関富士子詩集『植物地誌』
触れ合う場所の一端にて

 植物が触れる。詩行のなかで「あなた」と呼ばれる。そのあなたとは誰であるのか。その謎を謎のままに、つまり豊かなままに、植物が触れているのだった。たとえば「あなたの書斎の窓に立つ雌雄同株の落葉高木」である『カバノキ』や、「あなたの寝室の柱に巻きつく」『トケイソウ』たちは、植物それぞれの性にまつわる季節を詩行にそそぎながら、「あなた」の日々に触れるのだった。と同時にそれを見ているわたしたちに。たとえば「冬じゅう白紙のまま」の『カバノキ』というノートにわたしたちが書くスペースがあった。また「あなたの指先に触れる柔らかい」『オランダミミナグサ』は文字通り性に触れるのだった。つまり「ベッドの下に付していて姿は見えない。」(前掲詩)、隠れるということを通してわたしであるかもしれない可能性をももたらす、媒介者としての植物がいる。
 いや、植物はそのまま彼女たちの生を淡々と過ごしているだけなのかもしれない。だがその日常はときに「素っ気ないがらがら声でララバイを歌っている」(『ノアザミ』)という美しいうなずきであり、「憂わしい思い出に雄花を垂ら」す『ポプラ』の独自の悲しみであった。あるいは「祝福のための三角の花火」をはぜる『カヤツリグサ』の淋しさであり。
 そう『植物地誌』が示すように、日々、植物そのものの生あるいは性と、わたしたちはいやおうなく交差し、交錯しているのだった。あるいは植物と他者が、他者とわたしたちが。つまり触れあって。
 傍観者として「身投げの練習を繰り返す」四人を見ている、だがその都度なぎ倒されることにより関係を強いられている『レンゲソウ』は積極的にではないが他者と向き合わざるを得ない。『ダイズ』では大豆の特色と、それを「パジャマの袖をまくって束をほぐす」日常性の交差から、日々が立体性をもってやってくるのだった。食材としての、植物としての、あるいは手にとることからくる関係性。効用をもつ植物としての『セイヨウイラクサ』でガウンを編むのは兄たちを白鳥にされた娘だった。物語さえも折り込まれて。
 その物語たちはときに謎の不在証明のように散りばめられる。植物はそのまま、ただその生(性)を営んでいるに過ぎないのだが、だからこそ、やってきて。草いきれの濃い香りがする。手招きしないことが手招きなのだ。「フユイチゴを採りに」(『フユイチゴ』)次々と姿が見えなくなる彼女たちは、植物とわたしたちの媒介者でもある。そう、その関係はときに転倒するのかもしれなかった。植物とわたしに触れる彼ら、他者。他者もまた自らの生を結ぶから。「彼の地下茎は長く大きく肥厚して、見事に縊れ、すばらしく固く膨らんでいた」(『ハス』)あるいはその性を目撃することによって、わたしたちが媒介者となるのかもしれなかった。
 そう、わたしたちは植物とともにあるのだ。表紙に描かれた地図が蜘蛛の巣のようにはりめぐらされているのは、根のようにからめとられ、木漏れ日のようにそそぐ、植物たちに、彼らに触れた、わたしたちの場所の謂いではなかったか。あるいは道案内として触れること、作者が、誰かが、わたしたちに。総ての題名が片仮名であることも、手招きに似た謎として、わたしたちを呼ぶようである。
 『ツユクサ』の「読むことができない」手紙は、『カバノキ』の「白紙」と冒頭とラストとして呼応しているのだろう。謎としての読めなさが、緑の、たとえば汁を伝えてくる。どこかで触れた痕跡、としての、見えない文字を。
(二〇〇四年九月、七月堂刊、一〇〇〇円)

初出:『hotel 第2章 no.12』


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