膝のした

膝のした

三井喬子

そうーっと襖をあけて
こんばんは
静かに 白いものがやってくる

こんばんは
お邪魔しますと三つ指ついて
すすすすすっと滑り込む

ちょっと近道させていただきます
あなたのお膝の柔らかな下から
わたしの実家の庭先にまで
ほら くすぐったい道があるのです
もしもわたしが笑いましたら
前の人の 足の裏を見てください
小さく震えていましたら
ちょいとつついてみてください
ほら
ほら うふふふふ
引っくり返りますか
引っくり返るでしょう 裏返るでしょう
穴が開いてますでしょう あなたの座っていたあとにも
暗い穴が
袖口のような良い匂いのする穴が

お家に帰ろう
お家に帰ろうって言うんです 
白い子どもが

早く帰ろうよって言うんです
そこはわたしの生まれた家なのに
子どもが帰りたがるのです
何しろ子ども連れなので ぐずり出さないうちに帰りたくて
そうだ近道しようと思いましたのに
あなたが座っていらっしゃるので 困ります
困るんです どいて下さい
はなから
騙してでも蹴飛ばしてでも
そこから帰ろうと思いましたから
化粧もし 着替えもし
すきあらば…



いえ
名乗るほどの者ではございません
以前このあたりに住んでおりましたときに
実家に帰りたいあまりに穴を掘りました
闇にまぎれて掘りました
日がな一日 少しずつ土を捨て
地下水脈をたどり やがて実家の庭先にまで 
ああ なんと長い道でしたことか!



お父ちゃんは 腕を組んで後ろを向きました
  おお もう大勢の衆の足音がする
  去ね 去ね!

お母ちゃんは わたしを抱きしめました
  帰しとないのや 
  帰しとないけど 帰さなならんのや
  せめて一晩おんなじ布団で寝たいけれど
  それでもやっぱり お帰り
  ぶたれんうちに お帰り

もう帰ってくるんじゃないぞ と お父ちゃんはいって
わたしの穴に大きな石を載せました
重たい 大きな石でした



それから 一度も 帰りませんでした
帰れませんでした
孕んだ身体は
孕んだまま塀のかたわらに埋められ
なあんにも 無くなりました

ここに来たのは九月の風のあとでした
埋められたのは翌々年の暮でした
余った漬物石が載せられました
…二つ 三つ 四つ



  お母ちゃん と 言うてごらん
  もう一回 お母ちゃんと言うてごらん
そんな声を聞いた気もしますが
いくら耳をそばだてても 風の音がするばかり
あれは 空耳だったのでしょうか
耳 耳 耳
火のように燃える 耳

こんばんは ちょっとお邪魔をいたします
霙の降る 寒い寒い午後は
性別も知らない白い子どもに急かされて
いえ 急かされるまでもなく わたし自身が
あなたのくすぐったい膝の下から帰りたくて
ちょいと あなたの肩を突いてみました
痛いですか
痛いですか 痛いですか
わたしの爪は伸びていて
割れていて
あなたの柔らかな心を 引き裂くことだって出来るのです
痛いですか
冷たいですか
わたしと わたしの子どものために
そこ
どいて下さい


  (乳がん患者支援の会のために 耳・耳・耳/2006)
  (2006.12.23 金沢市民芸術村・里山の家にて朗読)