表現の現前性

表現の現前性 ――白居易、春題湖上詩「月点波心一顆珠」[南波止場1番地 My online scrapbook(HTMLで保存)]

鈴木志郎康
     
1.
 表現は、わたしの場合、詩を書く人間として、また映像作品を作る人間として、更にまた毎日ブログに自分の日録と花の写真を掲載する者として、日常的に 行っていることなのだが、それを一度考えの対象にして、言葉で語ろうとすると、それもまた一つの表現といえるわけなのだが、なかなかやっかいなことになっ てきてしまう。表現は日常的に行っているといっても、余り意識しないで行うこととは違う。それなりに意識して身体や頭を使う。表現について語るというの は、その「意識して」というところを更に意識するということになるからやっかいなのだ。「やっかい」と感じるのは、普段行っている表現の仕事とは違ったこ とをしなければならないからだ。表現について考えなくても表現はできる。敢えて表現を考えるということは、表現をしている者にとっては、自分の表現を鏡に 映すようにして見ることになり、その自分の表現をちょっと超えるところへと意識が向くことにもなり、現在の自分の表現の行為に甘んじてはいられないような 気分にもさせられて、更なる決意を持つとまでは行かなくても、そういう気分に迫られることにはなる。表現を深めよとか磨こうとかする者には当たり前のこと だが、それを望まなければ、表現について考えるなどいうことは、実にやっかいなことだ。人間は習慣に埋没しやすい。表現はその時その時を生きることだ。考 えを止めてられない。

2.
 表現は意識的に行う行為であることは確かだ。詩を書く場合、頭の中に言葉を思い浮かべて、それを紙や筆記具やパソコンなどを使って書くことになるが、そ の時、日常会話の場合とは違って、その言葉について意識を働かせる。文学的な表現として作品にすることを意識する。映像作品を作る場合も、シャッターを押 すとき、対象がイメージとして持ちうる意味合いに意識を働かせる。ブログに書き込む時はもう少し気楽な気持ちだが、これも自分の一つの表現として、自分の ブログの形を意識して言葉や画像を選ぶ。言葉や、映像や、ブラウザの表示などに意識を働かせるところで表現といえる。意識を働かせるのは、言葉に、また映 像に、あるいはディスプレイの表示に、形を持たせるということだ。形とは五感を働かせ、統合して、誰とでも共有できる、記号の集合体といえるものだ。言葉 の意味、映像に写っているもの、表示されているもの、それらの表現の内容となるものは、そこに与えられた形を持つものとして、受け手に渡される。形がなけ れば渡すことができない。形を作れるもの、つまり記号媒体によって内容を形に作るのが表現で、表現するときは、意識を働かせて、内容に合わせて、その形の 細かいところを一つ一つ決めて行き、そこに喜びを見つけるということだ。その細部を決めていく瞬間に表現は実現される。表現の行為は生なもので、その結果 に生じた作品は表現の痕跡、敢えて抜け殻と言ってしまってもいいようなものだ。人にとって表現は、その行為の現場に立ち会って共有するものであって、映画 館で上映されるにしろ、本で読むにしろ、現場を離れてメディアで手渡す場合は、他者には抜け殻しか手渡せない。
 ここでわたしが強調したいのは、「一つ一つ決めて行く」という生な行為が「表現」だということだ。そこに喜びを見いだせるからやる、それが表現だ。メ ディアが発達して、人と人との接触が間接的になって行く傾向が強い現在、表現の生な行為と、その結果の「作品」と呼ばれる「物」や「事」とは区別した方が いいということだ。活字になった言葉は「詩」とは呼ばれても、「表現」ではない、と敢えて言ってしまいたい。映像も同様に、スクリーンに上映されているも のは「作品」ではあっても、「表現」ではない、と言ってしまいたい。演奏や演技やダンスは、時間と空間を表現者と共有しているから「表現」として受け止め られる。そこでは、表現者の行為そのものを同時的に受け止めている。「表現」はあくまでも、言葉を選んで書いている作者の頭の中にしかないと、また映像を 撮影し編集している現場にしかないと言ってしまいたい。表現は、それを行う者の行為だと言いたい。表現は人間の行為だと言いたい。表現は現前するものだ。 そして喜びを共有する。その行為は人間の時間そのものであって、時空を異にした他者には手渡せない。そこで人はその行為の結果としての作品を手渡し、作品 によって「表現の行為」を積極的に遡源し体験して貰うしかない。つまり、作品というのは、人間の表現の瞬間を、時間と空間が異なるところで受け止める時 に、それがあったことを示すための記号の集合体でしかないのだ。「表現」は誰にとっても、人間の行為として、また喜びとして同じで、優劣はないが、作品に は巧拙があり優劣があり、評価されてしまう。それはわたしには悲しいことだ。だから、「表現」と「作品」とを区別した方はいいというわけだ。わたしは、多 摩美大の一年生の授業で表現について話したとき、水紋の例え話をした。川でも池でも、水面に石を投げると波紋が生じて、それが広がって行き、石は水の底に 沈んで存在する。表現というのはその波紋を作ることだ。翻って、波紋が生じるその瞬間、先ずはその瞬間は表現する者の上に起こる。つまり、表現者が「形の 細かいところ一つ一つ決めて行く」ところに表現が起こっているというわけだ。そこで、結論として、表現とは今のこの瞬間を生き切ることだ。その表現者がど れだけ生き切れたかは、波紋が生じた後の水底に沈んだ石ころが語ってくれるというわけだ。

