鼎談 <現代詩>をもみほぐす 第1回

そしてもっと詩を楽しむ

鈴木志郎康 辻和人 今井義行 

2012年9月24 日 第1回
鼎談 <現代詩>をもみほぐす
そしてもっと詩を楽しむ
詩を書く人は多い。
しかし、現代詩は話題にされることが少なく、世間での存在感は薄い。
詩はどこで必要とされているのか。そして詩をもっと楽しむにはどうしたらいいのか。
詩人鈴木志郎康、辻和人、今井義行の3人で、3回に渡り話し合った。
長い討議になりますが、どうぞお付き合い下さい。

鈴木志郎康
プロフィール
詩人/映像作家 1935年生まれ。東京都江東区亀戸出身。早稲田大学第一文学部仏文専修卒業。詩集『罐製同棲又は陥穿への逃走』『見えない隣人』『少女達の野』『声の生地』など24冊。評論集『結局、極私的ラディカリズムなんだ』他11冊。映像作品『日没の印象』『15日間』など多数の作品がある。


辻和人
プロフィール
詩人/ジャズミュージシャン。
1964年生まれ。神奈川県出身。東京都立大学(現・首都大学東京)人文学部卒業。詩集に『クールミント・アニマ』『Ver.?の囁き』『息の真似事』(以上、書肆山田)、『真空行動』(七月堂)がある。
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今井義行
プロフィール
詩人
1963年生まれ。神奈川県出身。中央大学法学部卒業。詩集に『SWAN ROAD』(書肆山田)、『永遠』(ふらんす堂)、『私鉄』『ほたるの光』『オーロラ抄』『ライフ』『時刻(とき)の、いのり』(以上、思潮社)がある。

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日時:2012年8月26日 14:00?18:00
場所:渋谷 TKPビル貸会議室
テキスト:今井義行

S ■ 鈴木志郎康  T ■ 辻和人  I ■ 今井義行


T ■ それでは、これから、鈴木志郎康さんと今井義行さんと辻和人による鼎談「現代詩をもみほぐす」を始めたいと思います。  わたしがこの鼎談の呼びかけ人なので、何故この企画をやろうと思ったか、経緯を説明しますね。わたしは2011年の秋に『真空行動』(七月堂)という詩集を出したのですが、それは、ただただ自分の身の回りのことを見つめた詩集で、ブログ日記のような、およそ詩とはかけ離れた散文的な文体で書きました。特に後半は、家の近くの野良猫との関わりをテーマにしていて、ほとんど「野良猫かまい日記」そのものです。そうしたものを詩として書こうと思った背景には、現代詩特有の持って回った言い回し、表現法に対する拒否感がありました。詩は本来書く人と読む人がもっと素直に触れ合えるはずのものではないのか、現代詩は作品としての体裁を重視する余り個対個の触れ合いを軽視しているのではないか、そんなことを思っていたわけです。  その後に、今井義行さんが、『時刻(とき)の、いのり』(思潮社)という詩集を出されました。今井さんは長い間、鬱病に苦しんでいて、その様子を赤裸々に描いた詩をミクシィにアップされていました。詩は毎日発表されていて、自分に対するこだわり、誰かに自分のことをわかってもらいたいという熱意に、心打たれずにはいられませんでした。『時刻(とき)の、いのり』はそれらの詩をまとめたものですが、自分の詩と通底するものを強く感じたんですね。  わたしと今井さんは若い頃、共に東急BEゼミの現代詩講座を受講していたのですが、そのときの講師であった鈴木志郎康さんが同じく2011年の末に『結局、私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)という評論集を出されました。この本は、自分に即して表現するとはどういうことか、ということがテーマになっています。個人に徹して表現することについての道筋が様々な切り口で丁寧に描かれていて、共感するところが多く、夢中になって読みました。わたしが詩の現状に対して抱いていた疑問や不満に、まさに的確に答えてくれている感じがしたんです。
 それで、こんな偶然はないだろう、この三人で話し合いを持てばどんなに面白いだろう、そう思い、声をかけさせて頂いた次第です。
 まずは、今井義行さん、鈴木志郎康さんに、近況やざっくりした詩に対するお考えをお話しいただきたいと思うのですが。

I ■ 詩集を出し終わってからも、毎日ミクシィで欠かさず詩を発表しています。「詩が仕事、アルバイトが副業」。それが、僕のスタンスです。自分にとって「詩とは何か」と考えますと、人によっては、「芸術として屹立している」ものかもしれませんが、僕がミクシィに非常に魅かれて、書き続けている理由は、「コミュニケーションの手段」だからです。自分が口で喋る言葉がなかなか人には伝わらないのに、詩では伝わる。「今井さん、そういうことを思っていたんだ」という反応を得て、詩作にのめりこんでいきました。同じ書き言葉でも、小説でも、俳句でも、短歌でも駄目で、「詩」だけがそれを成立させたのです。

S ■ 毎日、ミクシィに書くようになった動機はなんですか。

I ■ 具体的には、志郎康さんが「毎日読んでいますよ」というコメントをくださったからです。相手があることによって成立することなのです。

S ■ SNSは、相手が応えてくれるかどうかで、全然違うよね。「詩人になるんだ」ということを書いていたよね。今井さんは「詩人として死ぬ」ということが目標だと書いているじゃない。そういうことを言っている人はいない。今井さんという人の姿が見えてきて、どうなるのかなという思いで読み続けています。現実に毎日続けていって、これを詩集にすれば良いのになと思っていたら、『時刻(とき)の、いのり』(思潮社)として出版された。

I ■ あれは、読んでくれる相手ができたことによって、詩が110篇できあがったので、退職金を詩集制作に使おうと迷わず思いました。『時刻(とき)の、いのり』(思潮社)は、横組みの詩集なので、出版社側が多分ややためらったところがありまして、出版が決まるまでには時間がかかりましたね。

S ■ 僕はずっと詩集を出してきて、もう20冊あまりになるわけじゃないですか。その詩集には、覚えているものもあるけれども、忘れているものもあるんですよね。今井さんが「詩人になるために詩を書く」というのとは違うし、「自分の身近なところに素材を得て新しい詩を書いていくんだ」ということについては、ずっと考え続けてきたと思うんですよね。20冊あまりの詩集を出してきたということについては、誇りを持っているわけです。日本の詩人の中で、僕がどういう位置づけになっているかということについても気になるわけです。詩人という存在については「俺、詩人なんだ」と詩を書いていない人たちに対して言うつもりはないんですよ。雑誌などから頼まれれば引き受けて書くけど、おおむねプライベートな空間の中でやっているのね。面白いからやっている。詩を書こうという感じになると、詩として書く言葉を求めて、夢中になって、トイレに入っていても、食事をしていても、そのことが頭から離れない。ではそれは「趣味」なのかと言われたら、「趣味」とも違うんだよね。書くことが好きであって、読むのはあまり好きじゃないのね。誤解を受けるかもしれないけれど、面倒くさいんだよね。人の書いた詩って、わからないんですよ。それで僕の詩がわかられているのかというと、「読みました」と言われると嬉しいわけ。身近な他人との関係の中で、受け止められれば嬉しい。
 かつて『現代詩手帖』に詩を発表したり座談会に出たり、『詩学』で詩の時評をやったりして、パブリックな立場にいた。ここ最近になって、ひとつ変わってきたのは、「詩作意識剥離」というね、いままでのようにはいかない状況がある。書こうと思えばいくらでも書けるという感じはあるんだけど、もうちょっと面白くするにはどうしたら良いのか、というのがいまの問題で、「詩作意識剥離」から、もっと面白い詩が書けるのかなという状態にいますね。

