古川ぼたる詩・句集






2012年3月25日日曜日

木蓮の花まで散歩         




東京の開花予想は明日
三月三十一日
日本橋からおおよそ北東へ四十キロ
離れたこの辺りは
もう少し遅れるだろう
それにしてもこの
南風のすごいこと
なにもかも吹っ飛んで
丸裸になりそうだよ

そんな強風が夜通し吹いて
昨日よりもっと激しく
玄関を叩いているから
外に出て見れば
いつも行儀よく並んでいる
へら鮒釣りも今朝はいない
いつも浮き寝している
鴨の群れも今朝は見えない
逆流してくる
白波ばかりが忙しく珍しく
立っては消え立っては消え
消えては立つ
白波の古利根川

消えてしまった鴨はしかし
消えてしまった訳ではない
消えてしまった川鵜はしかし
消えてしまったのではなく
土手に上がってしばし
この大風から避難しているだけなのだ
その証拠に
この猛威のなかでも
何を最も恐れなくてはならないか
何から身を守るべきかわかっているから
この騒々しい大風のなかでも
ちゃんと
人間である私の
何かを察知して
番いの大鷭が
白波の中に
見事に着水
白く鼻筋を引いた
二匹の大鷭は
人間である私の何を察知したのか
人間である私には察知できない
人間である私はただ妄想するだけ
危険を妄想し
その妄想に怯え
たくさんのものを構想し
構築してきた人間という世界

鉄塔から鉄塔へ張り巡らされた
送電線が鳴っている
その上空にある
薄黒いたくさんの雲が流れ
重い雲を押し流す力が
音を立てて急いでいる

吹き飛ばされて倒れた自転車と
鮮やかな黄色の花を咲かせた
見事なミモザの木が
この世界から一刻も早く
逃げ出したいかのように
身悶えしている

でもしかし
この世界から一刻も早く逃げ出したいなんて
ミモザも
もっと大揺れのクスノキもメタセコイアも
シュロもケヤキも
白い木肌のユーカリも
そんなことは思いやしない
そんな風に妄想しているのは
いま生きている人間だけ
私だけ
私という表現に過ぎない

その証拠にはならないが
今通り過ぎてきた霊園では
卒塔婆がガタガタガタガタ鳴って
こんな日でも
山吹色の袈裟を着た坊さんと
喪服を着た親族が納骨していた
なんとありがたいことに
自分では始末のしようがないことを
儀式が始末してくれる
儀式のありがたさ
なんでも始末してしまう儀式の怖さ

こんな日でも
黄泉の使いである大烏は
こんな大風に
真っ黒な羽を遊ばせている
羽ばかりか
目玉まで真っ黒な大烏は
駐車禁止の看板から
不法投棄禁止の看板へと
大風に逆らうように
人間の決めごとを笑うように
しばしホバリングし
楽しんでいる

東京の開花予想は今日
三月三十一日だけど
ここの蕾はまだ青く
青い蕾から
初々しさが少しだけ見えている
たぶんこの南からの熱で
ここの桜ももうすぐ開花するだろう
水仙はもう花盛りだし
梅は花吹雪となって風に舞っている

そして
白木蓮の花はもう咲いている
純白の
小さな壺のような花が
強風になぶられている

少し早すぎた純白
というわけではなく
白の木蓮は毎年
大風のなかで咲いている
大風の夜風に吹かれて
小さな壺のような
白い花弁の重なりは
その縁が傷んで
悲しい色をしている
取り返しのつかないことになってしまって
途方にくれた色をしている


木蓮の純白返済不能也

木蓮の花弁の縁の余熱かな





春の雨          




詩を読むと
書かれた詩の
意味することはわからないけれども
作者の口調が
浸み込んできて
同調し
目の前の風景を
言葉にしている

俳句を読めば
読んだ俳句の
短歌を読めば
読んだ短歌の
意味はわからない
理解できない
難解、深淵な
詩、高級典雅な哲学が何処かに隠されている
俳句や短歌やさっき読んだ詩の
作者が誰だってかまわない
さっき読んだ口調に乗って
あたりのものが
すぐに浸み込んでくる
食器を洗う時のスポンジ
体を洗う時のタオル
口調が浸み込んできて
同調してしまう
弦の無いギター
膜の無い太鼓