3.
 この波紋の例え話は四年生の授業ではもう少し詳しく話した。表現を受け手を含めた空間の広がりで考えると、人間の表現は、心を媒質にした波動の伝播と考 えられないか、と考えて話したのだった。茂木健一郎著『脳とクオリア』という本を読んだら、脳の働きは、脳のニューロンのクラスターの発火だという。脳髄 の細胞が房のようにつらなって発火するという。わたしはこのイメージが気に入った。その発火が生み出す脳内のイメージをクオリアというようだ。感覚で捉え た実感、それがクオリアだという。そのクオリアは、現象としていかなる記号でも表現できない。実感そのものは表現できないというのは、その通りだ。しか し、人は脳の働きが活発になると、それを誰かに伝えたい、または誰かと共有したいという気持ちになる。伝えるには共有する記号しかない。では、表現できな い記号で伝えられるものは何か、と考えると、ニューロンのクラスターの発火が点滅するのだとすると、それは波動を生むと云えないか。数億個のニューロンが クラスターになる組み合わせは無限に近いに違いない。記号は、多分、そのクラスターの発火の点滅の波動を、音波や光波に乗せるのではないかと、わたしが抱 いたイメージを拡げて話をした。そんな波動が存在するかどうかわからないが、表現によって起こる現象を見ていると、表現者から発信された一種の波動が受け 手に伝わっていくように思える。波動は物質を媒介して伝わって行く。音の波動は空気を媒質として伝わる縦波だ。縦波は力を受けた物質が圧縮されて、その物 質の元に戻る性質によって、拡張するという現象を次々に繰り返していく波のことで、人が感動を受けた時の状態に似ていると思う。表現に触れて感動して心が 震えたりするが、それは表現で起こった波動のエネルギーがそれぞれの心を媒質にして伝わって来たのだと考えると、なるほどと思えてくる。この例え話を元に 想像を拡げると、音楽は音波がそのまま心を振るわせ、大アリーナに集まった数万の人間の身体まで動かす程の力を持っていることに納得する。音楽に合わせて 人々は波を打って手を振り身体を揺らしている。詩が言葉のリズムとイメージの重なりによって脳の働きを活発にすると、そこにエネルギーが生まれてくること は確かだ。人は言葉によってヴィジョンを掴み、それを生きていく力にする。スクリーンに映し出される虚構の物語が巻き上げていく時間と空間に人々は引き込 まれる。映画館の光の波と音の波にわれを失ってしまう。スクリーンにはイメージが流れているが、それは光と音と言葉の記号の集合体として表現する者の心の 波動を担って迫ってくる。これらのこと起こるのは、感覚で受け止めた刺激を脳が統合して波動と受け止めているからではないかとも思える。飛躍して考えれ ば、光も音も、刺激そのものが波動であり、宇宙全体が波動で構成されていることに思いを馳せれば、わたしたち一人一人が波動を発信するといってもいいので ないか、と思えるところもある。しかし、今のところは、この「表現は波動だ」という考えは、感覚からの刺激によって脳内に電磁波的な波動が起こるのかも知 れないと空想するだけの例え話に終わるしかないが、劇場で起こる感動という現象や本を読んで起こる感動という現象、また一枚の絵や一個のオブジェが放つ衝 撃という現象については、人間の脳の働きとして、その実体を明らかにして欲しいと思う。まあ、波動の力で人は抜け殻の「作品」から生きた「表現」に向かっ て遡源することはできる。しかし、「表現」は作る喜びなのだから、それは作ることで「今を生きている」そこにしかない。