T ■ わたしは社会人になったばかりの頃に、東急BEゼミの現代詩講座で詩を書き始めたんですね。そのときにはもう、今井さんもいらっしゃいました。志郎康さんは、詩を読むことはあまり好きではなかったと仰っていましたが、僕はかなり以前から詩集を読むことが好きだったんです。『現代詩手帖』のバックナンバーも取り寄せて、読んだりしていました。『現代詩手帖』の「作品特集」号みたいなものは、いろいろなタイプの詩がたくさん読めて楽しかったです。読むことが高じて書くに至るという具合で、1995年に第一詩集を出して以来、こつこつ詩を書き綴ってきたわけなんですが、そのうち「読む」ということに関して変化が起きてきました。「現代詩大好き少年」から始まったんですけれども、「詩らしい体裁の詩」というのが、だんだん嫌になってきてしまったんです。何でかなと漠然と思っていたんですけれども、現代詩って、今井さんがさっき「相手がいて、詩が在る」と仰ったじゃないですか。現代詩の「相手」というのは「現代詩」自身でしかなくて、現代詩が現代詩と認められるために書かれているように思えてきて、嫌になってしまったんですね。比喩の使い方とか改行の仕方のような書き方の問題から商業詩誌に取り上げられることを念頭に置いた発表の仕方まで、外側からがっちり固められたところで詩が書かれている、そこで書く人の存在が希薄になってしまっている。詩の目的が現代詩としての場所取りにあるから、詩を書く人自体の存在感が空疎化しているっていうんですかね、そういう印象がだんだん強まって、詩を読むのがつらくなってきてしまいました。詩誌を定期的に買うのもやめてしまいました。『真空行動』(七月堂)のあとがきでは、「もう詩が、詩作品としての体裁を保っていなくてもいいのではないか」と書いたのですが、詩の相手が人間じゃなくて現代詩自身だということが嫌味に思えてきた、その感覚が耐えられないくらいになってきたということですね。それを打開したいなと思って、今回、声をかけさせて頂いたみたいなところがあります。

 これからいろいろな話題を出していきたいと思っていますが、まずは、2012年の1月24日に朝日新聞の夕刊で発表された、荒川洋治さんの現代詩批判の記事から取り上げていこうと思います(この記事は、白石明彦氏が編集しています)。

●詩と制度 ──荒川洋治の考え方を検証する
T ■ 荒川洋治さんは「文字言語を選び、闘ってきた詩にとって朗読は自殺行為だ。朗読を意識したら詩の言語が甘くなる。すぐれた詩には文字の中に豊かな音楽性があり、それで十分。文字を通して音楽性を感じる力が弱まったから声で演じたくなる。文字言語を通して考え、味わう力を詩人が捨てたら詩に未来はない。朗読はやめて討論しよう」と発言されています。詩人でない、「現代詩作家」の荒川さんが言うには、いまのブームになっている詩の朗読会は「保守的な仲間づくり」だけであると。また《うわべだけの国際交流とは、日中・日韓などの詩人による討議をさす。「内なる問題には目を向けず、文化交流に走る」》と朝日新聞には記述されています。それで、詩が読まれなくなったことに関しては、「読むに値する詩は少ないから、詩を厳密に読める人が増えたら詩人は困る。しっかり読まれたら、終わりです」とさえ荒川さんは述べられています。そういう彼の厳しい現代詩批判というものを基にして話をしてみようと思います。志郎康さんは長い間、詩壇の中心で活動をされてきたわけですが、荒川洋治さんの考え方について、どう思われていますか。

S ■ 荒川さんは、「詩というものの価値」について、考えていると思うんですよね。ある種の理想を持っているのかな。だから「読むに値する詩は少ない」という発言や「朗読は自殺行為だ」という発言になったりすると思うんですけど、僕はもっと違う感じですよね。いま沢山詩が書かれていて、詩集も沢山出ているんですよね。僕のところにも頻繁に詩集が送られてくるけど、時間が無いし、目が弱っているから溜まってしまう。どうして多くの人がそんなに詩を書いているのかというと、やっぱり人って生きていて存在感がほしいわけですよね。存在感がほしいといっても、固有な存在感を欲していると思うんです。生活していて人と人との関係では充分な存在感が得られなくなって、そのために言葉を使って、みんなから注目を集めるということをやってきたと思うのね。荒川さんにとっては良いことではないのかもしれないけれど、でも僕は、その中で、「新しい詩は、こういうものだ」と提示することよりも、「自分の生きていくうえで足跡を残して生きたい」という、そういう気持ちがね、とても大切だと思うんですよ。僕は大学の講座とか、いろいろなところで、いろいろな人の詩を読んできましたが、みんなそれぞれ工夫してね、それがその人にとって大切なわけで、面白いとか面白くないとか受け止められていくという、今井さんがコミュニケーションといったけれども、そのやりとりが生き甲斐になっていくというか、そこが良いんじゃないかな。
 荒川さんのように「詩とは」というのが出てくると、パブリックな観点で荒川さんは発言していると思うんですね。

T ■ 荒川さんは、詩の文化政策について書いているような感じじゃないですか。文化政策としての詩の振興ということを大真面目に書いているような気がするんですけどね。質の高い詩の文化を残すために、詩人たちに、一定の批評家が思い描く「優れた詩」のイメージに合致する詩の実現を目指すことを求める。言わば為政者の都合に重きを置いた主張だと思うんです。管理しなければ後世に残すべき詩作品は生まれない、詩人は荒川洋治さんのような批評家による選別や淘汰を受け入れよ、と。

S ■ でも、文化政策という言い方で言えば、個々の人が詩を書いていることを生き甲斐にしているのも文化の在り方だから、そういう人が多いとすれば、そういう人をどういうふうに支援するかが現実的な文化政策で、荒川さんは、僕から言うと、きつい言い方をすると、詩を書いている人たちの現状とかけ離れた、文壇とかの出来上がったものに片寄っている。いわゆる「優れた詩」を書こうというより、個々に詩を書いている人が、「もっと読まれたい」とか「もっと広まっていく」ことを望むようになる人もいるわけ。小説は売れているのに詩は売れないと、小説家は職業として成立するのに、詩人は職業として成立しない。ということは個人の生き甲斐として書いていたところから、ちょっと違うところへね、行こうとしているわけでしょう、その考えは。その考えへ行ったところについて、荒川さんは話しているのではないかと思う。高みに行くと、「読むに値する詩を書かなければだめだ」ということになり、それは、「多くの人が読んで、売れる詩じゃなければだめだ」ということになる。例えば『文芸年鑑』を見ると、小説についてはたくさん書いてあるのに、詩については小さく触れられているに過ぎない。そういうような関係がありますよね。そういうことも考えて、荒川さんは言っているんじゃないかと思う。

T ■ 今井さんはどう思われますか。

I ■ 荒川さんの真面目さを感じます。荒川さんが激怒しているように朝日新聞の記者が編集していますが、実際は誠実に語っているような気がします。例えば「読むに値しない詩ばかり」という発言から感じるのは、荒川さんは志郎康さんが「身近なものに目を向けよう」と言っているのに対し、「社会に対して目を向けよう」という立場を取っているように思います。
 朗読に関して滅茶苦茶、非難していますけど、荒川さんは最近のイベントを実際に見たことがあるのかと、疑わしい感じがしました。想像で書いているんじゃないか。僕は、黙読で読まれることを前提とした詩を書いているので朗読会には参加しませんが、実際イベントをやっている人たちは、荒川さんが思っているより真剣にやっているんじゃないでしょうか。要するに荒川さんの若い時代とは異なっている。「詩の世界から批判がほとんど消えた。互いに傷つきたくないから論争は避け、仲間同士で支えあっている。1970年代の終わりまで、僕は何を書いても徹底的に批判された。批判こそが元気のもとだった」。そして、ツイッターなりミクシィなりで詩が書かれるようになってきて、荒川さんはそれらを詩として認知したくないのでしょうね。同人誌でも、お互いに持ち寄った作品を厳しく批評しあっていると思いますよ。結論を言えば、荒川さんは、自分の持論で押し切り、それを朝日新聞の記者が支持している、という構図が見えました。

S ■ 僕、朗読しないんですよ。朗読は恥ずかしいし、緊張するじゃない。詩の朗読に関しては、自分が面白いと思うことをプライベートに書いているわけだから、その言葉を「パフォーマンス」としてやろうとすると、どんどんどんどん、自分の言葉を解説しちゃうのね。そうすると詩が崩れちゃう。漢字を使っていると、「これは、こっちの方の漢字」って言わないといけなくなったりして。

