豹日記 vol.7
(二〇〇六年十二月〜二〇〇七年二月)

(レヴィナス、ルソー、ルネ・ラリック、ミュシャ、プルースト、サラ・ベルナール、『言霊と他界』、上田秋成、シルク・ド・ソレイユ)

【植物生】
十二月十五日
 冬の日射しはにぶく弱い。そのことが欝を引き起こす一因にもなると、数年前、心療内科で言われたことがある。紫外線の量が関係しているとのこと、冬期鬱病というものもあるらしい。届かない日射しが、届かないそのことで重くのしかかってくる。
 はじめてそれを聞いたとき、日光の光が作用するなんて植物みたいだ(日陰の痩せた向日葵、行き場を失うトケイソウの花)、こんなところでも自然と繋がっているんだと、うれしくもなったが、当時は鬱病の真っ最中だったので、ちょうど、あの遠い太陽のように、ぼんやりとどこかでぼんやりそう思っただけで、うれしさもなえてしまうのだった。冬の太陽を見上げる。サングラスなしでも、なんとかまぶしくなく見つめられる。これが弱いということなのだ。弱さが静かに降り積もる。
 今は鬱病のほうはほとんど治ったのだが、十二月を過ぎた頃になると、毎年気落ちが始まるようになった。やる気が起きず、何もかもおっくうになる。人前に出れなくなる、等々。重さがとりまくなか、ああ、去年も一昨年もそうだったと、感触がよみがえってくる。まるで春、桜が咲いたのを見ているうち、去年、一昨年、十年前、桜を前にしたすべての想いが、その春にたなびいているのを感じるように、それらがたちあらわれてくるように。この重さが、季節をつげる冬の風物詩になってゆくのだろうか、とにぶい日射しを感じながら思う。たぶん、桜よりも少し前、梅が咲く頃までこの重さはつづくだろう。ホトケノザ、オオイヌノフグリ、サギゴケが出てくるころかもしれない。植物のようだとここでも思う。春になるとゆっくりと眠りからさめるのだ、頭をもたげるのだ。明るさが届かない重さをゆっくりとかきわける。フキノトウ、ツクシ、木の芽たち。

【異郷(あるいは冬の木漏れ陽)】
十二月二十五日
 変わらず気力がない。この重たさが、なぜかルソーの絵により近づけてくれているような気がぼんやりと、頭のどこかとおくのほうでささやいているのがきこえる。彼の絵に感じる重たさがひきつけてくるのだろうか。あるいは穴のような。
 異文化への憧憬ではないエキゾティズムがある。「世界が私とは無縁に」存在すること。それは「いま在る世界を異郷ととらえる感覚である。その意味でのエキゾティズムは、やがてノスタルジーのむしろ背面となる。(…そこでは)私には身のおきどころがない。(…)ノスタルジーは、ここでむしろ、けっして与えられなかったもの、あらかじめ失われているものへの郷愁である」「にもかかわらず、われわれは世界内に内在している」。
 過去が美しく感じられるのは、この異郷、この隔たりが、現在よりも顕著なので、距離に比例してノスタルジーを感じるのだろう。あるいは距離によって側面から、いま在ることを照らしてくれるのだ。そして「芸術がなりたつのは、世界からのこの隔たりのゆえである。芸術は、あたえられた世界をひとつの「異郷」として手わたす。(…)芸術は、その意味でおしなべて「異邦的(エキゾティック)」であり、異郷としての世界をこそあらわにするものである。芸術によって開示された世界のまえで感じられるものは、この世界そのものが異邦であることにほかならない」(「 」内『レヴィナス入門』熊野純彦、ちくま新書) 。過去へのノスタルジーと芸術へのノスタルジーはここで結びつくのだった。憧憬ではない、あらわさとして、世界をさらけだし、さしだしてくるものたち。「それらがあらわしているものは、物質があるということ、世界が存在するということそのものだ」。レヴィナスについては、この後「強いて単純にいえば、世界が私とはなんのかかわりもなく、たんに存在する」ことについて詳細に描かれるが、今回は気力の関係で立ち入ることができない。ただ芸術がさしだす世界は、あるいは過去にたいする思いは、隔たりとのふれあいなのだと、薄日がさすように思ったのだった。
 ルソー《マルヌ河畔の風景》(一八九八年)は、河畔から伸びた道が森の奥深く細く消えてゆく。《散歩(ビュット=ショーモン)》(一九〇八年)も、糸杉のなかに向かう道に、小さな穴がある。《ピエーヴル川の谷間の春》(一九〇四年頃)では前景の巨大な樹々の、木漏れ陽かとみまごうしろい四本の道が、奥へ伸びている。先は小さな人影にさえぎられ、わからない。この奥へ、入り口(あるいは絵からの出口)へ誘うような絵たちにひかれるのだった。三枚とも暗い色調だ。だから《ピエーヴル…》で陽光だと感じたのは、まちがえではないのかもしれない。あの先へつうじること、郷愁はぼんやりと照らし出されなければならないと思った。誘ってくるのは、隔たりへの想いたちが共鳴しているからなのだ。
