第六十三回目 江國香織の「ゆうべ妹と」


○江國香織というと、童話や小説やエッセイで活躍しているひとのようで、著作を書店や図書館でよく見かける。今までたぶん対談集くらいしか読んだことがなかったのは、若い人むけという感じできっかけがなかったせいだが、若い人から勧められたことはある(^^;。たぶんこういう感じだろうな、と想像していたことはあって、江國香織詩集『すみれの花の砂糖づけ』はまさにそんな風だった。


ゆうべ妹と

      江國香織


ゆうべ妹とお酒をのんだ
フェルマータというバーで。
そのバーに私は
前に何度かいったことがあった。
りんかくのきれいな
やけに正直な男と。
その男と私は愛しあい
辞書が書けるくらいたくさんの言葉をついやして語りあい
野蛮で甘美ですばらしいセックスをして
死んでも離れないと言いあった。
それはともかく
ゆうべ妹とそのバーで
ひさしぶりにお酒を飲んだ。
二人とも果物をつかったカクテルを二杯づつのみ
いちごをたべた。
妹はおなかがすいていたので
サラダとソーセージとスパゲティもたべた。
妹は恋をしていると言った。
その男は昔自転車で旅をしたのだという。
夜中に妹に電話をかけてきて
その旅の話をするそうだ。
妹は電話をしながら地図をひろげて
その男の旅したとおり
しるしをつけた。
いいじゃない
私は言った。
好きな男とつきあったり、
いっしょに暮らしたりするのはきっと楽しいわ。
妹はその男と四谷を歩いた話をした。
四谷で男とおそばをたべて
それから土手を散歩したのだそうだ。
いいじゃない
もう一度私は言った。
ほかに何を言えるだろう。
私たちは何とかいうカナダのピアニストのコンサートを聴いた帰りで、
音楽のせいで気分がよかった。
その夜、ピアニストは
アンコールに四度もこたえ
そのうち一度は左手だけで
すばらしい演奏をした。
今夜のことを詩にしてもいい?
ほらたとえばカーヴァーみたいな。
私が訊くと
妹はすぐに
うんいいよ
とこたえたけれど
カーヴァーを読んだことなどないであろう妹は
でもそれどういうの

つづけて訊いた。
冬の夜だった。
窓の外は東京じゅうみわたせる夜景で
バーテンは何度もやってきては
灰皿をとりかえた。
ゆうべ妹と
フェルマータというバーで。

        江國香織詩集『すみれの花の砂糖づけ』〔理論社)所収


○カーヴァーみたいな、というのは、この場合日記風な、ということだろうか。バーでカクテルを飲み軽食をとりながら上機嫌の妹から聞いた内輪の話が淡々と書かれているが、それを聞いている「姉」としての「私」は、その店に一緒に来た昔の恋人とのことを思い出したりして「恋愛」についてちょっと醒めている感じだ。そういう対比がひとときの姉妹の幸福感のただよう語らいの中に、奥行きのようなものをつくりだしている。カーヴァーなど読まない妹は、その分、幸福なのかもしれないし、今日のこの自分たちのおしゃべりを詩にしたいと考えて妹に言ってしまう「私」は、たぶんその対比こそが書きたかったのだろう。この話し役と聞き役の間に生じている心理の差異は微妙でささいなものだが、どこにでもあり、差異に気が付いているものの側からの「いいじゃない」という肯いが、ひとときの会話の輝きをますように使われている(「他になにを言えるだろう」)。
 詩集『すみれの花の砂糖づけ』には、もう一編『犬と猫』というお酒がでてくる詩があって、こちらも日常のなかの他人との微妙な差異にふれられている。この差異をどんな形で世界にかえしてやるのか、というところに作者の人柄がでているような感じだ。


犬と猫

      江國香織


夜中
よっぱらって帰るとちゅうで
ちょっと吐きました
ちゃんとシャワーをあびたのに
ベッドにもぐりこんだら
眠っていた夫が
ゲロくさい
と、言いました
犬みたいに鼻がいいのね
あたしは言い
でも夫はもうなにも言いませんでした
それであたしはしかたなく
野良猫みたいに夜遊びする妻だな

じぶんで言って
寝ました

        江國香織詩集『すみれの花の砂糖づけ』〔理論社)所収







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