I ■ 僕はこの前、志郎康さんから映画のDVD『戸内のコア』を借りて観たんですけど、志郎康さん自身によるナレーションが、詩の朗読のように聴こえたんですが・・・・。

S ■ あれ、詩じゃないもの。あのナレーションはどうやっているかというと、全部アドリブ。

I ■ えっ、そうなんですか。

S ■ 頭の中で映画を上映して、それに合わせてナレーションを入れている。他の映画もみんなアドリブでやっているんですよ。だから、詩とちょっと違いますね。個人的にやってるわけだから、徹底的に個人的にやっている、個人商店のようなもの。買いにきてくれる人が現れて、そういう個的な関係のところで成り立っているから、「保守的な仲間づくり」ではないのね。
 それから、荒川さんの言っているパブリックな空間ね、現代詩人会にも入ってないし、詩壇的なパーティーとかにもあまり行かないし。

T ■ ここに荒川さんの『昭和の読書』(幻戯書房)という本があります。どういう文学全集があるとか、詩がそれにどれだけ収録されていて、詩についてのシリーズ物や全集がどれだけ出ているとか、そういうことが細かく書いてあるんですよ。とてもよく調べられているし、その意味では誠実だと思います。ただ、荒川さんは、最終的に、少数の優れた詩があって、それを優れた評論家が見出し文学全集の中で長く残っていくと、それを目指すことが本来の姿であると、そのことに疑いを持っていない。この本を読んでいると、文芸書を出す出版社の編集者たちに何故そういうことをしないのかと間接的に怒っている感じがします。詩に対する、より良い中央集権のあり方を模索して焦っている。でも、詩は商業出版の中央集権的なシステムにマッチするものなのかな。お金にならない現代詩の出版の企画に編集者たちが熱心でないのは当たり前だし。
 朝日新聞の記事には「互いに傷つきたくないから論争は避け、仲間同士で支えあっている」と書いてあるんですけれども、詩のメディアを運営する人たちが、論争が商売にならなくなってきたと判断したから、反論・再反論の応酬の記事が少なくなってきただけのことじゃないでしょうか。現状を変えたいなら、例えば荒川さん自身が荒川さんの考えに反対する意見を積極的に載せて議論の土台を作るよう、詩誌の編集者に働きかけてみればいい。
 どうも荒川さんには、出版という枠の中の勝ち負けの問題で詩を捉えているフシがある。それは書き手にも読者にも関係ないし、不毛な感じがするんですよ。

S ■ さっき言ったようにね、自分が毎日詩を書いて、それを生き甲斐にしている人にとっては、どうでもいいことなんだよね。詩を書いて褒めてもらえれば嬉しいから、フェイスブックの「いいね!」というので充分なんだよ。そこで「詩とは何か」ってことになったときに、その詩というものが今の状況の中で、後世に残るのかってことが問題になるんですよ。一人の人が出す200とか300部の詩集からそれを拾えるかっていったら拾えないっていうのが荒川さんの視点なんですよ。もっとそういうところで言うと、ある意味ではジャーナリズムっていうのがあって、新聞で取り上げられるようなことになることには、詩はなかなかなっていかないのね。
 詩の賞って、一杯あるんだよね。でも、それを受賞したからといって、ジャーナリズムには乗らない。どういうことかというと、端的に言って、ジャーナリズムが取り上げるのは「事件か、事件じゃないか」ということなんだよね。詩は事件化してないのね。だから読むべき詩は、事件化する詩にならないといけない。それが無いのが、荒川さんの悩みなんじゃないかなと思う。詩というものにずっと関わってきた荒川さんとしては困っているんだよね。

T ■ 詩を事件化するのはむしろ荒川さんのような立場の人の仕事でしょう。事件が起こす詩を見つけられないのは批評家やメディア側の力不足と言うべきではないですか。なぜ自分の趣味に合った「優れた詩」の出現をのんびり待つのか。一度今までの自分の趣味や文学観をかなぐり捨てて、変わった動きを含んだ詩を自分から探しに行けばいいのにと思いますよ。

S ■ テレビ番組で「ちい散歩」っていうのがあったじゃない。街にいろんな生き方をしている人たちがいて、それは「小さな事件」なんですよね。普段の生活を事件化しているわけ。お互いにみんな生き甲斐として書いている詩があったら、生きている姿があるわけだから、批評家としては、「生きている人がここにいますよ」という風にしてやれば、柔らかい事件として、例えば僕から言わせればね、今井さんをそういう風に取り上げれば、事件になる。毎日毎日、詩を書いている人なんて、いまの日本にいないんですよ。事件として、それを取り上げる記者がいないっていうだけの話ね。辻さんの詩は小さなことを書いていて、それを話し言葉で語りかけている。そういうこと、誰も問題にしないわけじゃない。面白いお爺さんがいて、それを事件として取り上げれば、じゃあ読んでみようかなということになる。そうなっていくはずなんだけど、それができていない。

T ■ 荒川さん的には、優れたアンソロジーの編者がどうあるべきかが問題だというのでしょう。『昭和の読書』(幻戯書房)には編者の条件として「すぐれた詩をかなりの数書いた人、つまり詩人として力のある人、好き嫌いではなく公平にものを見る人、そして批評の力だけではなく判断力をもつ人」が挙げられています。誰もこれに反対する人はいないでしょう。でも、だから優れた編者を殊更敬意を払って遇していかなければならないということになると、話が違ってきます。大事なのは作品であって編者の権威ではないでしょう。面白い詩を書く若い詩人に頭を下げて原稿を読ませてもらうくらいの好奇心と謙虚さが、編者には必要なんじゃないかなあ。生き生きした好奇心を編者が持っていれば、ジャーナリズムは変わると思う。

I ■ 編集に携わっている人たちに檄を飛ばしていると考えると、荒川さんは詩の商業誌の中心にある『現代詩手帖』に対して、背を向けているように感じられるんですね。例えばある年の『現代詩年鑑』のアンケートの回答で「書くべき詩が書かれず、書きたい詩ばかりが書かれている」と書かれていました。僕は、せっかくの発言の場なので、数行で終わらせないで、その発言の意味をきちんと書けば良いのにと思いました。辻さんは「書きたいから、書くんじゃないか」と憤慨していましたね。

S ■ まあ、書きたい詩を書くというのが僕の考え方なので、書くべき詩なんて、そんな学校の先生みたいなこと言わないでよと思うね。

I ■ 書きたいことを書くのが、出発点だと思いますよ。

T ■ ある小説の文学賞の授賞式に出席する機会があった時に、選評のスピーチで、京極夏彦さんが面白いことを仰っていたんですよ。「皆さん、たくさんの投稿作品を頂きまして、ありがとうございました。みんな活き活きと書かれていて、面白く読んだんだけど、賞にするのは商業出版に耐えられる作品です。だから活き活き書いているだけでは駄目であって、他人に読まれて他人の内部にアクションを起こさせるものでないと賞には結びつきません」というようなことです。わたしは、実にもっともなことだなと思いました。京極さんは冗談めかして「だから小説家というのはつまらない職業です」とも仰っていたのですが、小説の場合、販売して商品として利益を出すための賞なわけですよ。「読者目線で書いていなければ、良い作品でも落としますよ」と彼は言っているわけで、それは応募してきた作家志望の人に対する適切な指導だと思いました。京極さん自身も、どうやったらたくさんの読者を満足させられるのかを計算し尽くして、エンターティメントとしての枠を厳しく守りつつ書いている。一作ごとに自ら制約を設けつつ、多彩で豊かな内容の作品を生み出せるところに、京極夏彦さんの大衆小説家としてのすばらしさがあると思うのですが、詩はその逆で、読まれるより書きたいことが優先されている文学だと思います。どんどん改行するとか凝った比喩を使うから詩なのではなく、市場を気にせず、書きたいことを自由な形式で書くのが詩の第一の特徴なのではないですか。書きたいように書くのが詩の生命線であって、それを放棄したら詩の一番良いところを失うことになる。

