鼎談 <現代詩>をもみほぐす 第2回

ーーそしてもっと詩を楽しむ

鈴木志郎康 辻和人 今井義行 

2012年11月11 日 第2回
鼎談 <現代詩>をもみほぐす
そしてもっと詩を楽しむ
詩はどこで必要とされているのか。そして詩をもっと楽しむにはどうしたらいいのか。 第2回目の鼎談では、このようなことを話し合いました。


詩人鈴木志郎康、辻和人、今井義行の3人で、3回に渡り話し合った。その2回目です。
長い討議になりますが、どうぞお付き合い下さい。

●詩人の立ち方 ─吉増剛造と谷川俊太郎の場合
●詩人の立ち方 ─福間健二『青い家』(思潮社)を巡って
●生きている自分との関係を考える─辻和人『真空行動』(七月堂)を巡って
●日付と曜日と天気がタイトル─中村登の詩を巡って
●ユーモアで自分を励ます─福島敦子の詩を巡って
●鋭いぼやき─長尾高弘詩集『見覚えのある道』を巡って
●きいろい蝶がひらひら舞っているような
─鈴木志郎康『少女達の野』(思潮社)を巡って

●システムと闘う姿勢
─鈴木志郎康『結局、私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)を巡って


鈴木志郎康
プロフィール
詩人/映像作家 1935年生まれ。東京都江東区亀戸出身。早稲田大学第一文学部仏文専修卒業。詩集『罐製同棲又は陥穿への逃走』『見えない隣人』『少女達の野』『声の生地』など24冊。評論集『結局、極私的ラディカリズムなんだ』他11冊。映像作品『日没の印象』『15日間』など多数の作品がある。


辻和人
プロフィール
詩人/ジャズミュージシャン。
1964年生まれ。神奈川県出身。東京都立大学(現・首都大学東京)人文学部卒業。詩集に『クールミント・アニマ』『Ver.?の囁き』『息の真似事』(以上、書肆山田)、『真空行動』(七月堂)がある。
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今井義行
プロフィール
詩人
1963年生まれ。神奈川県出身。中央大学法学部卒業。詩集に『SWAN ROAD』(書肆山田)、『永遠』(ふらんす堂)、『私鉄』『ほたるの光』『オーロラ抄』『ライフ』『時刻(とき)の、いのり』(以上、思潮社)がある。

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日時:2012年8月26日 14:00?18:00
場所:渋谷 TKPビル貸会議室
テキスト:今井義行

S ■ 鈴木志郎康  T ■ 辻和人  I ■ 今井義行

●詩人の立ち方 吉増剛造と谷川俊太郎の場合
T ■前回、今井さんの「詩人を名乗ってやっていくんだ」という自覚について討議をしたわけなんですが、今度は著名な詩人、吉増剛造と谷川俊太郎を取り上げてみたいと思います。
 この人たちは、一般の読書家の人たちにもかなりも知られていますし、ある程度の数の詩集が売れ、本人たちも詩人を名乗って、その肩書きで各メディアに積極的に出ています。
 まず、吉増剛造という人について考えてみたいのですが、志郎康さんは吉増さんとは、長年のおつきあいがありますよね。

S ■同年代だし、いろいろな行き来はあるけれど、普段は何もないですよ。吉増さんの家に行ったことはあるけど、吉増さんが僕の家に来たことはない。

T ■でも、公的な場でいろいろ言葉を交わしたことはあるんじゃないんですか。

S ■座談会とか、そういう場での交流はありました。それから、1983年84年に藤井貞和さん、阿部岩夫さん、清水哲男さん、ねじめ正一さんたちと吉増さんを入れて十一人で『壱拾壱』という同人誌をやりました。吉増さんは、僕から言って、正に詩人と言える人のその一人ですよね。「ああ、吉増さんは詩人だなあ」と思えることがいろいろあった。
 吉増さんの詩は、いまどんどん変化していってるじゃない。目に見えないものとやりとりするような、そういうところがあるんですよね、吉増さんには。地霊というか、そういうところを呼び出すというかね。儀式的に銅板に文字を刻むところに立ち会ったことがある。最近では、ビデオカメラで昔の詩人や作家に関連する場所に立って言葉を繰り出すという一種の映像パフォーマンスをやっている。僕らが日常生活している空間が、吉増さんにとっては詩の空間なんだよね。吉増さんは、テープレコーダーを常にONにして持ち歩いていると。で、それを再生して聴くんですよね。そして、そこで拾われた言葉だとかに反応しながら、詩を書いていく。起きてから寝るまで詩で生きている人なんだよ。だから、凄いなと思うんですよ。僕は生活者だけど、日本の詩を書いている人の中で吉増さんのような人は、そう居ないと思うんですよ。そういう意味では、吉増さんや谷川俊太郎さんは、そうだと思うんですよ。

T ■今井さんは、「本業は詩人で、アルバイトは副業」という考えを軸にしているわけですが、今井さんから見て、吉増剛造という人はどう感じますか。

I ■吉増さんのようでありたいと思うけれど、まだまだ道は長いですよね。いきなり吉増さんということにはならないですよね。 谷川さんは翻訳とか、別の著作業もするじゃないですか。僕は、それはやりたくないんですよね。吉増さんには、後続のフォロワーがたくさんいます。でも、僕は、それにもなりたくない。

S ■なるほど。

I ■僕は、かつて『螺旋歌』(河出書房新社)という詩集を買ったんですけれども、影響を受けやすい詩集だな、自分は自分の言葉を見つけたいなと思って、それ以来、吉増さんの詩集は読んでいません。 『出発』(新芸術社/1964)のデビュー作では、タイトルの通り、光に満ちた、素直な言葉の連鎖に感銘を受けたのですが、『螺旋歌』(河出書房新社/1990)になると、句読点の多用など、言葉を攪拌するような書法になっていて、作為を感じました。この言葉の螺旋に巻き込まれてたまるかと思ったのです。

T ■わたしは詩を読み始めたときに、吉増さんの詩はすごく格好良いな、こんな格好良い詩を書く人はいないなと思っていました。そのとき、志郎康さんは散文的な詩を書かれていて、冴えない印象を持ってしまっていたんですよ(笑)。『やわらかい闇の夢』を書かれていた時期ですね。
 『現代詩手帖』の作品特集号などを読むと、吉増さんの格好良さって際立つんです。白石かずこさんも。それがあるとき逆転して、空疎な詩に見えるようになってしまった。身振りだけが華麗で、意味が希薄ではないかと。それからしばらく経ってまた逆転して、言葉の手応えがすばらしいと思えてきたんですね。まるで読んでいる間、詩人と相撲をとっているような。ただ、わたしは、吉増さんがどこまで計算して吉増剛造をやっているのか、よくわからないんですよ。どこかで作為が入っているんじゃないかという不安がよぎる。他人の詩に対する分析的な批評も書かないし、状況論もやらない。もうちょっと読者のもとに降りてきてよ、と思うこともあります。

