接吻記 (クリムト、ブランクーシ、ムンク…)
――日記より

二〇〇五年八月二十日
 古本屋で『週間アートギャラリー』(デアゴスティーニ)シリーズを何冊か買う。基本的に絵は原画を美術館なりで見るべきで、画集等で眺めるものではないと思っている。だが好きな絵、好きな画家たちのそれなら、スーヴェニールとしていいだろうと思ってのことだった(もちろん安価だったこともある)。おみやげに、そう、展覧会でカタログや絵葉書を買うように。それは旅先でスナップ写真を撮るようなものだ。思い出になるかもしれない、と。だが実際、それらは思い出からずれてしまうものである。撮られたものはその瞬間そこにいた、その時のわたしが見たものではありえない、それらはその場のわたしの想いまで、にじませるものでは決してないのだ。だからこうしたことをあまりしなくなった。とはいえ、スーヴェニールとして、つい買ってしまうことがある。裏切られても、願いは尾をのばしている。それでも思い出の一端として残ってほしいから。いや、いつかの、見しらぬわたしたちによすがを差し出したいと願っているのかもしれない。
 遅れてやってきたおみやげ。今日この雑誌を買ったのは、かつて見た絵たちの、絵への想いを、少しでも受けとめたかったからのようだ。
 ……グスタフ・クリムトの《接吻》(一九〇七―八年、オーストリア美術館)。「抱擁するカップルが、装飾されたモザイク模様に包まれ、独特の色合いを持つ金色の背景の前に表されている」と解説されている。わたしはずいぶん前に一度だけ実物を見たことがある。厳かで絢爛なエロティシズム。照明が暗かったのだろうか。思い出すのはいつも、闇と黄金なのだった。今、さらにこの《接吻》の解説を読んで、なるほどと思ったことがあった。「男の衣服を飾る長方形の形」と「女性の衣服に見られる受容的ならせんや、円や、楕円形」のそれぞれが「性的なシンボル」である、と。知らなくても絵からエロスは感じていた。だが、こんな風に教えてもらうと、絵を見なくても、ことばで思い出にさわれるのだ、と思った。あの衣服たちが、ことばによって、生を、聖を、性を、織り込んで、手招きしてくるのだった。

二〇〇五年九月二十三日
 鼻、額、頬、顎、目、そして唇。これらすべての凹凸がないひらたい顔の二人が接吻する姿は、彼女の好きなテーマとなるだろう。ただ四角いだけの二人は、うっすらとひかれた筋でのみ、区別されている。髪の毛、目、口、首。彼らはなかば溶けたようにほとんどひとつだ。その石膏の白、というより、骨の色であったり、あるいはあたたかいアイボリーにも見えるその色からは幼児の日々のような一体感と無垢がたちあらわれてくるのだった。ぎりぎり二人、といえるくらいの、その筋、線は、二人をわかつまでもいってないのだが、微妙な表情のちがいから、うっすらと二人が区別できる。楽園の抱擁、祈りのような接吻。彼女が願っていたであろう、原石のような夢、まぎれもない一体感。コンスタンティン・ブランクーシ《接吻》、一九〇七―一〇年、ブリヂストン美術館。その彫像はとても荒削りに感じられるのだった。たぶん余分な手を加えない、ということなのだ。それは素材との出会い、素材との口づけ、でもあるのだろう。もう一歩踏み出すと、素材のもつ力が消されてしまうことをあやぶんでいるかのようだ。
 この《接吻》を見て、『誰が為に鐘は鳴る』をふと思い出した。イングリッド・バーグマン扮するスペイン娘マリアとゲイリー・クーパー扮するアメリカ青年ジョーダンとの、スペイン動乱期の悲恋を描いた映画作品だ。マリアは「キスをするとき鼻は邪魔にならないの?」とジョーダンにいう。ひらたくない二人たちの対照的な。そう、邪魔になんか決してならない。その姿は愛しさそのものだ。スクリーンを通じて、わたしたちはジョーダンのようにマリアを見つめるだろう。彼をとおして無垢なる口にちかづくのだ。凹凸のあることが、ここでは愛しさになるのだった。こんな受け渡された一体感もまたあるのだった。

二〇〇五年十月十八日
 接吻はムンクも書いていますね、と友人が教えてくれる。記憶のなかのムンクはいつもひとりか、あるいは死の舞踏を踊っている。家にある展覧会カタログ(ムンク版画展、一九九九年)を開く。《接吻》(一八九八年、エプスティーン・ファミリー・コレクション)。接吻するふたりは着衣のまま、肌ごと溶け合っている。ふたりの顔は完全に区別がない。だがブランクーシのそれとちがい、この接吻からは他者たちの織りなす一体感が感じられない。カタログには「アンドロギュノス(両性具有)に変容してしまっている。」とあるが、うなづけるような気がした。そこには他者への希求や愛の光の面が欠けている、解け合っているのにも関わらず、ここにいるのは途方もない孤独である。あるいは生の喜びがいないのだ。この両性具有は無性生殖の香りがする。
 また、《キスをする男と女》では、ふたりは各自の輪郭をもっているが、男は自らの苦しみもしくは恍惚のため、頬に口を寄せる女ではないほうをむいている。ここでは区切られた線が他者を必要以上に意識させられる。合わそうとしても、合うことがない、他人同士の傷のような生のかげりだ。
 そう、私が接吻としてムンクを思い出せなかったのは、他者たちの触れあいとしての接吻が描かれていないからなのだ。そこではほとんどの場合、死が色濃くにじんでいる。
 だが、カタログのなかに一点、私が印象を閉じこめている接吻に近いものがあった。
 《二人(孤独な人々)》(一八九九年、前出コレクション)。月光が海に映っている、その浜辺に、男と女が立っている。月光は牢獄のような線を、ふたりの間の溝のように、海に投げかけている。ここでは接吻はおろか、身体さえもはなれている。だが、この二人のほうが、触れあっている、と感じられた。独りであることを知っているものどうしの共犯、しずかな叫びをとおして、むすびつく息があるように思えたのだった。昨日の輪郭が明日のなかでまみえている、蒼ざめた、死のたちこめる月の明かりの下で。

二〇〇五年十一月二十七日
 では彼女は、接吻に何をもとめているのだろう。性を、聖を、生を。あるいは記憶のはてからやってくるもの、思い出すことも、忘れることもできないもの。鏡にうつる自分に口づけするフェルナン・クノップフの《我が心は過去に涙す》(一九八九年、個人蔵)、その心は、自らのほうへナルシスティックに向けられたものではない。自らを見つめることでくぐること。たとえば鏡をとりまくブリュージュの街のほうへ、あなたのほうへ近づこうとしているのだ。日々にたまった肉体をひきだせるだろうか。過去が死すべき未来と接触すること。口を吸う行為のあとさきでくるまる舌が、あなたのことばをもがいていた。彼女は話すように書くだろう。無口なかたちがこぼれている。ふいをつかれて、接吻だ。なぜならそれだけが見えなさを受け渡せる一瞬だから。わたしたちは、昨日のスーヴェニールのなかで邂逅するのかもしれなかった。


(日記(二〇〇五年八月五日〜二四日)から、『W3』 創刊号 掲載予定)


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