S ■ 書きたいことを書くのは当たり前。知っている人から詩集が送られてきたら読みます。
 芸術って、みんな倒錯なんだよね。でも、詩が倒錯しているか、していないかという問題はあると思う。そのある種の倒錯は、無くても良いと思っているんですよ。あのね、みんな子どもの描いた絵は素晴らしいと言うの。でも、あれは芸術ではないんだよね。表現として素晴らしいんです、子どもの絵は。詩が表現から、超えているかどうか。荒川さんの記事の文章は、甘いんだよね。これで詩が、読むべき詩になっていくとは限らない。僕は、今井さんの詩は、倒錯しかけているところまで行って、まだ行ってないと思うんですよ。今井さんの詩が倒錯するところまで行くかどうか、僕は批評はしない。毎日詩を書いていて、その量が倒錯まで行くかどうかなんだよね。逆に言えば、量が事件になるかどうか。今井さんの詩を読んで、自分もこれをやってみようという人が出てくると良いんですけどね。それは、なかなか出てこないんですよ。吉本隆明の詩は、一読しただけでは全然わからないんだけど、自分もこれをやってみようと思わせる力を持っているんだよね。そこまで行くかどうかが言葉の問題としてあるんですよね。

●「わたしは詩人ですと即答できる詩人はまずいない」!?
T ■ 荒川洋治さんは、批評の権威によって現代詩を活性化させることを考えていると思うんですが、詩人の渡邊十絲子さんは『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』(ポプラ社)という本を出していて、そこではプロフェッショナルとしての詩人についての考えを展開しているんですよね。

I ■ あれは、良い本だったね。

T ■ どう思いました?

I ■ 詩人というのは、例えば相田みつをさんとか柴田トヨさんとか、多くの人に読まれる本があるんですけど、「最大公約数的な人の心」を掴むようにできているわけだから、それは座右の銘にはなるだろうけど、現代詩ではない。詩人っていうのは「個的な言葉の技術をしっかり使える人」だと結論づけているんですよね。だから、荒川さんに通じるところがありますね。
 「あなたの仕事はなんですかと問われて、詩人と答えられる人はいるんだろうか」というとき渡邊十絲子さんは、照れが混じっているとしても、「詩人です」と言いたいんですよね。

T ■ タイトルに「兼業詩人」とあるじゃないですか。「専業詩人」ではいられなくて「兼業詩人」であるというところに屈折を感じますね。主婦やライターでもあるけれど、詩人という「業」に自分を押し込めたいと思っているんじゃないですか。この本に「わたしは詩人ですと即答できる詩人はまずいない」というような記述があって「詩人と名乗りたいのに名乗れない」ジレンマが感じられるんですよ。そのあと「詩人の感性と言うけれど、自分はそんなことは信じない」という記述が出てきます。そして「詩人の感性とは技術である」と、技術至上主義と取れる考えを展開していくんですね。そこで、詩人の技術って何だっていう疑問が湧いてくる。例えば、内容面には全然興味が持てないながらも、技術のすごさに魅かれて読んでしまう詩集ってあるのかなと思うんですね。

S ■ ありますよ。吉増剛造さんの詩集。吉増さんの最近の詩集は、もうそれ以外じゃないよね。あれは、詩集として出してるわけでしょう。言葉を生きる技術。そのことに関しては、吉増さんは、いま随一かもしれない。あんなこと、普通の生活者はやれないでしょう。やれないし、印刷する時、校正が終わらないんだよね。校正が出る度に、どんどんどんどん書き込んできちゃうから。だから、そういうことができるっていうのは技術ですよ。

T ■ でも十絲子さんは違う意味で技術という言葉を使っている。この本に「詩人活用術」っていう章があるんですね。どういうところに詩人を活用するかというと、薬の効能書きの校閲、歌詞の校閲、TVのテロップの校閲だというんです。

S ■ あー、僕は詩人だけど、僕にはそんなの無理無理。渡邊十絲子さんは誤解してるよね。そういう言葉の適切さに長けているってことなんだろうけど、適切なんて関係ないんだよ。間違って書いたら書いたで良いんだよ、詩人は。言葉の制度なんて無視してやってっちゃうのが詩人なんだから。
 制度とすりあわせて上手くやっているのは吉増さん一人だよね。谷川俊太郎さんも、結構いい線、いってたんだけどね。最近、朝日新聞に連載している谷川さんの詩を読んでいると、いわゆる技巧的に書かれているけど、そう思えないな。

T ■ 渡邊十絲子さんみたいな意味での、正しく、美しい日本語使い・・・・。

S ■ いや、そうじゃない。かつて詩人からコピーライターになっていく人が何人もいたの。それは、そういうことに長けた人もいたわけ、詩人のなかに。

T ■ そこに視線を向けちゃうと、詩の世界が狭まってしまうと思うんですよ。断っておきますが渡邊さんを批判するつもりはありませんよ。彼女はハートで詩を書ける人だし、詩のゴールが技術だとは本当は思ってないでしょう。詩人活用術のくだりも、半ばユーモアで書いているでしょうし。ただ、詩人たちが他人に作品が読まれることに対してあまりに意識が希薄なので、このままでは詩人の存在が世間に軽視されてしまうと危機感を抱いている感じはします。高度な言葉の言い回しを見せつけるのでなければ、世間で詩人だと堂々と名乗れないノ。

S ■ 教育の問題だと思うの。小学校から高校までみんなに対して、詩人に対する扱いが悪いと思う。詩人というものに対して、もっと違うやり方で扱っていくことが大切。詩は、国語の教育の中の一環としてあると思うんだけど、「詩は、国語とは違う」から、「体育」や「算数」のように「詩という科目」を設けなければならない。そこでは、言葉で、できるかぎり遊んじゃうような言葉の授業を作っていかないと。そういうことになってくれば、凄い言葉の使い手が出てくるんじゃないかな。まあ、いい加減な言い方ですけども、小学校からやってないと駄目なんたよね、野球でも何でも。芸能なんて、3歳からやってないと駄目っていうわけでしょう。そうしたら、詩人もそうなんだよ。3歳からやっていって、どうやったら言葉が面白くなるんだ、言葉を生きることを学べるわけ。優れたというのは、いやな言い方だね。じゃあ、優れていない人はどうすればいいわけ。だから荒川さんの論旨で言うと、優れたとかって何なんだ。優れていないと思ってしまったら、劣等感を持ってやめていってしまうじゃない。

T ■ あえて言えば、詩の教育は美術の教育に近いんでしょうかね。

S ■ 駄目だ、美術なんて。素描、石膏の描写なんて。

T ■ でも、実作をするし、鑑賞もするでしょう。日本の国語教育は、一義的な解釈を求めるでしょう。

S ■ そのとき作者はどんな気持だったかを問うなんて、馬鹿げている。作者は詩を書くのに夢中になっていたということ。

I ■ 「そのとき作者はどんな気持だったか」という選択式の回答を見て、ある詩人は「自分はそんな気持じゃなかった」という例があります。僕はかつて教育出版会社に勤めていて、担当は社会課でしたけど、国語課のテストの内容を見たら、これはまずいんじゃないかと思いました。選択式なんて言語道断。詩を読んで感じたことを自由筆記させれば良いんですよ。しかし、その自由筆記を読み取れる教師はいない。当然、実作も大切だと思います。

S ■ 僕もそう思うんだけど。面倒くさいなあと思っちゃうのが僕の悪いところなんですよ。詩を書かない人で、詩を大切にしたいという人が出てきてほしい。

T ■ 凄い要求ですね。

S ■ だから、いまのところから言ってね、「詩のプロ」っていう言い方が問題になるんですよ。僕から言えば、詩を書いたなら、国民全員がプロの詩人になれる。それで、詩を書いたってことを恥ずかしがらずに言えると良いと思う。福間健二さんの本を読んでいたら、外国人は初対面の人に自己紹介するとき、「わたしは詩人です」っていうことが書いてある。でも、それは世間が「詩人です」と言えば、ああ、そうなのかと認知される世界なんですよ。だから、言葉について生きている、言葉について遊ぶことができる世界があれば良いんです。 I ■ 例えば、自分のプロフィールを書くとき、みんな平気で、「詩人」って書くじゃないですか。志郎康さんだったら、「詩人・映像作家」。辻さんだったら「詩人・ミュージシャン」というように。詩人であることを割とさらっと表明するわけですよね。何で口に出すときには、「詩人」って言わないんでしょうね。