 ルソーは旅をほとんどしなかった。公園、図鑑、絵本、郊外、身近な人物が、彼の描くほとんどすべてのものだった。旅もまた過去とおなじように、隔たりを如実にしめすものだろう。それは角度をかえてみることで、本来の存在をあきらかに見せつけることなのだ。ルソーは旅をしなかった。彼のくずれた遠近法からは少し奇異な気がしたが、人物を描くとき、彼は「鼻と口と耳と額と全身をはかり」、縮図器を用い、煉瓦職人のように「一センチずつ積み上げるように」正確さをもとめ、入念にしあげたという。彼はすべてを写実的に描いていた。「写実的な表現に対する配慮ともみえるような方法は、じつは、絵によってこの世界を所有しようとするルソーの深い願望から発しているのである」(新潮美術文庫『ルソー』)。彼の、隔たりが近しいものとしてやってくる。
 彼にとって、人物と背景は、あるいは猿と南国の植物は、つまり風景も人も、おそらくすべて同じ比重を持っていた、おなじ隔たりをささやいていた。だから、どうしても遠近法からこぼれてしまうのだろう。遠近法は「人間の肉眼を主体とする点で、それは人間と自然とを対立させ、しかも優位に置く、人間中心主義的な方法」だから。また隔たりが畏怖としておとずれることもあっただろう。植物たちが大きすぎて、人物が小さすぎるのだった(こうした作品たちの一枚に、奇しくも《エグゾティックな風景》という題名のものがある)。隔たりに近づきたいと、想う分だけ、大きくなる、たとえば牛(十一月十五日日記、《牛のいる風景―パリ近郊の眺め、バニュー村》)。彼は旅をしなかったのは、旅をするまでもなく、世界がそこここに異邦として眼前にあったからなのだろう。穴をとおして所有の瞬間にさわれるのだ、きっと。と、どこかとおくで、ちかくで、冬の木漏れ陽を感じている。

【硝子雲】
二〇〇七年一月五日
 高速道路を走っている。車窓から枯れススキをみた。楢やブナの木に、まだ葉が残っている。こうしたものたちに、切ないくらいに訴えてくるものたちを感じるようになったのはいつからだったろう、とぼんやりと助手席で考えている。植物には、子どもの頃から親しんできたつもりなので、じつはそんなに歳をとってからではないはずだが。名前を知っていること、も関係するだろうか。去年もナナカマドの実を見た、ガマズミの実をひさしぶりに見た、とか? それももちろんあるだろう、だが、山が光をあびてさっと輝く。雲間から陽光が斜めに射しているのが、空に映っている。たれさがる光の布。ちいさな雲がはなれてあるのが、下のほうだけ明るい。こうした刻々と姿を変えるものたちに、わたしは好かれたかったと、ふと思いおこすのだった。雲は刻一刻姿を変え、同じものは永遠にあらわれない。そのことに、不思議さをおぼえつつ、なぜ感動しないのか、とかつて自問したことがある。今も普段はほとんどそれを気にしない。このこともやはり旅、なのか。日常では距離が近すぎて見えないもの。旅が距離をもたらし、見やすくするのだろうか。雲が永遠に姿を変え続ける。湖水の波紋が、水面をてらす光のちらめきかたが、ながれる川が、もとのままでいることがない、というのは、じつはわたしたちのことでもある。細胞は刻々と変化している。会話したことは、二度とくりかえされない。行きかう人はつねに違う人物だ。世界はもとの姿でいることはない。「芸術によって開示された世界のまえで感じられるものは、この世界そのものが異邦であることにほかならない」(熊野純彦『レヴィナス入門』)は、ここでもやってくる。雲の変化は変わりつづける世界をあらわにみせることでもあるのだった。あるいは日常という効用性の覆いにあけた小さな穴、をとおして、雲がささやきかけてくる、それに細胞がこたえる、ということ。わたしはそう、ずっと雲に好かれたかったのだ。雲にさわられたかったのだ。
 箱根ラリック美術館にゆく。ほぼ一年ぶり、二回目だ。はじめてではないので、信頼感があるからだろうか(ここのコレクションはとても充実している)、すっとラリックの作品たちがはいってくる。ガラスがとてもやわらかいものでできていると思った。あたたかさがにじんでいると思った。《バッコスの巫女たち》は、バッカスの祭りに、一晩中踊りつづけている。そして、罰として水を汲みつづける《ダナオスの王女たち》。ふたつとも口広の花瓶で、乳白色のオパールセン・グラスを使って裸体の女性を描いてある。だから、モティーフは全く違うのに似ていることが不思議だった。特にダナオスの王女たちでは、懲罰がこんなにも繊細なかがやきをはなっていることに驚く。花瓶、ブローチ、灰皿、カーマスコット(今ではほとんど使われないが)、香水瓶、ランプシェードたちを通じて、日常に接点をもちながら、その側面から世界をあらわにさしだしてくれる。これはけれども、雲や波よりは時間にもうすこしだけ耐久性をもっているだろう。その姿は少なくとも刻一刻と変わるものではない。絵がそうであるように、詩がそうであるように。