S ■辻さんが言った、どこまで計算してやっているのかということについて、吉増さんは自分の行くべき道をどんどん見つけて、どんどん突き進んでいく詩人だと思う。僕は、フランスで朗読してみたり、いろいろな分野の人との交流の中で展開している詩だと思う。だから、完成に向かっていく詩とか、スタイルを作っていく詩ではないと思う。自分で考え感じたことを正直にやっているから、必然的にスタイルができる。僕はこういう人がいても良いなあと思う。  それに対して谷川俊太郎さんは、言葉のいろいろ側面を発見して行くところで、独自の道を進んで行っているが、それを元にして、突き進んでいくというより機能していく感じの詩ですよね。メディアの中で機能していく詩としてできあがっている。日本語のいろいろな側面から発見してきたものをメディアの中で機能させていく詩。谷川さんはそういう詩人なんだと思う。翻訳もね、金儲けのための翻訳という一面もあるのかもしれないけど、そこで日本語独自なものが実現できるということがあると思う。だから、何でも翻訳しているわけではないですよね。だからすごく技巧的に書いている。言い方としては失礼な言い方かもしれないけど、職人芸という感じがありますよね。書かれている内容を見ていくと、吉増さんは突き進んで行くから常識を外れて行って、これが詩なの?ってことになっていっちゃうんだけど、谷川さんの詩は常識として良くできている。ああ、巧いなあというね。ここのところ、谷川さんは朝日新聞に詩を連載しているんですけど、『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』(青土社)という詩集にあったような声は聴こえてこない。

T ■一貫して、良い意味で、企画力のある詩人ではないでしょうか。一篇一篇、企画をしながら作っていくし、それがメディアの中でどう映えるかをよく考えている詩人だと思いますよ。
 谷川さんの「現代詩」というものをみんなあまり論じていないんじゃないでしょうか。口語体で読者に語りかけていく詩は、教科書に載ったりして、比較的よく読まれているように感じられるのですが、そうじゃないもの、例えば『コカコーラ・レッスン』(思潮社)なんかは内容も結構難解で、きちんと論じられているのを余り読んだことがないです。
 谷川さんの凄いところは、凝りに凝った複雑な構成でも、読者に読み解くための地図を用意しているから、最終的には筋を辿れるところです。例えば『定義』(思潮社)は、ちり紙みたいなありふれたものを日常とは違った角度から定義してみると摩訶不思議なものに見えてくるよ、という詩集じゃないですか。そういう実験的な試みを鮮やかに、かなりかっちりとやり遂げるところに、わたしは魅力を感じます。今井さんは谷川さんの「現代詩系」の作品をどう思われますか。

I ■僕は、谷川さんの現代詩系の詩集は読んだことがないんですよ。谷川さんは、平仮名をたくさん使って、子どもたち向けの詩をたくさん書いていますよね。それが巧いんだけど、ちっとも嫌味な感じがしない。小学生向けの学習辞典の巻頭文なども書いていますが、それが綺麗だったりするんです。谷川さんは『世間知ラズ』(思潮社)という詩集を出されていますよね。そのタイトルのように、世間知らずなんだなあという感じがすごくするんです。何かを目論んでやっている感じがしない。
 志郎康さんが朝日新聞で連載されている谷川さんの詩をよんで、何か止まっちゃったかなというように話されていたと思うんですが、その辺りのことをもう少し詳しく訊きたいんですが。

S ■「孤独」っていう詩を書いていたと思うんですよ。読んでね、なるほどって感じになるのね。谷川さんはいろいろな言葉を工夫して書いているんだけれど、そこに谷川さん自身が生きていて生活している感じが出ていないということなんです。だから、今井さんが書いた詩で今日「希望」って書いてましたよね。そのときの「希望」っていう言葉が常識的な「希望」じゃなくてね、今井さんの「希望」なんですよね。確実に今井さんがそこに居るっていう感じがするのね。ああ、今井さんが希望を持てたんだと、僕も嬉しくなるのね。谷川さんが「孤独」って書いていて、谷川さんは孤独なのかな、誰の孤独っていう感じの詩なんですよ。谷川さんの詩には日本語の音韻を発見していく面白さがあったと思うんですよ。外国語にはきれいな音韻があるのに日本語にはないと蔑視されていたことに反撥したのが谷川さんなんだよね。だから、谷川さんの詩は言葉との関係の中にあり、今井さんの詩は生活の中にある。
 話は飛んでしまうけれど、詩集には写真と経歴をつけるべきだと僕は思う。誰が書いたかわからない、何歳の人が書いたかわからない。詩はそこに生きている人の問題なのに、そこに何の紹介もないのはおかしいじゃない。知らない人から詩集が送られてきて、経歴も何にも書かれてないなんて、そんなの読めないですよ。
  谷川さんに企画力があるというのは、言葉でどういうことが開けていくかという言葉の企画なんだよね。そして、そこに教養が流れ込んでこないというのが、谷川さんの気持ちの良いところだなと思います。

T ■谷川さんは、本当は海外の前衛文学をかなり勉強しているんじゃないですか。現代文学特有の自己言及性というものが深く追求されている。但し、勉強の跡がきれいに消し去られて、読みやすく整理されていますけどね。時々谷川さんの詩に、もっとどろっとしたものがあればと思うんです。戦後すぐに、豊かになりつつある日本で個人が孤独になっていく状況を敏感に察して、いち早く「自分探し」の詩を書いた。「詩人のふりはしているが/わたしは詩人ではない」というフレーズは、ポーズではなくて、案外本音なんじゃないかと思います。『定義』や『コカコーラ・レッスン』(思潮社)の詩篇は、岩成達也さんや入沢康夫さんの詩のように複雑な地形を備えています。それは、自分は一体何者なんだという実存的な問いからきているように思うんですよ。ただ、先ほど志郎康さんが仰ったように、それを突き抜けて、作者のナマの現実が見えてくるという風にはなっていないかもしれません。

I ■谷川さんの言葉って、外国の絵本と良く合うんですよね。レオ=レオニさんの『スイミー ちいさなかしこいさかなのはなし』 ( 日本パブリシング)は、その最たるものです。

T ■メディアの中で輝く存在として、自己決定をしたんだと思います。そういう意味では、谷川さんはすごい人だと思いますよ。ただ、時代は変わりつつあるというんですか、谷川さんが捉えているメディアというものの幅の狭さが、暴露されつつあると言えるんじゃないでしょうか。
 いまメディアは、ソーシャルメディアに重心が移行しつつあって、谷川さんはマスメディア止まりだと思うんですよ。詩が一定のパッケージに収まっている感じで、自分は生産者ですよ、読者は消費者ですよ、という区分けがシンプル過ぎるように見えるのが谷川さんに対する不満かなあ。
 そこは、吉増さんに対しては、すごいなと思うところがあって、メディアが来ようが来まいが、自分がやると決めたことは頑としてやる。

S ■僕は、メディアということで言うとね、吉増さん自身が、吉増メディアなんだよね。だから、固有なメディアとして、吉増さんは生きているなと思う。それを全うしようとしているところが、偉いなと思う。

T ■吉増さんは出版メディアの外でもいくらでも活動できる人じゃないですか。

S ■それはね、前にも言ったかもしれないけど、吉増さんは校正が終わらないんですよ。言葉の中で生きているから。吉増さん自身がメディアだから、既存のメディアとの拮抗の中で彼は生きているんだよね。なかなかできることじゃない。僕自身、校正がきたら、直しは入れると思うけど、限度は設ける。吉増さんのようにやろうと思えばできるかもしれないけれど、それを敢えてやらないのは、メディアとの関係のルールに則ってやっているということになるんですよね。

T ■詩っていうのが活字だけでなく、映像にも成りうるし写真にも成りうる。朗読するときにも吉増さんは、独自のスタイルでやっている。

S ■吉増さんのように、自分のやり方を全うしていっちゃう人っていないよね。この先、どうなっていっちゃうのかという詩人は、吉増さんが随一で、スリリングな気持ちで見ています。

I ■校正刷りを九校位まで手直ししていくという話はよく知られていますけれども、出版社の編集者と作者との関係を考えると、どういうやりとりをしているんだろうだろうと思ってしまいます。大御所だから編集者が折れるのか、きちんと話し合いながら進めているのか。僕の予想では、吉増さんの存在感が優位に立っているような気がします。九校なんてなったら、僕が編集者だったら、冗談じゃないって思います。

S ■普通の編集者だったら、怒るよね。編集者自身も変わっちゃうんじゃない。

I ■吉増さん付きの編集者がいるのかもしれませんね。

T ■吉増さんを担当する編集者は、覚悟を決めなければならないんじゃないの。

S ■吉増さんと『壱拾壱』という同人誌を一緒にやったとき、もう吉増さんはきりがないから二回で切りますと吉増さんに言ってね、そういう展開の仕方をしたけど。

I ■吉増さんは、何と仰いました?

