「個人映画」の映像表現

                 鈴木志郎康

 

1 「個人映画」というもの

 「個人映画」という言い方はまだ一般的ではない。ひとまず、ここでは映画会社やテレビ放送会社の資本による映画制作ではなく、個人が絵画や彫刻を制作し、詩や俳句や短歌を書くように、映像によって表現された作品で、撮影の対象を作者の身近なところに求めて、「自分が生きている在処を語る作品」を「個人映画」ということにする。現在はフィルムに依らなくても映像表現が可能になったので、「映画」という言い方がそぐわない面もあるが、「個人映画」の成立の時点で、資本による映画制作と対照されるところから、商業主義に基づいた「メジャーの映画」に対して「個人映画」という言い方を取ることにする。ところで、わたし自身、1970年代から現在に至るまで映像作品を作り、写真展を開いたりしてきたが、自分では「『個人映画』をやってます」という言い方をしたことはないが、だからといって、映画監督と自称したこともない。そこで、自分がやっている「映像表現」というものについて、「個人映画」という範疇の中で考えを纏めてみよう。

 「個人映画」はもともと個人が自分の映像表現として制作する映画だが、個人として映像の表現性を追求する作品は第2次世界大戦後のことで、1955年に「グラフィック集団」の写真家の大辻清司、石元泰博、染織家の辻彩子たちが制作した『キネ・カリグラグィ』が戦後初の「実験映画」といわれている。これは16ミリフィルムに直接色を塗って自家現像して、スクリーンに筆跡を残した色彩と線のイメージが流れるという作品である。その後、1963年に大林宣彦さん、高林陽一さん、飯村隆彦さんたちが「グループ・アンデパンダン」を結成して、個人的に8ミリフィルムによる作品制作を始める。大林さんは1964年に『Complex・悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』を発表する。1970年前後には映像の新しい表現の芸術運動として展開した側面が強くなった。かわなかのぶひろさんは、「個人映画」の上映活動を発展的に継続していた映像作家だが、その著書『映画・日常の実験』(1975)の中の「片一方のフーテージ 『日本個人映画史』覚え書き一九七〇ー七四」という章で、その運動に加わった当事者として、次のように書いている。

 「表題を書き出してみて、どんな上映活動を書くよりもやっかいなことに最初に手をつけなければならなくなった。それは『個人映画』という呼称と、『片一方』とただし書かねばならない個人映画の七〇〜七四年についてである。

 そもそも定義以前に『個人映画』という呼び方はぼくには不馴れである。子供の頃からいつもひとり統一を乱す者としてランクされてきたようなので、今さら歩調を合わせて行ない澄ます気にもなれない。身勝手を承知でこだわるわけだが、ぼくが運動としてかかわった時は、個人をべ−スに制作される映画を<アンダーグラウンド・シネマ>と呼んでいた。」

 このかわなかさんの「アンダーグランド」という言葉への拘りは、既成の表現に対抗する意識を持って「個人映画」の制作と上映を自分の表現の運動として行ってきた者の心情が込められているものと受けとめることができる。「個人映画」の制作は、ヨーロッパでは映画の発明と同時に始められ、アメリカ合衆国では第2次大戦後、ポップアートの若い芸術家たちの活動と共に盛んに行われるようになって、1960年代にその流れが日本にも入ってきた。その流れが「アンダーグランド」といわれるものだった。かわなかさんはその流れを全身で受け止めて、主体的に制作と上映を運動として推し進めた一人といえよう。

 「<アンダーグラウンド・シネマ>が″アングラ″になり、ハダカとスキャンダルのみが末端肥大してひとびとに伝わったあの忌まわしいイメージとは、一刻も早く絶縁したい。しかしながら、ぼくは歪曲されたイメージを改名によって一新するよりも、<アンダーグラウンド・シネマ>運動の当初の理想がひとびとに正確に伝わるまで″アンダーグラウンド″に執着する。したがって、アメリカではどうあろうと、まだしばらくは個人をべ−スに制作される映画を、ぼくは<新しい映画>もしくは<アンダーグラウンド映画>と呼ぶつもりである。そしてこの新しい映画の定義については、ぼくの手にあまるのだが、以前書いた『独立映画』に関するぼくの考えと同義である。

 広い意味での『独立映画(インデイペンでント・フィルム)』ほど定義しにくいものはない。その内容もスタイルもきわめて放恣で、思いきり個人的で、100人のインディペンデント・フィルムメーカーがいれば100通りの流義がそこに生まれ、今日ではその量も100どころかひとつの都市の人口ほどに増えつつある。したがってひとことで言うなら″映画″という概念から自由である映画、ということになるだろう。映画に対するあらゆる既成の尺度から、またその定義から、まったく完全に自由であろうとする映画のことである。なぜなら、独立映画作家は、すでに確立された理論やできあいの定義とは相容れない自由な精神を持ち、映画をぬきがたい個人の表現メディアであると思っているからである。(「季刊フィルム」13号)」

