詩集『攻勢の姿勢1958-1971』の反響



  • 野村尚志さんの感想。(2009年9月11日)
     「攻勢の姿勢1958−1971」を読了しました。
     なんと言っても初期詩篇が読めたことが喜びです。
     モダニズムのうっすらとした影響を恐らく受けられていて、それはタイトルのつけ方や言葉を物のように配置するところからそう思ったのですが、しかしモダニズムの持つ二枚目性に収まれない三枚目性があると思いました。明るいところ、書くのを楽しんでいるところ、そういう詩を敢えて捨てて編まれたのが「新生都市」だったのか、という風に考えました。ここを読むことが出来たことが大きな収穫でした。そして「新生都市」の詩を推し進めることで、表現者鈴木志郎康は確立されて行ったのですね。
     「逆転する処女」「月」からプアプアには全共闘の時代を、その後、激しさを増す「家庭教訓劇」や「完全無欠新聞」には、連合赤軍へと至る時代と呼応していると読めるのかな、と思っていましたが、意外にも過激さよりもユーモラスな側面(三枚目性)が際立って読めるのでした。「家庭教訓劇」は当時の本を持っていますので、あの装丁、写真などとの相乗作用で、過激なものと思って読んでいたのかもしれませんが、この書肆山田版で読むと、純粋に言葉だけが読めるので、ユーモアが際立って読めました。実際、何回となく笑いました。
     もう一度、初期詩篇を読み直してみたいと思います。
     第一詩集の取捨選択が違っていたら、また違う詩人生を送られたかもしれませんね。
     「家庭教訓劇」「完全無欠新聞」には何か使命感、悲壮な使命感も伝わって来ました。

    とりとめありませんが。


  • 「『毎日新聞』9月8日夕刊」の記事。
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    初期詩集成『攻勢の姿勢』刊行した鈴木志郎康さん
     ◇「プアプア詩」誕生の過程、明らかに??「表現で反体制闘争に協調」
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    http://mainichi.jp/enta/art/news/20090908dde018040038000c.html

  • 「[本]のメルマガ vol.365」の記事。
    「2009.09.07 Monday」
    「声のはじまり/忘れっぽい天使」
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    手足のついた言葉
    ム鈴木志郎康詩集『攻勢の姿勢 1958〜1971』
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    http://back.honmaga.net/?eid=887240

  • Blog「みみのまばたき」の記事。
    「2009-09-06」
    「[和書][現代美術]8/9月の蝶番:京都でみた宮永亮『ウォンジナ』,遡って前橋での鈴木志郎康さん講演,『攻勢の姿勢ム1958-1971』,「ことばになる」こと 」
    http://d.hatena.ne.jp/nomrakenta/20090906

  • Blog「羊的生活」の記事 続き。
    「2009年9月4日 (金)
    「『攻勢の姿勢1958-1971』を読み終わる」
    http://sheepweed.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/1958-1971-fc51.html

  • 「f451日記」の記事 続き。
    「2009年08月31日
    鈴木志郎康『攻勢の姿勢 1958-1971』を読んでいる その3」
    http://blog.livedoor.jp/f4511/archives/51884356.html?1251729725

  • Blog「羊的生活」の記事。
    「2009年8月28日 (金) 鈴木志郎康『攻勢の姿勢1958-1971』を334頁まで読む」
    http://sheepweed.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/1958-1971334-da.html

  • 「f451日記」の記事 続き。
    「2009年08月28日
    鈴木志郎康『攻勢の姿勢 1958-1971』を読んでいる その2」
    http://blog.livedoor.jp/f4511/archives/2009-08.html#20090828

  • 「現代詩手帖」9月号の「詩書月評」で『攻勢の姿勢1958-1971』が取り上げられる。

     8月27日に「現代詩手帖」9月号が送られてきました。袋に二冊入っていたので、おやっと思ったら、「復刻・現代詩手帖7 一九八二年十一月号」の「討論・詩はこれでいいのか」に、当時、わたしが出席していたから、掲載誌として二冊送られてきたというわけだったのです。わたしは、早速、「詩書月評」を開いて見ました。23日の前橋文学館のわたしの講演会に来てくれた田中庸介さんが『攻勢の姿勢1958-1971』について書きましたよと言っていたからです。田中さん、ありがとう。
     「詩書月評」には12冊の詩書が取り上げられていて、『攻勢の姿勢1958-1971』は2番目に扱われていました。

       「 鈴木志郎康『攻勢の姿勢−1958-1971』(書樺山田)六〇年代に一世を風靡したいわゆる「プアプア詩」を中心にした、大部のアソソロジーである。

    ムッ
    ムッ、ムッ
    親父のことです、すみません
    滞糞だ!
    日本国民です。
    第十条日本国民たる要件は
    アキハバラ!(註)
    総武線!
    生まれてこの方総武線
    乗って育った
    国鉄電車
    国電総武線は走っている
    私は今朝も食欲だ
    私は今朝も総武線だ
    アキハバラだ
    食欲だ
    ムッ
    ムッ、ムッ
    (「我が家憲法泪の裏面ムッムッムッ美談史」冒頭、『家庭教訓劇怨恨猥雑篇』所収)

