三本足の犬
S.ミルハウザー、デュラス、三銃士…

(W3(三人で書かれる同人誌)をはじめるにあたって、“三”にちなんだこと、その周辺をすこしめぐってみる…。文章はおおむねHPの日記(二〇〇五年六月九日〜七月六日)から転載、あるいはそのあたりをめぐっている。)

ひとつ、ふたつ、たくさん
 『シンバッド第八の航海』(短編集『バーナム博物館』スティーブン・ミルハウザー、柴田元幸訳、白水uブックス)。
「もしかしたら、七つの航海は三組あるのだろうか――七つの航海と、七つの航海の記憶と、七つの航海の物語との?」。三つであること。この短編の構成、語りもまた三つからなっている。ひとつは老人になったシンバット(他にシンドバッドと呼ばれる)がまどろんでいる姿の描写、ふたつめはアラビアン・ナイトや『シンドバッドの冒険』の訳についての学術的考察(「主要な英訳が三つある」のは偶然だろうか)、そして七つではなく(『千夜一夜物語』のシンドバッドは七つの航海を終えたのち引退する)、この小説オリジナルの八つめの航海の物語と。この小説ではこれらが交互に語っているのだった。
 そして? バクダッドもまた三つあるのかもしれなかった。航海にあるとき、故郷バグダッドは希望の地だ。バグダッドにあるとき、それは退屈と絶望の場で、航海こそが希望となる。つまり、二つのバクダッド。三つめはゆれ動くバグダット、希望と絶望が重なる場、あるいは現実のバグダット。
 三はゆたかな数だ。出典を忘れてしまっているのだが、昔のある国ではひとつ、ふたつ、たくさん、つまり三までしか数が存在しなかったと聞いたことがある。三はたくさんなのだ。そしてアンバランスでもあるのだが。
 この『シンバッド第八の航海』のなかでも、三だからこその、入れ子細工的効果がある。『ユリシーズ』のなかで語られたシンバッドの話によって、物語から物語へ渡ってゆく。そしてシンバッドは一人称で語られるが、それも実はシェヘラザードによって物語られたシンバッドの話なのだ、という重層あるいは重奏。「そのシェヘラザードもやはり、『アラビアン・ナイト』という物語の一人物に過ぎない」、という入れ子。そして「テクストを読む行為にはつねに制限が伴い、偶然の要素が含まれる。二つとして同じ読書はない。この意味では、航海は読者の数だけ、読書の数だけ存在するのだ」という、たくさん。この読書はここでは原本の「船乗りシンバッド」(このタイトルもまた、さまざまあるようだ)を指しているが、さらにわたしはそれとは別の本を読んでいるのだ、そして読み終わり、こうして書くためにまたひもとくときにまた別の読書が生まれる。三はだがアンバランスだ。たぶん、ゆたか、だから、こわれやすく。ひとりになりえないシンバッド。圧倒的な奈落もまた、そこに存在しているのかもしれなかった。

〈ゴシップ〉
 書かないとことばがでなくなっている、とわたしは書くだろう。「その傾向があった、というのは後付けだろうか。一人遊びがすきな子供だった。説明が苦手だった、だいぶ折り合いをつけてきたつもりだが、いまだに他人の前にでると緊張して口がこごえてしまうのだ。だが親しい人間にはちゃんと話せていた、と思う。つい最近まで。いまはだめだ。書きことばだって、信頼してはならないし、逃げてゆくものだ。しっている。だが。親しいはずの人間と話す。演技しているなと思いながら、たどたどしい思考回路と緊張がめまぐるしくわきあがる。…わたしがひきこもりにならなかったのは他者を欲していることを思考の表面で認識していたからにすぎない。なぜ会話ができなくなってきたのだろう。以前、どこかで書いたように、「とりかえしのつかない言葉が実はたくさんあるのだと」感じているからばかりではない。わたしの大好きなキニャール、彼の「口を閉ざして語ることのできる唯一の方法だから書いてきたのだ。」(『舌の先まで出かかった名前』パスカル・キニャール/青土社)を踏襲するためばかりでもない。出ないことばは、あいさつほども届かないと思っているよだ。それは書くことばに似て非な、表面的な、上っ面だけのことばの領域にはいるもののことだ。書くことばは少なくとももっと食い込んでくれるだろう。わたしはとても怖いのだ。怖くなったのだ。それらの表面にはりついてしまう自分が。それは進めないことばだ。そこで打ち切られてしまうことばだ。吐いたことで、聞いたことで共有できたと満足し、終わってしまうことばたちだ。たとえばゴシップ。わたしのことを語るにしても、それはゴシップにすぎないのだ。それらでは、他者と出会うことができない。たぶん。たぶん。」
 これもまた後付けだ。書くわたし、考えるわたし、人びとに接するわたし、これで三人。そう考えるわたし、のなかには、親しいものと対峙したわたしもまた含まれていたのだった。あるいは「曙光と彼ら二人とが永遠の三点であるような三角測量の中心にいる自分の姿を思い浮かべる」(『ロル・V・シュタインの歓喜』(マルグリット・デュラス/河出書房新社)こと。そこから引き離されながら。