S ■ それは、時と場合によるでしょうね。場が白けて、偏見を持って見られちゃうから、みんな言わないんじゃないの。だから自己紹介するとき「詩も書いています」という言い方になるんじゃないかな。僕は、詩集もたくさん出しているし、賞も取っているから言えるけれど、そうでない人にとっても言える世の中であれば良いと思うけれども、なかなかそうはいかないよね。でも、いまこういうことが話題になっているんだから、何年か経てば広がっていくんじゃないですか。

T ■ 以前に比べると、音楽をやっているとか、絵を描いているとか、オープンになっている世の中だという気がしますけどね。

S ■ そうです。ただ詩人は「職業じゃない」んだよ。かつて確定申告で「詩人」と書いたら、職業として認められず「著述業」に書き直した経験があります。小説家は職業なのね。一日中詩で生きている人は吉増さんくらい。今井さんもいま、そうなっているよね。もう一人出てきたなと思っています。

I ■ アルバイトの面接に行って、いま何をやっていますかと書面に書くとき、詩人とは書けないですね。採用担当者は、多分引いてしまって、不合格になりますから。理想としては、「わたしは詩人で、副業としてアルバイトをしたいんです」と言いたいところですが、そんな回答する人、いないでしょう。受かってから、「詩人です」という順番になりますね。以前、行きつけの居酒屋で詩集を配布したことがあります。みんな喜んで貰ってくれました。50歳代の未婚の女性は「これは、作者にとっての子どもだよね」と言っていました。

S ■ 詩人と書いて、100件くらいあたれば、ひとつくらい引っかかるかもしれない。

T ■ でもわたしは、肩書きとしての詩人ていうのは、何だか嫌なんです。

S ■ 肩書きの問題が出てきた。

T ■ 肩書きとしての詩人と職業としての詩人は、カテゴリーが違うような気がしますね。

S ■ そうね、そこが1つあるね。現代詩人会というのがあるんだけど、あれは肩書きの集団なんだよね。地方の人がみんな現代詩人会に入りたがるの。地方の新聞社やテレビ局で、「何か肩書きはないですか」と訊かれて、「現代詩人会の会員」っていうのがあると良いんですよというわけ。

I ■ それは、本当にやりたくないことですね。

T ■ メディアの中で自分の存在を獲得したいという思いは、誰でも多かれ少なかれあるんじゃないですか。

S ■ ある、ある。

T ■ それを重視する人は、自分の振る舞い方に政治的にならざるを得ないですよ。そこにくると荒川さんの批判は多少生きてきて、「保守的な仲間づくり」みたいなところへ出ちゃうんじゃないですかね。どこどこの雑誌で書いたとか書かせてもらったとか、何とかの詩の選者をやってますとか、そういうことを語って自己アピールをせざるを得ない。依頼された原稿を一生懸命書くこと自体、何も悪いことはないんだけど、肩書きに重きを置いて仕事をしてしまうと、詩を自由に書く、言葉を遊ぶという面が失われてしまうと思うんですよ。

S ■ だから、そういう意味合いを持っている場としてね、『現代詩手帖』という雑誌があるわけですよ。自分のメディアの中の存在感を示す場として、良いわけなんですよ。投稿欄があって、投稿欄に投稿していって、そこでめざましく活躍していって、現代詩手帖賞をとるという、それはある人たちにとっては、目指すべきところになっているんじゃないですか。

I ■ いま、やっぱり若い人たちが目指しているのは、現代詩手帖賞をとって、中原中也賞を取るということだと思いますね。

S ■ それは野心の問題でね。野心と詩が結びついていくと良いけど、乖離していくとね。でも、人間だからね、野心を持ってやることは悪いことではない。

I ■ 以前、辻さんが言っていましたが、そういう場で「作者が、本当に書きたいものを書いているのか」という思いは僕にもあります。

S ■ そこはね、楽しいという気持ちと野心とは、合致するんですよ。野心を満足させるために、いろいろな言葉の形式を覚えたり、書き方の工夫をするというのは、動機が野心であっても、悪いことではない。

T ■ でも、「書きたい詩」でなく「書くべき詩」を書くべきである、となったら詩作の「傾向と対策」みたいになっちゃうんじゃないですか。選者の人たちが、「どんな詩でも受け止めてあげるよ」という態度であれば良いんですけど、中原中也賞の選者である荒川さんや高橋源一郎さんが、「書きたい詩」でなく「書くべき詩」を求めていると公言する実情の下では、「傾向と対策」は立てざるを得ない気がします。そういうものに囚われないで、書きたいものを先鋭化させる勇気が必要です。

I ■ 詩を書いていると、日々、何か面白いものはないかという視線を自然に身につけてしまうものだと思います。

S ■ そうですよ、当然。

I ■ 見つけたときには高揚するし、詩人にとっては幸せなことですよね。

●詩人と職業
T ■ 吉本隆明の『戦後詩史論』(思潮社)の前半部分では、詩人と職業について延々と書いているんですよね。彼はその中で、「不定職インテリゲンチャ」の在り方と現代詩の方向性との関連について、述べていたりします。で、改めて読んでみると、本の後半では共感できない部分が増えてきたりするのですけど、西脇順三郎さんのような教養のある詩人と行商をやりながら詩を書いていた山之口獏さんを対比させながら論が進んでいくのは面白い。この本の中では「不定職インテリゲンチャ」という言葉が多く使われています。職を転々としながらも詩を心の支えにしている人たちのことを指しているのですが、やはり彼にとっては、詩人はインテリゲンチャなんですね。吉本さんの中では、詩人というのは一般大衆と違う、知識人に属する人たちだということなのかな。

S ■ それはさ、鮎川信夫さんの『現代詩文庫』の中に入っているんだけど、「現代詩の難しさと大衆」って言っているんだよね。「大衆」っていう言い方がさ、インテリと大衆を分けてしまっているんだよね。そういう二元化がなされている。インテリという言い方がね、言葉を遊ぶというものが一般大衆の中には無かった、そういう社会状況を表していると思うんですよ。それが、日本の経済的な発展に従ってね、もういまは、普通の人もみんな詩を書くわけだしさ、書いている人がインテリとは限らないしさ、そう考えていくと『戦後詩史論』(思潮社)の中で語られた戦前のある種の階級社会に生きていた人たちには当てはまるけど、現代の人たちには当てはまらない。

T ■ この本の中では、詩人と職業の関係については、前半にのみ語られているんですよね。

S ■ もうひとつはね、政治の問題があるんですよ。改革していくというような社会についての理想を持っている人たちがインテリなんだよね。インテリが先導して、それに大衆が着いていくと思い込んでるんだよね。先鋭性というところに詩が乗ってきてね、そういう時代があった。それはそれで、そういう考え方は有効だったと思うんだけど、だんだん政治的な意識が薄れていって、人間だけの問題になって、ひとりひとりが活き活きとしたと環境になったところで、言葉が文化になっていくべきだと思うし、詩を書く人の構造が問題になってくる。
 『現代詩手帖』2010年2月号では、若い詩人たちが、「ぼくたちはなぜ詩を書くのか」という特集記事があり、鼎談しているのですが、その中で、吉本さんの「いまの若い人たちの詩は、無だ」という言葉が取り上げられており、吉本さんが「無だ」と言った、ということは、もう見えなくなったということなんだよね。
 それから、身体性の問題が出てくるんだよね。身体性の問題というのは、どういうことかというと、そこで「朗読」が入ってくるわけ。身体性があらわになってきたときに、詩が「語り」になっていくのね。暗喩を使って詩を書いていた人に対して、ねじめ正一さんや伊藤比呂美さんが出てきたときに、身体性がはっきり出てきたのね。ねじめさんの詩が、「提喩」、例えば、人物を身につけたもので呼ぶ、民芸品の名称と人物が身につけている物を同列に書いたことは決定的だったね。詩が語りになっていくと、「提喩」を多用しなければ成立しない。そして、今度はそこに「ストーリー性」が加わってくる。僕の読みが浅いのか、吉本さんは、「提喩」にも「ストーリー性」にも行ってないでしょう。