ひと月前までは
北風に吹かれて
狂ったように身を揺さぶっていた
枯れススキも
今朝の春の雨を
浸み込ませている
霧のような細かな雨が
降り注ぎ
桜の蕾が膨らんできている
あと一週間もすれば
この雨を浸み込ませた蕾も
姿を変える
今はまだたくさんの蕾

たくさんの蕾よりも
もっとたくさんの雨の滴が
桜の木の梢にも
水仙の葉っぱにも
銀色の滴が
耀いている

無数の半球体
自足し
じっとしているように見えるけど
本当は
ほんの小さな衝撃に
壊れてしまう
無数
あたりの景色を
何でも受け入れ
映している
無数
無数の
水で出来たレンズ

近づいてみると
わが鼻息にも
走り去る車の
振動にも
何にでも同調し
同調し過ぎて
身を震わせ
こらえ切れずに
桜の梢から落ち
水仙の葉っぱから落ち
物干し竿から落ち
落ちては
還る
乾ききっていた土に
春の滴が
浸み込む
元の土に還る

還ってきた
水分を汲み上げて
柔らかな羽毛のような
猫柳の花が
咲いている
絶え間なく
今朝の雨が降り注ぎ
柔らかな猫柳の花に
浸み込んでいく
降り注ぐものを
たちまち浸み込ませて
調べを同じくしている
呼吸を同じくしている

亡き母の寝息は斯くや猫柳




(「詩句楽区」2012年3月号)
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五月         満開に咲いていた桜が散り 満開に咲いていた菜の花が散り始め いま満開に咲いている花ミズキ 散っていった桜 桜よりも前に散っていったサザンカ 少し遅れて散っていった白木蓮 胡桃の花が咲き あやめが花を咲かせ 散っていく五月 いろんな草や木が 一斉に芽吹いて 耀く五月 美しい五月 いつもこんなにも美しかった五月 けれど美しいと言えなかった五月 五月がこんなにきれいなのは いつもこんなにきれいだった五月を ただきれいと言えばよかっただけなのに 華甲なり           (華の字を分解すると六つの十と一とになる。甲は甲子の意味)数え年61歳。                           ・・・・広辞苑より 冬薔薇ほの紅に火照りたり 唐突に悔いよみがえる霜柱 追い越して行くマフラーの熱さかな 抱けそうな距離に佐保姫野の炎 メロス待つセリヌンティウス春隣り 早春の走れメロスを送ります カーブ切るときめき春の手中なり 鬼頭良く洗いて熱き珈琲入れん あつき口うすき口へと水温む 少年の茎甘かりし麦の笛 少年の夢精のように華甲なり 春雨や猫は腋毛を舐めている 宿世への小さき扉紋白蝶 やわらかきなのあらがいのなのなかへ 春愁や上り電車の通過です 揚げ雲雀月末多忙となりにけり お花見をしましょ銀河に腰掛けて 大風が春列島を独裁す ブロンズの乳首なき乳冴え返る ふらここに幼き父母を乗せにけり 叱られし烏のおわす選外句 木蓮の含羞白き中也かな 一卵を分けし朝飯霞たり 信仰がほしい朝なり牛蛙 行春やほろ酔いの宵神楽坂 幾何学が好きで生るるや蚊喰鳥 ほどけそむアヤメの綾の妖しかり (「詩句楽区」2012年5月号) ********************************************

