第二十八回目 飯島耕一の「何処へ」


何処へ

          飯島耕一


陽気にはしゃいでいる人たちがいる
だけどぼくは騒げない
ぼくの心はねじくれてしまったのか
グラスをまえにして
ぼくはたつた一人だ
昔の女たち 昔の友だち
みんなどこへ 行つてしまつたのか
どこかへ出掛けてしまつたのか

わるい時代なのだろう きつと
きみたちの姿がどうしてもよく見えないんだから
理由はわからない いつだつて
理由はよくわからないんだ 濃霧のような問題と情勢
そしてねじくれているんだ ぼくの心は
ぼくはだめになつてしまつたのだ
どこまでも自分をいじめたい気持になる
わるい時代のせいなんだろうか
人々はまわりにいつぱいあふれているのに
そのなかにぼくの友だちはいない
あの青春のはじめの暁の友だちの顔は

ぼくらが思つているより 今は
はるかにわるい時代なのだ
誰ものど元までことばにならない
しぐさや羽毛をつめこんでいる
青空の破片はいつまでも破片のまま

ぼくらはおそらくあまりに似かよつているので
出会つても感じるのはおなじ色
おなじ形のなぎさの砂の
こぼれおちる音ばかりだ 聞えるだろう 聞えるだろう
おそらくぼくらはタチヒを見出すまえの
取引所員ポオル・ゴオガンたちなのだ
やがて冬がやつてくる 何処へ 何処へ
という敷石(しきいし)にこだまする冬の声の襲来
そして砂の声 嘴の音。

        飯島耕一詩集『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』
        (書肆山田刊)より


○お酒と詩。この詩にお酒のことがでてくるのは第1連の4行目の「グラスをまえにして」というたった一行だけだ。語られている内容からすると、別にこの行がなくても気にならない感じがする。けれど、すこし注意して読むと、この一行は、とても効果的な役割を果たしているのがわかる。昔の女たち、昔の友達が、みんないなくなってしまった、と呟きがはじまるのは、やはりグラスの置かれたバーかどこかのカウンターの前、というのが似つかわしい。そこは、たぶんかっての恋人や友人たちと談笑した思い出の場所なのだろう、というように自然な連想がもたらされるからだ。そこから「ぼく」の想念が軽いほろよい気分の時に浮かぶ連想のようにしだいに遠くに流れていく。今という時代のこと、遠い過去に去った青春のこと。「ぼくらは」という言葉からはじまる最終連は、同世代の他者に向けられているようでいて、どこか作者の内心にむけられた慰めや励ましのようなひびきをもっている。こういうやや感傷的な心情の吐露もまた「ぼく」がグラスをまえにして呟くように話している、と想像するとよく伝わってくる感じがするのだった。この詩は、詩集『ウィリアム・ブレイクを憶い出す詩』の第一部(1963年に思潮社から現代日本詩集シリーズの一冊として出版された詩集『何処へ』の全編が再録されている)の巻頭をかざっている。この詩も前回の「地球儀を眺めながら」と同じように、これから読者を詩集の世界に誘う序詩としてもとてもしっくりくる感じだ。




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