支倉隆子試論
懐慕の場所──さびしい隙き間が瞬くだろう

女はそれらの詩にふれると、言葉にすれば「懐かしい」に近いであろう気持ちにいつも襲われるのだった。たとえば『音楽』。この詩集には彼女(以下、彼女は支倉隆子を指す)の故郷である北(ゆき、寒さ、冬の桟橋…)を連想させる言葉が多い。だがそれが懐かしいのではないのだった。東京で生まれ育った女には北国が、地名的にも故郷がないから。そして詩にあらわれる北にも彼女が懐かしむ場所としては現れてこない。そこを通過して、通過しつつはじまって。
たとえば「ああ腐っていくのは桜のほうだ/くさる桜の饒舌を/おんなの耳できくだろう」(〈桜旅〉)、「洗濯籠に骨があふれている/骨のあいだで歌うよりしかたがなかった」(〈北ホテル〉)、これらを言葉にすれば、懐かしいと思うのだった。「昨日の水でまつ毛をうるおす」(〈孔雀〉)ように、「目じりから卵がこぼれる」(〈しろい部屋〉)ように、彼女の詩片を前にすると、女にはにじんでくる世界がある、それは思うまでもない瞬間だった。(以上、引用は『音楽』より)

瞬間について、場所について、語りたいと女は思う。そこから懐かしさが手招きをしているような気がする、から。
彼女はかつて「現実をこわしてゆく」、「わたしは現実を書いていない」と言ったことがある(二〇〇二年二月十七日「支倉隆子音楽を読み語る」)。だが?「袖のような/ひみつそしきをくぐっていく」(〈藤棚〉『琴座』より)、その場所とは、「……わたしのところどころに/末恐ろしい私がいる……」(〈年のはなれた末子である〉『酸素31』より)、「夜の瓜は しろい姉」(〈夜の瓜〉、『酸素31』)である場所とは、こわれた現実がべつの現実につながれてゆく場ではなかったのか。あるいは皮を剥いだ桃から、あふれてくる時間。「彼岸はそんなに眩しくない/記憶の桃よ」(〈桃〉『琴座』)。

だから別の場所、ではないのだった。「記号の世界(中略)、それはいわば事実ではないが真実の世界であって、虚構ではないが幻影の体験なのである」(『戦後詩』ちくま文庫)と寺山修司は言っている。
その幻影の体験が、その真実(という言葉を女は使いたくないのだが…その言葉はあるだろう、確かに。だがシニフィエとシニファンを結びつかせるのに、とても躊躇があるのだった。あるいはその躊躇にこそ意味をつなぐ場があるのかもしれなかった。だがそれは別の話だ。今は便宜上、寺山に倣って真実と書いておく)の場、虚構でない場、が懐かしく思われるのだろうか。それこそが、私たちがいた筈の、いる筈の(いたかった)ほんとうの場ではなかったか、と女とふと思う。

「踏切を越えると/桜が満開で/死んだ父もいる」(『すずふる』)…これは〈ささきことり店〉のはじまりだ。「死んだ父」の存在により、現実がこわれてゆく(だが意味的にはこわれていない、それも狭間だ)。幻影としての「ささきことり店」、その左隣には「神経を病む」女がいる、その「女のひとになりたくて仕方がなかった」。ただそれだけの、そこから、という現実のおわり。なぜなら、はじまりはすべて終わり、だから。
だからそれはつなぐ場、であるのかもしれなかった。つなぐ場? こわれた現実が再生してゆく、そのはざま、その瞬間。こわれてゆくものはいつもさびしい。見いだされたものが、生まれることがさびしいように。
そしてまた、彼女には「さびしさ」がよく似合うのだった。「わたしはさびしく/わたしは少しうごく」(〈古い夏/小樽〉『身空x』より)、「「本当にさびしい山」を探すひとはどんどんどんどんさびしくなる。もっともっとさびしがらせてよ」(〈さびしい山〉(個人誌『シェヘラザード募集』36、二〇〇三年一月より)。さびしさと女の感じる懐かしさが出会うように、彼女はさびしい。懐かしさにはいつもさびしさが混じるから、あるいは祭りの事後の話。