S ■それはルールに従わざるを得ない、雑誌だから。あの雑誌は、書かない人は白紙で出すということにしてた。

T ■わたしは、ある時期、吉増剛造と吉本隆明を比較しながら読んでいたことがあります。一見、正反対なんですけどね。どちらも、一行の意味を次の行に精密に受け渡すようには展開させていない。吉本さんは自意識をどんどん晒して、裸にしていく。吉増さんは、身体をどんどん晒していく詩人。詩を作品としてかっちり仕上げていくよりも、自分を晒していくんだという書き方で、その意味では吉増剛造と吉本隆明は、わたしの中では双璧だったですね。

●詩人の立ち方 ─福間健二『青い家』(思潮社)を巡って



T ■福間健二さんは『青い家』(思潮社/萩原朔太郎賞・藤村記念歴程賞を受賞)という分厚い詩集を出されたんですが、自分史的なことも含めて、500ページ近く語り尽くしている詩集です。ここで福間さんを通して、詩人とは何かを考えてみたいと思います。福間さんは自分は詩人だという意識を強く出しているんだけれども、今井さんから見て、福間さんはどのように映りますか。

I ■例えば吉本隆明さんが自意識を晒す、それから吉増剛造さんは身体を晒す、で福間さんは自分の身体で動いて書いている、そういう感じがします。そのアクションは、清水昶さんのや荒川洋治さんからの影響から来ているようです。志郎康さんは、「隠喩って、その鍵を解くコードがあるんですよ。内部コードと外部コードがあって、外部コードっていうのは、その作品の外側にコードがあるわけ。だから解りやすいわけ。内部コードっていうのは、作品の中のコードでもって、解き明かされていく仕方なんですよ」と、以前、仰っていましたが、福間さんの詩の隠喩には、内部コードにある詩が結構あって、読み取り切れない感じがしたんですね。
 アクションをするのなら、言葉はもっと解放されていっても良いんじゃないかと思いました。『青い家』を読むと、福間さん自身が深い傷を負っていて、それを負ったまま、書いている詩が多い。そして、その状態で詩を批評したりしているので、ついていけない部分が多い。『青い家』は、500ページというエネルギーで押していく力作だと思うんですけど、そういうことを実践している詩人だと思います。
 こんなにたくさんの詩がなくても良いんですよね、僕からすると。だけど、メディアの中で立っていきたいから、作戦を練ったんだと思うんですよね。

T ■福間さんは、自分は詩人としてやっていくんだという意識が強い。『青い家』(思潮社)の中に「P中毒」という詩があって、ポエム中毒ということだと思うんですが、詩人としての思い込みの強さみたいなものを、詩人であることによって自分が治癒されるっていうんですかね、そういう倫理性を比喩的に語った詩だと思うんですよ。わたしはそういうことを素直に晒せるっていうところが福間さんの良さだと思います。
 それと、詩人としての上昇志向も隠さない。表題作の「青い家」では「名前を呼ばれる」ために待っているわけじゃないですか。認めてくれないのはつらいと素直に書く。コンプレックスをさらけ出すところにも好感を持ちます。

S ■僕はね、福間さんの『最後の授業/カントリー・ライフ』(私家版)が出たときに読んで、しっかりと生活して自分の言葉で詩を書いている新しいタイプの詩人だなと思ったんですよ。僕はそのとき福間さんのことを映画に撮っているんだけれども、映画には朗読だけで詩については余り触れてないんですよ。もっぱら生活の形態を撮った。福間さんはすごい病気をしたんですね。西洋医学によらず整体治療で回復していくんだけど。映画の中で太極拳をやっているんだけど、それがすごく新しいなと思った。夫婦で太極拳をやっている姿が鳥が空で舞っているように見えた。だいたい詩人としては、西洋というものが頭の中にある、パターンというか、伝統みたいなところがあると思うんだけど、頭でっかちなんだよね。多分、『荒地』の人たちも、若い頃の戦時中の世間の付和雷同に対して、思想性を重んじる知識人ということで頭でっかちなんだよね。あえて言えば、いい悪いはともかく、現代詩は頭でっかちになっていると思う。自分の日本という国に独自性を見つけなきゃということで、大岡信さんとか谷川さんとか、「美しい日本語」を追求するといって出てくるわけじゃない。でもおおむね頭で詩を書いているという感じがする。その後、自分たちの言葉で詩を書くという動きが出た。そこを経過したところで、書かれた言葉を重視すというところで、それらをひっくるめて頭でっかちになるんですよね。福間さんはそこを乗り越えたという印象を持って、新しい詩人と思ったわけ。
 ねじめ正一さんや伊藤比呂美さんは、身体性を使った詩を書いたわけじゃない。身体というものを土台にして、それを維持したいという気持ちがとても強いのね。こう、前に乗り出してくるという姿勢。福間さんは身体性というより人間の基本的な行動を言葉の裏付けとして持っているように思う。その行動が詩人という存在に向かっているように感じる。
 いま、吉増さんは、詩人でありたいとは思っていない。勝手にやっているタイプ。それに対して福間さんは、詩人でありたい、詩人を維持するためにはどうしたら良いか、そういう仕方で詩が書かれているなあと思う。だから、日常的な感情と生活の行動とある種の出会いとかね、ないまぜな仕方でもって、書かれている詩じゃないかなと思うんですよね。言葉が浮き出てくる。そこに魅力がある。
 『青い家』の中に日本にいて書いた詩とウェールズに行って書いた詩があって、ウェールズの方の詩は、相手が外国人だからか、すごくわかりやすい詩で、そこに出てくる外国人の姿が結構クリアに魅力的に描かれている。日本で書いている詩は、いろいろな人たちと出会っているはずなのに、それが出ていない。そこが面白いところなんですよ、僕には。
 「P中毒」で詩を書かずにいられないことを書いているんだけど、福間さんの見えない部分が現れている。評論集の中の「ウェールズ通信」の中でね、外国人は自分のことを詩人ですと素直に言うのに、日本人は言わない。そことすごく関係があると思う。それで、自分は詩人だということにしたって言うんだけど、それは多分、日本での詩のパブリック性と関係があると思う。詩人でありたいという思いで詩を書き続けるんだけど、他の人に対して詩人であるという姿がはっきりとは見えない。日本の現代詩人の姿を素直に見せていると思う。『青い家』をこの厚さで出したことが決め手だと思う。普通の詩集は30篇くらいなのに、この詩集は、98篇で出したわけでしょう。いろいろなタイプの詩が入っていて、それが全体になったときに、詩人の姿を現すものとして挑戦していると思う。
 福間さんは、映画も作っているんだよね。それは、スタッフがいてキャストがいて、メジャー映画の作り方なんですよね。映画のシステムを守っていくという仕方なの。僕や吉増さんも映画を作っているけど、個人映画なんだよね。詩を書くのと同じ感覚で映画を作っている。それに対して福間さんは、監督という形でいたいわけ。詩人としての普遍化にトライアルしている詩人ではないかと思うわけ。