 ガラスたちをトレイとして使う、グラスで飲む、窓をあける、扉をひらく、壁にもたれる、電灯をつける、香水をつける…。日々のなかで、ラリックがあふれていたらどうなるだろう、とふと思いながら館内を歩く。あの雲たちのように、日々のなかではほとんど眠ってしまうのだろうか。さわりつづけることで逆にさわることがむつかしくなるだろうか。家にあるごく少数のラリックたちを思い浮かべる。彼女たちはちいさな穴として、風を始終吹き込んできてくれる。それはおおむねやさしい。やわらかい肌のガラスたち。吹き込んだ風で、そっと日々の曇りをぬぐってくれ、あらわさをさしだしてくるのだった。ちいさな、とてもちいさな穴だが。最初の感動は、あるいはここで今日みた《ダナオスの王女たち》に感じた突風はもちろんないだろう。だが、ふっとグラスをみつめる。香水瓶をみつめる。そのとき、やはり接点からしろい肌でいつもさそってくるのだった。たどりつけない異郷たち。
 帰り道、午後四時すぎ。もはや夕空となった色をまとった雲が、オパールセン・グラスの色をはなっている。ひびいてくるのだとおもった。呼びあって、好いてくれるのだと。
 「何故此のように風景が活き活きしているのであろう。胸を噛むにがいものを感じながら、私は思った。この基地でいろいろ考え、また感じたことのうちで、此の思いだけが真実ではないのか」(梅崎春生『桜島』)

【光の断層】
一月十五日
 アルフォンス・ミュシャ展(一月二日─二十三日、日本橋高島屋)に行く。ポスター、リトグラフという性質上、ある程度複数枚存在するからだろう、ミュシャのたいていの展覧会は、充実した内容であるのがうれしい。会場内に入る。最初はサラ・ベルナール(一八四四─一九二三年)出演作品のポスターから。サラ・ベルナールの名を、わたしはおそらくプルーストで先に知ったのだろう。だからパブロフの犬のように、彼女を描いたミュシャのポスターを見ると、いつもプルーストを思い出すのだった。『失われた時を求めて』の女優ラ・ベルマのモデルとなったサラ・ベルナール。プルーストのそれでは、ラシーヌの戯曲『フェードル』だったが、こちらは『ジスモンダ』、『椿姫』、『王女メディア』、『トスカ』など。サラ・ベルナールの舞台での演技を見ることはもはやかなわない。そう思いながら、日々と詩の接点、瞬間について、このところ気にかかっていたことをポスターの前でふっとよぎらせる。日々のなかでそのことばかり考えていたわけではもちろん(残念なことに)ないのだが。たとえば同時期に写真家ナダールの撮ったサラ、そしてこのミュシャのサラは、それぞれ彼らの作品として生きつづけるだろう。だがサラの作品を、つまり演技をみることはない。そのことをさびしく思いながら、ミュシャの絵につつまれ、いざなわれるようにして、プルーストを、そのほか数多の雑多なものたちを、場内にぼんやりとみていたと思う。ジョブ(JOB)から煙草を、モエ・エ・ド・シャンドン社のポスターからシャンパンを、つまり、それぞれの広告からリキュール、自転車、旅行、チョコレートを、与謝野晶子の詩画集があったから『乱れ髪』(この挿絵はミュシャの影響を受けている)を、といった風に。だから、それに乗じて、ミュシャから、ちょっと離れてみる。またおそらく戻ってくることになるだろうから、それぞれが呼んでいるのだから。そう瞬間について、接点について、どこかで呼んでいたのだった。いや、呼ばれていたのだろう。家に帰ってプルーストの書物をひさしぶりに開く。「われわれはひとつの世界のなかでものを感じているのだけれども、考えたり名づけたりするのは別の世界においてであり、その二つの世界のあいだに対応関係を打ちたてることはできても、その隔たりを埋めることはできないのである。はじめてラ・ベルマの演じるのを見に行った日に、越えなければならなかったのは、いくぶんこの隔たり、この断層のようなものだった」(鈴木道彦訳)。つまり、日々との接点で。断層で。彼の語りかけがうれしかった。呼んでくれていることに、そう、まるで好いてくれているかのように。