは鈍く弱い。だがこんなところで、まぶしさが感じられるのだ。

【別の生の微香】
十二月五日
 ポーラ美術館で、系列の銀座のポーラ・ミュージアム・アネックスで「花ひらくアール・ヌーヴォー ガラス工芸と女性のよそおい」(十月五日―十一月十八日)を開催していると知ったので、出かけた。こちらは入場無料、カタログも無料。展覧会もカタログもその割に充実していて、おもいもかけずに貴重なプレゼントをもらったようだった。目当ては、エミール・ガレやドーム兄弟のガラスたちだ。もちろん彼らの作品はそこにいた。だがこうした場所では、いつも何かしらのふいうちがある。ともあれ会場に入る。まずはドームの《薔薇文花器》や《薔薇文蓋物》(一九一〇年頃)の、薄桃色のバラのやわらかな色合い、ガレの《蘭文耳付花器》(一八九六年頃)の、緑地に虫でできたような蘭(種類でいえばスズムシソウやエビネに近い)の、自然からの手招き、そうしてランプたち、その灯った色合いが、やはり闇におかれた手招きのようにやってきて、次の場所へと誘いもするのだった。
 ところで、わたしはなぜアール・ヌーヴォーにひかれるのだろうか。「アール・ヌーヴォーのルーツを探っていくと、四季折々の自然をモチーフにしてきた日本美術の存在に行きつきます」と、カタログでは一八六七年のパリ万国博覧会での日本の美術工芸品デビューに触れている。また印象派もこの博覧会により日本の影響をうけている。こうしたことは空気として、空気に混じり込んだ匂いのように、つながっているのだ。その空気の微香を感じること。十九世紀末は、「隠れて行っていた化粧が容認され」た時代でもある。「芸術を大衆化していくアール・ヌーヴォーの風潮が時代の空気を一変。美しいポスターが街を飾り、誰もがアートを気軽に日常生活の中で楽しめるようになったその時、女性たちは化粧やファッションを堂々と謳歌し始めました」とあり、化粧品や装身具の展示に移って行く。化粧品は化粧部屋を飾ること、部屋を飾ることにも、微香を送っただろう。あるいは日常に芸術が入ってくること、それ自体が、微香なのだ。電気の発明も、微香に染まる、拍車をかける。電気の明るさは新鮮だったろう。微香のするランプたち。部屋をかざる花の香り、花器たち。《花文洗面セット》(一九一〇年代)は、陶器の洗面器やピッチャーに花の絵が描かれる。洗面器がこのように優雅なものだったとは、と今みているわたしにも新鮮な驚きとなって触れてくる。そうしてふっと思い出す。もう覚えていないが、わたしとアール・ヌーヴォーのランプたちとの出会いにも、そんな新鮮な驚きがあったのではないか。それまでランプといえば電気スタンドぐらいしかしらなかった、そんな頃に、ガレやドーム兄弟が驚きとしてやってきたのではなかったか。これは、新しい電気、ジャポニズムの息吹を新鮮だと思った当時の人々の視線とも重なるものだろう。
 化粧、ファッションに現れた波は、ヘアスタイルにも及ぶ。鬘、つけ髷のほか、飾り櫛の展示があったが、銀杏、トンボ、葡萄、こちらもアール・ヌーヴォーおなじみの意匠だが、それよりも、殆ど日本製なのではないかと思えるほど、日本の櫛、簪に似ていることに驚く(それは、後で展示されていた日本製の簪をみて、具体的に類似を確かめることができた)。日本から離れ、日本を見ること。それは前回書いた旅の視線のようでもある。
 展覧は、近代日本(明治から大正)の女性化粧品に移る。明治はお歯黒、眉そり以外(この二つは外国から奇異に取られ、禁止になった)は、江戸時代の装いを色濃くしており、「大正時代になって、女性の社会進出が進むと」、「クリームなどを使う洋風の化粧が普及していった」とある。化粧が洋風だからか、容器、ラベルのデザイン、看板、鏡台も日本製なのだろうが、アール・ヌーヴォー様式だ。ただ鏡台は、椅子用ではなく、畳に座って使うものなので、脚がなく、その用途の違いの分だけ、日本古来のそれと折衷といった感じにはなっているが。アール・ヌーヴォーに日本美術が関係していた、その日本に新しいものとして、また西欧から風が入ってくるのだった。