T ■ 『戦後詩史論』(思潮社)のもともとのコンセプトは、状況と詩人と職業の関わりが、作品とどう合致するかというところなんです。戦中から戦後にかけての時代とのすり合わせがすごくスリリングなんですが、最後の方になると、修辞の細部で差を出していくしかないという話になってしまう。最後は修辞のことばかりで、生活との関わりは全然書いていない。みんな豊かで均一な生活を送っていることになっちゃってるのかな。70年代以降に出てきた詩人については、修辞のテクノクラートであるというところに落ち着いてくる。

S ■ どこに言葉を生きているかという、そういう視点じゃなくなっちゃってるんだね。

T ■ テクノクラートに徹して書いている点で、吉本隆明は荒川洋治を「若い現代詩の暗喩の意味をかえた最初の、最大の詩人」として持ち上げるわけですが、生活との関連を問わない分、危うい気もします。
 ところで、さっきの「詩人と職業」ということで考えていくと、詩人から小説家になる人が出てくるわけですよね。

S ■ 詩人って、言葉を生きている人だから、言葉そのものを職業的に何とかしたいということじゃないかな。そのときに、職業として成立するのは、やっぱり小説なんだよね。芥川賞を取るとか、安定したシステムが小説にはあるじゃない。小説家になるのって大変なんだよね。300枚とか書かなきゃならないんだから。で、一年に5,6冊出さないと暮らせないでしょう。

I ■ 特に直木賞受賞作家は、たくさん書かなければ駄目でしょう。売れるわけですから。でも、芥川賞も直木賞も、賞としてのステイタスは下がってきている気がする。大江健三郎や村上龍が芥川賞を取って登場したときには輝かしいものがあったと思いますが、その後、芥川賞の選考委員は、村上春樹も吉本ばななも、発掘できなかったんですよね。これは大きいミス。

S ■ 作家になると、それなりにね、苦労してきたことが新聞記事に大きく載ったりしてね。

T ■ ある種の小説は資料集めに膨大な時間がかかったりします。

S ■ 膨大な資料を集める別の人がいてね、システム化されて、「生産する」という感じになっているんじゃないのかな。僕も小説を書くとき、追い求めるのは、言葉そのものじゃない。言葉で展開するいうやり方になって、言葉が「道具化」されていくんですよね。言葉が「道具化」されていくのが、散文。そういうところが、詩人と小説家の違いだよね。詩人は、言葉を生きちゃうんだから。渡邊十絲子さんの言い方で言えば、「言葉をひとつの道具として生産する」のが小説家。「言葉を作る」というのと「言葉を道具として使う」ことの違い。詩人は、言葉を刀鍛冶のように、道具として作っていく人。言葉を道具として使うことの方が、方法としては容易なわけじゃない。そうして詩人は、小説家になってしまって、もう詩は書かなくなるんだ。まあ、両方やってる人もいるけどね。

T ■ 富岡多恵子さんは、詩との決別宣言みたいなものまで書いていますよね。

S ■ 小池昌代さんなんて、両方やっているよね。

T ■ 小池さんは、「詩を書くことは孤独なこと」という考えを表明しているようです。

S ■ 松浦寿輝さんも、小説家になっちゃったよね。僕もね、小説、依頼されたことがあるんですよ。それで、僕も小説を書いたけれど、でも最初から引っかかっちゃった。「であった」というのを「だった」に修正するように言われたり。

I ■ それは、編集者がそのような指示をするのですか。

S ■ 編集者。ねじめさんの小説のあとがきにあるんだけど、何回も新潮社に通って、受付の人と親しくなったって。小説は、売り物だからね。

T ■ 利益を出す商品の制作としてはそれも当たり前の話だと思います。ただ、そっちの仕事が忙しくなったときに、自分に即した表現が困難になるのも当たり前だと思いますね。詩人になって、次にエッセイを書いて、あわよくば小説で認められようとする、発展型の考え方をする人っているじゃないですか。それはそれで良いかもしれないんだけど、自己表現を追求していくというところとは、関心の持ち方の違う発展の仕方だと思いますよ。詩で賞を取って、注文がきたら次はエッセイを書かせてもらって、エッセイが評判になったら次は小説も・・・・。伊藤比呂美さんもそういう発展を目指していたと思うんですけど、いま詩に戻りつつある。自分に即した表現をやりたかったんでしょう。

●駄目よ、と言われていたことを書く
女性詩人たちのインパクト

I ■ 『戦後詩史論』(思潮社)になかった視点としては、女性の立場を語る詩はどうなのかということがあります。1980年代に青木はるみさんや井坂洋子さんらの女性詩人を、詩のメディアがよく取り上げるようになります。女性の生活や性の在り方などが書かれた詩を目にする機会が多くなりました。終刊してしまいましたけれども『ラ・メール』という女性詩人の集う雑誌も出てきたということもありますね。女性の詩人の書く詩を「女性詩」という言い方でくくるのは、乱暴だし差別的な感じがして嫌ですが、女性の生活や心理を細かく描いた詩群を運動体として紹介するのは、「事件」としてはインパクトがありました。

I ■ 『ラ・メール』が出て、吉原幸子さんのまわりに女性詩人たちが集まった。それで、その後に新井豊美さんが登場して、年下の女性詩人たちを育てた。ただ、そこで『荒地』と『ラ・メール』は対立するものではないと思います。女性詩人の登場する時期が遅かっただけ。『荒地』なんて、戦争から生き残って帰還した人たちが、また再生するぞと始められたものだから、男性性が強調されてしまうのは仕方のないことだと思います。
 だけど1950年代になってから、いまでも愛読されている茨木のり子さんとか、石垣りんさんとか、その時代に遡って、女性詩は捉えられて良いと思っています。僕は、茨木さんとか石垣さんとかとても好きです。

T ■ 茨木さんや石垣さんの詩は、表現者自身の主体性や倫理性を社会に向かって発信していくという点で、女性版の『荒地』という面がなきにしもあらずと思っていますけどね。ただ、『荒地』のように観念一発で突き進むところがなくて、生活の細部を丁寧に拾い上げて書いていくのが面白い。
 それと、女性の詩人がセックスについて書くことはタブーとされていたわけでしょう、ある時期までは。志郎康さんは、80年代90年代の女性詩人たちをバックアップしていたように思うのですが。

S ■ 大きな力を感じていたね。駄目よ、と言われていたことを書く。自分たちが生きている生活の、その根元のところを書き連ねていったことが力の強さだと思ったね。

T ■ 男性社会に対するレジスタンスという側面もあって批評性もあるんだけど、「インテリゲンチャ」ではないんですね。『荒地』の人たちは、吉本隆明の口からインテリゲンチャという言葉が出たときに、それを当然のように受け取ったと思います。でも80年代に登場してきた榊原淳子さんや白石公子さんたちは、自身の性や身体のありようから絶対目を背けない。生活の深部を見つめるところから社会批評性が立ち上がってくる。衝撃でしたよ。もしかしたら、本来『荒地』の人たちがやるべきことを彼女たちが過激な形でやっちゃったのかもしれない。