ラ・ベルマ─サラ・ベルナール(彼女たちは同一ではない、このあいだにも断層、距離がうやうやしく横たわっている)は、この接点に存在するのだった。「私はもう以前のように、ラ・ベルマの身振りであるとか、たちまち消える照明のなかにほんの一瞬だけ彼女がもたらした、二度と作られることのない美しい色彩効果などを、そこに停止させたいとも思わなかったし、一行の詩句を百度も繰り返して彼女に言わせることができればと思うことはなかった。(…)たえず変化して定まらないこの身振りや、次々と入れかわる場面は、演劇芸術がみずからかくあれかしと望んだもの、そしてあまりに熱中した観客が注意ぶかくそれを凝視しようとすると破壊されてしまうような、逃れ去っていく成果、つかのまの目的、動く傑作なのである」(同掲書)。瞬間に永遠をやどした接点、たちが、手招きをしていたのだ、サラのそれ、舞台はだがみれない。雲が変わった。波が変わった。いや、サラのそれが、雲をまとい、波をそそいでくるからこそ、それらは生々しく差し出されるのだろう。ミュシャのポスターが瞬間をそこに映しているように。そう、そうしてミュシャに、あの会場に戻ってくる。連作《芸術》(一八九八年、リトグラフ)は朝から夜までの時間と結びついた四枚。カタログから。「「舞踏」は朝および明け方のそよ風と、「絵画」は陽光をいっぱいに浴びた花と、「詩歌」は夕暮れ時の黙想と、「音楽」は夜の静寂のなかでの鳥のさえずりと、それぞれ組み合わされている」。《舞踏》(The Arts: Dance)の風をはらんだ躍動。虹さえ輝く明るさ(おそらくすべての色彩が込められている)のなかで花を見つめる《絵画》(The Arts: Painting)。夜なのに《音楽》(The Arts: Music)によって照らされているかのごとき明るさのなか、聞き耳をたてる女神の静けさ。そして夜と昼の接点で、頬づえをついて夢想する女神の《詩歌》(The Arts: Poetry)、そこをまたいで。この昼夜の接点から、また呼んでくれていると思った。一瞬好いてくれているのだと。この断層から。この夜と昼の出会う場は、マグリットの《光の帝国》の場からの明るさをもにじませてくれるのだった。「逃れ去っていく成果、つかのまの目的、動く傑作」たちがはなつ光の断層。

*だが、どうにかすれば、サラ・ベルナールの演技は見れるかもしれない。「サラ・ベルナールは1900年の"Le Duel d'Hamlet"にハムレット役でデビューした、無声映画の女優のパイオニアの1人である。(技術的には、この映画には吹替えられたセリフが録音されたシリンダーが付随しており、無声映画ではない。)彼女は8本の活動写真と2本の伝記映画すべてに主演した。伝記映画の後者は、1912年の"Sarah Bernhardt a Belle-Isle"(自宅での彼女の毎日の生活に関する記録映画)を含んでいる」(『ウィキペディア(Wikipedia)』より)。とあった。だがその舞台をみることはもちろんできない。

【蜻蛉の眼】
一月二十五日
 前々回触れたラリック美術館で、「ラリックと日本」という特集の、雑誌『なごみ』(淡交社、二〇〇六年八月号)を購入した。特にアール・ヌーヴォー期のラリックのモティーフとなった燕は、家紋や日本刀の鍔から、流れる髪を持つ女性の頭部のブローチは日本の流水や波とかんざしから、蜻蛉の蓋物の蜻蛉は、江戸時代に「勝虫」「将軍虫」と呼ばれ、武具や馬具に使われていたものから、魚のネックレスや桐のブローチなどは京唐紙の意匠から、と日本のさまざまのものから感じたものをとりこんでいることを、この特集から今さらながら教えられ、心惹かれた。「芸術がなりたつのは、世界からのこの隔たりのゆえである」(『レヴィナス入門』)。日本という異国を取り込むことにより、いまあることの異郷性を彼ら(蜻蛉などはラリックだけではない、アール・ヌーヴォー期共通して好まれたモティーフだから)はたぐろうとしていたのだろう。日本という異郷、芸術という異郷が、日々あることの異郷(それは、わたしたちがいなくても存在するものでもある)をあらわにする、その入れ子細工の緻密さにめまいがする。また、日本というわたしの住む場所から想起を得たモティーフ(梅、飛蝗、鯉等)をまたわたしに差し出してくれることにより、日々住む場所のすきまをひらいて見せてくれるのだった。つい気にかけなかったものたち、埋没させてしまったものたちを、ひきあげてくれ、入り口を、覗き穴をつくってくれる。それは時間をもたない接点でもある。