 かわなかさんの「個人映画」の運動は、1970年前後の「反・万博闘争」に荷担したりして、運動自体を困難にするような人間関係の問題や上映会場の問題などを切り抜けて、「アンダーグランド・シネマテーク」に変身して、その後多くの映像作家たちを集めて、現在の「イメージフォーラム」へと発展していくことになる。「アンダーグランド・シネマテーク」では、「Underground cinematheque」誌を刊行し、プログラムも一週間から十日間の個展形式をとり、二カ月に一度のオープン・スペースの「新作ショーケース」によって、新しい映像作家を生み出す切っ掛けを作るようになった。そして、1987年から日本の国内、及び世界の各国からの映像作家の作品を集めて上映する「イメージフォーラム・フェスティバル」が開催されるようになり、2006年には20年目を迎えようとしている。

 個人的に映像表現する者は、自分で上映の機会を作らなければならない。わたしも、『日没の印象』は写真展を開催した画廊で上映し、『草の影を刈る』は新宿の公会堂を借りて上映した。個人的に上映するばかりでなく、映像作家たちが集まって「上映会」を持つということも多い。継続した上映会に一つとして、映像作家のほしのあきらさんたちが主催する「ハイロ」は、1970年10月から現在に至るまで、澁谷の上映会場「アピア」で若い映像作家たちに上映の場所として開かれている。

 このように個人的に制作される作品の数が増えてくるに従って、その多様な作品に共通した側面が現れ来て、「個人映画」と呼ぶ映像表現の特徴がはっきりと見えてきた。1980年発行の『新映画辞典』(美術出版社)には、「実験映画」の項目で、松本俊夫さんはその特徴を捉えて定義付けをしている。

 「実験映画は,時と場合によって、前衛映画、アンダーグラウンド映画、個人映画、インデイペンデント映画、アンドレ・キノなどの名称でも呼ばれてきた。ともあれそれらにはいずれも、既成の映画に対するアンチテーゼの意味合いがこめられている。」

「その様式や方法は千差万別である。強いていえば、それは慣習的、制度的、商業主義的に規格化された映画に対立する映画概念、あるいはそのような映画によって飼育された感性や観念のシステムと摩擦を起こす映画のことである。」

と述べて、「個人映画」を「実験映画」の中に位置づけている。ここでの「実験」の意味は、映像がどういう意味性を持ちうるかという試みを指している。個人が商業的な目的を持たずに、自分の独自な考えに従って、現実的な又は非現実的なイメージを映像化して、そこにどのような意味が生まれてくるのかという追求が、実験的と見なされるわけだ。

 また、その表現性による分類では「〈B〉感性の解放」という枠で、

 「これは世界と自己の関係を感性の次元で変えようとする映画だ。それは秩序意識に対応する硬化した言語系への不信ともつながっており、何よりも鋭く,豊かな,直接的な感覚体験をとおして、生き生きした意識の蜂起をはかろうとするところに共通点がある。

1)個人的日記としての映画

 自分の身近な日常体験を、徹底した個人の眼とナイーヴな私的感受性でとらえかえそうとする映画で、個人映画の原点とでもいうべきもの。メカスの『日記』(1969−75)、スタン・ブラッケイジの『ソング』(1964−69)、鈴木志郎康の『草の影を刈る』(1977)など。」

と、それらの映画を分析して、わたしの作品もその枠の中に分類されている。

 「個人映画」という言い方は一般的ではないが、近年のデジタルビデオカメラの普及に伴い、また若い人達の自己中心的な表現意識と重なって、「個人映画」と呼べる作品の数は非常に多くなった。むしろ、若い人達の映像作品は殆ど「個人映画」といえるようになった。特に、自分自身を映像にして作る作品を、映像作家のかわなかのぶひろさんは「セルフ・ドキュメンタリー」と呼んでいる。「個人映画」が多くなったのは、従来集団的なスタッフで撮影され、現像所や編集・ダビングスタジオで行われていた作業が、映像がデジタル化されたために自分一人でカメラを使って撮影し、パソコンで容易に編集できるようになって、費用もかからず、個人的に映像作品を制作することが可能になったということである。作品の種類も、アニメーションからドキュメンタリーまでかなりの幅がある。わたしが30年前に、自分の映像作品を作りたいと思って、先ず8ミリカメラを買い、ついで中古のアマチュア用の16ミリカメラを手に入れて、映像の個人的表現を始めた頃からすれば、様相はまるで変わったと云える。