三つのポルトス
「ポルトスという人物が―彼は一度も考えたことがない。ある時、地下に爆薬を仕掛けることになった。そして―導火線に火をつけ、逃げた。その時突然彼は考えた。何を考えたか? なぜ右足と左足が交互に前に出るのかと。そう考えた途端に、急に足が動かなくなった。爆発が起こり地下が崩れた。彼は強い肩で必死に支えたが―一日か二日後には押しつぶされて、死んでしまう。考えたために死ぬんだ。」
 この逸話、この物語はわたしにはすくなくとも三つある。ひとつは、かつての恋人のことばとして。「『三銃士』のポルトスを思い出した。地下では爆薬がしかけられていた。そこからこんな風に階段を登って逃げるとき、彼ははじめてどうやって歩くかを考えて、足がとまってしまった。そして? はじめてものを考えたことで、彼は死ぬんだ」。わたしはとても若い。ことばもなく、ただ、そのことばだけを覚えていた(厳密にいえばこうして回想することでことばの細部は変わってしまっているだろうし、いわれた場所、たしかビルの外階段だった、踊り場には花壇があった、から離れてしまったので、情景自体が違うだろう。場所が現実の場と記憶の場とに分かれてしまって)。そして三つ目は後年読んだ『三銃士』(正確には『ダルタニヤン物語』)として。この物語では、爆薬をしかけるまえ、ポルトスにふと疲れがおそってきた。先祖代々、この疲れが死期が近づいたことの合図だったと彼は思い出す。そして逃げる途中、つい完全に疲れに捕らわれてしまったとき、爆発が起こり、彼の左右から岩壁がはさんできた、必至で両肩でささえたが、最後に「重すぎる…」とつぶやいたのち岩壁に…。だった。先祖代々という運命や力との戦いと、それを象徴する「重すぎる」ということばの関係について。つまり、考えたために死んだのではなかった。
 冒頭の引用は、ジャン・リュック・ゴダール監督『男と女のいる舗道』からだ。階段での会話よりも、本よりももっと経ってから、ビデオで観た。かつて彼の言ったポルトスはおおよそこのなかにいたのだった。
 この映画を観たとき、台詞を書きとめているので、彼との関係に気づいていたはずなのだが、そのことの記憶がない。先日、偶然この台詞を見つけ、驚いたのだった。このつらなり、台詞を書きとめているわたしを驚きつつ眺めている、これを書いている今のわたしもまたひとつのポルトス譚に組み込まれているのかもしれない。
 そして? アトス、アラミス、ポルトス、ダルタニヤン。銃士は四人いる。三銃士とはダルタニヤンにとっての三銃士なのだ。

 あるいは出ないことばたちにつたわるだろうか。おなじ映画より。
「何か言おうと―言う前によく考えているうちに―いざとなるともう何も言えなくなるの」(中略)「言葉に自信が持てる?」「持つべきだ。努力して持つべきだ。正しい言葉を見つけること。つまり何も傷つけない言葉を見つけるべきだ」

 三本足の犬の記憶がどこかから、罰のように顔を持ち上げている。

(『W3 創刊準備号』、二〇〇五年七月)


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