かぢをたえ

かぢをたえ

倉田良成

  題不知
由良のとを渡る舟人かぢをたえ行衛もしらぬ恋のみちかな   曾彌好忠


 その日曜日も晴れていた。かつて大きな遊園地があった駅周辺は、なくなった今でもなにか大きな花の痕跡のような名残のにぎわいがあって、もうない遊園地のスピリットでもって街が出来上がっているかのようだ。改札口を出たところで待っていると、詩人というよりは論客と形容したほうが正確じゃないかと思われる詩人Aが、ようと言って片手を上げながら近づいてきた。ふたりでたばこを吸いながらもうひとりを待っていると、改札ではない、大通りのほうから自転車をころがしながらやって来たのは、銀縁のメガネをかけてときどき安定剤のお世話にもなっているらしい詩人B。彼は批評のほうで世間的な評価を受けているが、じつはわれわれ三人のなかでいちばん詩人らしく、つまり病気っぽい。Bもたばこの箱を取り出して一本くわえる。三人の男が煙突状になって突っ立ったままけむりを上げてから、てんでに足許にすいがらを落として靴でもみ消し、通りの向かいにあるデパートの地下に入ってきょうの宴会のための酒と肴を調達する。駅裏の赤煉瓦の堤防を越えると河原が見えてくる。われわれは、より人のいないところ、草の繁っているアジールをもとめて川の流れの飛び石を伝い、川の中洲にうたげの座をひろげる。論客のAは大酒飲みだが、詩人らしいBは自称そんなに飲めない。私はといえば、酒の相手ならどんなやつとでも何時間でも付き合ってみせるという妙な特技がある。Aがいつも言うところでは、こないだ亡くなった菅谷規矩雄は酒の飲みすぎが身体にきたのだが、じぶんは身体が強いので酒の影響があたまにきているのだ。そう言ってデパートで仕入れてきた純米大吟醸酒の一升瓶をかたむけて紙コップに酒をつぎ、若狭の小鯛の笹漬けをひときれ口に入れた。両方とも、そのころほんの少しだけ羽振りがよかった私が供出したものだ。詩人っぽいBは紙コップ一杯も空けないうちからああ酔っぱらったを繰り返す。ひばり揚がれる晴天の午後はそうながくは続かず、ゆうぐれどきが近づいてくる。AもBも私もかなりいい気持ちになってきたのは昼酒が効いたのだ。対岸の繁みには二組三組、恋人たちがささやきあっているのがわかる。詩人っぽいBは、ああ酔っぱらったとまた小声で呟いてから、口に手を添え、対岸に向かって大声で、そっちに石を投げてもいいかあと叫ぶ。二、三か所から力のない声で、だめだぞうと返ってくる。論客のAはそこいらにある枯れ木だの枯れ草の束などを集めてきて、案の定、焚火をはじめる。通報されたり実際に警官が来ないかとはらはらするが、彼はむしろそれを待ちのぞむような感じで盛大に炎を上げる。今でもそのときの写真があるが、西の空に恐ろしく冷たい金色が輝いているのを、あのころは気づかなかった。その後、あのときのうちの一人は離婚して沖縄に行き、一人には初孫ができ、もう一人は癌になった。そっちに石を投げてもいいかあ、だめだぞう、という、誰のものでもない言い交わしは、夕映えに鳴りひびくセイレーンの誘きのように、われわれを深い迷宮へみちびくものだったのだ。あの恋人たちも、もうこの世界のどこにもいないのだが。