 個人的に映像表現を欲する心は、幼い頃から映画館のスクリーンで映像を見たり、家庭のテレビのブラウン管で映像を見たり、またゲームで熱中したりして培われ、映像による表現の気持ちが芽生えて、そこに機材が容易に入手できる環境が整って、作品制作の欲望を生むことになる。しかし、映画館で上映される「映画」も、テレビで放映される「映像」も、表現の場としては限られている。一対多数の構造で大衆に向かうマスメディアでは、大衆性が要求されるために、主観性が強い個人的な表現は、カリスマ的な力がない限り許されない。従って、マスメディアの大衆性と組織性にそぐわない個人が、映像による表現の欲求を持って、自分の表現を実現しようとすれば、映像の個人的表現が生まれてくるのは自然なことである。そこには、組織的な規制に縛られない個性的な様々な映像表現が生まれてくる。しかし、作品は上映されなければ成立しない。作家たちの要求から生まれた「イメージフォーラム」など定期的に上映される場所や、若い作家に開かれた「ハイロ」もあるが、多くは自分で上映会を催すなどして、その数は増えてきているが、それほど上映の機会は多くはない。もっとも、映像作品のコンテストが多くなって、応募作品の数は少なくても500、600ということで、作られる映像作品の数は多いことを示している。とはいっても、「個人映画」は多くの人に知られていないのである。知られていなくても、「個人が行う映像表現」は存在する。

 

 2 個人的な映像表現

 ここでは、わたし自身の映像表現と、映像表現を考える場合にわたしにとっては大きな存在である2人の映像作家の作品を考えてみたい。個人が作る映像作品は数は多いが、時期的にまた地縁的に出会えない作品も多い。わたしは主として東京にある映像作家の集団として出発した「イメージフォーラム」で「実験映画」や「個人映画」を見てきた。「イメージフォーラム」は作品を定期的に上映するばかりでなく、作家たちの作品を管理して希望する者にレンタルしている。また、外国の作品を紹介したり、外国の映像作家たちを招いての交流の場にもなっている。1987年以来、毎年「イメージフォーラム・フェスティバル」を開いて、ヨーロッパ、合衆国、アジアなど外国の作品を幅広く紹介している。それらの外国の個人作家たちの作品を見ると、国によって事情は異なるが、「映画市場」を目指してのみ作られるのではない映像作品が、映像の表現として世界的な広がりの中で作られていることが伺える。そこには民族や国の違いが、個々人の感受性や考え方に出ているように感じられて面白い。

 1960年代から現在に至るまで個人的な映像表現を続けて日本の映像作家として、劇映画を作っている松本俊夫さんも、映像の理論家として個人的な作品を作ってはいるが、主に個人的な表現を貫いている作家として、金井勝さん、奥山順市さん、かわなかのぶひろさん、萩原朔美さん、安藤紘平さん、中島崇さん、ほしのあきらさん、原将人さんなどがわたしには親しい作家であり、それ以降の世代の作家としては、伊藤高志さん、大木裕之さん、帯谷有理さん、加藤到さん、黒川芳信さん、居田伊佐雄さん、小池照男さん、黒坂圭太さん、宮崎淳さん、山崎博さん、山崎幹夫さんなどの名前が、その作品と共に思い浮かべることができる。勿論これ以外にも、沢山の映像作家たちがいるし、わたしが多摩美術大学やイメージフォーラム付属映像研究所で出会った若い作家たちを数えればかなりの数になる。

 この作家たちが作っている作品がどういうものかは、それぞれ作家がそれぞれのやり方で作っているので、一口には語れない程多様なものと言えよう。内容として「メジャーの劇映画」や「ドキュメンタリー映画」と決定的な違いは、映像そのものを意識的に対象としていることであって、イメージが対象の現実的な意味合いと重なって、意味が重層化してくるところにあると云えよう。現実の事物についても言葉では一概に語れないが、同じように映像そのものが表現として言葉では語れない質感を持って、感覚なり、感情なり、意識なりに働きかけて、有意的な統一感をもって世界観を実現しているというところに重点を置いて表現がなされていると云える。別の言い方をすると、イメージそのものが人に働きかけるものとして、映写された映像がそれ自体時間を持って自立しているとも云える。その映像に受け止め方にはちょっと慣れが必要かも知れない。

 