「若い姪が立木のうしろからふらりと現れるだけの朝。//立木のうしろでふきのとうがひとかたまり輝いているだけの昼。//行き暮れて。/若い姪は/ふきのとう。/青白く青白くあこがれる。」(〈一日〉『魅惑』より)
たとえば「うしろからふらりと現れるだけの朝」、という瞬間、「ひとかたまり輝いているだけの昼」、という瞬間。彼女が「青白く青白くあこがれる」(と書く)ように、わたしたちも望んでいたのではなかったか? なにを? 女はそこでくちごもる。くちごもりながら、つなぐ場について、瞬間について、イトコのように(彼女の詩にはイトコが多く出てくる。そのことについて前述の「音楽について読み語る会」で、彼女は兄妹、母よりも距離をもった他人、だが他人ではない身内として感ぜられると言っている。そのすれすれの場所)、彼女と彼女、彼女と女たちのふれあう場として、むすびつけたくなるのだった。

あるいはそれは文字通りの場所(地名)であるだろう。「帰路は水戸から小山に出て」(〈イリヤ・カバコフ〉)、「(濁って汚くてうつくしい綾瀬川)」(〈最果て〉)、だがその地名から、「秋葉原から青梅まで/(中略)/じんるいのシャツが雪柳のようにふるえている」(〈夜の草〉)のであり、「オールナイトから吐き出される最終の/映画少年の青い背中」(〈草の背・町〉)が見えたりするのだった。地名もやはり瞬間なのだ。「東北本線は寒い背骨である背骨から数本のあばら骨がのびて」(〈沿線の草〉)ゆく。それは彼女(あるいは詩のなかの彼女)がイリヤ・カバコフに会いにゆく場、なのかもしれない。「東京都現代美術館へは遠まわりして行く」(〈草間〉)からこそ、草間彌生に出会えるかもしれなかった。人「と」人の交わされる、つながれてはほどけてゆく、「と」という瞬間の地。
その具体性はにじんでいる。現実はこわれたのではない、にじみながら、はらんでいるのだ。他者がすれてはやってくる、「夜露にぬれて、/変声少年の背の汗と交わる」(〈羊歯〉)、「若すぎる腰ならば/草の声あげて/老年を思い出せ」(〈新緑〉)。エロスとは、たとえば瞬間の触れ合いのことではなかったか。また「校庭のフェンスに変声の蔓草はのびつづける」、そう「学校もさびしく永遠だ」(〈草の隣〉)のように、場という瞬間は時をはらむものではなかったか。(以上、引用は『身空x』より)

そう、女が懐かしい、と思うのは、過去への郷愁ではないのだった。あるいはそれだけではない、というべきか。
「瞬くという一秒時には、(中略)幾百年にも活けるがごとく伝えらるる長き時間のあるを知るか。石と樹を相打って、火をほとばしらすも瞬く間、またその消ゆるも瞬く間、銃丸の人も貫くも瞬く間だ」(『泉鏡花集成5』ちくま文庫より『草迷宮』)、たとえばそんな「間」こそが懐かしいのだった。「世界は、隙き間/薬指を入れてください」(〈薬指〉)、「花園神社は/しゃがむ女で/ふとい足のあいだから/かがやく鳥居をうみおとす」(〈牡丹ん〉以上二遍『ナイアガラ』より)余韻のように奏でられたエロスであり、「流されて/流されて/生まれ変わるなら八十八夜」(〈わたしが一房、いけどられて〉『酸素31』)という再生がつどう場、でもあるのだ。あるいはわずかに交わすこと。誰が? 女が、私たちが、私たちと。「それはいわば事実ではないが真実の世界」(前出・寺山修司)…。そのつかの間にふれあうこと。人肌(これも彼女がかつて共有について述べた言葉だ)が恋しい、愛しいように懐かしむ「もっともよき時」、それは「記録されない」のだから。とおい身内が妹のようにやってくる。

受け口で受け身で妹のように
姉はるるるるるるるるるるるるるるを口でうけ
ているるるるるるる
もっともよき時は記録されない
(セメテサワルダケデモ)
……………茱萸は熟れたか?
〈宇宙の兎/不思議な傷〉(『詩学』2003・01号より)

引用した詩集
『音楽』(黄土社/一九七五年)
『琴座』(国文社/一九七八年)
『ナイアガラ』(思潮社/一九八八年)
『魅惑 Fascination』(思潮社/一九九〇年)
『酸素31』(思潮社/一九九四年)
『すずふる』(思潮社/一九九七年)
『身空x』(思潮社/二〇〇二年)


初出『あんど』第2号 二〇〇三年四月 


前ページ     次ページ


上海異人豹館(散文たち) 目次に戻るHaizara net(top page)Shimirin's HomePageUrokocitySiteMap