南、十字へ。

南、十字へ。

海埜今日子

ぬるいちてん、ふみいれたなら、ほぐれてゆく、というかんぜんちょうあくは、もはやつうかしがたいものだった。まだらになったこかげです、かんどうとらくたんのふきだまるよつつじです、ありがとう。ほしのしせんがくうきをふるわせ、それぞれのものがたりをこぼしている、ひるのふるまいがよどおしゆるむことのないように、さんばんめにこえをかけたら、きっとわたしをふみだすことになる、そうしるされていたものもあるのだろう。はもんのようなこもれびはかわきつつ、みなみをみつめることもできるのだ。あくにんすぎるおこないがひたしているのだと、たすけをもとめるけはいがあったとして、きづくだろうか、さけびにならず、くちのはしからあつくなる。じゅうじろでは、みみをよそおったかたりてがとどこおり、しったふりのえだをたおり、ささくれだったきぶんをかきまぜ、よんばんめのつうかをあてたがる、ありがとう、しずくがほしであったのなら、ずいぶんとききてもかんけいするのですが。あまりにも、とたちすくんで、きづきたかった、かたられたばしょがよるにしずみ、あかるくなって、ひまつよりも、けっしょうよりもきずにささった。もえるようなほうがく、しほうにたわんだきんこう、ここではどんなけはいもびょうしゃにちかいし、ちがうのだ、ざんしにふるえるくうきはつじのよどみにもかたんする、なぜならこかげはせきたんのように、くらさゆえにうきあがっていたのだから。ぬるんだきろくがたばねられ、ほしのむこうで、わたしたちをこえにだす、ききとどけなければ、とどめなければ、ありがとう。こらしめられるべきあくにんが、たんじゅんさをもとめてゆきかい、おわったつじがひといきつき、かわいたすいめんをほっしていた、それはこうさするまだらなながれのせつなだったかもしれない。よんばんめにひそんでいたくうきのなかで、かんぜんなぜんにん、というとうじょうにふはいをからめ、かいわのかけら、そだてればよかったのだ。ひらいたみみと、つぐんだひかりで、こもれびをたぐり、みなみにたむける、こわれたつかいかた、ふるいしぐさのつちけむりとなって、しせんのかさなることもあるときく、ほし、ありがとう。すこしのぜんにんが、ばちがいなまでにほういをこぼす、それはまがりかどでのはじめてのかいわだった。ぬるいものがしゅくふくした、ぜつぼうした、こんなふうに、またたくむごんがあってもいいとかきとめる。かわいたしずくのあたたかさよ、つめたさをまきちらすようにして、おおむねのじゅうじろでえだがうなった。


(初出:支倉隆子個人誌『南へ。』1号)