6月の兆し 冬の終わりの 強風に洗われて 空は真っ青な午後 隣で畑を作っていたお婆さんは 遺体を焼かれた 焼却炉から出てきた時はまだ熱かったが もう元には戻らない 焼け残った骨を拾われたが 取り返しのつかないものに変わり果てていた 84年の季節を生きて 84年の時間を受け止めてきた お婆さんの肉体は 川が決壊するように 時間が流れ出し とうとう押し止めることができずに もう一度話し出す間もなく火をつけられ もう一度動き出す間もなく燃やされた 水仙が花を終え 畑の花も変わり 一人暮らしだったお婆さんが 腰を折り曲げて植えたジャガイモは今 葉影に眠っている蝶が 人知れず微笑むように 花を咲かせている 畑の隅では紫陽花の蕾がほどけて いくつもの花々が膨らむ やがて口という口が濡れる雨の季節に 雨の合間の晴れた日にはジャガイモを掘り 受け止めてきた時間を掘り出して 蒸かして食べた やわらかな記憶は うまいね 目を細めて うまいねうまいね 6月の空に間もなく梅雨が来て 抱えきれない空が決壊すると 生殖に忙しい地上に 大量に降り注ぐ 空の兆を映して 地上は色を変え 溢れ出した時間でいっぱいになる 密告 勢いを籠めるくさめや散る桜 浮鳥の夢の褥や花筏 メドゥサの潜める夜の雪柳 法悦の花弁の上の青ガエル 田に水やぬるりと我を迎えたり 野ネズミの故郷青田に奪われぬ 麦秋やわれ密告を思い立つ 静寂を背に新緑の伝道師 牛ガエル疑う余地の無かりけり 五月尽電柱囲むランドセル 会釈してすれ違いたり夏ミカン ドクダミや白き微笑を返しけり 入梅雨や吾も去年の花の種 置き去りのビニール傘や葛の蔓 厚き手の中に枇杷の実熟るる哉 梅雨寒や鍋釜薬缶妻恋し 目覚めても爪切る音の続きたり 暗向の血は滔滔とヤブカラシ ノロイアルフエキリュウコウキューリキル 短夜や単身赴任の抱き枕 (「詩句楽区」2012年6月号) ********************************************

7月の蕾 覆っていた夜が開かれ ゆっくりと白みかけた空から すこしずつ入って来る光りに すこしずつ温まる滴のついた蕾 温まる滴が開かれ広がる 濡れている昼顔の蕾 濡れた蕾の内側も外側もその隙間も 温まる光りの滴 温まる昼顔の蕾 薄紅色にほどけ始める昼顔の蕾の火照り 土のなかではわずかな隙間から湿りを入れて 根の先端から沁みわたる水分が 葉と葉の隅々まで伝わり それぞれの葉が呼吸を繰り返している葉むらでは それぞれの息に重なるそれぞれの息が混ざり合い 混ざり溶けあう合う息の湿りが 火照る蕾をさっきより今より火照らせる 温まった蕾に包まれていた花びらが 内側から膨らみ 蕾の縁を押し開いて光りを入れる めくれてくる花びらの縁と蕾の縁に帯びる熱に 花びらが息をするたび、光りが濃くなり 葉むらが息をするたび、根は水分を汲み上げ 縺れるように潜んでいた花びらの縁が 濡れながら光りを吸いに口を開けると 濡れて光る縁に吸い込まれ 光りを吸いに開けた口に吸い寄せられて 濡れた光りは五弁に裂けようとして裂けない 裂けない花びらのやわらかな縁取りの昼顔が さっきより今より、より今より 生い茂る雑草に混じり合い 蔓を伸ばし 茫茫 棘を持つことを憂いぬ夏薊 落日の紫雲の蕾夏薊 パンのみに在らずぞ緋鯉気をつけて 見るまでの憂いはどこにかきつばた 床の間に百合の匂える横座り 片耳に髪かき上げし梅雨曇り 雲海の道茫茫と父母の声 ろうそくのてやくちびるやめのほむら 終電に駆け込む葱の青きかな 雲のみは飽かぬ子を連れ桜桃忌 首筋に蚊だよと触れる黒子かな 尻洗う心地良き時チャイム鳴る 鶺鴒やゴメンゴメンと飛ぶ仕事 そうだよね海辺の駅のカンナだね 背と膝に嬰児の老女接見す 歯茎もて舌もて桃の芯までも 短夜を残す齢の尿かな 変わり果てマルエン選集紙魚を飼う 道端をはにかむ昼咲き月見草 紫陽花の空決壊を兆すかな (「詩句楽区」2012年7月号) ********************************************