 3 奥山順市さんの映像表現

 映画は動くものをフィルムの一齣一齣の連続して変化するイメージで捉え、それをスクリーン上に映写して、動くイメージとして再現するという構造を持っているが、奥山順市さんは、この映画の構造そのものをイメージで語り出していくという作品を作っている。1968年制作の『Frameless35』は普通の35ミリ写真のネガフィルムをつなぎ合わせて映画の映写機に掛けて映写するという作品で、ものの痕跡を残した光のまだらがスクリーン上に映し出されるが、それは物のイメージを超えたイメージの出現と言える。つまり、イメージを事物の認識を超えて純粋に感覚に訴えるものとして自立させるところに、現実的な事物を指示するという意味は失われるが、イメージ自体の表現として成立させている。わたしたちは物のイメージを認知したとき、その物と理解するが、奥山順市さんはイメージの映写というメカニズムを逆手にとって、その理解の機構を超えて、物を光に戻してしまうわけだ。また、自称「映画解体計画」として作られた、フィルムを送る孔がなく、映写機に掛けて手で引っ張っているうちに映写ランプで、フィルムが燃えてしまう『No  Perforations』(1971)や紙をフィルムの代わりに使った『紙映画』(1972)などでは、イメージを実現する行為がそのままパフォーマンスになってしまうというような作品である。そして、映画そのものをタイトルにした『Le Cinema ・映画』(1975 )以降は一層厳密に、撮影と映写にイメージの生成の原点を持つ映画のメカニックな構造を、イメージに開いてみせるという表現を一貫して行っている。その追求の一つとして制作された『我が映画旋律』(1980 図1)という作品では、画像に写っている映像をフィルムのサウンドトラックに拡張して、フィルムの絵柄の濃淡を音に変えてしまう、 またサウンドトラックの音の波形をイメージとして映し出す、つまり、「<画は音>であり、<音は画>である」というわけで、「機織りの筬が、お寺の塀が、金網のほつれが、ホテイアオイが、星の砂が、メロディーを奏でる」(奥山順市のホームページから引用)というような映画なのだ。この映画は「初めて耳にする映像そのものの音」を実現したというわけである。作者は「古典的な映画のメカニズムから生み出した、究極の映像表現。それが<映画旋律 >である」と言っている。実は、この作者の言葉にはユーモアが隠されている。『我が映画旋律』がスクリーン上に実現しているものは、現実の生活に照らしたら全く意味のない雑音であり画像でしかない。元の映像も音声も意味のあるものだが、映像を聴覚に対して投げかけ、音声を視覚に投げかけると意味が失われてしまう。われわれは感覚で認識して心を安定させているが、意味が失われ、その安定が失われると慌てる。そういうわれわれの肩を後ろからぽんと叩いて「どーお?」と問いかける笑いが隠されているのだ。つまり、映画の常識というものに安住している人が座っている椅子を後ろから引くということ。奥山順市の映像表現は、イメージを記号としてストーリーなどを語る道具に留めるのではなく、イメージそのものによってその生成のメカニズムを語るということで、人間とイメージと関係の一端を明かしてみせるという表現なのだ。それは、個人の思考と感性に依ってしかなしえないと言えよう。

 

 4 かわなかのぶひろさんの映像表現

 かわなかのぶひろさんは、奥山さんが映画のメカニズムに拘り切った末に人間性に到達するのとは違って、映画が動きを捉えて再現する、つまり映画が時間を生み出す装置であるところを追求する道筋を辿ることによって、そこに独特の映像表現を成立させるのだ。かわなかさんはいうところの「実験映画」から映像表現を始めた人だ。初期の頃のかわなかさんの実験は、時間の経過の中でのイメージの点滅という映画の構造を、フレーム単位で扱うことで、自在にコントロールして見せることで、上映の場という現実空間に非現実的な効果をもたらすというようなものであったようだ。初期の作品の『FEEDBACK』(1973)は、画面を二つに分割して、最初、左側には女性の裸像の全身像と両手が会わされた陰部のアップを交互に映し出し、右側には女性の裸のバストショットが映し出される。時間の経過に従って、左の全身と陰部のイメージはダブルイメ−ジになり更に激しいズーミングが行われ、右の女性のイメージは点滅して、やがてフィルムそのもののイメージになる。これは、映画の構造を意識的に捉えて、時間とイメージを抽象的に構築しようとする表現様式で、かわなかさんのその後の映像表現の基本となる一つの側面といえよう。もう一つ、同じ時期の作品『PLAYBACK』(1973)は、映画の発明者として有名なリュミエールの『列車の到着』の列車がホームに入ってくるところの断片を使って、列車が来たり戻ったり、乗客が乗ってまた戻って乗ってというように、元のフィルムを再撮して動きを前後させ、更にそれにリズムを付けて、イメージにダンスさせる、といった作品になっている。これは、元のフィルムが抱え込んだ時間に、再撮という手続きを取ることで、時間を物のように扱って皺を寄せることで、時間をイメージの前面に引き出しているわけである。既に撮影された写真やフィルムが持っている時間を、別の作品に引き出すというイメージ表現の様式で、これもかわなかさんの映像表現の基本となる側面といえよう。