4.
 表現は「今を生きることだ」といったときの、その「今」というのは、表現が作る形の細部が持っている時間といえる。表現者にとっては、それは一つ一つ作 る細部が孕んでいる時間だ。その時間は時計が刻んでいる時間ではない。物と事が為し遂げられていく時間だ。それは書かれつつある詩の一つ一つの言葉が孕ん でいる時間だ。詩を書くために、一つの言葉を選ぶということは、書いている人間が意識するしないに関わらず、その言葉の本来的な意味と同時に、選ばれ関係 づけられたところで生まれてくる新たな意味合いを生み出すということだ。一つの言葉を選んで使ったということは、その言葉を全く新しいものにしたというこ となのだ。そして同時に書いた人間を、それまでの彼または彼女とは別の新たな人間にしたということなのだ。そして、その言葉はその詩の他の言葉と共に、記 号の形態として新たな形として実現されたことになるのだ。映像で表現する場合でも、音で表現する場合でも、身体で表現する場合でも同じことがいえる。つま り、「今を生きる」というときの今は、表現として新たな形が生み出され、表現をした人間が生まれ変わる時間ということだ。それが表現の本来的な意味だ。
 表現は形を作ることだと書いてきたが、記号の集合体としての形のことだ。わたしたちは古くから様々な記号を使って互いに交流してきた。その延長上で、わ たしたち人間はただ群れて生きているのではなく、互いに役割を決めて組織として全体を形成して、その全体に属する者として生きている。その全体と個々の関 係を維持するために記号を共有することが必要だ。記号を共有したところで集団として安定する。まあ、わたし自身、日本語が通じ、その他の定められた記号を 共有する国の一員として生活しているわけだ。その記号の集合体としての形が認知されて、その形も共有されている。その形は様式となって歴史的に維持され る。しかし、社会が存続するには、抱え込んだ矛盾を解決するために、社会自体の変化が求められる。そのあり方の一つとして社会自身のイメージの刷新が求め られる。社会のイメージの塗り替えは、表現の総体として実現されていくように思える。この国の表現のあり方は、伝統的な芸術表現の様式を保持しながら、先 端的な芸術表現の形も生み出している、宗教的な色合いの薄い近代国家というイメージができているように思う。国家社会という枠の中で、歴史と権威を担った 表現の実現と個々の表現の実現が、矛盾を孕んで、新たな表現の記号の探索とその集合体の新たな形が実現されてきたといえよう。記号の集合体の形というの は、個々の表現者の恣意的なものではないのだ。社会の認知が必要とされる。伝統的なものとして、また社会の認知を獲得したのとして、あるいは社会の認知を 獲得しようとしているものとして存在している。
 
5.
 言葉が文字を獲得し、更に活字を獲得したところで、ほとんどの言葉の表現が黙読を主とするようになって、その表現の形は音声としての形から紙面の上の形 に変わった。言葉の表現は「書き言葉」の表現になった。表現するものは、言葉が作る形の細部を紙面を形成するものとして意識している。表現はあくまでも生 きた人間が形の細部を「一つ一つ作っていく」瞬間に実現されているのに、書かれ印刷されたものが「表現」だと受け止められるところとなる。いわば、表現の 抜け殻が表現と受け止められる一種の「転倒」が起こり、それが表現だということになっている。詩の表現は文字に書かれるその時に実現される。活字の集合体 は詩の抜け殻だが、それを読んで、読者は作者の表現を追体験するといわれるが、作者が表現を行為しているときの、その「今を生きている」ところの総体を体 験することはできない。読者はその表現の抜け殻から表現の姿を辿れるところまで辿るしかないのだ。作者と表現の現場を共有しない限り、現前した表現に接す ることはできない。従って、作者と言葉の表現を共有するには、何らかの仕方で現実的に作者と接することが必要だ。わたしの考えでは、そうした方策を取るこ とによって、わたしたちが置かれているマスメディアと商業主義が支配する状況で、表現は一人一人の人間がやっているのだという、人間の表現を取り戻せる。
 まあ、状況はともあれ、実際に表現をしているものは、自分の表現として形の細部を生きること真剣にやっている。詩歌には形を共有する「定形」と、表現者 が個々に形を作っていく「自由詩」とがある。わたしが書いている「自由詩」という表現の片側には、「短歌」や「俳句」という伝統的な表現があり、それぞれ 違った意識で形に向かっている。「短歌」「俳句」は言葉の音韻律によって形は伝統的に固定しているが、「自由詩」の形は言葉の短い行を決まった数で連ねて 行くものから、散文で書かれるものまで多様で定まっていない。それは「自由詩」が言葉という記号の新たな秩序と、集合体としての新たな形を探索するという 一面を、表現の役割にしてきたところがあったからだ。
 「短歌」のように形が固定しているからといって、表現するものはただ形を満たすだけに「今を生きる」わけではない。歌人の斉藤斉藤の『渡辺のわたし』という歌集にある
 