T ■でも、ねじめ正一さんのように、マスメディアの中にどーんと姿を晒したいわけじゃないでしょう。小さな出版社の信頼のおける編集者たちとこまめにやりとりするのが好きという感じがします。  ただ、現代詩特有の、と言いますか、持って回ったような言い回しが多用されていて、書法自体は余り新鮮味を感じなかったんですよ。人間力を感じる点で良い詩集だと思うのですが、書き方の点ではっとさせられるところは残念ながら少なかったですね。これだけ素直に自分を晒す人だったら、書き方の面でもかっこつけるのをやめて、日々の細かなできごとを逐一具体的に書くような感じでも良かったんじゃないでしょうか。

S ■それはね、福間さんが映画を作るときに、従来の映画の作り方を踏襲してね、そういうシステムを詩にも用いているんじゃないか。ただ、中身としてはね、毀れているところがいっぱいあるんだよね。その毀れているところが面白い。普通の詩集って毀れてないでしょう。
 普通の詩集って、最初の一篇を読むと、後はみんな同じという感じなんだけど、福間さんの詩集はそうはいかないんだよね。

T ■評論集『詩は生きている』(五柳書院)の中で、下村康臣という詩人が取り上げられていて、詩を一行一行のレベルで読み解いているところはすごいなと思ったし、執着力に感動もしたんですよ。ただ、まず詩の作者の人柄に対する思い込みがあって、その思い込みで詩を読んでいくというところがあると思うんですね。福間さんの評論は、人に対する共感がまずあって、そこから詩を読み解いていくという側面が強い。だから割と主観的な読解も出てくると思うんですね、わたしから見ると。
 下村康臣さんて、隠喩の詩を書き続けた人ですよね。

S ■隠喩の詩を全うした人だよね。札幌のバーで経理かなんかしていた人なんだよね。で、亡くなってしまった。70年代闘争のあたりも、絡んでいるんじゃないかな。

T ■「リサとサキ」という風俗関係らしき女性たちのことを扱った詩があるんですけれども、福間さんの評論集には「ぼくたちが自慰で射精したときに追いかけたくなるのは、こういう詩ではないか」とあります。わたしが引用された「リサとサキ」の詩を読んだ印象では、そういう肉感性は感じられないんですよね。女性たちを切り口にして、自分の内面生活を抽象的に語っている詩にしか読めなかったのですが、福間さんは、そういうところまで読み取っちゃうんですね。実を言うとわたしは、下村さんの詩は回りくどくて余り面白いとは思わなかったんです。
 ところで、福間さんはヒーローでありたいという自分も書くけど、ヒーローになれない自分もちゃんと書くんですよね。

S ■隠喩で書くということとヒロイズムの関係は面白いよね。イメージが印象的な格好いい言葉の書き手ということでヒーローになる。これは、荒川洋治さんを論じるときに通じるかもしれないね。荒川さんて、ヒロイズムなんだよね。清水昶や正津勉さんなんかもそうだよね。

T ■そういう観点からいくと、今井さんの詩とか、どうなんですか。

S ■今井さんの詩もヒロイズムを若干感じるけれども、ヒーローになるというよりか、ヒーローとしての姿を言葉の上に出す仕方は取っていない。今井さんの詩は、もっと本質的なところに入り込もうとしながら、入り込めない。そのもどかしさにいつも悩まされている人かなと感じる。

I ■福間さんが毎日ツイッターで詩を書いていると聞きましたが、僕がミクシィで毎日詩を書いているのとは、あり方がだいぶん違うと思います。僕は、書きたいから書く。福間さんは日々のトレーニングとしてやっていると思います。

S ■トレーニングね、何かそんな感じがするよね。福間さんのツイッターの詩を読んでいると、福間さんの姿が見えてくるのではなく、福間さんのことばとのつきあい方が見えてくる。
 今井さんの場合は、今井さんの生活の実態がだんだん見えてくる。隠喩を使って、ヒーローになろうとしないから、そこがなかなか受けないのかもしれない。ヒロイズムを目指して溺れていくっていうやり方があると思うんですよ。そこである種のカリスマ性を身につけていくような。吉増さんは、天性のヒロイズムなんだよね。もう最初からヒロイック。

I ■『青い家』で面白いなと思ったところは、詩の書かれた年代が、ばらばらというところですよね。

S ■そう、統一してないんだよね。その統一してないところをそのまま出したというところ。それから、亡くなった人たちが出てくるのも、特徴的だね。

T ■日付のある詩で、毎朝、見る、ちょっと良い女、を題材にした作品もあるんですよ。女の肉感性をストレートに描いていて、ここには読者にナマの現実を手渡そうとする姿勢があります。その後、また隠喩の世界に戻っちゃうんですが。
自分の書くものは、壮大な自伝小説みたいなことも書いてあって、面白い。自分に対する思い入れですよ、やっぱり。

●生きている自分との関係を考える ─辻和人『真空行動』(七月堂)を巡って



T ■では、今度はわたしの詩集、『真空行動』(七月堂)を話題にしていただこうかなと思うんですけれど(笑)。この詩集のあとがきには《詩は単に「文」でありさえあれば良い、比喩の使用は最小限に止める、行は気分で分ける、ストーリーは尻切れトンボでも可、その結果他人から「詩作品」とみなされなくともかまわない》と書いているんですね。これは詩人から見ると喧嘩を売っているような文章だと思うんですけれども、「現代詩」という枠の中で読まれたくないなという気持ちで書いたんですよ。実際には比喩は多少は使っているし、改行もしているんですが、これは詩なんだという思い込みがあると、みんな詩としての構えばかり気にして、内容をちゃんと読まなくなる。詩として読まなきゃいけないんだという思い込みから読まれるのを牽制したくて、この文章を書いた次第です。今井さんは、この詩集を読んで、どう思われましたか。

I ■面白いと思いましたよ。このあとがきについては、山田兼士さんという文芸評論家・詩人の方が《詩は単に「文」でありさえすれば良い》」(あとがき)とはラディカルな宣言だ。後半の「猫」詩編の数々はひたすら面白く、「現代の内田百?!」と声をかけたくなった》と書いています。「現代の内田百間」かどうかは別として、辻さんの意図に反応している人がきちんといるなと思いました。
 それで、僕は、この詩集は、表紙に詩集と書かれていなくても、すんなり詩集として読んだと思います。ただ二部構成になっていますが、前半も後半もストーリー性がとても強い。詩として読むんだけど、読後の余韻を求める読者には、すうっと過ぎていってしまうところもあるだろうし、それから後半の猫を描いたパートには世の中には愛猫家って多いじゃないですか。そういう人たちからは辻さんが言いたかったこととは違う観点から読まれてしまうかなとも思いました。
 この詩集、前半と後半で分冊にしようかと思ったそうだけど、僕は分冊にしなくて良かったと思う。猫の詩を合評会に持っていったときに、面白いけど詩としての魅力に欠けるという指摘があったそうだけど、あとがきに書いてある宣言を巻頭に持ってきてしまったら良かったのではないかと思いました。あとがきって、誰々様、ご協力ありがとうございましたというパターン化したものなので、それにちょっと嵌まっちゃっているところがあるんですよね。