八月の白い道 八月の乾いた跡は あのナメクジの通った道 ぬらぬらと粘液で覆われたあのナメクジが 朝の花びらを食べ飽きて 濡れた日陰に帰って行った時間 早くしないと正しい太陽が姿を見せて 体を覆うぬらぬらを からからに罰してしまうから 太陽の正しい光が届かない場所で どうしてもぬらぬらしてなければ生きてはいけない だから生きていくと言う事は いつもぬらぬらと どこをどう千切ってもぬらぬらしているばかりで 個体とは思えないから 気味の悪いぬらぬらは 内側も外側もない そのままのそれだけで 影や深さと無縁な 醜いぬらぬらは どこが始まりでどこが終りなのか 形らしい形も無ければ 前後もはっきりしないぬらぬらに 目指す目的などあり得ない 音も無くどこをどうやってここに来たのか 声さえ持たないぬらぬらは 私の舌のようにいつもぬらぬらと 静かに夜明け前の花びらを食べ 私の食道のようにいつもぬらぬらと 日没に熟した果実を食べ 私の肛門のようにいつもぬらぬらと 世界の光りの正しさから遠く離れて 八月の白い道 葛の花 今生はせわしき生計油蝉 尿してアバヨと黄泉へ油蝉 発熱の小児科医院凌霄花 老猫の欠伸の舌よ夾竹桃 朝顔は幾千問いて空の色 うつせみの宿世の泥よ夜の雨 行間の赤線若き雲の峰 明けやらぬ雌蕊に眠るなめくじり 妻の胸見知らぬ光り月見草 独り居の網戸を襲うカブトムシ 立秋や毛深き臍の父だった 酔芙蓉臨月近き臍立ちぬ 亀の首妻を待ちたる涼しさよ ただ一冊の偽書をください合歓の花 ギシギシやサグラダファミリア三千塔 露わなり2穴の猫よ稲光 来歴は不明葡萄の苦汁かな 冬瓜や縁なき衆生に晒し首 その日まで日ごとに伸びる葛のつる 夜を残す幹に絡まる葛の花 (「詩句楽区」2012年8月号) ********************************************