 だが、この埋没させてしまっていたものたち、というのは、十九世紀末当時のヨーロッパでも、言いうることだったらしい。日本の挿頭花(かざし)は、元々は「聖なるものを招き入れるために」「髪や冠に挿」した植物からきたもので、こうしたものをモティーフにした「文様は、自然と人間との交感、聖なるものと人間との交感を仲立ちにする役割を担っていた」とある(「日本の工芸意匠と自然観」日高薫)。だが、「このようなアニミズム的自然観は、ヨーロッパにおいては、世界の秩序を人間中心にとらえるキリスト教思想が支配的になるにつれて失われていったもので、美術の世界でも動植物や山河などの自然モティーフは軽んじられ」…とあり、ここでも軽んじ、気にとめなかったものたち、から、「新鮮な感動」として、植物や虫たちが浮かび上がってくる。異郷たちをつうじて接点がひろがるのだった。このほか、「ヨーロッパの装飾文様は、世界の秩序の表現でもあったから、左右相称で、数値的に裏付けられた完全な均整の美が理想とされていた」ので、日本のランダムな「散らし文」、浮世絵などの左右非対象を生かした構図などが、ほとんど衝撃として映ったであろうことたちが、逆に新鮮だった。入れ子細工が共鳴しあって。ラリックの流線を駆使した花瓶たちから、蒔絵の硯箱を手渡されて。「移ろいやすい自然を瞬時にとらえる日本美術の表現は、(中略)和歌の心に通じる。(中略)自然物や自然現象を自らにひきつけ、生活感情と一体化させる日本の意匠のあり方に、ヨーロッパの人々は共鳴したのである」。蜻蛉の眼から、からまりあった時間と空間が流れてゆく。
 ラリックの「日本の林檎の木」というベッドサイド・ランプは、キャプションによると、林檎よりも梅に近いとあるし、実際わたしも梅のように思う。ラリックは、自身のなじみのあるものに置き換えることで、ジャポニスムから通常受け取りがちな楽園的な、どこでもなさを、日々に取り入れ、食い込ませようとしたのだろう、とも思う。日々で使われるやわらかなペーパーナイフや灰皿たち、日用品とも、密接につながりあって。それは江戸の櫛、紙入れ、印籠、湯桶などとも重なりあうだろう。ベッドサイドで、白くぼんやりとともる花。まもなく梅が咲く頃だ。

【かよう鳥の夕べ】
二月五日
 ほんのわずかだが、日が長くなった。夕刻、こもっていた屋内から一歩出ると、夕焼けの残影がビルたちを照らしている。そこに真冬の夜の暗さはない。街灯たち、列をなす車のライト、ゆるい黄色、オレンジの光が、空の橙、イエローと響きあう。にぶい明るさ。まだ欝は続いている。だが、もうすぐだ。夕方が時間をずらしてゆく。気にとめたことがなかったが、夜明けももちろん早くなっているのだろう。もうすぐこの重さから芽をだせるだろう。
 前回にすこしつうじる。本居宣長と上田秋成が、『呵刈葭』(よしかるあし)という書物のなかで、日本神話や、言語について論争しているとあった(『言霊と他界』川村湊、講談社学術文庫)*。本居宣長から派生した、今に通じる問題もからんでくるだろうから、そこからかいつまんで一点だけここにあげるのは気がひけるのだが…。とにかく宣長は、カナの五十音のみを正しい音とし、“ん”や濁音などは、古来から日本になかったものとして、不正の音としている(たとえばここでも、五十音を最上のものとし、特権化するだけでなく、階級的分化を生じさせた秩序をつくりあげた意識がほのみえてくるのだが)。そして、「外国ハ正シカラズ。鳥獣万物ノ声に類セルコト」と、外国の言語をも自然音にくくったうえで、不正と正に、つまり「自然音と人間の言語(声)とを峻別する」のに対し、上田秋成は「糸竹不正の音ならば、人の言語に合奏すべからず、(中略)上古は言語を糸竹の音勺に合せて、声を調へ咏言せしにあらずや、(中略)物に触るれば其物の音と和して響動す、(中略)糸竹草木の音、神をも人をも和めまつれるを…」、また「海外の言語、羽毛に等類すといふも、又私の甚だしき者なり」と『呵刈葭』のなかで反論しているのだった。「秋成の立場が、相対主義的なものであり、インターナショナルな普遍性に基づいていることは明らかだろう」。秋成はまた別の書物(『霊語通』)で、「音声亦自然にかよふ由あればこそ、五十音の法則をも取はやすなれ」と語っている。「「古言はただ自然の音声にかよふべきはかよひ」とか、「自然の音はたがふ事なし」「自然の言語の妙法」といった言葉が、『霊語通』の中には頻出する。そして秋成が「自然」という語の対語として出してくるのは「法則」なのである」。そして法則(「ことごとしい仮名遣いの法則」)とは、「言語音韻の「自然の妙法」の働きをむしろ阻害するものにほかならなかった。言語音韻は、さかしらを棄て、“自然にかよ”わせることによって、その霊妙さを味わうべきものなのだ」。