S ■僕は読んでね、一番感じたのは、孤独な男の姿、それはよく出ていると思った。前半の「隙」では想像力の膨らみが描かれていて、後半の「猫」では猫とのつきあいが描かれている。後半の「猫」は小説みたいに読めて、それで全体として読んでみると「隙」より「猫」の方が圧倒的なんだよ。読み終わって、前半、何が書かれていたっけって忘れちゃうの。頭の中の展開が書かれている詩だから。  《詩は単に「文」でありさえすれば良い》というのは、辻さんとしては挑戦的だけど、別にラディカルな宣言とは思わなかった。と言うのは、詩を書くときには形態の問題があるのね。形態のあり方として一番きついのは定型ですよね。バラードとかソネットとかいろいろあるけど、自由詩の場合、言葉との格闘になるよね。どこに言葉との格闘の跡があるのという問題になっていってしまう。それがあるともっと力を持ったのに、その辺りのこと、もっと考えた方が良かったんじゃないかと思う。この詩集の場合だと、隠喩のイメージを解体してストーリー展開に持って行こうということだと思うんだけど、ストーリーの形ということがあるんじゃないかと思う。  詩じゃないっていうことじゃないんだよね。詩は詩なんだけど、ストーリーが饒舌体で書かれていて、饒舌って形としてね、落語とか講談だとか形があるわけじゃない。そういうところ、工夫が必要だったんじゃないか。今までの辻さんの詩のあり方は言葉との関係だったんだけど、生き方の方にシフトして言葉を解放していくんだというところ、良いなと思った。
 この鼎談もね、言葉をどのように解放していくかというところから始まっている。それをどういう風に乗り越えていくか、言葉との関係を考えるんじゃなくて、生きている自分との関係を考えること。生きている自分として、どうやったら活き活きと生きていかれるのか、そこのところがこの鼎談のね、要なんだと思う。
 詩集の前半に駅のおじさんがそれぞれに工夫して掃除をしている詩があったけど、それが重要なんだよね。仕事の中でおざなりにやらないで、心を込めてやっている。それを楽しんでいるように見える。そこに人の姿が見えた。一人一人が生きていることが違う姿を持っているんだよね。
 吉本隆明の『戦後詩史論』(思潮社)は、そこを見ていないんだよね。一人一人の区別が無くなってしまった、一人一人の固有な生き方を無視している。修辞だけに触れていて、詩の中身については全然触れてないじゃない。それで、詩の修辞について、これで良いのだろうかと展開していって、みんな否定していっちゃう。みんなそれぞれ活き活きと暮らすために、工夫をしなければならないというのが、この鼎談の意義だと思う。

T ■私事になりますが、わたしの父親が、過去のわたしの詩集について難しくてわからないと言っていたんですよ。親には、詩集をだしたとき一冊ずつあげるんですけれど、今回の詩集は父親が楽しんで読んでくれたんですね。そして、過去の難しくてわからないと言っていた詩集をもう一回読んでくれたんですよ。そうしたらお前は基本的に同じようなことを徹底して追求しているんだなと言われて、それは結構嬉しかったですね。今回の詩集はごく人間的なテーマを核に書いたので、すっと伝わって、それで父親は過去の詩集も読んでくれたと思うんですね。波長が合う機会が訪れたということ。  わたしは今井さんと違って、自分は詩人だとあえて宣言したくないんですよ。
 詩人は霊能者みたいなものと思っていて、ふとしたきっかけでこの世の隠されていた秘密を悟る、詩が書かれ発表されて、手に取った読者がまたふとしたきっかけで詩の言葉と波長があって、その秘密を知る、みたいな。詩人は誰かと波長の合う瞬間を楽しみにして、「評価」なんか気にせず鷹揚に構えていればいいんじゃないかということです。
 余計な話ですが、父がこの詩集を知人の女性(相当ご高齢の方ですが)に読んでみてくれと贈ったら、その方がありがたいことに面白がってくださったんです。そして何と、わたしにお嫁さんを紹介してくれそうになったんですね(笑)。ちょっとびっくりでした。

S ■その女性がお嫁さんを紹介してくれようとしたというのは、孤独な男がいる、ということを感じ取ったんですよ。猫を相手にして、毎日何やってんのよと。

T ■詩を生きている姿を見せるというのは、生活者の自分を見せることとは違いますよね。わたしは若い頃に『瀧口修造の詩的実験』(思潮社)を読んで感激したんですよ。イメージの連鎖だけでできている詩集で、意味の脈絡というものが全くなく、一般の読者にはかなり読みづらいでしょう。でもあのイメージ群のすごい抵抗感に晒されていると、彼が言葉を生きている状態が見えてくるというのかな。それに感染して自分も詩を書き始めたというところがありますね。彼は「私には文体の趣味はどうでもよかった。レトリックなどはどうでもよかった。別の何ものか、イメージの抽象的な痙攣と火花とでもいったものを求めて足りたのである」と書いていますが、わたしは素直でとても良いなと思いました。彼は言葉でアクションを起こしているし、そのアクションをなるべく直接的に伝えたかったと思うんですね。『詩的実験』は、若い頃に書いた詩を晩年になって集めたもので、瀧口修造は商品として提示することはまるきり考えてなかったと思います。彼は晩年になるともうあまり詩を書かなくなって、友人宛のレター作りに熱中したりするのですが、それがまたいいんです。タイトルがあって、作者名があって、本文があって、効果的な改行や比喩があって、といった定式を前提としないような表現があることを知って、震撼させられました。

S ■作品というからには、そこでは形が要求されるわけですよね。自然な言葉が何らかの転倒することが読む人から求められる。今の詩は、縦書きで、タイトルがあって、本文がある。それは、見たとたんに、これは詩だと認識される。吉増さんは、その辺りも考えているんだよね。詩の書かれ方は便宜的なものとしてあるのかもしれないけれど、考え直さなければならないかもしれないね。慣習としてあることをもう一回問い直すと、どういうことになるか。

T ■慣習を踏襲して悪いことはないと思うんですけど、踏襲するならするで、それが何なのか、自分なりの主張を付け加えることが大切だと思います。

S ■そこをもう一回問わないと、辻さんが今後書いていく上で問題になるんじゃないかな。

T ■詩が人間活動であることをちゃんと示すということですかね。詩が、卓越した比喩が使われてますよとか製品のようにして提示されても、人の心を動かす力が無いんじゃないかと思います。

S ■じゃあ、何があれば良いの?