 ひるねからわたしだけめざめてみると右に昼寝をしているわたくし
 「お客さん」「いえ、渡辺です」「渡辺さん、お箸とスプーンおつけしますか」
 
という歌、また歌人の盛田志保子の歌集『五月金曜日』にある

 蝉、ごみのようにぶつかるアパートの壁もやさしい夏のゆうぐれ
 月の頬なでている風ほおづえの形に雲が運ばれていく
 
という歌などには、自分たちの表現の内実と形のせめぎ合いに新たな意味合いを生み出そうとしている鮮烈な姿が見えてくる。音韻律という定形の枠があるか ら、言葉の主体の位置が決まって、視点の在処が鮮明になっている。しかし、定形という枠はギリギリに保たれている。そのギリギリのところが「今」なのだ。 その視点から見えたものによって、作者は「今を生きている」といえよう。そこに今を生きる人の姿が見えてくる。
 詩の場合の例として、わたしが若い頃に作った一種の音声詩を挙げてみる。
 
  口辺筋肉感覚説による抒情的作品
  作品 10

 ポポ
 ヌムヌムモナラミ
 ヌルヌルモモヌム

 ギレッチョ
 ズルマッチョ

 ヌムヌムモナラミ
 ヌルヌルモモヌム

 ズルマッチョ
 ポエ          

詩とはいっても、意味のある単語は一個も使われてない。この点で社会的に詩として認知されるかどうかという問題があるが、音声の集合体を形にすることに よって、読むとある種の独特の印象を与えられる。つまり、言葉の意味ではなく、音声の印象によって、擬態語の身体に及ぼす感覚的なイメージが生まれてく る。擬態語という認知された記号の領域のギリギリのところで、言葉としての形を成立させているわけである。作者としては音声の身体的なイメージを生み出す ことによって、「今を生きる」ということを実現したといえる。それが新たな言葉の表現を目指すものと思っていた。
 も一つ、詩人であり物語学者の藤井貞和の昨年刊行された詩集『神の子犬』に収録されている詩を読んでみよう。
 
 チェーン1
 
 抑止切れ、
 たったいま、
 威嚇の音!
 国家の火が、
 燃え!
 ノオ否の、
 報復?
 ひい非違か、
 しいて一つ、
 共存せず、
 決せよ、敵か、
 という、この、
 そうい創痍にねむる、
 魔は、
 いじわるな開始だ、
 理屈か、
 愛で、
 メールの、
 糸と、
 祈る絵!
 メディアか、つくりだし、
 いかなる輪、
 じい示威!
 はまる胸に言う、その、
 行為と、
 書き手!
 よせつけず、
 戦争よ、きっと、
 否定し、回避!
 工夫!
 ほのおの、
 絵もが、
 火のかっこ括弧!
 遠のくか、
 いま至った歴史、
 苦よ!(10月8日)
 
 *回文詩。

この詩は回文で作られている。頭から読んでも、末尾から読んでも同じに読めるのを回文という。「よくしきれ」で始まるこの詩は「れきしくよ」で終わってい て、後ろから読んでいくと同じ詩になる。言葉の音韻の連なりを形と捉えて遊んでいるわけだが、言葉の意味を辿ると、戦争というものが無くならない時代の様 相を敢えてたどたどしく語って、反戦の意を表明しているわけだ。ちなみに、この詩が書かれた2001年は、9月11日にニューヨーク国際貿易センタービル に旅客機が突っ込むテロがあり、10月7日にはアメリカとイギリスのアフガン空爆が始まっている。末尾に(10月8日)とあるから、そのことを意識して書 かれたと思われる。遊びとしては重苦しい遊びだ。言葉を形として一つ一つ組み立てていく手先に時代の重みが掛かってきているように感じられる。回文にする ことで、読み終わることがない、読み終えてはいけない、読み続けろ、という気持ちが込められているのだ。まさに形を作ることが「今を生きる」になっている といえよう。この詩は、読者が言葉をすべて仮名に置き換えて、回文として繰り返して読み始めるとき、作者の「表現の現前」に最も近づくことができるように 思う。