 この自然にかよう音の響きが、前回の『なごみ』から借りていえば、〔音韻は、「自然と人間との交感、聖なるものと人間との交感を仲立ちにする役割を担っていた」(日高薫)〕となるだろう。そして、そんな秋成だからこそ、わたしはずっと大切に想ってきたのかもしれない、とうれしくなる。わたしは彼がずいぶん前から好きだったから。もう少し、『言霊と他界』から引用を続ける。「言語はまず、世の中のありとあらゆる“声”を湊合するものであり、天然自然の音と“かよふ”ものなのである。秋成にとってそのことは自明であった(中略)。言語は、現実の世界で生きることと同じように、その世界の中で、自由自在に動き回り、生きようとするもの以外のものではなかったのである」。「つまり一言で言ってしまえば、彼は言葉の世界に生きたのであり、(中略)それは彼がつねに心のうちにひそめていた現実の外側の【もう一つの世界】へと“かよう”ことのできる「霊語」としての働きでもあったのである」。「秋成が「ん」の音に、半濁音の存在にこだわったのは、言語音韻の世界の実在性をリアルに描き出そうとしたからである。五十音という秩序の枠の中には位置を占めることのできない、不安定で不正な音。だが、そうした言葉の音韻の実相が示されない限り、そうした音の世界が、実在の世界を超えた別の世界のビジョンを垣間見せてくれることもありえないのだ」。
 おそらく高校の頃だったろう。現代教養文庫の現代語訳『雨月物語・春雨物語─若い人への古典案内』(神保五彌、棚橋雅博訳)を読んだ。ストーリーだけでもとても面白いので、若かった私は文字通り案内され、原文の『雨月物語』を読んだのだった。たとえば、魔王となった崇徳上皇の霊と、西行法師が闇のなかで対話する「白峯」は、まさに世界が“かよう”ことだったろう。だが、とにかく、その闇のけわしさに、当時はひかれたものだった。上皇の怒りが夜を照らす。「見る見る一段の陰火君が膝の下より燃上りて、山も谷も昼のごとくあきらかなり」。魚の絵を描いた後で見る夢で、自ら魚になって泳ぐ僧、夢応(自らつけた名前だが、夢に応じる、というのが美しい)。だが、その夢は現実に通じており、実際に食べられる寸前にまで陥ってしまう「夢応の鯉魚」。美しい、実は大蛇である女性との恋と破局の「蛇性の婬」。そして、これが当時、一番ショックだったのだが、稚児を愛するあまり、その病死を惜しんで肉を喰らい、食べ尽くして悪鬼となった僧の物語「青頭巾」。これらは、こうして並べてみると、すべて、接点の物語であると気づく。河合隼雄にならえば、「見知らぬ館」でおこった出来事たちだ。「見知らぬ館は(男の住む)日常の世界と(女の住む異界、)非日常の世界の中間地帯と言うことができる」(『昔話と日本人の心』岩波現代文庫)。霊との接点(「白峯」、「仏法僧」「菊花の約」も)、絵と現実の接点、あちらの世界で生きる女性との接点(「蛇性の婬」、「吉備津の釜」「浅茅が宿」も)、「実在の世界を超えた別の世界のビジョンを垣間見せてくれる」場所、そしてそこは、「不安定で不正な音」こそがかようことのできる、不安定な場所、誰そ彼時の時間がつつむ場所なのだ。『呵刈葭』『霊語通』で取られた態度は、特に「仏法僧」では顕著だろう。剃髪した半ば世捨て人の男夢然(この半ばという設定も面白いし、名前も面白い。夢応という名前と、また夢応の徹底的な僧である隔絶とも対比できるだろう)が、風雅を介さない息子と一緒に旅をする。そして高野山で難儀に遭い、野宿することになる。これは、接点に足を踏み入れるのは難しいということかもしれない。そこは弘法大師が「土石草木も霊を啓きて、八百とせあまりの今にいたりて」ますます貴い場であるという。つまり「すべて此山の草木泉石霊ならざるはあらずとなん」という場所なのだ。これは、「糸竹草木の音、神をも人をも和めまつれるを…」とする秋成にとって、まさにかよふ接点として、一貫した想いがみえる。この地で、仏法僧という鳥(実際はコノハズクの声らしいが、当時はおなじ名前の渡り鳥の声とされていた)の「仏法、仏法(ぶっぱん、ぶっぱん)」という声を聞くことで、扉はさらに開かれる。かよう音をきいて、異界と通じるのだ。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」と夢然は発句する。すると、異界のもの、貴人の霊たちがそこに現れ、宴をひらく。夢然はまだ物陰で見学しているに過ぎない。ブッパン、ブッパンとまた鳥の声が聞こえたとき、貴人に仕えるものが、「旅人の通夜しける」の詠んだ俳諧を思い出し、もう一度、殿下にきかせようとする。かようこと。夢然は畏まりながら、貴人とは誰かと尋ねる。