9月の家路 駅を降りるとたちまち 歩いていくきみに聞こえてくる やかましいほどの虫の鳴き声 刈り取られた田んぼは 少し広々として見え 二羽の白鷺が眺めている夕暮れ そんなふうに取り巻いているものがあり そんなふうに取り巻かれている いつもがある いつものことがいつものようにあることに ものたらないものを感じているのも いつものことである いつものことがいつものように続き この世界を失ってしまうまでに どんな災難が待ち受けているかしれないのに まだ時間があるから いつものようにではない日々を 生きてみたいと思っている それはどういう時間 それはどういう日々 それはどんな生き方 なんでも自分の身に引き寄せてみなくてはすまない 思い込みばかり 背負いこんだ きみに見えるのは 甲高く虫が鳴く一面の藁や草むら 明かりをつけ始めた家々 もう星が瞬き きみの視線のはるかかなた 暗くなった空に消えてゆく飛行機の灯火 一羽が飛び立つと つられてもう一羽が飛び立つ 残ったもう一羽は飛べない鳥の影 きっとねぐらに帰っていって 汚れた羽根を清める 細く長いくちばしは祈り 二羽の白鷺が夜空を引き裂く爆音に耐えて眠るころ きみもねぐらに帰り着き 初老の尻をイスに乗せる テレビニュースを見ながら 自分の怠惰を責め 後ろめたい晩酌 冷えた発泡酒の刺激がたまらない喉 臆病だから生きながらえてきたのはほんとうで まぼろしで満たされる胃袋をもてなかった そんなきみの幸福を ものたらないと思うのはどうしてなのか それがわからなければ入れてくれない それがわかれば ほんとうのことがわかるというまちに 虫や鳥たちをつれて探しに行ったのだったが 転倒した声 あーー、と絞り出したその声 現実にもどるには声しかないから これは夢なんだと経験してたから 逃げ込んだところが袋小路 恥ずかしいけど、もしや先生が褒めてくれたらなんて 小学生らしく道徳的に作ったのは 心は正しい自然の力によって平等に生かされている、と 詩の海ではきれいにしなくちゃって そんなみじめな夏休みも どれだけ良かったことかと後悔したのよ ぐちゃぐちゃ砂が体中にへばりついて、家で遊んでいたほうが こんな汚い所で命が誕生したなんてとても考えられない 飲んでしまった海水はしょっぱくて、苦くて、気持が悪くて 太平洋の水は砂混じりに黄色く 着いた海岸はイモ洗い海岸 兄妹4人は乗り物酔いでゲーゲー クーラーなんて付いてない車に しばらくぶりの叔父さんの車に乗せられて 初めて行った海水浴 だから今年と同じ猛暑の夏に みんながみんな違った詩をもっている、と 声や形が違うように 全ての生き物の心は 詩は書かれるべきだ 生きとし生けるもの全ての生き物によって 六年二組の担任の先生は言う 夏休みの思い出を詩にする国語の時間 丸太でつっかえ棒をした木造の小学校 ビルの5階にある筈の詩の学校は嘘で 詩の学校に行くなんて嘘じゃないかと 夢の中でオレの跡をつけて行ったそうだ うなされていたカミさんは 明け方、「あーー」、と 膝に蠅 「愛」とゆう店の名灯る残暑哉 斎場に導く灯火秋立ちぬ 少年の口のピアスや夜の秋 祖父母父母精霊蝗虫の背の子哉 染め残る君の根元の今朝の秋 通勤の歩幅に戻る朝の秋 虫時雨どこかで髪を焼く匂い 思い出し笑い路肩に韮の花 約束の木々へとつくつく法師哉 サンバイザー目深に過ぎぬさるすべり どこが好きなぜ好き君の膝に蠅 蠅は好き匂える暗所を持てる君 喉元のボタンをはめぬ花すすき 空ばかり向いてるヘクソカズラ哉 一帯は虫時雨なり家路なり (「詩句楽区」2012年9月号) ********************************************

