第四章 交響曲の夜
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第四章 交響曲の夜



 第一楽章 ざわめき

夕暮れる、暗い舗道と汚れた小川の向かい側に公会堂の楽屋が並び
その窓の灯かりだけが僕の家族たちの思い出を照らしていた
調弦や小さな練習の音が聞こえるそんな宵の時刻

しかし現実の外の社会を見なくてはいけない
この時刻、すべての道と通路、交通機関が溢れ返る
昼とは別様に世界は一変し、帰宅する者、帰りたがらぬ者
カフェテリアに、居並ぶ雑多な人々
ときにはくだらなく、あるいは慣行的にヒトは群れている
仕事場でするよりも重要な話し合いと、幼い愛もあれば、よこしま
に情熱的な愛の話もあろう。同じく後ろめたい悪だくみもあろう
もちろんなかにはまだ事務所でコンピューターにかじりついている
カフェからは遠いところに居る者たちもいる

この地球の球体の、地平の明暗の境にはここ何千年か、人工の光が
多くあり、この毎夜繰り返される重大な事態においては、視野はい
つもまだ暗さに順応していない、世界は明る過ぎるのだ

基本的に官能的な商売の人々もバスや電車で都会に向かっている
人生に理想主義を求め、夜間の専門学校に通う人たち
仕事から帰って来て、あわてて家族の食事を作り出す主婦たち
幸福な宵の口、あるいは世間は朝よりも活発に動き出す

だのに交響曲の夜、この公会堂にも集まる人々は、すべての雑事を
捨てて、自分が舞台に立つような幻想にとらわれている、或いは
人生の哀歓が絡み合い、様々なアクメが亡霊のように集まる。
そしてときに一番悲しいコンサートは、主催者が借りたホールの
場代とのバランスを取るために、開演の寸前まで人海戦術で切符を
売りさばいているのだ
どれもこれも芸術の清楚さを守るための真相であった

照らし出されたホールは、ざわめき、開場を待ちわびていた
およそ数百キロの範囲に住み、別の仕事で稼いでいる演奏者たちも
人生の夢のために高速道路を突き走り
駐車場には他府県ナンバーの個性的な自動車が犇めいている

しかし今宵、鮮やかに暮れる公会堂で!いつものコンサートの夜!
バンドマスターは指揮者と打ち合わせができずに、苦悩しながら
興業主と相談ばかりをしていた
なにしろ指揮者はこの日の朝「交通事故」に遭い、同乗の「秘書」
が怪我をして奥さんが「駆けつけた」そうだ
うるさいピアニストはどこかの男と楽屋にこもりきりで、へたに
踏み込むわけにもいかない
いつもと何かが違う

それと何か気になるあのどぶ川の向こう、バンドマスターは芸術家
の直感で見た。楽屋の灯かりを映して黒い水面が光り
暗闇に沈む廃屋の輪郭は古風な威厳を取り戻していた
「ここにもにぎやかな日々があったに違いない」
そしてあの舗道は何かをたくらんでいる

 第二楽章 スケルツォ

公会堂に向かうタクシーの後席の乗客は何も話さない
運転手は気味が悪かった、「警察署の前で拾った客だ」
ちらっと見た後は、うずくまったままの男のほうは、何処かで見た
人物だったが思い出せない。
「えーい!どうせ交通事故で事情を聴かれたんだ!」
よくあることだ、落ち込んでいるから素人だ。
「俺は二十年間(だけ)、安全運転だ」

公会堂の前の人波をかき分けタクシーは楽屋口に着いた
顔を伏せたまま車を降りた指揮者は躓き、踊るようにうまく建物に
入った。一刻も早く楽屋で落ち着こうと、腰を妻の腕に巻かれて
部屋に入った。ドアが閉まり、病院であの娘の家族に追い出された
のと同様にして、数分後に代わりの指揮者が追い出され、妻が深々
と相手にお辞儀をしていた。さらにバンドマスターと主催者が駆け
込んだが、すぐに追い出された。指揮者の神経は衰弱していた

混乱した、不気味な−そして幸福な−交響曲の夜、その後の開演まで
の一時間は多忙な時間だった。指揮者の用意ができると、ひとの出入
りが激しくなり、そんななか友人の弁護士が彼を落ち着かせた

こうしてピアニストの彼女の楽屋にも彼が来たが、僕を追い出しにか
かった。誰でもよい、追い出したかったのだ。
彼は驚いた、これまで指揮者に柔順だった彼女は初めて彼に逆らっ
た。険悪な空気に妻が割って入り、指揮者を追い出してから、僕た
ちと話をした。しかし昔の出来事を心の中で繰り返し、久しぶりに
「女」になった彼女は年上の女性の姿で僕の前に本当の姿を現し、
ほんのりとした女のそぶりを一瞬でも見せた。たまにはあることで
ある。しかしピアニストの彼女はそれに気がついて始めは怒りを感
じた。そして嫌悪感にとらわれた。「この女」は何かを隠している。
彼女は何も言わないまま、感情を高まらせた。理不尽なのは、彼女
もわかっているだろう。ただそれは生まれて始めてとも言わないが
珍しくも彼女の感じる衝動だった



 第三楽章 愛は根拠のゆえにこそ

この感情のゆえにこそ、舞台衣装とメイクのまま黒い瞳の彼女は喋
りだした。子供のときから父の居ない彼女の有能な母親がしたこと
いまも幼い!弟の世話をしていること、子供のころから遊ぶ間も
無かったほどの、きっちりとした練習のプログラムのこと
それらで頑なに彼女が自らを封じていた「一人だけの社会」に、僕
は足を踏み入れていたのだ。
彼女の経歴は言わば、空白で、これらの生活が彼女の心に病みつい
て、この縄張りに哀れなほど囚われていた