T ■即答できるものではなくて、一編一編の中で自分なりにやるしかないんじゃないかと。あえて言えば、自分がどう他人とコミュニケーションしたいかを作品の上でも発表の面でも、ひと目でわかるように明確に示すことだと思います。製品としての詩の力は、活字文化に権威があった谷川俊太郎さんのときはまだ輝いていたと思うんですが、今はもう期待できない。谷川俊太郎のことを企画力のある詩人だと言ったんですけど、そうではない企画力、一対多ではなく、一対一の関係を累乗化させるような、個別の読者に自分を提示していく泥臭い企画の力が求められるのではないかと思います。

I ■辻さんの詩集のタイトルは『真空行動』(七月堂)じゃない。真空行動は、猫が深夜に起こす特有な行動であることを初めて知って、人間の生活と猫の生活が転倒していくところが、面白かったですよね。詩人の坂輪綾子さんから手紙が来て、この詩集の後半には「内と外」の問題があるんじゃないかと書かれていたそうだよね。
 よくなついた猫がアパートの窓に体を打ちつけてきて、根負けした「ぼく」がベランダを開けると、猫が入り込んできて、「ぼく」が部屋の中で風に晒されるというような場面があったと思うのですが、猫の居場所と「ぼく」の居場所が転倒するんですね。

T ■ありがたいご指摘だったです。確かに、物事の関係を相対化させる視点をあちこちに仕掛ける造りになっているかと思います。目に見えないところにいろいろな境界線が引かれていることを気づかせて、そこを出たり入ったりする様子を描いたわけです。現実がそうなっているんだからこう書くしかないってね。生活に対する固定された見方を解体する契機になってくれれば嬉しいです。

 それでは、更に幾人かの詩人の作品を通して、言葉の工夫の仕方について考えていきましょう。

●日付と曜日と天気がタイトル ─中村登の詩を巡って

T ■中村登さんは、昔、志郎康さんが教えられていた詩のクラスにいて、『水剥ぎ』(櫓人出版会)という、隠喩を多用した詩集を出された方です。生活の暗部を迫力あるタッチで描いた詩集でした。90年代に入ってから、隠喩を使うのをやめて、『季刊パンティ』という同人誌に、日付と曜日と天気をタイトルにした詩を書き始めたんですよ。わたしは、その試みにすごく衝撃を受けて、いつかこんな詩を書いてみたいと思っていました。  

 1月15日(金)朝のうちは霧雨だったが 間もなく本降りになる
     中村登

 きのうは
 遅くまで酒を飲んで
 深夜の帰宅だった
 今朝は7時25分に起きて
 霧雨のなか
 サクラとチビを連れて散歩をした

 きのうの酒が気分をしめつけ
 薄暗い空の
 人気ない寒い景色は
 ここも
 「地獄」のようだな
 と思って
 母を訪ねれば

 (第1連・2連を引用)


 以前多用していた隠喩は全然使われていないんですよね。平板な日記のような感じですが、日々生きている上での意識の傾きというのが鋭敏に捉えられています。自分を世界の中心にすることなく、ひたすら淡々と生活の些事を綴っているのが何だか不気味なんですよ。わたしは、これは作品の中に本来なら作品になじまないナマの現実をねじ込むという、果敢な試みだと思って、当時スリリングに感じて読んでいました。今井さんは、この作品、どう思いましたか。

I ■最初に読んだとき、すうっと通り過ぎちゃいました。何回か通読したら、微妙にひねりが利いているんですよね。「ここも/「地獄」のようだな」というようなところに来ると、一見平板なんだけれども、凹凸がある。但し、辻さんに薦められて読んだから、良いところを見つけ出そうと思って読んだかもしれなくて、この同人誌が僕のところに送られてきていたら、読み飛ばしていたと思います。でも、詩のタイトルは面白いですよね。最近はブログで詩を書かれていて、現代詩回帰していますね。どちらが良いのかと考えると、書法の間を揺れ動き、作者の姿は感じるのですが、中途半端になってしまっているとも感じられます。詩人として、一貫して突き進む面が欠けているような・・・・。

T ■志郎康さんは、どう思いましたか。

S ■いま、この詩を読んでみて、そんなに辻さんがこだわるようには感じない。そこにそういう人がいるなあという感じはわかるんだけどさ、読者にインパクトを与えるものは感じないし、あんまり入って行かれるところはないですね。辻さんの詩集の猫のところは、猫とのやりとりがあるからね。これが100篇、集められていれば、また違ってくるかもしれないけどね。1977年ころ映像作品の『草の影を刈る』を作っているとき、いろいろな日記を見ていたんだけど、東北の昔の農民の日記があって、それは殆ど日付だけの中にところどころ農作業が書かれている。その日付だけの日記に痛く感動したんだ。その人の生活が空白で表されているってこと。そんな表現はわたしにはできない。そこで毎日身の回りのことを撮影し続けたんだ。今井さんの詩だとこだわりがあるのね。こだわりっていうところで気持に引っかかるの。中村さんは、日付にこだわっているんだろうけど、そのこだわりを書いているところが、わからない。これを書いている動機がね。敢えて言えば、表現をしない表現をしている。ある意味ではマイナスの世界を作っている詩なのかな。それにしては強烈なイメージを喚起する「地獄」という言葉に引っかかる。

T ■自分を世界の隅っこに位置させながら、生活の総体を丸ごと隠喩化させるというような意識が、中村さんにはあったんじゃないかと思います。1篇だけだと頼りない感じですが、何篇も読んでいくと異世界に潜り込んだような気分になってきます。でも人に訴えかける言葉の力という点では確かにちょっと物足りないかもしれません。もっとはっきり意思表示をすべきだったとは思うんですよ、勇気を持って。

S ■作品の成立ということに関して言うと、すれすれだよね。辻さんは、そのすれすれを積極的に捉えたということなんじゃないかな。

●ユーモアで自分を励ます ─福島敦子の詩を巡って


T ■『Tab』という同人誌があるんですけど、そこに福島敦子さんがお父さんのことを書いた詩があるんですよ。お父さんが認知症になっていて、かなりひどいことになっているよ、ということを克明に書いている詩があるんですよね。
 福島さんは前の詩集『永遠さん』(草原詩社)では、自分の気持ちを曖昧に比喩的に表現するような手法だったんですけど、ここでは赤裸々に書いているんです。これらの詩には、ぐっとくるものがありましたね。認知症になって大便を撒き散らす人が本当にいるんだなということが、詩を読んでわかりましたよ。

I ■僕も『Tab』を送ってもらっているんですが、認知症のお父さんのことをユーモアを交えて書いているんですよね。福島さんは以前からの知り合いで、四国に住んでいる方なんですが、二度ほど電話で話したことがあって、「お父さんの介護、大変でしょう」と言ったら、「自分の親だから別に気にならない」と言っていましたね。それで、「関西人にとって、笑いは欠かせないんだ」とも言っていました。この前、新しい『Tab』が送られてきて、そこには「わたしも もう いのる ことしかできません」と書かれていて、今まで自分の姿をどこかで隠してきたんだなという気がしました。そうか、そこまで追い詰められていたんだ・・・・と感じました。それをユーモラスに書いたら、などとは僕には言えません。

T ■生きているってことを肯定的に捉えて、ユーモアで自分を励ましていくっていうところに打たれたんですけどね。それを格好つけないで、きちんと書いているところにわたしは好感を持ったんです。

I ■その大便の詩は、『現代詩手帖』の詩誌月評でも、取り上げられていましたけどね。

S ■僕の感じだと、お父さんの世話、大変だと思いますよね。それを言葉で書いて、自分の気持ちを乗り越えていくようにして書かれているんだなと思った。
 それで、詩という観点から言うと、何か惜しいなという感じがする。この詩はストレートに書かれているんだけど、自分の作者としての立場が見えてこない。

T ■お父さんとの関係を、思い切ってファンタジーとして打ち出していく手もあったんじゃないかな。
S ■そうじゃないと思う。もっとお父さんの身体とかにね、触るわけじゃない。お父さんの認知症になった関係だけが書かれていて、そこに自身を重ねることによって、作者の姿が現れてくると思う。そこがちょっと欠けていて、惜しいなと思う。