 「祝祭の世界が終ると、いろいろな日常生活への統合の儀式があって、登場人物達は再び元の世界に適応するような枠が設けられています」(『笑いと逸脱』山口昌男)。元の世界は、本来は祝祭の前と後では、別物となったという。「そこでは或る一つの時間のパターンが死んで、まったく新しい時間が始まるという仕掛けであった」。祝祭的な空間、時間は、日々から突出した別のものではない。後と前を、死と生をつなぐ時間でもあるのだ。唐突に引用したのは、祝祭的なものが、芸術に触れた瞬間にひきおこされるほとんど違和といっていい時間(瞬間)と共通するのではと思ったからだ。芸術に触れた前と後では、時間は変わる。その後、なにかが再び生きはじめるのではなかったか。微香による息吹が、日常を満たしてくれる。勿論それだけがすべてではないけれども。芸術は世界と触れるための媒介でもある。芸術はそこから逃れる名づけ得ないものである。
 わたしは何故アール・ヌーヴォーにひかれるのだろうか。日本の影響を受けたそれらの様式が、また日本にいるわたしのもとにやってくる、そこに日本の側面を見ているのだろうか。新鮮な微香により、日常を、生(植物たち、動物たち、わたしたちの)を見つめ直そうとしているのだろうか。そうした面もあるかもしれない。だがこうした面だけではとらえられない混沌の豊饒、円からすらこぼれてしまうものこそが、芸術でもあるだろう。
 じつは化粧する、ということも、日々のなかで感動をおぼえることなく行っていたので(当然といえば当然だが)、その面でも、この展覧は興味深かった。香水瓶や化粧水の瓶、ガラスや陶器がはなつ繊細な輝きが、化粧をする行為からはがれ、その本来の姿を現す。化粧すら、なにか儀式的なものに思えてくるのだった。「皮膚の美を養ふ クラブの カテイフード」と、中山太陽堂の化粧水のポスターにコピーがあった。もはや別の生が微香を求める。それは世界からの赦しのような息吹だ。

【共有する光】
十二月十五日
 フェルメール―「牛乳を注ぐ女」とオランダ風俗画―展に行った(九月二六日―十二月一七日、国立新美術館)。フェルメールが観たかった。だが彼の作品は《牛乳を注ぐ女》一点だけ。画集を持っているので、この作品は見たことがある。画集で見た限り、あまり惹かれた記憶がなかった。だからたいして期待せずに出かけたのだった。
 展覧を見る。こちらの見方が悪いのだろう。他の絵、オランダの風俗画からは全く何も受け取ることができない。スナップ写真を見ているようでもあった。《牛乳を注ぐ女》は目玉として、出展の真ん中あたりに置かれている。その前にビデオによる説明があった。遠近法を微妙にずらしたり、こわしたりして、実際よりも奥行きを出したり、手前にあるものをいびつにさせ、強調している、といっている。そうしていよいよ対面だ。一枚だけ、壁にかかっている。その前を、二本のロープで区切り、道を二つ作っている。絵の近くは立ち止まらずに進む用の道で、その後ろはじっくり見る用、と係員が声を張り上げながら誘導している。じっくり見る、といっても、ものすごい人で、段差があるわけではないので、移動する人たちの頭で、後ろからはほとんど見ることができないが。ともかくこんなふうに一枚の絵の前で誘導されるのは、初めてなので、じっくり見にくいという欠点はあるが、面白く思った。同時にこの光景を見て、つい最近テレビで見た《モナ・リザ》が日本に来た時(一九七五年位?)