ごろん 東武伊勢崎線の最寄の駅は姫宮です 朝7時26分の中央林間行に乗って仕事に行きます 先日、ダイコンを持って座っている女性を見ました 葉っぱもついていて新鮮なダイコンらしい ダイコンが一本 ごろん  私も畑を借りて家庭菜園をやってるので まあうまく育てた ごろんだと思いました でも、ダイコンなんて今時スーパーに行けば100円もしないで買えるし あれ、貰っても喜ぶ人なんているのかしらね・・・・ ごろん一本 女性はだいたい30歳位に見えましたけど、女性の ごろんってわかりません ジーンズ履いて、黒っぽいセーター着て、葉っぱのついたダイコンを ごろんと左脇の方に抱えて、顔を伏せて何かごろんしてました メガネを掛けていたようですがごろんして 顎の筋肉がこりこり盛り上がったりしていたので その歯噛みの仕方がどこか ごろんを電車に持ち込んだことを ごろんでるようにも見えました 私は春日部で降りて、急行に乗り換えて草加に向かいます 彼女はそのままごろんしてしまい ごろんがその後どうしたのかわかりませんが 葉っぱのついた ごろんが心に残りました 乗り換えた北千住行の車内では近頃 笑いがほしくなっていたので 田辺聖子の『川柳でんでん太鼓』を読んでました すると、53ページ、ひぇー ごろん 「手と足をもいだ丸太にしてかへし」という川柳が ごろんごろん 日中戦争中の昭和12年、鶴彬(つるあきら) という川柳作家の ごろん 日本中が狂気に陥っていく最中に 人体を物として扱う狂気に人体を物として表現しかえすことで 全体主義の狂気に生々しい抗議をしているのでした 鶴彬は投獄された後に虐殺されるような形で ごろんされたと田辺聖子は書いてました そんな国家権力に対して私はどんな抗議ができるのか ごろんとしてしまいます むしろ付和雷同し加担した国民に近い ごろんではないかと ダイコンのことも ごろんから離れません いくら自分で育てたと言ってもたった一本のダイコンを 電車に乗って届けるなんてことをしないのは だれもそれを喜んでくれる人はいない だれも100円以下の価値を嬉しいとは感じないと ごろんしていました でも 彼女は葉っぱのついたたった一本のダイコンを届けたいと ごろんしました そのままそっくり電車に乗せました それはまちがいない ごろんです 泥の中から青々とした葉っぱの真っ白な肌のダイコンを 届けたいという情熱をそのまま実行したのです 通勤電車の中の ごろんです あのダイコンを商品の価値に置き換えて見ることは 狂気、ごろん  拷問、ごろん 情熱、ごろん 届けたい情熱の手と足をもいでそ知らぬふりをしている 狂気、ごろん 拷問、ごろん 情熱、ごろん 鶴彬という川柳作家のことを初めて知りました たった一本のダイコンを届けるという それは 世の中を画一化してゆく狂気への ごろん そう、ごろん ごろんごろん そう、そう、ごろん そう、ごろん そう、そう、ごろん、そう、ごろん ごろん (「詩句楽区」2012年12月号) ********************************************

冬のブランコ 会えば最初に きっと訊くだろうな いくつになったんだいっ もうすぐ62だよ そうかい早いもんだなーっ ずいぶん風がつよいねっ こんなに朝早くっから 何してるんだいっ、て訊くだろうな 詩を書いているの へー、そうかい、しーかいてるのかっ 読んでみる、と訊けば そうだねっ、て応えるだろうな でも いつまでたっても母は 鼻歌を歌っているだろうな 鼻歌を歌って許してくれてるのかな 最後まで弟に看取らせたこと   手首を失くした幼い母と 足首を失くした幼い父を 1月のブランコに乗せて 幼い父に鎖を握らせ 幼い母を板に立たせて 幼い長男が背中を押している 押されるたびに 失くした手首がイタイイタイ 戻るたびに 失くした足首がイタイイタイ 押されるたびに 風がイタイイタイ 戻るたびに 風がイタイイタイ イタイイタイ風が吹き通して それからまた ずいぶん悪い風が吹くねっ タバコはよしたほうがいいよっ、て言うだろうな 止められないよ、と応えると そーかねーっ、て言って 鼻歌を歌っていたな 悪い風を忘れる歌だったんだ (「詩句楽区」2013年1月号) ********************************************