S ■ 石垣りんさんの詩に「シジミ」という作品があるんですけど、その詩は「生命」を語っている。時代なんて関係ない。石垣さんの凄いところは、個別的なお母さんではなくて、「大きなお母さん」が存在するんだと表現したことだと思う。グレートマザーを掴まえてくることは『荒地』の人たちにはできないんですよね。『荒地』の詩には、戦地で死んだ人たちのことが根底にあるんだよね。死者を背負ったところから、自分たちの生死の問題としている。女性詩人は、目の前の生活の中の生命の問題を書いている。その中で身体の問題が出てくるわけじゃない。僕は、伊藤比呂美さんの映画を撮っていて、映画の中で伊藤さんに語らせる映画なんだけど、自分の毛を抜いていって、血が出るまで抜いていって、そこに快感があるというわけ。そのときに凄く高度なことを言っているんですよ。「抜く方にもなるけど、抜かれる方にもなる」。そういう根源的なところから強い詩が出てきて、生命の在り方みたいなものの空間をね、表しているのが女性たちの詩かなと思っている。もうひとつはね、青木はるみさんも有働薫さんもね、子育てが終わって、ようやく自分の時間ができた、そういう自分というものを言葉で定着させている。男性の詩人たちが「観念」が先行している詩を書いて、女性の詩人たちが「身体」を先行させていると思う。そういう観点で現代詩の全集が出れば、かなり良いものになるのでは。

I ■ 詩壇の中では、例えば吉本隆明さんの全集とか稲川方人の全集とか、できていますよね。でも、吉原幸子さんや茨木のり子さんの場合は、『現代詩手帖』別冊という形になるんですよね。

S ■ それは、商売の問題なんじゃない。全集とか出すには、やっぱりお金かかるしさ。それは、詩を愛好する人たちの広がりがまだ充分にできていないということなんじゃないかな。

●書きたくて書きたくて、手が止まりませんでした
今井義行『時刻(とき)の、いのり』(思潮社)を巡って

I ■ 会社に入ったときから、社会に違和感を感じていたんですよ。社員は会社と契約しているわけですから、人事異動や転勤に素直に従う。やりかけていた良い仕事を中断せざるを得ないこともある。そんな様子を見ていたら、誰にも口出しされない、自分だけの固有のものを欲しいと思ったんです。そして、今日からできることは、紙とペンがあればできる「詩」だと思ったんです。
 その頃、僕は渋谷に勤めていたんで、東急BEゼミの講座案内を見たら、現代詩講座があったわけなんです。「ああ、これは会社の帰りに通えるな」と思って、受講を申し込みました。その時点から詩を書くことを始めたんですね。そのときから20年以上経っていますが、詩に没入してしまって、病気で会社を退職するまで、昼休みばかりでなく、勤務時間中にも詩を書いていました。書きたくて書きたくて、手が止まりませんでした。まあ、「給料泥棒」ですよね。
 それで、自分の詩はちょっと甘いんじゃないかと、ずっと思っていたんです。それはボーナスを活用すれば詩集が出せるというような考えです。例えば、俳優を目指している人たちは、いつオーディションがあるかわからないから、定職につかないわけですよ。それでも、家族を養っている人も見て、とても驚きました。でも、生活がかかっているから、会社を辞めるということには、なかなか踏み切れませんでした。これは、不幸中の幸いというか、病気になって休職をして、休職をしている間に、鬱病で、本当に何にも身の回りのことができなくなってしまったんですが、詩だけは夢中で書けたんですね。毎日毎日。それで日付が変わるとともにミクシィに発信をしました。そこで反応があるかどうかという問題があって、志郎康さんから「毎日、楽しみに読んでいますよ」というコメントがあって、「毎日」という言葉が強く響いて、書き続けたんです。この詩集は、「1篇1篇の完成度」を問うものではなくて、「時の重なり」を問題にした詩集なんです。勢いにそって、自分が生きている証にしたかった。
 書いた詩のコピーを詩人の田野倉康一さんに読んでもらって「これは、出版する価値がありますか」と尋ねたら、「世界中を敵に回す覚悟があるなら出版する方が良いよ」と言われました。「だけど、費用の問題はあるよね」と。
 休職後。結局、退職したのですが、田野倉さんに間に立ってもらって、作者の自分と、解説を書いてもらう田野倉さんと、『現代詩手帖』の編集長の亀岡大助さんと、ブックデザイナーの中島浩さんと力を合わせて制作をしました。この詩集は横組みで、他の出版社に横組みにしてほしいと言えば、してくれるんでしょうけど、自分で想像がつく範囲の仕上がりは嫌で、自分の仕上がりのイメージから飛躍したものにしたかったんです。

S ■ この詩集の横組みについては、どういう感じでやったんですか。

I ■ 翻訳詩集には横組みはよくありますが、日本語詩集には無いので、コピーを切り貼りして、サンプルを持って行って、『現代詩手帖』の編集長の亀岡さんと打ち合わせをしました。そして詩の篇数も多いですし、デザイナーの中島さんのアイデアを貰おうということになりました。この詩集が分厚くならなかったのは、文字は小さめですが、デザイナーさんの工夫のおかげです。

S ■ 横組みを、詩じゃないっていう人がいるでしょう。だから、そこを敢えて横組みで出すっていうところが、冒険だよね。

I ■ 先ほども行ったように、翻訳詩集には横組みが多いので全然抵抗はありませんでした。原稿を受け取った編集者さんは、戸惑いを感じたかも知れませんが。これをどうやって料理したら良いかっていう問題に、多分直面したんだと思います。

S ■ これ、縦組みだったら、もの凄い分厚い詩集になっちゃうよね。横組みっていうのを詩として、どう認めるかっていうのがひとつある。雑誌でも何でも、横組みって無いんだよね。  僕は慣習に従って、縦組みで詩集を出していますが、原稿を書いているときはPCだから横組みなんだよね。

I ■ それは、日常生活の中で、横組みに慣れているんですよね。 S ■ 結構そこはね、新しいことだと思うの。縦組みの詩集を出すことが当然になってるの。だから、そこがひとつ、この詩集の意味合いだと思うんですよ。2011年に発行された詩集で横組みで出版された詩集って、あったのかな。

T ■ 軽いテイストのポエムなら別ですけど、現代詩では無いんじゃないですか。

S ■ それは、初めてだよね。そこのところは何か批評されなかった? 

I ■ 須永紀子さんからは「詩の内容と、横組みが合っている」という葉書を頂きました。最近になって、封書の感想が届くようになり、先日、阿部日奈子さんからとても丁寧なお手紙を頂きました。そこでも、「詩の内容と、横組みが合っている」ということが書かれていました。詩集上梓後、以前に比べて感想のお手紙を頂く数が少なかったのですが「横組みに違和感を感じた」という感想はありませんでした。亀岡さんの話によると「今後、横組みの詩集が増えるんじゃないか」と仰っていました。
 これは、最初にやることが大切だと思うんですよね。誰かが、もうやってしまっていたら、やらなかったと思います。

S ■ 日本の印刷物だと、理科系のものはみんな横組みなんだよね。文学作品で、横組みっていうのは、めったに無いですよね。だから、横組みの問題っていうのがこの詩集に関してはある。僕が読んだ感じでは、110篇の詩が、文字が小さいから、ぽこっぽこっと終わってしまっている感じがある。時間の問題が、横組みであるために、連続してないなという感じがある。
 ボリウムという問題が、そこでひとつ出てくる。ひとつひとつの作品の印象が薄くなっちゃう。

T ■ そうですか? わたしは詩をかくときには横組みで書き、自分のサイトにそのままアップしています。参加している詩の合評会で相互の作品を批評しあうときも、横組みのまま提出するんですよ。自分の作品の基本形は、横組みだと思っているくらい。

S ■ ああ、そうなの。

T ■ 自分の詩は縦でも横でもそんなに変わらない感じがするんです。今井さんの詩についても違和感は全然持たないで、ミクシィの形に近いのが良いなと思いました。一篇一篇の詩に何時何分という更新時刻が書かれているわけですが、臨場感があっていい。
 逆に今井さんの一つ前の詩集『ライフ』(思潮社)には若干違和感を持っていたんですよ。抒情詩集なんですが、意外と話者の生活の細部に触れず、ぼかして書いている、きれいな言い回しで逃げているところがあるなと思ったんですね。『ライフ』(思潮社)の巻頭に「詩を、泣かせるな」という作品があって、「ことばたちが うたかたのように/気楽に濫用され過ぎてはいないか」とあるんです。