 かわなかさんは現在2005年までに70作品を越える多くの作品を作っているが、この時間に対する二つの方法を軸にして作品制作を展開しているように思える。かわなかさんは1973年に、東京から奥さんの実家のある釧路まで車窓風景を撮った『北帰行』という作品を作るが、その時から、映画の構造のみに目を向ける「実験映画」から、自分が生きている現実の時間と空間に、表現の源泉を求める「個人映画」の方にも足を踏み入れて、映画の時間の構造を意識しながら、自分の生活や人生を語る作品を多く作るようになって行く。

 『タイム』(1971)や『KIRI』(1972)で事物や自然の時間をストレートに捉えようと試みて来た萩原朔美さんと、1979年に『映像書簡』を共作してから、この『映像書簡』の作品シリーズは2005年で10作品を数える。『映像書簡』と言う作品は、一方が撮影して編集したフィルムを、「映像」として相手に送り、受け取った方はその映像を自分の映像の中に何らかの手法で取り入れたフィルムに作り、それをまた返事として送り返すという仕方で、映像の入れ子が遣り取りするに従って増殖していく作品なのだ。かわなかさんが最初の映像を撮影しているが、街中のアパートの一室の窓から見える空、窓から見える植え込みの植物や壁や遠くの風景が撮影されている。そのフィルムを受け取った萩原朔美さんはこの映像を暗い室内でモニターに再生して、ダブルイメージで、これを窓辺に置かれたモニターとして小さく撮影して、返事としている。次の段階では、かわなかさんは、萩原さんから送られて来た映像を赤い枠の中にマスキング撮影して嵌め込み、その枠の外側に最初の風景を撮影するといったように展開して行く。4回の往復で、風景ばかりでなく、パターンのような映像や女性の裸体の映像や過去の作品などが使われる。現実の情景のイメージから始まって、互いの映像を取り込むことによって現実から遊離してイメージになり、最後また現実のイメージで終わるという作品になっている。

 この作品を時間と空間の問題として考えると、現実の情景を撮影した時点では、イメージはその現実の時間と空間だけを抱え込んでいるが、相手の映像に取り込まれた時には二つの時間と空間がイメージの中に実現されることになる。このことは、実はどちらも現実の時間と空間ではなくなり、唯一スクリーン上の空間と映写されるフィルムの時間だけになってしまうということである。一般に、物語が展開する映画では、上映されたとき、物語の時間と映写の時間が同時に進行して、観客の意識の中では映写の現実の時間は映写会場が闇の中に消えると同時に物語の時間に吸収されてしまう。と同時に、「映写されているイメージ」というものも、物語の世界にのめり込んだ観客の対象意識から消えてしまう。『映像書簡』の場合は、それとは全く反対に「映写されているイメージ」そのものが観客に対して突出して、映像自体がテンションの高いものになる。もちろん、観客はそのイメージを拒否していいが、そのイメージを受け入れれば、その現実の時間とイメージを作者と共に生きることになるのだ。つまり、二人の人間の現実の友情関係とその作者たちの作ったイメージと時間を、その場で共に生きることになる。

 ところで、一つの作品という場で、それぞれが作るイメージを交換するということには微妙なところがある。「親しくしていた従兄の告別式に行ってきた」というかわなかさんの字幕で始まる『映像書簡4』(1982)は、従兄のアルバム、彼が持っていた裕次郎のブロマイドから、古い喫茶店のマッチのラベルへと受け継がれるが、はやばやと「撮るものがなくなって云々」の字幕が出てくる。そして、かわなかさんの若い頃の記憶に残っている病棟の窓から手を振っていた少女の存在へと展開して、蔦の家の前に少女を登場させるということになる。もちろん記憶の少女ではなく、役者として登場した少女だ。こうなると映像のテンションは否応なしに落ちてくる。「撮るものがない」からストーリー映画に移行しかける。しかし、かわなかさんはその移行の誘惑をすぱっと切って、自分の撮るべきイメージを探しに、撮影には向いてない夜の街に出掛けて行き、そこで「時間には大きな時間と小さな時間があることに気が付いた」という字幕に書かれた言葉に到達する。そして、光量のない夜の街の中で一齣一齣をバルブで撮影し始めるのだ。バルブでの撮影はシャッターを数秒以上ひらたままにするから、動く物はフィルム上に線となって感光する。走っている自動車をバルブで齣撮りして、映写するとヘッドライトやテールランプが鮮やかな線になる。一齣の中に現実の時間を圧縮するから、映画としては濃縮された時間が再現されることになる。かわなかさんが言っている「小さな時間」がイメージとして見えるものなる。