と重ねてみたりした。あの当時は三列で、三列とも立ち止まらずに見て、段差があったらしいが(それほど、観客が多かったのだ)。後は、上野動物園のパンダ。わたしが初めて見たのは、小学生の頃で、何代目かだったか、ともかく人気も一息ついていた筈なのだが、それでも立ち止まって眺めることができず、初のパンダ体験は、お尻を見ただけに過ぎなかった。などと、立ち止まらずに進むほうの列で、絵の前にくるのを待っている時に思っていた。こんな風な新たな体験によって、記憶や、誰かの体験が、わたしにまた帰ってきたり、わずかながらでも共有したりすることができるのだ、と。
 話しを元に戻す。最初は、後ろのじっくり見る用のスペースで《牛乳を注ぐ女》を見ていた。四五・四×四〇・六センチと小さいので、前列の頭と頭の間からかすめ見るというだけでなく、その分だけ遠いので、質感が伝わってこない。本物を見ている気がしない。それは画集を前にした時と同じ感覚だった。惹かれるものが少ない。画集でそうだったのだからとあまり期待していなかったので、がっかりはしなかった。だが、せっかく来たのだから、と前の列に並び直す。前の列も一列ではなく、三〜四列になっているので、少しずつ最前列に移動した。ようやく絵の前に来る。そうして…。
 《牛乳を注ぐ女》、一六五八〜五九年頃。「いかにも働き者然とした質素な身なりの女性が、牛乳を陶器の鍋に注いでいる。」「壁に打ち込まれた釘や釘穴、パンや陶器の質感、そして黄色い上着と対照的な青いエプロン」、白い頭巾、硬そうなパン、壁の下のタイル、窓からの明かり…(「 」内は小学館『週刊美術館8フェルメール』より)。
 まず、絵の具がきらきらとしているなとぼんやりと思った。次にそれが、光なのだと思った、というより感じた。壁から、白く光った女性の額から、黄色い上着から、壺やパンから、光がこぼれ、ふりそそいできた。それはそこはかとない輝きだ、だがふうわりと、観るわたしたちをも光をちりばめ、光のなかに置いてくれる、そんな輝きだった。これがフェルメールの光なのだ。この体験は圧倒的だった。光に包まれるうち、絵のなにかがわたしを招きいれた。わたしはそこ(どこ?)にいた。これは共有なのだ。この光の瞬間は…。
 「フェルメールは「物」を描いたのではなく、「光」を描いたのだ。」(同掲書)
 それは画集で見ていたイメージを瓦解するほどに燦然と輝くものだった。あるいは画集から光りをみつけることができないわたしの何かを溶かしてくれる明るさだった。部屋に漂う埃すら、窓からの光りで、見えるような気がした。漆喰やパンの匂いすら光りが運んできたような気がした。これは共有なのだ…。

 他の絵をほとんど素通りし、前述の週刊美術館と、《牛乳を注ぐ女》の絵葉書を買って、外に出る。光、光。銀杏が色づき、黄金色に光を放っている。
 本によると、当時高価な為、貴重な顔料だった青を多用し、光を際だたせた、また当時発明されたカメラの前身、カメラ・オブ・スキュラで投影した像に生じる光の白い粒、白い点々を、絵に描くことで、輝きをあらわすことをしていたとある。
 おおざっぱな言い方だが、あの光、これらの光に触れて、一九世紀までフェルメールが忘れられていたわけがわかったような気がした。光を描いた印象派の出現を待って、彼は再発見されたのだ。口にすればそんなことだが、光をとおして、あの展覧会で、絵をみて感じていた気もする。絵を前にしたあのまばゆい共有の感触は、モネの絵に感じたそれと同質のものでもあったから。