大雪が降った 2013年1月14日は月曜日でも休日だった 昼前から思いがけない大雪が降って 雪の深さは足首まで埋まりそうだった 午後になっても降り続けてたが 畑作業用のゴム長靴を履いて 家のそばを流れる古利根川伝いに歩いた 吹雪く川原はきれいだった 降り続ける雪で 昨日までの見慣れた景色が一変していた 白い景色は目的もなく立入るのを拒んでいるのに 開かれるのを待っている 大勢の死者や未知の人たちが書いた 閉ざされた文字が整然と立ち尽くしている 沈黙のなかに入って行く時のように 内臓がずり落ちそうで 自分をなんとか 閉じ込めようとしている 私は幼児のようだ あの角まで行ってみよう あの角まで行く途中に 大きな胡桃の木が生えている 大きな木に呼ばれるように そばに行って その先の角を右に折れて家に帰るつもりで歩いた 歩きながら今日の大雪を記録しようとカメラに収めた 画像には年月日時刻が入るようにセットして 写した景色を日付のなかに閉じ込めておくと あの胡桃の種子のように 新しく芽生える日がくると思って 雪を被った胡桃の木は 遠くから見ると たっぷりと髪の毛を蓄えた生き物のようだし 近づくにつれて 苦しんでいる 人の姿のようだ 土のなかに頭をうずめて 空のたくさんの手足は疲れて硬直している それで 何を求めているのだろう こんな日にも 土のなかの頭部と地上の胴体とは 私が立っている地面を境界にして 少しずつ少しずつ何を地下に求め 少しずつ少しずつ何を上空に求め 春には新芽を膨らませ 初夏には鉛筆ほどの長さの緑色の花をつける 光合成をしているのだという 根本は周囲1メートルほどの太さになっている 一度噛んだ果肉は渋く殻は固い 忘れられない果肉 果肉の数だけ忘れられないことが多くなる 人ではない胡桃の木は数十年 季節の実を結んでいる 雪は10センチ以上積もっても降り続けた ストーブを焚いている部屋に帰ってきて 胡桃の実の固い殻のなかから なかにしまわれた記憶を取り出すように カメラからPCにデータを送る 撮って来た画像を再生し 帰りを待っていた女房にも見せた 彼女とは40年近く一緒に住んでいるが こんな降り方をした大雪を ここに住んで見るのは初めてのような気がする 吹雪く川原の 雪をまとった胡桃の木は 日付もうまく入っていて 彼女もきれいだと言ってくれたので うれしかった あの日 長女の生まれた日も 雪の降る日だった その子は予定日より十日ほど早く破水したので 大きな川のほとりにある病院に向かって 明け方の雪の中 転ばないように 二人とぼとぼ歩いていったのだった 雪の日の赤ちゃんは逆子で生まれた 女の子だったので 雪江と名づけたのだった (「詩句楽区」2013年2月号) ********************************************

きょうは良き時 よくいらっしゃいましたね そんなふうに きょうが迎えてくれて それで、長生きの秘訣は 息をするのを忘れないことです *注 それ聞いて大笑いしながら 女房がオニギリを作ってくれた この先たぶん一緒に過ごす時間が増えれば この初老の男もたびたび邪魔になる 男がいなけりゃ女は気ままに長生き 女がいなけりゃ淋しいおれは 梅干とコンブの小さいオニギリを持って 息を忘れるバカがいるかね、なんて 悪態つけば息は苦しく すっかり息を忘れて歩いてる すっかり忘れてた よくいらっしゃいましたね そんなふうに ここが迎えてくれて ここは4、5千年前 海だったところ 一時間ほど歩いて そのころからも すでに陸地だったところに 木々に囲まれたオニギリは あったかどうか でも、そのころから 生け捕りした肉は焼いて喰ったさ あのじいさんは焼き肉なんかも 歯茎で食べて 4,5千年前と笑顔は同じ で、その入れ歯はいつ使うんですか 歯磨きする時です *注 それでまた、大笑いしたのを 思い出し笑いしながら 男や女が生まれる前の 空と水を見てると よくいらっしゃいましたね そんなふうに きょうはよき日、今はよき時、とばかりに この陸にあがった祖先は生きて その子らの腹から続いてきた きょうの いまここに 先祖の地面から伸びる あの木はなんだ あの枝のあそこがおいでおいで あれシジュウカラ あの枝のあれあれヒヨドリ 真菰のマガモ マガモは首をひねられ 真顔で怒っても遅かった 焼いて喰われて羽根飾りになった つらかっただろうな 喰った先祖は うれしかっただろうな 先祖の祖先もうれしかっただろう よくいらっしゃいましたね きょうに会えて うれしかったですね *注:2月23日東京新聞、柏木哲夫氏の文章からの孫引きです。 (「詩句楽区」2013年3月号) ********************************************