つまり名前を聞くことで、世界の一端はとりあえずつながりをもつ、安心するのだ。「殿下と申し奉るは関白秀次公にてわたらせ玉ふ」。夢然が詠む、山田三十郎(秀次の小姓)が、下の句をつける。「芥子たき明すみじか夜の牀(ゆか)」。せめぎあう接点。霊がかよう、そこに、芥子をたく調伏が置かれるのだ。敵対とすらいっていいかもしれない。日常と非日常の出会いの難しさでもあるだろう。だが下の句をつけるということは、それでも不安定ながら、であった、つながった、ということでもある。この出会いは、もちろん、長くはつづかない。夜明け間近、秀次は夢然親子を異界に連れてゆこうとする。が、老臣により思い止められ、両者は永遠に別れてゆく。「秋成に関していえば、彼は言葉以外の世界に、別の世界の実在を認めることはありえなかった。自然が言葉であり、言葉が自然であるような世界でしか、彼は言語の問題を考えようとはしなかった」(『言霊と他界』)。こうした態度は、おのずと限界を見つめざるをえないのだ。つまり、別の世界と言葉を通して触れあうことができる、が、わたしたちは、けっしてその異界にとどまることができない、ということ。貴人は永遠に去ってゆく。草木のなかへ、鳥の声のかよったところで。
 夕方がまた会社の帰りにあざやかな色を見せてくれるようになった。駅まで歩くあいだに終わってしまう、だが響きあう色たち。

*秋成は、賀茂真淵の国学に興味を持ち、真淵門の建部綾足、ついで加藤宇万伎(うまき)に入門し、特に宇万伎に敬慕したという。「後年、真淵の門弟として本居宣長のみを称揚する世間の風潮に反発して、しばしば宇万伎の存在を著書の中で強調している」。安永五年(一七七六)刊行の『雨月物語』は、「この国学研究を志した時期に成立したもので、古典を踏まえた知的で非通俗的な創作態度は、国学との関連において初めて理解できるものである」(「 」内『雨月物語・春雨物語─若い人への古典案内』解説より)。

二月十五日
【にこやかな土の春】
 シルク・ドゥ・ソレイユの「ドラリオン」(原宿・新ビッグトップ、二〇〇七年二月七日―五月六日)にゆく。彼らをサーカスといっていいのだろうか。たぶん、このことばから、いつもどこかしらのがれてしまうのが、彼らなのだと思う。十年ほど前から、出し物が変わるたびに出かけている。シルク・ドゥ・ソレイユ(太陽のサーカス)、カナダ・ケベックの大道芸人たちが一九八四年に結成。彼らは動物を使わない。このことも斬新なことらしい(だがサーカスにまつわる郷愁、いや伝統をもちろんふまえて新しさをかもし出している)。動物が出るとすれば、それは、動物に変身した人間だけだ。衣裳、音楽*、演じる者、それらすべてが一体となって、動物をそこに現出させる。たとえば、「アレグリア」は幸福のことだが、人はどこまで鳥に近づけるか、というコンセプトのもと、幸福を求めて飛ぶ。彼らはぎりぎりまで鳥に近づき、鳥に変身するのだった。その他「サルティンバンコ」は中世のイタリア語で“大道芸”の意味。古きよき時代の大道芸を継承した、パントマイム、ジャグリングがちりばめられたうえで、バンジージャンプから想を得た技たちがきらめくのだった。「キダム」はラテン語で“普通の人”の意味。その普通の人、少女が夢の世界を旅する、そのなかで、現実と夢のあわいで、空中に、地上に、肉体の果てをめざしたショーが展開する。
 今回の“ドラリオン”は、ドラゴンとライオンの合成語で、西洋と東洋の融和がモチーフらしい(団員の構成員も、今では五〇カ国以上からなる多国籍集団となっている)。そして、中国思想からとった「空」「水」「火」「土」の精の動きにより、それは自然との接点をも現すのだった。こうした題名たちにあわせ、空中ブランコ、トランポリン、玉乗り、輪くぐりなどがなされてゆく。それは、ミュージカルでもないし、パフォーマンスでもない。最初に書いたように、サーカスという枠からすらこぼれる真摯な動きだ。太陽のサーカスから、まぶしさがちらめく。トランポリンにより、水の精と火の精が壁をつたう。水の緑と火の赤がせめぎあい、もとめあう。青い空の精たち(恋人たち)が布をつかった空中技では、特にその旋回する際の布のはためきが、風のようだった。風は目に見えるものとして、空の恋人たちに吹いていた、あるいは風を起こしていた。縄跳びを幾重にもつかった高度な技もあった。子どもの頃のそれを思いだし、少し懐かしくなるが、それよりも縄の多さと、同じ衣裳を着た人々が飛ぶ姿に、合わせ鏡のような、入れ子細工の謎が現出しているとおもった。