 そして、「大きな時間」と「小さな時間」を包含した作品として『B』(1983)と『Bふたたび』(1984 図2)が作られることになる。 「B」はバルブのBだ。『B』は8分ほどの短い作品で、かわなかさんが見つけた「大きな時間」と「小さな時間」のイメージのあり方を示したにしか過ぎないものだ。作品の前半は、上野公園の西郷さんの銅像や赤門や二重橋などの古い絵はがき写真に、それぞれの現在の情景を重ねただけであり、後半は部屋の中で事物や若い女性がバルブ撮影され、また夜の街の光をバルブ撮影しただけである。しかし、時間のイメージとしての捉え方ははっきりしてる。古い絵はがき写真と現在の情景を重ねるということは、明らかに時間が経つと風景は変わってしまうことを語ることになる。つまり、イメージの通時的な意味合いを語り出すということであり、バルブ撮影で撮影者の身近な情景を捉えるということは、撮影時に流れていた時間をイメージとして語ることで、それはイメージの共時的な意味合いを語り出すということになる。『Bふたたび』では、語られる内容は、香港の街とそこで出会った人々とか、自分の過去の記憶とか、よく行く場所とか、女性への憧れの気持ちとか、作者の個人的な体験や記憶や生活が、古い家族写真や映像など使って、多重露光とバルブ撮影の技法によって、通事的な「大きな時間」と、共時的な「小さな時間」という位相で語り出し、独特のノスタルジーを漂わせた作品になっている。

 かわなかさんは1987年に『私小説』という作品を作るが、この『私小説』もシリーズとして1992年までに6作品を制作する。『私小説』は、また『B』とは違った技法が使われている。かわなかさんは8ミリカメラやDVカメラを常に持っていて、目にとまったものを撮影する人だ。『私小説』は、そうして撮り溜めた映像を再撮影することによって出来ている作品である。その再撮するとき、映像の流れを少しずらして再撮すると、そこに写っているものの現実感が強くなる。そこに時間の皺が出来ているからだと云えよう。これは、初期の『PLAYBACK』で見つけた手法に通じるやり方で、それを使うことで『私小説』では日常の記憶にも留まらないような小さな出会いを、生命を吹き込んだイメージすることに成功させていると云える。

 かわなかさんの映像表現は、映像が時間を持つという構造を手法として生かすことによって、彼が出会った事物や人物たちをイメージとして彼がいう「大きな時間」と「小さな時間」の重なったところに置いて,叙情的な世界を作っているのである。

 

 5 わたしの映像表現

 わたしが自分の映像表現ということをはっきりと意識したのは、1975年に『日没の印象』(図3)を作ったときだった。当時わたしはNHKに勤めていて16ミリフィルムのカメラマンとして番組製作に携わっていたが、同時に個人的には詩を書いていて、社会的に詩を書く人間として認められるようになっていた。そして、映像でも詩を書くのと同じように個人的に表現がしたいと思うようになっていた。当時、アメリカの実験映画・個人映画の制作・上映活動の中心的な人物の一人であり、リトアニアから米国に亡命して、映像で表現活動を行っていたジョナス・メカスの作品『リトアニアへの旅の追憶』が東京で公開されたのを見て、彼の「映画はハートビートだ」という映像に対する考え方に強く影響された。 『日没の印象』は、その自分の映像に対する思いと、1930年代に作られた古いコダック製のカメラとの出会いを切っ掛けに作られ、自分の日常生活の中で映像表現の実現の可能性を見つけた作品なのだった。作品の中で、古い革張りのカメラを手に入れた喜び、生まれて数ヶ月の子どもと妻を撮る喜び、そして詩を書くように映像作品が作れるようになった喜びを語った。この最初の作品で、わたしは映画をシステムに依らずに個人の日常生活の中で制作するということを、方法として自覚した。映像は自分の日常生活を対象にして、ナレーションは自分で自分の考えを語るというわたしの映像表現の基本は、マスメディアとは違った映像表現の領域を拓き、そこで個人と個人との触れ合いによって、互いに生きていることを共有していこうという考え方の実践と云える。

 これまでに50作品余りを制作したが、日常の中に流れる時間と、自分自身、人々、情景、自然などがその時間の流れを担って存在しているという観点から、時間の流れに重点を置くか、それぞれのモチーフに重点を置くかで、それぞれ違った作品が成立していると云えよう。それを大まかに分けると、

