燃える箱のにおい―速水御舟《炎舞》
ざわめく美3

(『hotel 第2章』no.18 掲載)

 蛾が炎の上で舞う。速水御舟《炎舞》(一九二五年)、山種美術館所蔵。炎が明るい。黒地に映える火に、蛾が燃えるのではなく踊っている。燃える寸前の最期が生の舞いとして天に昇る。瞬間の永遠、生と死が接するところ、あるいは美と醜が。明るさが絵から滲み出るようだ。遠くからでも、その炎は息づいて見えるのだった…。
 《炎舞》の存在を印刷物で知った時から、おそらくそれは私の中で、ある場所、箱のような中にしまわれたのだった。そこには誘蛾灯、「飛んで火にいる夏の虫」、蛍光灯にどうにかして入ってしまった蛾の死体、なども一緒にいる。そして《炎舞》を初めて生で観た時、そのことをまた箱にしまった。その生々しさは、他にしまわれたものたちをも活性化させてしまったようだ。《炎舞》の近辺、その蛾と光りのあたり、その箱全体として思い出すと、いつもあるにおいがたちこめてくるようになってしまった。
 においの根源的なものは、こんな光景からだろう。私は中学生だった。夏休み、家族や親戚と車で旅行に出かけた。途中に寄ったドライブインに巨大な誘蛾灯があった。青白い灯で、そこに蛾や虫がおびきよせられやってくる、電流の流れる鉄線に当たり、ちりちりと音がする、じゅっと燃える。ひっきりなしに虫が当たるので、焦げたにおいが全体を包むようで、殆どむせんばかりだった。わたしはずっと食い入るようにその光景を見つめ、その中にいた。見たくないような、胸が焼けるような気持ち悪さを感じながら、惹かれていたのだ。特にそのにおいが強烈だった。それは蛋白質が燃える焦げたにおいに、わずかに甘さが混じっていた。少しの吐き気。おそらくそのにおいがリアルな死として感じられたのだろう。焼け焦げた虫の瞬間は、死を意識するにはとっさすぎる。あるいは小さすぎて死体として見れない。ともかくにおいだけが死を感じさせるもの、死に近いものだったのだ。今、それを思い出すたび、死の香りが漂ってくる。それもまた箱にしまった。
 そしてその近辺から虫の瞬間を出してみる。死と生の瞬間と虫は感じないだろう。そう感じるのはわたしたちだ。だが、つい蛾が死の誘惑に打ち勝てず、灯や火に飛び込んだのだと思ってしまいたくなる。灯や火は手招きをしているのではないか、などと。死の誘惑といったが、それは死と生の接点、その極限からの誘い、というほどの意味だ。わたしたちは死を知らない。だからこそ知りたいと思う。蛾に自身を重ねてしまうのだ。ともあれ、誘蛾灯、「飛んで火に入る夏の虫」、それらは、わたしの箱の中に、恐ろしくも美しいものとしてしまわれたのだった。《炎舞》が光って。
 また箱に入れるために、なぜ蛾が光にひきよせられるのか調べてみる。彼らは光をもとに自分の位置を確かめて、光に対して垂直に飛行する(走光性という)。太陽や月からの明かりは距離があるので平行に注ぐが、火や人工のものは円錐状になる。円錐と垂直になろうと、光の周りを回りながら光源に近寄ってしまう。そして方向性がわからなくなり、眩しさに目が眩んで、光の中に飛び込んでしまう…。そう、彼らは生きるために光を欲するのだと、ついまたそこに何かを見てしまう。よく生きるために光に近づこうとするのだと。生を生きないものは死をも死ねない。とは誰がいった言葉だったか…。ともあれ、生きるために必要な本能で、死んでゆくということが、奇妙な円環として心に残った。そして以下のこともまた箱にしまう。生まれたばかりの蛾の幼虫は、まず太陽、光に向かって上へ昇ってゆくのだという。《炎舞》、燃え上がるざわめきの下で。


(『hotel 第2章』no18 あとがき)
●海埜今日子
 速水御舟は、一昨年山種美術館で観た 《春の宵》以来、気に入っている。幽玄な夜に細い桜の木から、異界への手招きのように花びらを散らしている…。だが《炎 舞》を見た時、すぐに同じ作者だとわからなかった。双方に接点を感じるのだが、他の画家のようには不思議と一見して一貫した共通性を見出せないのだ。ルノワールの肌の色、奥村土牛の花びらなど、目立ったしるしが私には探せない。速水御舟の《翠苔緑芝》は屏風絵で、左雙は兎、右雙は黒猫が描かれ、金の地がまばゆく、小さな動物を照らす。《白芙蓉》、白い花びらが、人肌よりも柔らかそうで、羽根のようなその質感に驚く。こうして書いてみると《白芙蓉》の方は、《春の宵》の桜の白さ、 《炎舞》の蛾の羽根と通じているような気もしてきたが、展覧されたそれらを観た折は、共通性を見出すことができず、名前を見るまで速水御舟だとわからなかった。だが、個性がないなどと書こうとしているのではない。変幻自在だと書こうとしているのでもない。一見しただけではわからないけれど、彼のたいていの絵に惹かれてしまう。目を奪われると決まって彼の絵なのだ。こうして惹かれるということこそ、彼に連綿と流れる何かなのではと思うのだった。肉眼ではわかりにくい、匂いよりもなおかそけき、たとえば湿った空気などのようなものとして、感覚を通して確かに伝わってくるもの、けれどもその空気はいつも同じ感触なのだといったような。誘うようにたちこめて。


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