6.
 映像そのものは記号ではない。映像は、現実のイメージ、もしくはそれに類したもので、記号の場である。そのイメージの部分に輪郭を与え目立たせることに よって、その部分が記号として成立する。背景の前に立つ人物、その人物の動きを追うと、背景との関係でその人物が登場人物として記号化する。そして人物が 身に着けているものがすべて記号としてその人物の成り立ちを語り始める。その細部が記号として語ることが多ければ、映像は記号の場として濃密なものにな る。そしてこの記号の場は時間の経過に従って別の場に継続し、カットが集まってシーンを作るといったように、その差異の積み重ねが統合されて全体の意味を 語り出すことになる。従って、映像の表現の形は、イメージとして繰り広げられる時間と空間の場に記号性を持たせたところに生まれてくるものであり、作品の 人物、場所、事物などのイメージが記号として担う意味の濃度によって決まってくる。映像の表現では、イメージの記号性が濃ければ濃いほど現実感を感じさせ るものになり、見る者に強い印象を与える。従って、映像の表現者は、イメージの現実感を求めるが、それが形としての「今を生きる」ことになる。いい方を変 えれば、イメージのリアリティが映像の表現の形だといえる。一つ一つのイメージの中のものに輪郭を切り与えて、できるだけ多くのことを語らせるように、現 場で撮影し、編集室で意識と感覚を総動員する。つまり、映像の表現者の「表現」は撮影と編集の現場に現前しているのであって、スクリーンはその抜け殻を見 せる場なのだ。抜け殻だからこそ、観客はそこに身を投じて、絶対に立ち会えない「表現の現場」に憧れるのだ。
 この映像の表現とは対称的に、身体の表現では、表現がなされるところが劇場の舞台とか、室内あるいは屋外の限られた場所とかに設定されると、その現実の 空間が記号の場として設定されたことになるのだ。従って、そこに登場してくるものはすべて、登場した時点で記号性を持ってしまう。むしろ、そこにあるもの が記号とならなければ、表現の場が成立しない。従って、人物も事物も現実のものでありながら、その現実性は封印される。身体の表現は、現実の空間で時間の 経過に従って、現実性を封印された記号が展開するという形を取り、その形は記号性の透明度が求められるのだ。従って、身体の表現は、その場にあるものがす べて形式的であればあるほど、抽象的であればあるほど、つまり現実的な物質性が透明であればあるほど、表現のリアリティが達成されるのだ。身体の表現者は 自らが記号となって、その場で今としての形を作る。そのために透明な存在にならなければならない。そこには、記号の集合体が「今を生きる」姿となって現前 する。
 この映像と身体の対称的な表現を考えたとき、身体の表現では、現実の身体や事物に形式的な抽象性を求め、映像の表現では、身体や事物のイメージに現実感 を求めるというのは、人間が現実に生きていて、その生を鮮明に意識しようとするとき、実は脳の中で起こることに生きているのだということを如実に語ってい るように思える。表現は人間を夢中にさせる。表現によって、意識の集中と研ぎ澄まされた感覚が実現される。人は若ければ若いほど、鋭敏な感覚と燃えやすい 脳髄を持って、「表現」を求めるのだろう。このように考えてくると、わたしの頭の中には映像演劇学科の卒業作品だった、坪田義史の映像作品『でかいメガ ネ』と北川陽子たちの上演作品『顔よ、勃ったら1m』が、彼らの表現の「今を生きる」姿を鮮明に実現していたものとして、浮かんでくる。
 『でかいメガネ』は若い作者に取っての「セックス」の意味をぎりぎりに引き出してくる作品だ。坪田義史自身が演じる男が、女とセックスをしながら、その 女に自分の姿を写真に撮らせることで、意識の対象に据えて、自分をその場の関係からはじき出したり、女の性器、双方の乳房、口の四点を野球のダイヤモンド に喩えて、性器をホームとして人生を図式化し、自分はそこに戻るしかないと喚いたりして、男の性の個体としての存在感の無さを暴き出し、更に女を恐山に連 れ出して女の性の深さを見せつける。イメージの身体を「男」と「女」という存在を語るための記号として切り出して、行為と行動によって関係を語り出すとい う展開だった。この作品のリアリティは、身体のイメージが持つ圧倒的な現実感が、記号として重層した意味を語り出すところにあった。しかし、映像には表現 の現前性はない。それを克服するように、作者自身がイメージとして登場する。そうすることで、作者は自分が「今を生きている」ことを実感させるものだっ た。
 『顔よ、勃ったら1m』は、生活者として現実に生きている自分たちの身体を記号に置き換えて、どれだけ現実から離れた地点に飛ばせるかという試みの実現 だった。とにかく登場人物が現実離れしていた。 日本とアメリカ合衆国との間に生まれた巨大な男根を持つ奇形児ジョージ、蟻から変身した全身鼻の姿をした白人女メアリー、アフリカの象から変身した黒人の おかま、淋病でエイズを病んでいる女ターザン、人間だが女の前では猿になる男ちょび、彼ら彼女らを飼育してアメリカのテレビ番組で見せ物にしようとする 「アメリカ時計のケイト」と呼ばれる女、そしてネズミを喜んで演じる日本の女優であるジョージの母、これらはすべて不幸の記号として登場している。話は、 これらの人物たちが「世界で一番不幸な動物は何か」というケイトの問いを巡って、巨大な積み木がバラバラに置かれたような舞台の上で展開する。最後に ジョージがケイトと結婚して「ジョージ・ブッシュ」と呼ばれて終わる。人物たちは、問いに答えるために、二重の役を背負った不幸を述べ立てる。その役柄と いい、セリフといい、話の筋道といい、現実感を排除して、記号が織りなすゲームとして進められて行くのだ。出演者たちは、記号になり切ることで現実の自分 を透明にしようと懸命に「今を生きている」のだ。そこに表現が現前してくる。役柄だけになれば、観客と喜びを共にできる。『顔よ、勃ったら1m』の舞台で はそのことがおおむね成功していた。
 