ひとの岸辺 それはインドシナ半島 ベトナムだったかカンボジアだったか 記憶があいまいになってしまった ラジオがそこを *注 ひとの岸辺といっていたのを 思い出します ちょうど近所の 空家になった農家の前の 岸辺が草の色に染まり 大きなこいやふなを迎えて にぎやかに卵を抱く頃 いつの時代のことだったのか 子供ができない夫婦の話でした ・・・・ あたりはいつものようにまだ うっすらと夜が残っているけれど ふたりは田んぼに出かけました 田んぼのあぜは草で埋まり 朝露にぬれ まさかこんなところに 赤ちゃんが捨てられているとは思えません けれどもその赤ちゃんは 子供ができないふたりを 待っていたように 大きく口を開けて叫びました 赤ちゃんの泣き声を聞いてふたりは まさかと思いながら 呼んでいる声を探しました やっぱり赤ちゃん 泣く赤ちゃんを草のなかから抱き上げて ふたりも泣きました 子供のできないふたりはとにかく すぐに家に連れ帰った赤ちゃんを 大切に大切に育てました けれどある日 幼児にありがちな 高熱を出して苦しみました 親になったふたりも苦しみました どうにかして助けたいと苦しんだそうです 病院もなければ 医者もいない 遠い遠い村だったので 父親になったそのひとは 自転車の荷台に箱をくくりつけて 熱に苦しむ子を くくりつけた箱に寝かせて村を出ました 夜明け前から一昼夜と半日 闇のなかの道端に寝て 少し休み 闇のなかの道端に起きて 母親になったそのひとは 拾って育ててきたその子が 苦しむ自転車について歩きました 夜明け前から一昼夜と半日 明け方の道端に食べ 明け方の小川に汗を洗ったといいます 歩いて 歩き疲れて 強い日差しに焼かれながら 行ったといいます 流れた汗は乾ききって塩になり 着いたといいます 初めて見る病院に 遠い遠い村を出てからの 一昼夜と半日の道は ひとの岸辺だったとラジオがいってました ・・・・ 行ったというのを聴きながら 着いたというのを聴きながら わたしの涙もふくらんできて ぬぐわないで ひとの岸辺に そのまま流してやることにしました *注:数年前にラジオで聴き、話の筋だけが記憶にあります。 (「詩句楽区」2013年4月号) ********************************************

Web同人誌「詩句楽区」
昨年の3月から発行された加藤閑さんとさとう三千魚さんとの同人誌で、 鈴木志郎康・今井義行・辻和人でWEB公開した鼎談『現代詩をもみほぐす』や 鈴木志郎康詩集『少女達の野』についての古川ぼたるさんのエッセイが掲載されています。 ********************************************

古川ぼたるは中村登さんのペンネーム。 中村登さんの経歴           1951年2月12日生まれ 宮代町立小・中学校卒業 越谷高校卒業 和光大学卒業後              大学の仲間三人と印刷所を始める         1974年結婚          1979年東洋インキ製造株式会社入社          1982年中村登詩集『水剥ぎ』魯人出版会         1984年中村登詩集『プラスチックハンガー』一風堂         1987年中村登詩集『笑うカモノハシ』さんが出版         1012年3月Webにブログ同人誌「句楽詩区」を加藤閑、さとう三千魚の3人で立ち上げる              詩、俳句、批評などの他、ジャンルは問わない自由な言語表現の場を目指す         2013年東洋FPP定年退職         2013年4月28日脳出血で亡くなる         中野で印刷屋をやっている頃・・新日文の文学学校で詩の勉強会で鈴木志郎康に出会う                  (中村洋子さん作成の年譜に鈴木志郎康が補う)

                2103年5月9日鈴木志郎康作成