 [1]. エッセイを書くように個人的な考えを映像で展開する作品

 [2]. 日記を書くように撮る作品

 [3]. 親しい友人、関心のある人を撮る作品

ということになる。

 『日没の印象』は、印象的な日没を団地の窓から撮り、これで映像表現が出来るという決意を語り、最後に窓辺に置いたカメラ「CINEKODAK-K」で終わる。窓からの眺めは切り取った風景である。この日常的な窓からの眺めと、カメラマンとして各地で取材対象を見るときの眺め、いわば旅先での眺めとの間に、同じ自分にとって違いがあるのか、また、そもそも眺めとはどういう意味を持つものなのか、ということを問うような形で作った作品が『景色を過ぎて』(1976)である。仕事の合間に撮ったり、家族で旅行したとき撮ったりした、北海道から沖縄までの風景に加えて、ナレーションで風景についての考察を語るという作品になっている。旅行して目先が変わると楽しい。この「眺め」ということについては、後に宗教学者の中沢新一さんがチベットでの宗教体験を語る作品『眺め斜め』(1983)で、中沢さんの考えを受けて、眺めるということは、自己再生の働きを持つことだと理解されるに到る。この「眺め」と「事物」との関係の様々な局面については、『オブリク振り』(1988)、『隠喩の手』(1990)、『時には眼を止めて』(1994)などで考え語り出していくことになる。

 カメラを手元に置いて日常的に撮影するということは、その日その日を撮影するということで、それは映像で「日記」を綴るという考えに発展していった。しかし、日記的に撮影すると決めて、それを持続すると、いろいろな問題が出てきた。先ず、撮影するにはその対象に向かってシャッターを切る動機が必要だ。当時、わたしは日の出前の早朝に起床して出勤するまでの間に、原稿を書くという個人的な仕事をしていたので、毎朝、窓から日の出を見ていて、これを撮影するのは感動的で、一つの喜びだった。 日の出は毎日違うから毎朝撮影することが出来た。しかし、他のものになると、日常生活は同じものに囲まれての繰り返しであって、そこで同じものを2回、3回と撮影するための動機は直ぐに失われて撮れなくなる。従って、その動機を自分で作らなければならない。それは、自分に日常性を問いかけるということになる。そうして、ある期間、出勤する途中の風景を撮影することを思い付いてやってみると、駅まで行く道の風景を撮るときの自分の場所が決まってことに気が付いた。人が同じものを見るとき同じに見えるのは、その人の見方が決まっているからだと考えた。日記的な撮影は自分の固定した感受性やものの考え方をまざまざと見せつけるものとなった。そして、わたしはもっと違った生き方を求めて、とうとう勤めていたNHKを退職する決意をするに到ったのだ。その決意に到る日常を日記的に撮影して、自分の心境の変化を語った作品が、200分に及ぶ長編作の『草の影を刈る』(1977 図4)である。

 日記的作品は更に進んで、毎日自分の日記的な内容を15日間に渡って、カメラに向かって語る『15日間』(1980 図5)へと展開する。この作品は、その前に自分の姿の実体を掴もうと、他人に自分の姿を撮影して貰った作品『写さない夜』(1978)を制作するが、演技する自分がいるにしか過ぎないと思えたので、自分自身で自分を撮影することにした作品だ。 実際撮影してみると、凄いプレッシャーを感じて、撮影された自分の姿は自分とは思えない人間だった。この経験から、人間の人に対するときの表情の持ち方と、映画というものが撮影時の時間の流れと上映時の時間の流れの間の決定的なズレの上に成立していることを、身を以て体感的に捉えることができた。そして更に、わたしの日記映画は、自宅の窓から見た天空の変化を、およそ2分おきに365日間昼夜撮影し続けて、1年間を7時間半に記録した『風の積分』(1989 図6)に到る。考え方としては、人間の文化は自然との付き合いの上に成立しているわけであるから、その付き合い方の一つとして、このような「映像作品」が存在してもいいのではないかということだ。

 ありきたりな言い方だが、人の人生は人との出会いということが出来よう。その出会いの時点で親しくなった人の姿を映像に留めておくと、時間の経過の果てにその人自身の変化とわたしとの関係の変化も見えるものになるのではないか思い、その時点で友情を感じた人を、その時点での姿として捉えておこうと考えたのだった。彫刻家の飯田国善さんの彫刻作品と、自作の詩を朗読するところを撮影して、『Landscape of Wind』(1979)という作品にした。『肉声のことー詩人正津勉』(1980)では、詩人正津勉さんに生い立ちを語って貰い、早口で自作の詩を朗読する姿を撮影した。伊藤比呂美さんは詩人としてデビューしたばかりの頃、自分の毛を抜き始めると夢中になってしまうというので、そのことを語って貰った。その語りが生命感の深淵を暗示するところとなった。それが『比呂美−毛を抜く話』(1981)という作品だ。小説家のねじめ正一さんが詩人としてスタートを切った頃の、素っ裸で朗読するという大胆な朗読シーンをちょっと物語風に作ってみたのが『荒れ切れ』(1984)だ。また、詩人・福間健二さんが雑誌を作り、料理をして、ヨガの体操をする姿を撮影して『戸内のコア』(1991)という作品に纏めた。『内面のお話』(1999)と『物語以前』(2000)は、映像演劇学科の4年生のスクリーンプロセスを使った演習で撮影した映像を、出会いによって展開するわたし自身の考えを語るために実質的なイメージとして編集したものである。特に、『内面のお話』では学生の一人だった山本遊子さんが父親の死に触れるシーンがあって、それが作品のコアになったということが印象的だった。『極私的にEBIZUKA』(2001 図7)と『山北作業所』(2002)は、彫刻家の海老塚耕一さんの作品をわたしが尋ね歩くという仕方で紹介するのと、海老塚さんが芸術観を語るという作品で、制作者として内的な障害を乗り越えていくところに、芸術家としての生命が発現して、その障害と重なる社会的なバリヤーを押して後退させるところに作品の存在の意義があるという考え方が語られている。 これら出会いから生まれてくる作品には、相手がわたしだということで現れる姿があると思える。