●鋭いぼやき ─長尾高弘詩集『見覚えのある道』を巡って 
 『見覚えのある道』http://www.longtail.co.jp/recog/recog.pdf

T ■これも直読直解できる詩ですね。それが鼻につくという人もいるかもしれないけれど、こうだと思ったら、ああだった、というような論理の展開が面白い。福島さんの詩も、長尾さんの詩集も、人に考えの筋道を明確に伝えようとすることで共通していると思います。わたしが好感を持ったのは、読者の心を引っ掻くような口調ですね。今後詩は、修辞よりも読者との駆け引きがポイントになっていくのかなと考えさせられました。

I ■僕は、長尾高弘詩集『見覚えのある道』は、三回通読しないと、内容を忘れてしまうような、希薄な印象を受けました。自分の記憶が曖昧になって、いまの自分に不安になっていくという内容は、内向に内向をを重ねるばかりで、読者である僕には働きかけてこなかったですね。これは、内容上の問題ですが。
 ただ、辻さんがメールマガジンでこの詩集を評して、それを志郎康さんがツイッターで紹介した。少数の読者しか知らなかったものが、より多くの人たちに読まれる連鎖。これが「ちい散歩」の小さな事件なんだと思います。
 あと、PDF版詩集は、画面上ではかなり読みづらいので、まだまだ過渡期にあると思います。

S ■たしかに、内容を忘れてしまうような、希薄な印象を受けるということはあるね。多分、それは独りでぼやいているような言葉の展開によるものと思う。でも、そのぼやきが一種の鋭さを持っているので、読んでいて面白い。最初の「机上の水練」は 

 思いがけず泳げと言われた。
 今までに泳いだことは確かにあったはずだが、
 どうやって泳いだらよいのか、
 正式に教わったことはないのだ。
 だから、いざ泳ぎ始めたときに、
 泳ぎ方を思い出せるかとても不安だ。


 と、泳ぐことについて、やめた接客業が途中で出てきたりしてぐだぐたと語って最後に「ところで、水があるのを確かめたっけ?」で終わる。読んでいる方ははぐらかされた印象になる。このはぐらかしが作者の意図なんじゃないかと思う。「あと二回」という詩はね、

 お久しぶりですね。
 このペースだと、
 死ぬまでにあと二回くらい、
 会えるかもしれませんね。
 あ、死ぬの主語は私です。
 あなたがいつ死ぬかまでは、
 わかりませんからね。
 で、何の話をしましょうか。
 え、話すことなど何もない?
 そんなこと言わずに、   
 天気の話でもしましょうよ。
 あと二回しか会わないんですから
 今日は暑いですね。

 それではまた。


 と、まあ余生を挨拶2回ですませてしまおうという挨拶というわけ。これは高齢者社会で余生に生き甲斐を見つけようという風潮に対する皮肉ではないかしら。この詩集の詩のモチーフはいずれも現実の生活で身の上に起こったと思われることだが、それが言葉の上ではぐらかすような語りで書かれている。いや、そうではなく、やむを得ず言葉にするとずれてしまうということのようだ。絶望感によってニヒルになっていくということだろうか。もっとも、「あとがき」には「今とはちょっと気分が違う」と書かれているので、長尾さんのツイートを見ているとこの詩集以後、現実に対してもっと積極的になっているように感じる。

●きいろい蝶がひらひら舞っているような
 ─鈴木志郎康『少女達の野』(思潮社)について




T ■1989年にこの詩集が発表されたとき、実はわたしはさっぱりわからなかったのですが、重要な示唆を与えてくれる詩集ということに気がついたので、話題にしようと思います。冗談みたいな内容の言葉が放り出されるように書かれている詩集です。その悪ふざけみたいな言葉のあとに、非常に冷静な散文が付くんですよね。『真空行動』(七月堂)を書く、ちょっと前くらいの時期に、読み直してみたら、とても面白かったので、以来ちょこちょこ読んでいたんですよ。これは読んでいる人にひたすら挑発を仕掛ける詩集だと思うんですよね。この詩集って、倫理性がないじゃない。ある種の現代詩の対極にある方法を取っているじゃないですか。79ページの辺りなんてすごいですよ。

 この詩に使った単語をすべてアイウエオ順にならべてみた。そこには言葉の風景があった。自分の書いたものを「言語の風景」化するということは、あの詩人から示唆されたことだった。例えばこんな具合になる。

と言って、実際にページ上で詩の言葉をアイウエオ順に整理してみせる。これは、例えば谷川俊太郎には、できないことじゃないですか。作品としての広がりは作るけど、意味としては無という試みですよね。

S ■言葉の高度な遊び的なところがあるよね。どうしてこんなこと書いたのか、今は全然忘れちゃってる。でも、何かある種のユーモアをやりたかったように思う。詩に意味を求めることとは反対に意味を担った言葉でナンセンスを実現するということかな。「わたしはユーモア詩人です」と名乗りたかったのかな。

T ■人を挑発するっていうことに関しては、どの詩も一貫してそうですよね。真面目な人が読んだら、バカにされたといって頭にくるんじゃないですか(笑)。

I ■この詩集は東急BEの現代詩講座で、受講生が署名を入れてもらった詩集ですよね。僕は、この詩集は、いまもよくわかりませんけど、最初の作品の「光、凝る」という詩の冒頭の「きいろいぞ/きいろい」、この詩句が大好きで忘れたことがないんですよ。きいろい蝶が、詩集の中を一貫して、ひらひらと舞っているような感じがしたんですね。例えば自分が苦境にあるとき、ふっと「きいろいぞ/きいろい」が降りてきて、励ましになる。僕は、詩の在り方というのは、それで良いと思うんです。

S ■僕はこの詩集を作るときの一番の眼目は、一つ一つの詩に「野ノ録録タル」というタイトルで、その当時の自分の生活と関心の在処を散文で書くことだったのね。現実を言葉で書いて、詩を支えていけないかと。

T ■この詩集の132ページに面白いことが書いてあります。

   詩はスペース(空白)を示すってことではなかろうか
 わざわざことばがあるというそのスペース


ここにこの詩集のコンセプトが見事に書いてあるんですけれども、現代詩って作者の内面を読み解かせるものばかりで、空白を楽しむ、なんて発想があるものは少ないですよね。『少女達の野』(思潮社)は、思いがけない言葉の楽しみ方を教えてくれる。『真空行動』(七月堂)の中にも、悪ふざけみたいな詩がいくつかあるですけど、わたしは詩に過剰に倫理性ばかり求めるのはやめた方が良いと思っているんですよね。

S ■この詩集は、もっと読まれても良いよねえ。

T ■この詩集は、あんまり論じられないですよね。

S ■論じられないどころか、この頃の僕の詩集は大体取り上げられていないよ。賞の候補になったことはあるんだけど、ずっと候補ばっかりでね。当時、自分では候補詩人だなって思ってさ。

T ■手術中の少女の緊迫した状態が書いてあって、その後すぐまた軽いところへ行くんですよね。全篇を通じて、言葉を縛らない、言葉を遊ばせるという方法ですかね。

S ■全体に、言葉が主題になっているんですよね。

T ■生真面目なイメージがある瀧口修造の『詩的実験』にも、実は随所にユーモアがあるんですよね。「白熊の音楽にさえ無関心ではないか」なんてフレーズも出てくるんですよ。瀧口修造は、言葉の面白さを追求することに純粋な喜びを感じている。彼の詩からはそのことが濃厚に伝わってきます。