S ■ 荒川さんみたいなことを書いているんだよね。

I ■ 傲慢な詩、だったのかな。

T ■ 『ライフ』(思潮社)は、真摯に書かれた良い詩集だと思うんですが、時々、そういうところが鼻につくんですよ。肩書きとしての詩人を誇示するようなところが見えてノ。でも、今回の『時刻(とき)の、いのり』(思潮社)に関しては、そういうところが全く無い。
 そう言えば、巻末の田野倉さんの解説で、志郎康さんの評言として「今井さんの詩には、ポップソングのように入り込めてしまう」というような言葉が引いてあって、それに則った批評を展開されていたんですけど、現在の今井さんの詩には当て嵌らないじゃないかと思うんです。

S ■ そう。それは20年くらい前の、印象。

T ■ 『時刻(とき)の、いのり』(思潮社)にも、ポップソング的な要素は若干はあるんだけれども、「生活者としての姿」が、頑としてあるんてすよ。『ライフ』(思潮社)以前は、それをぼかして書いていたところがあって、今回の詩集は、新境地だと思います。病気になったことは凄い大変なことなんだけれど、わたしはあえて言うと、今井さんは詩人としては病気になって良かったと思うんです。こういう詩集ができるんだったら、病気になった甲斐があった。苦境を素直にさらけ出して、露悪的にならず、希望も捨てず・・・稀有なことですよ。

I ■ 本当に楽しい、休職期間でした。

S ■ 鬱病になると何にもやりたくなくなるということですが、詩を書くことは嫌にならなかったんですか。

I ■ 詩作だけは、全然、嫌にならなかったです。

S ■ 表現者が鬱病になると、表現することが嫌になるそうです。生活の系で鬱病になったから、そこで解体したんだろうね。解体していって、つまらないことが沢山、書かれている。それは凄いの。人間の生活って、そういうもので、できあがっているわけじゃない。それを「形」にしているのね。行の字数を計算して綿密にしているじゃない。それが、現代詩を解体していっているわけ。形に徹底してこだわっているんだよね。
 今井さんは、同性愛者なんですか?

I ■ 僕は、両性愛者(バイセクシュルアル)です。

S ■ それが出ているのも、凄いの。普通、みんな隠すことを書いて、女の子に対する思いやりの深さ・・・・。あれ、良いんだよねえ。そういうのが詩の表現として出たというのは、僕は画期的だと思った。それから、石川啄木の歌集と通ずるところもある。啄木は夥しい作品を短い時間で書き上げている。その中で、自分の生活がぱあーっと出てきているわけ。それがこの詩集にはあるの、そういう意味では、これは結構、良い詩集なんですよね。啄木の歌集は、生前、評価されなかったから、今井さん、もう少し待っててね。  僕の読者としての要求でエゴイスティックなんだけど、お父さんについては、もっと書いた方が良いよね。詩集の中で、家族について詳しく書いちゃったわけだから、お父さんについてのシーンがもっとほしい。お父さんに、殴られたことあるの?

I ■ 無いです。

S ■ そういう希薄な関係が、もっと書かれると良いと思う。それと妹がいるのに、妹のことが全然書かれていないんだよね。もうここまで書いちゃったら、観念して、家族関係をもっと書いた方が良いね。それと、友だちのこともあまり書いていないんだよね。友だちのことだから差し障りはあるのかもしれないけれど、書いた方が良いと思う。

I ■ 書けると思います。特に父とのことは。今回の詩集は、母には渡していないんです。

S ■ ああ、そうだね。渡さない方が良いよね。ショックを受けるよね。その前までの詩集は手渡されて、お母さんは喜んだ?

I ■ 趣味としては、どうにか認知するけれども、出費が多いわけですから「いやな趣味」だと思い続けていたようです。詩集の出版に対しては、応援はしていませんでした。今回の詩集に関しては、退職金で秘密裏に出版をした以上に、内面で母を傷つけてしまうかもしれない内容なので、手渡しませんでした。

S ■ でも、今井さんの言葉に愛情がこもっているから、そこが良いと思う。それだけに、お母さんは先が短いでしょう。僕は、書いておいた方が良いと思う。亡くなってから書くのと健全なときに書くのとは、とても違うから、健全なときに書いておいた方が良い。

I ■ 僕は、どうやら父方の血筋を引いているようです。例えば、精神科で最初の問診のときに「親族の中に、自殺した人はいますか」と尋ねられるんです。いるんですよ、生きていれば僕と同じ歳くらいの親戚が。母方の豪快さに対して、父方の線の細さは特徴的で、それで友だちも全然いなかったようです。お正月に父に届く年賀状は、一通もありませんでした。
 僕は母からも父からもお互いの言い分を聞いているので、母は母で父をどこかで憎んでいるような気がしましたし、父は父で母をどこかで憎んでいるようでした。

S ■ その辺を書くと、日本の現代文学と繋がってきて、評価は、全然違ってくる。

T ■ わたしは、今井さんの作品の中に、入院中、水分摂取に極端に制限のあるお父さんに、水分を与えるか、与えないかってことで悩むシーンがあったでしょう。そして、お母さんが内緒で売店で買ってきたかき氷を食べさせる。そういうところに家族ならではの情を感じました。

S ■ そういう描写を深めていくと、もっと凄いものになりますよね。

T ■ 垢すりのお姉さんのことを書いた詩。異国で必死に働いている人に対する愛情や共感が自然に伝わってきます。

S ■ 小説だったらストーリーがなきゃならないんだけど、僕はどんどん良いところへ行っていると思いますよ。

T ■ それから、いままでの今井さんの詩と比べて、すごいユーモアがあると思うんですよ。薬の副作用でフランスパンを「ふらんすぺいん」と言っちゃうという詩なんか特にそう。『ライフ』(思潮社)までの詩集は、いっぱいいっぱいのところで書いていたと思うんです。

S ■ 格好つけてんだよね。今回の詩集は、殆どそれがないのね。それが良いんですよ。

I ■ 20年、書き続けてきて、良かったです。

S ■ この詩集が出てね、その次の詩集もお金出させる人を探したいね。

I ■ 100部を買取しました。買取額は、133万円です。

S ■ 書店では、売れましたか?

I ■ 詩集を扱う大手書店では、売れたみたいです。

T ■ ミクシィ経由では、どれくらい売れましたか?

I ■ 五冊くらいです。友人、知人には献本していますから。五冊売れたのは良かったです。

S ■ 帯のキャッチコピーは、「いま、生きる者の真実は、ここにある」くらいにしたら良かったんじゃないかな。思潮社さんに何部売れたか、尋ねたら良いよ。

T ■ 今回の詩集では、今井さんは、「詩人を名乗る」ということについて明確な宣言を出していますよね。「朝まで待てない」という詩があって、詩が書きたいから朝まで待てないという内容です。別の詩では「敢えて書く わたしは詩の愛人でありたい」なんていう行まで出てきます。更に別の詩では「詩人は職業ではないと言う/詩人は、産まれもった属性」「職業欄に記すのは/ううん おそらく「無職のしごと」/とか書くのでしょう とは言え/なにをしているのですかと/問われたら「詩を、」と言うのだ」と書いています。肩書きでも職業でもなくて、体を張って詩人を名乗る。

I ■ 解説を依頼した詩人の田野倉康一さんには、この詩集の解説をするとともに、若い世代の詩人へのメッセージを送りたいという思いがあったのだと思います。彼には、どうしても変えてほしい部分以外には、「思い切り、気の済むように書いてください」と告げました。

S ■ 今井さんの詩集、横組みのこの作りでね、あと三冊くらい出したいね。僕はいま、叫びの詩を書こうと思っているの。
「きゃー」だとかさ。



ミラーサイト 「第2回 鼎談鼎談 <現代詩>をもみほぐす」

元の「鼎談 <現代詩>をもみほぐす 第1回」コメントが付いてます。
元の「鼎談 <現代詩>をもみほぐす 第2回」コメントが付いてます。