     「ムッ、ムッ」というのは便所でいきむ声かもしれない。出勤へとあせる気持ちを「ムッ、ムッ」と言ってこらえている。鈴木さんは『極私的現代詩入門』(思潮社)にはじまる「極私的ラディカリズム」の詩論に拠って、デカルト的認識論から鋭い詩論の緯糸経糸を繰り出してくる現代詩の大変なメンターで、その論理には深く影響をうけたものだが、それでも鈴木さんの作品が頭でっかちにならないのは、「ムッ、ムッ」や「プアプア」や「クイクイクイ、イイイ」や「グソゾエゴーロ/デルゴーロ」のような声の力が、詩のあせりをくいとめているからかもしれない。」

       と書いてあった。頭でっかちになってない詩だということを認めてくれたようです。その根拠としてナンセンスな音声を多用するところを挙げていますが、何故そうなのかというところまで語って欲しかったですね。

  • 「2009/08/23付 西日本新聞朝刊」
    「攻勢の姿勢」 ひらめきは積み重ねから 島尾 伸三
    http://www.nishinippon.co.jp/nnp/book/column/20090823/20090823_0002.shtml"

  • 「f451日記」の記事。
    「2009年08月19日
    鈴木志郎康『攻勢の姿勢 1958-1971』を読んでいる」
    http://blog.livedoor.jp/f4511/archives/2009-08.html#20090819

  • [mixi]エド・今井さんの日記から許可を得て転載しました。
    『攻勢の姿勢』を読んで
    2009年08月14日08:42

    『攻勢の姿勢1958-1971』(書肆山田・2009)を読んで
    今井義行

    鈴木志郎康さんの初期詩篇を集成した『攻勢の姿勢1958-1971』を読み終わったばかりだ。攻「勢」の姿「勢」なので、まさに勢いに巻き込まれて、600頁を超える大部でありながら昨日一日で読んでしまった。勢いで読了したので、細かいところを引用したり、解析したりというようなことはできない。むしろ、この書物は「罐製同棲又は陥穽への逃走」への作者による私的分析を含みながらも、ひたすら「ただ感じよ」と指標を示しているように感じられたのだった。

    未刊行詩篇多数を収録した「攻勢のスクリーン1958-1964」のパートで示される「スクリーン」という言葉。また「罐製同棲又は陥穽への逃走」への作者による私的分析のなかでたびたび示される「言語映像」という言葉。作者は一瞬の映像を表すために、できるかぎりの言葉を用いているという気がした。それは激しく映像が移り変わっていくために、解釈する時間を読者に与えない。ただ言葉と言葉の組み合わせによる事件の連続のみを示していくかのようだ。

    わたしは、一般論としてだが、現代の「現代詩」にうんざりしているが、それは現代詩というものが先達からの影響を受け(それ自体悪いことではないが)学び(これはあんまり良くないことだと思う。オリジナルを超えることはまずないから)を繰り返してしまったために、現代詩は、見慣れたものの瓦礫の山のようになってしまったのだ、と思った。なぜなら、鈴木志郎康さんの、未刊行詩篇多数を収録した「攻勢のスクリーン1958-1964」のパートは、自分で自分を詰問したりせず、抜群に瑞々しく、まさに勢いがあり、言葉の事件として美しいのだった。このパートを読めてよかったと思う。


    つまり、鈴木志郎康さんの詩に限らず、「現代詩」殊に60年代を中心に書かれた詩篇、は、その難解さも特徴的だが、抜群に、「おもしろかった!!」のだ。

    未刊行詩篇以降の詩集収録作品の多くは、『現代詩文庫』(思潮社)で読んではいた。今回あらためて読み直してみて、本当によく覚えていたのは「グングンちゃん!」と「タイガー処女キイ子ちゃん」というふたりのキャラクターである。「おお、また会えたね」とわたしは嬉しく再会をした、という感触。「プアプア」は徹底して言語画像なのだが、「グングンちゃん!」と「タイガー処女キイ子ちゃん」は「気持ち」を持っているのだった。

    発表時期とシンクロするかどうか判らないが、赤塚漫画のやたら発砲する警官「めんたまつながり」のように、読んでいると、キャラクターの感情の流れのようなものが伝わってくる。そこが好きだ。「プアプア」の出てくる詩と、先述したキャラクターの出てくる詩の書かれ方の大きな違いは、作者の詩を書く手が「読者」を意識しているかどうかだと思った。「プアプア詩」は面白いが、読者には優しくない。そのようなことがあって、「作者による私的分析」が書かれたのだろう、と想像する。

    また、強く感じたことは、「詩は言葉の処女膜を破ること」というような記述があったように思うが、官能的な言語として「男性器」「女性器」が多用されており、発表当時、スキャンダラスに取り扱われたと言うが、いま読むと「男性器」「女性器」ということは、官能を表さない。いまは、人間は、「男性器」や「女性器」のような「粘膜質のもの=なまもの」から去りつつあるのではないか。

    だから、21世紀になってさえ、「官能的陰部」として、「男性器」「女性器」を平易に用いる詩人は、詩人ではないとさえ、わたしは思う。それは、言語を切り拓くべきところの、「詩人」としては、後退もいいところだ。そして、このことは、「詩」の分野に限ったことではない。

    駆け足で、『攻勢の姿勢1958-1971』を一読したあとの概感を速度を出して、書いてみた。誤読も誤解も含まれているかもしれないが、速度がついて一日で読めたものには、速度をつけて作者に感想を返す。それが、わたしの「読者としての姿勢」である。