S ■76ページにこんなことが書いてある。

ある詩人との会話には「偉人伝」が持ち出され、それが「現代詩」と接合され、「現代詩偉人伝」として命 懸け の「荒川洋治物語」を劇画にして「現代詩手帖」に連載するという案が出された。

●システムと闘う姿勢
 ─鈴木志郎康『結局、私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)を巡って




T ■それでは志郎康さんの評論集『結局、私的ラディカリズムなんだ』について喋ることにしましょう。個人を基点とする表現の筋道が、とても丁寧に書かれていると思うんですけど、志郎康さんは詩を書くポイントとして「声を上げる」ということについて書かれていますよね。194ページですよ。 

   言葉というのは、声を出すところからはじまる。わたしたちは普段、文章を読むにしても、書くにしても、声を 出さないから、言葉を書くというとき、言葉が音声で成り立っていることを忘れがちになるが、それは文字が発明されてから、教育が行き届いて、本を読む習慣が生まれてからのことなのであって、もともと言葉は声に出して初めて生まれてくるものなのだ。

 それで、叫ぶか、人に話しかけるかということになるわけです。今井さんは、叫んだために救われた面があるんじゃないですか。

I ■そうです。『結局、私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)で、非常に共感した部分ですね。
 詩っていうのは、書いた作者の抜け殻だとあって、驚きました。それまで詩は、生身のものだと思っていたからです。読者が書かれた詩に入り込むためには、抜け殻が、ただ抜け殻であるだけでは駄目であって、叫んだ形跡の姿が残っていないと伝わらないと感じました。それで、そういう風に考えていくと、詩集が送られてきて読んだりするわけですけれども、声が聴こえてくる詩集は非常に稀なんですよね。抜け殻の輪郭がしっかりしていないと駄目だということです。

T ■詩の基本として「声」があるということを志郎康さんが書かれていることは重要だと思っていて、荒川洋治さんの場合は、多分、声なきテキストなんですよ。最終的に文化遺産として文学全集の中に保存されるものとして捉えていると思うんですが、志郎康さんの場合、その場にいる人に何かを訴えていくというか、保存性のことよりもその場その場の必要性のことを考える思想じゃないですかね。

S ■詩は、書いている人の頭の中にあると思っているんですよ。

I ■茂木健一郎の言うクオリアというものですね。

クオリア(英:複数形 qualia、単数形 quale クワーレ)とは、生活のうち、内観によって知られうる現象的側面のこと、とりわけそれを構成する個々の質、感覚のことをいう。日本語では感覚質(かんかくしつ)と訳される。(ウィキペデイアより)

S ■詩は、あるところから書かれるものになってしまって、朗読となると、書かれたものを読むということになるんですよね。最初から、即興で詩がどんどん書ける人は、それはそれで良いと思う。書かれた詩が活字で紙に印刷されたりしているときには、もう転倒しているわけじゃない。転倒したところでやっていくとそこで固まってしまっていくんじゃないかな。書く側は、頭の中にある詩を刻印しなければならない。それは、とても高度なことだと思う。いま書かれている詩は、読む側に詩を読み解く技術がなければならない状況になってしまっているんですよね。
 そういった点でね、さっきの中村登さんの詩と福島敦子さんの詩は、それなりに伝わってくるの。詩は文で良いんだと言ってるのも、そういうことと関係しているね。
 詩は、そのようなシステムと闘わなければならないと思う。「詩の実質──極私的詩ノート」というところに、詳しい記述があります。

T ■「詩の実質──極私的詩ノート」の233ページに、こういう文章があります。

   詩を社会に連携させ、一部でも商品にしようという人間として当たり前の考えが、 「選ぶ選ばれる」システムを、人に「書いて読まれる喜び」をもたらすのではなく、「書いて読まれることもなく忘れ去られる」悲しみを大 量に生み出すシステムにしてしまったように思えるのです。

   これは、詩を書いている人にとっては身につまされることだと思うんです。

S ■その屈辱に打ち勝とうとしているのが、例えば福間健二さんの500ページに及ぶ『青い家』(思潮社)だよね。
 ねじめ正一さんや伊藤比呂美さんも、どんどん世の中に出て行こうとしていった人たちですよね。ねじめさんや伊藤さんの詩は、人間関係の心理を語る提喩の詩なんだよね。だから、小説に行かれるんですよ。隠喩の詩だったら、小説に行かれないんだよね。内面だから。

T ■そのノリで、詩を発展させることはできなかったんですかね。

S ■伊藤比呂美さんは、詩集『河原荒草』(思潮社)で、それを乗り越えたよね。

T ■詩誌の選者に自分の詩が選ばれなかったからといって、落ち込んだりするのは、非常につまらないことだと思うんですよ。野球だったら、草野球は誰でもできて、下手でも何も言われないじゃないですか。ところが詩の場合、詩を書いていると言うと、じゃあどこに載ってるの、というような話になっちゃうじゃないですか。

S ■もう、それは、やや無くなってきたんじゃない。『Tab』を読んだりしていると。

T ■もっと無くなってほしいと思います

I ■僕は、ある時期から同人誌には、一切関わらないことにしたんです。やっている内に同人同士、互いに色を染めあってしまうような気がしたからです。よく同人誌が送られてくるんですけれど、同人誌ごとのカラーって、あるんですよね。

S ■僕はね、最初にやった同人誌『青鰐』では、『現代詩手帖』などへ全然送ってないんですよ。『凶区』は、みんなで読み合う同人誌だった。『四』や『壱拾壱』など発刊のペースをとれだけ速めるかを考えた同人誌もあった。『飾粽』になると、それぞれの大将が集まってきてしまった。その大将にくっついていると認められるのかなという人が出てきてしまって、僕はやめてしまった。

T ■PDF版の長尾高弘詩集『見覚えのある道』は、紙の詩集として出版はしないわけで、彼は商業出版には背を向けてみせたわけでしょう。

I ■目立たないそういう詩集を、見つけ出す人が増えていく必要がありますね。奥付には、頒価無料と書かれているんだけれど、頒布されない事態に陥ってしまう。それは、作者にとって悲しいことだと思います。ただ、これからは、詩集の発表のされ方がいろいろ工夫されていくと思います。

T ■『結局、私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)というのは、一人一人が自分に即して書いていくことの大切さが書かれた本だと思います。極端に言うと、一人一人の詩人がみんなメディアとして自立するということ。出版ルートに自分の表現の全てを委託してしまうと、そこで広がりが閉ざされてしまう。

S ■社会の中にいろいろなシステムができていって、それに対して自分はアンチシステムでやっていくんだという主体性が必要だと思う。システムに乗るのなら乗るで良いんだけれども、その前に自分の姿勢を確立しておかないと。

T ■それが、叫ぶとか声という出発点と繋がってくるんですよね。欲を言うと、『結局、私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)の中に、福間さん的な悩みを持っている人を救ってあげる章があれば良かったのかなと思います。




ミラーサイト 「第1回 鼎談鼎談 <現代詩>をもみほぐす」

元の「鼎談 <現代詩>をもみほぐす 第1回」コメントが付いてます。
元の「鼎談 <現代詩>をもみほぐす 第2回」コメントが付いてます。