彼女も知らず、また彼女を支配していることもわからずに支配して
いる架空の人物も音楽に捧げた生き方も、一体に誰も、世界中の誰
も思想も、完璧なはずは無かった。自由だけが完璧だが、それもまた
未来が見えないから、罪がないことだけは完璧だった。
唯一、歴史だけが未来を「支えて」くれるのだが、同じことが繰り
返されるという何の保障もなく、そして何より言葉による以外その
歴史自体は体験されたものでもない。
しかしいつかはこんな囚われた生活から、自由に「生きる」生活へ
と出て行かなくてはいけない

「生きる」がゆえに、彼女は女にならないといけなかった
自らか生むために、もし音楽だけの世界が「若さ」だとすれば、死に
向かって「老い」なければならなかった。愛の根拠といえば、その
ようなものなのだ

「生」と「死」を越えて「生きる」がゆえに、信仰に似ているかも
知れない。しかしときにある種の信仰は禁欲的で性愛を馬鹿にする
精神で生死を越えるために、肉体と繁殖までも越えているのだ
なるほど教義においては容認している。しかし生命と肉体の存続の
尊さに、精神が勝るものではない。そんな信仰は因習的だろう

この点では哲学も同様だ。間違えてはいけないだろう。精神が得意
な論理は根拠を問うものだが、生命に課せられた種の存続の課題と
は「根拠」によるものではないのだ。あるいは生命は根拠へと問い
続けて、死ぬまで走り続ける哲学王のことも知らずに「生き抜いて」
いるのだ
「生きる」がゆえに、彼女の心はいま子供のように叫んでいた

精神とともに、老い行く肉体にこそ愛は宿る
愛の根拠といえば、そのようなものなのだ

普遍的な価値に繋がる信仰や哲学が、そして音楽の「生活」が
家族と思い出を作るのではない



 第四楽章 交響曲

そして、いつもの指揮者の「無料奉仕」の方針に従って、前奏の曲が
流れ始めた、指揮者は踊っているが、実はバンドマスターが楽団員に
話して、自分に調子を合わさせていたのだった

古い舗道の過ぎた夢が草むらに揺らぐように、タクトが弱々しく
揺れる。強い意志を欠いた前奏曲を楽団は疲れ気味に奏で、それは
まるで、苦くかつ相当まずいコーヒーが、舌を刺すかのごとくであ
った(そしてこのコーヒーは強制的に配られていた。)

長い疲労の時が終わり、繰り返し演ずるクラッシックを、今日まで
支えて来た伝統の緊張感に従い、音楽の空は錠前を外す
ピアニストが入場した

前奏に疲れ、指揮者に物足りない観客は歓声を揚げて拍手した
指揮者はいつもそうして自分の尊厳を守ってきたように、静粛に
させようとしたが、結局は諦めて、お辞儀を始めた

開いた音楽の夜空のもと
舗道と廃屋のあたりの、見える限りのあちらこちらで
空気が膨らみ、頬笑みの露が降り始めた



そして次の瞬間…
無音の調べでタクトが停止し、夢は突然眩くなった。ピアノの弦が
激しく破裂音で奏鳴し、古い舗道は恐ろしい和音にどよめいた!

連なって行く音符は、さらに連ながる音符に結び付けられて行き
四季の流転と、歴史の喜怒哀楽を巻物に綴る
観客の精神に触れつつ、演奏は共鳴を続けた

舞台照明に幻惑され、ピアニストの彼女は見た!
この見えない観客席の向こうに、自分が子供のときから
憧れていた、自分の夫や子供たち、家族の姿があることを

幻惑する舞台照明の向こうは明るい暗闇で、さらに
暗闇の向こうには、騒がしく幸福にひとを集める建物と
通り過ぎて行く上品な屋形船があった
夢の歴史のことを

ついこのときまで彼女を取り巻いていた愛の問題、つまり彼女が
抱き始めた疑いと怒り、決断をいつかは要求する感情!
この世に常在する卑劣さと、策略と、不幸に対抗する戦いと同種の
もの、彼女はすべての用意と支度をして、音楽を観客に振る舞った

ことごとくメロディーが渦を巻いていく
調律が狂うかのような高音のうなりは一瞬の音圧を上げ
高い倍音をともなう津波のような低音があとを襲った

沢の石を磨き、さらに水は流れ、川面のプールになる
心の岸辺に茂る大樹の夏の光景が流れにとどまるように
朝焼けに昇る太陽の力のように、自律神経を歌わせ
愛のホルモンを意識の酒盃に満たした
いま抱いた恋心の幸福に彼女は気づいていた

語ろうとして叫ぼうとすることを、口にすること禁じて
フラメンコがラスゲアードをかき鳴らすように
これみよがしに、彼女は音感の世界に歌い上げた
音楽ホールの広い空間にあまねく響き
歴史を越えて過去を探り、未来を構築する
しかし論理自体は決して崩れず、明晰さを維持し続ける
十代の青年のようにしなやかな動作と敏捷さで跳ね
完璧な体力で楽章は踊り続けた

感動した楽団と、指揮者の歓喜のうちに大合唱を奏で!
そして巨大な和音で、彼女は世界中をどよめかせた…




1975年頃に50行ほどの抽象的な詩を下書きに残す。それをイメージして200
0年に長編詩の形に変更。2004.5脱稿したもの。フィクションである。


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