 表現について、最近では表現の現前性ということを考えるようになった。一般に表現というと形を持った作品を指すことになる。詩であれば文字で書かれ活字になったもの、映像であればスクリーンに上映されるかディスプレイに表示されたもの、それらを作品として、そこに表現があると考えられている。わたしもそう考えてきた。ところで、表現を人間の行いの一つとして考え直したとき、表現は極めて濃密に集中して意識を働かせる行いと言える。作品はその行いの結果だ。その結果を形のあるものにして他人に手渡すわけである。表現するということが行いだとすると、作品が出来たとき、もう行いということは終わって無くなっている。その表現が進行中のところを、表現の現前というように捉えると、実は表現というのはその行いにあるのではないかと考えた。  こう考えると、映像の表現はカメラを持って対象に向かい、その後フィルムを手にしたり、モニターに向かったりして編集しているときに実現されているということになる。映像の表現行為の実質は制作現場にあるということになる。最近、「メイクもの」と称してメジャー映画の制作現場を撮影したものが、別の作品として売られている。また、著名な芸術家の制作現場について、文章で書かれたり、そのドキュメンタリーがテレビで放映されたりしている。それは、表現者の制作現場に表現の実質があり、受け止める者はそこに触れることを求めるからではないだろうか。  実は、わたしは映像を撮らない日はないといえる。画家が描かない日がないのと同じように、音楽家が音楽を奏でない日がないと同じように、わたしは撮影をする。そうして撮影した映像を編集して作品とするのだ。「個人映画」はこうした表現の現前の記録だとも言える。自分の日常生活で、それを越えた芸術的な視点から得たイメージを、意味のあるものにするというのが、個人の映像作家が行う創作だと思う。芸術的な視点で日常の意味を探るということによって、感性を養い、考え方を変化させ、作品を抜け殻にして文字通り脱皮し、変身し続けることが出来る。わたしは、2005年に70歳になり、『極私的に遂に古稀』(2005 図8)というタイトルの作品を作った。わたしは足腰が弱って,一時は歩くのも困難な状態だったが、映像演劇学科の身近な学生たちの演技に打ち込む姿に鼓舞され、連日体操を続けて足腰を鍛えた。この作品は、わたし自身のその姿を描いたものになった。「イメージフォーラム・フェスティバル2005」で公開したとき、わたしがおぼつかない恰好で真剣に体操する姿に客席から笑いが起こった。「個人映画」で笑いが取れるなど思いもしなかった。わたしの表現の現前がスクリーン上に再現していたのだ。わたしは、このことによって、自分が長い間続けて来た映像表現が、人々の中に波紋となって広がって行くのを見ることができたと思った。

 

 6 結語

 「個人映画」は今のところマスメディアには乗らない。つまり、商業主義的なベースから外れているので、映像というものを正面に据えて、作者が思いのままに表現を実現できる。その思いのままに作られた結果、受け手から理解されないことが起こると、人はよく独りよがりとか自慰的だとかと言って非難する。しかし、独りよがりでも、自慰的でも、そこで「人間が表現している」ことは確かなのだ。わたしは人間の表現ということを原点に置いて考える。人間が言葉を持つ生物である限り、コミュニケーションのあり方の変化は個と個の関係のあり方を変えて行くに違いない。大切なのは、自分の表現を何処まで思いのままにやり切れるか、ということだと考える。「個人映画」の映像表現は、その個人の思いのままを進むものなのだ。

 

 

 参考文献

 浅沼圭司、松本俊夫他編集・執筆『新映画事典』美術出版社1980年刊

 かわなかのぶひろ著『映画・日常の実験』フィルムアート社1975年刊

 鈴木志郎康著『映画の弁証』フィルムアート社1982年刊

 西嶋憲生編『映像表現のオルタナティヴ 一九六〇代の逸脱と創造』森話社2005年刊

 

この論文は、「多摩美術大学研究紀要」第20号2005年の掲載されたものです。