 だが実は、「アレグリア」の飛ぶ姿、「サルティンバンコ」の正統をふまえた新しさのほうが、なぜかわたしのなかでは、好印象、ほとんど大切なものとして、残ってしまっている。だから、つい「ドラリオン」に不満の念を禁じえないのだった。単純に、今回はミスがめだったせいもあったかもしれない。くぐっていた輪にぶつかり、はずしてしまう。何度かくりかえした後、できずに演技をやめてしまう、などは、今まででは考えられないことだったし、見たことがなかった。出し物と出し物の間に出現するクラウンの存在も今回は多すぎて、すこしうるさく思った。もちろん、ショーに風穴をあけ、息吹を送り込むクラウンの存在は必要だが、それは約束のように、幕間に必ず出てくるべきものではない。クラウンは、つなぎつつ、ふいをうつものだから。「ドラリオン」というテーマにそった演目に、穴があきすぎ、観ているこちらが感じ始めたキメラ的なものの融合が、そのつど、ばらばらになってしまうのだ。
 イカロス的な鳥の飛翔(アレグリア)、郷愁の大道芸(サルティンバンコ)、現実と夢幻との架け橋(キダム)…。あるいはそれらは単に観るわたしの側の好みというだけのことかもしれないが。「ドラリオン」では、統一と融合のテーマに、演目がそれらほど響きあっていないように思えたのだ。あるいは、身体以外のものに、テーマを込めすぎたように感じたのか。たとえば玉乗りには、メインタイトルの「ドラリオン」の称されていたが、そこでは、ドラリオン獣が何頭も出てきて、あたりを徘徊している。中国と日本の獅子舞に似た派手な獣たちだが、それは目に見えすぎるのだ。それは身体が演技によってあらわす融合ではなかった。演目ではなく、着ぐるみに近いものによる、キメラだった。丁度「アレグリア」で人たちの結晶が、鳥に変身していたのとは、対照的に。
 一抹の不満。だが終わったあと、黄土色の衣裳の土の精が陽気に踊っていたことを何故か始終思い出す。ほかの精たちは、水も火も、もちろん空も、宙に舞い上がったのだが、彼女だけは、大地でにこやかに笑いながら踊るだけだった。それは他の精に比べて、地味といえば地味だが(実際、彼女が主役になった出し物はなかったし、幕間にでてくるだけだった)、彼女は豊穣の大地の力を体現していたのだった。土の働きがなかなか見えないように。大地の暗い面をも背負った笑いが声にない響きを伝えてくる。
 次の日、梅を観にいった。暖冬とはいえ、外にじっとしていると、まだ手足がかじかむ。今年初めての観梅なので、まだ慣れないのだろうか。こんなに寒いのに、咲いていてくれて、いいのだろうか、咲いていることを信じていいのだろうか、のような違和があった。いや、わたしのほうによそよそしさがあったのだろう。あと何回か、顔をあわせるうち、親密さが出てくるのだろう。そうして去年の梅たちもまた戻ってくる、あるいは、去年の梅たちと、今咲いている梅たちが近づいてくれるのだ。なぜなら去年のそれは、ほとんど、わたしのなかの思い出の梅だから。今年の梅が親密さを増してくれるというのは、それまでの梅自身の歳月を、わたしの歳月と共鳴しあってくれることだから。
 梅のほか、蝋梅が咲いていた。蜜ロウを細工したような黄色さが、こわれそうで、春まだ浅い早春にふさわしいとおもった。この蝋梅のもろい色、イチョウに残った枯葉の色、水仙、福寿草たちの、つまり概ねの黄色たち。そして梅の木の周りに咲く福寿草の下の地面は、まだまだ露出気味で、ほかの草がほとんどいない。硬いようなその褐色に、土のもつ生々しさを感じた。そして、花たちの放つ色、概ねの黄色たちの誘いにより、あのにこやかに笑う土の精を、大地母神のような姿を思い出すのだった。あるいは思い出たちに色がまた重なるのだろうか。通年さして気にとめなかった紅梅もその日はやけに眼についた。重なって、土の女神。彼女は、ガヤというそうだ。

*シルク・ドゥ・ソレイユは、音楽もとてもいい。バンドは生演奏で、舞台の大事な構成を担っている。音楽は公演ごとに、サウンド・トラックとしてそれぞれ一枚のCDに収められる。「アレグリア」は全体的に気持ちがいい調べだが、「サルティンバンコ」の、「RIDEAU」という曲が特に印象に残っている。歌詞はどこの国のことばでもない。だが、それゆえ、またぐことば、音として響いてくるのだった。この歌手に限って、クラウンとの兼任なのだが(通常、ヴォーカルは専任である)、ピアノに乗せた、彼のとても哀しげな、ジュズーム、ジュズームという囁きが、言語の閾で、繊細に声をふるわせている。楽器のように、ふれあう声の叫びのように、郷愁のように、共有のように。


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