 フェルメールは現在残っている作品が三十六点と少ないので(寡作だったのと、二百年以上忘れられていたせいと、四十三歳と比較的若く亡くなっているせいらしい)、週刊美術館という薄い本でも、ほとんどの作品が見る事ができる。画集を見た折には、気づかなかった(古いものなので、印刷が今ほど鮮明ではない、ということもあるだろうが)、光が、そこかしこにちりばめられていることが、《牛乳を注ぐ女》の光りによってわかった。気づかされた。光りが他の絵たちの光りを呼び水のように、輝かせたのだ。
 もともとフェルメールについては、それほど良さをわかっていなかった。実物を見たのが今回が初めてだったから、つまり光りに触れたのが。ただ、以前にも日記で書いたが、プルーストに《デルフトの眺望》を絶賛している箇所があって、それで興味をもったのだった。プルーストがすきだったから。だから残念なことに、近年日本で公開されていた《真珠の首飾りの少女》も見に行かなかった。今、印刷物を通して少女をみる。彼女の白眼、黒眼、ぬれた唇、肩、そして真珠の耳飾りが、ちらめいているのがわかる。顔が、永遠の光りを宿しているのがわかる。内面であるとか、そういったことではなく、もっと、多様な、もっと美しい逸脱の凝縮としてふりむいているのだと、感じることができる…。共有のなかで。
 昨日、通勤路を少しそれて、公園の散策路を通った。銀杏の黄色がまぶしいのが、痛いくらいだ。この銀杏は、秋になると、青々とした緑から、黄緑色になり、黄色く黄葉する。その黄緑色は、春の小さな葉の色そのものだ。散る前に、また生まれたての色になる、ということだ。黄葉した銀杏は、春を共有しているのだ。だから、あんなに輝いているのだ…。国立新美術館で、通路ごしにみた銀杏の色をそこにさらにかぶせ、フェルメールの光りをもそこに見いだしながら、見入っていた。色づいた葉が、光の粒子をこぼしている。空は少女のターバンのように、女の青いエプロンのように影をはなつ明るさだ。

【バレエ・リュス、昼と夜のはざまで】
十二月二十五日
 映画『バレエ・リュス 踊る喜び、生きる喜び』を観た(渋谷・シネマライズ)。「バレエ・リュス」とは、「ロシアバレエ団」の意味。ロシア人、ディアギレフがパリで一九〇九年に作ったバレエ団。映画は一九二九年、ディアギレフが亡くなってから二〇〇〇年の団員たちの同窓会までの「バレエ・リュス」の軌跡を追ったドキュメンタリー(バレエ団は一九六二年に解散)。
 バレエについては、門外漢なので、あまりこれといった感想がいえないのだが、映像、とくに演目を踊るシーンはまばゆく、新奇かつ懐かしく、心ひかれた。
 映画は、バレエ・リュスが二つに別れ、パリからアメリカに拠点を移し、戦争を経て、南米やオーストラリアへ興行に出かけ、振付師が何代か変わり…、とその歴史を追って行く。時代を下るなかで、戦争や、興行主との関係で、演じる舞台が、パリ、ヨーロッパ各国、アメリカ、中南米、オーストラリアと、広がってゆくこと、それと付随して、「ロシア・バレエ団」といいながら、設立当初からロシアで踊ったことがない人々(デイアギレフは亡命してきた)で始まり、次にパリにいたロシア系のバレリーナ、アメリカ人、英国人と、時代とともに団員が混合してゆくことが興味深かった。
 だが、踊りのシーンでは、たとえば「金鶏」は、ミハイル・フォーキン振付で、リャブシンスカが踊っていると、クレジットが出るが、原作はプーシキンで、舞台美術は誰で、といった演目の説明は一切ない。ただでさえ数十秒のシーンなので、こちらに伝わる情報量が少ないのが物足りなく、それが残念といえば残念だった。なかには、今では踊られることのない演目もあったらしい。この説明ももっと欲しかった。一時間五八分で、一九二九年〜二〇〇〇年までの軌跡を辿るのだから、そこまで詰め込むことは難しいのだろうが。また、バレエ・リュスには、舞台美術・衣装にピカソ、マティス、ミロ、ダリなどが、音楽にラヴェル、ストランヴィスキー、ドビュッシー他そうそうたるメンバーが関わっていたのだが、その結びつきも、クレジットが入らないことがあったりで、わかりにくいのも残念だった。舞台の説明よりも、舞台裏の出来事の説明に重点を置いていたといえるかもしれない。だが、ストランヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、曲が好きだったので、人形の踊りのシーンを初めてみれたことなどは、それでもうれしかった。天才ニジンスキー(ディアギレフ時代、一九〇九年に解雇された)の踊っている映像は現存しないそうだが、彼の振り付けの「牧神の午後」(このドビュッシーの曲も好きなのだが)を、ゾリッチが踊っているものを観れたのもうれしかった。またダリが「バッカナール」で、白鳥の腹が地獄の入り口のように裂けている絵などでセットを作っており、そんななか、白鳥にまたがり、あやしく誘うように踊るシーンは、バレエとも演劇とも絵画とも音楽(ワーグナー)ともいいえない、まざりあった凝縮だと思った。
 山口昌男『仕掛けとしての文化』に、「日常生活の重力装置が壊れて、中心と周縁がごっちゃまぜになってしまった時に、人は、なんでもなさそうなものの陰にかくれているものの息をのむような美しさを味わう。」と、仮面をした演技についてふれている箇所がある。ことばがなく、表情もなく、身振りだけで行われる演技は、日常に違和を引き起こす。「こうした演技の中から、絶妙な身体のリズムが紡ぎ出されて、(…)我々の精神の底の底までとらえるハーモニーを奏でて行く。」これは、踊りにもいいうることだろう。アーカイヴ・フィルムでみる、その爪先立ちの足首、その肩から腕にかけての線、反った背中、動作のひとつひとつが私たちの身体から突出して、美しくゆさぶりかけてくるのだった。
 映画は、現在(映画撮影当時、二〇〇〇年位だが)の、元団員達へのインタヴューも取り混ぜられて進行している。八十一歳になったイリナ・バロノアが思い出を語ると、「ベイビー・バレリーナ」(一三歳〜十五歳で、三人いた。ディアギレフ亡き後に、呼び物として、若いバレリーナを発掘してきたのだ)と呼ばれていた一九三二年頃の映像が映される、といった風に。
 インタヴューに出てくる人々の殆どが、八十歳代、九十歳代の今も何らかのかたちでバレエに関わっていることに、単純に感動した。バレエ団を設立、バレエの芸術監督、大学のダンス学部などで教鞭を…。公演に出かけた地であったろう、アメリカ、ヨーロッパ、ベネズエラや、オーストラリアで、あるいは世界各国を飛び回って。
 また、最後のほうのインタヴューで、アリシア・マルコワ(一九一〇〜二〇〇四)が、「報酬は僅かだったけれど、“これが踊れるのなら”、“あのデザイナーと仕事ができるのなら”と、それが財産だった。」「ね、私の人生は何てリッチなのかしら。」と語っていることも心に残った。
 事件や踊りが次から次へと出てくるからだろうか、あきることなく映画の時間が経った。二時半位からの上映で、終わったのが四時半。昼近くだった辺りの景色が、暗がりから出てくるともう夕方、まもなく夜だ。ドキュメンタリーだからだろうか、映画を見終わった後の、登場人物が身体に残っているようなあの感覚はない(古いたとえだと、任侠映画を見終わって出てくる観客が、それぞれ肩をいからせて歩いしまうような)。だが、昼と夜の間にあいた穴から出てきたような感覚があった。その穴の向こうは、リッチな明るい凝縮の空間がひろがって。


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