7.
 表現の現前性というところから見ると、造形作品というのは、展示されているときでも制作が進行している作品以外はすべて「表現」の抜け殻だ。抜け殻だか ら商品として値が付けられる機会が多いのかも知れない。しかし、名作といわれるものは抜け殻でも、その「表現」の瞬間に憧れさせるものを持っていて、制作 の現場にまつわる神話を残している。ゴッホの制作現場については何度も語られ続けている。魅力のある抜け殻だからこそ、その表現の現前性を求めて多くの言 葉が語られるのだろう。実際には、造形物の表現は平面にしろ立体にしろ事物に輪郭を与えたり、図柄として目立たせることで独自の記号性を生み出し、その集 合体を形とするわけだ。絵を描くにしろ、彫刻を作るにしろ、素材となる平面や立体物に何かを語らせるわけであるから、統合された独自な記号の集積としての 形を成立させることになる。その記号の集積の作業、つまり描いていく一筆一筆が、また造形する手の動きの一つ一つが「表現」で、その作業の結果は作品と呼 ばれるものになるが、そこでは現前性は失われて、それは表現の抜け殻でしかないのだ。そういう表現のあり方を越えて、表現の現前性を取り戻そうという表現 者の意志から、イヴェントやパフォーマンスが行われるようになったと考えられる。
 丁度この文章を書いている2006年2月12日の夜、映像作家であり画家でもある石田尚志が行った『ライヴ・ペインティング』というパフォーマンスを澁 谷の「アップリンクファクトリー」で見ることができた。石田尚志がスクリーン前で、巻紙と黒い布に筆で描画していくのを、カメラでスクリーンに拡大映写し て、その筆に付けられたマイクが筆先の音を拾って、その音を元に音楽家の足立智美が即興音楽を演奏して行くというものだった。描画と演奏が進んで行くに 従って、やがて二人の息が合って、感情的に盛り上がって行き、見て聞いているわたしはぐいぐいと引き込まれて行った。わたしはその場にいて、この文章に書 いている、表現というものの「今に生きる」という「表現の現前」に立ち会っている思いになった。
 石田尚志は黒い布の上に絵筆を持った素早く手をくねらせて植物が生長するような白い図柄をえがいていく。その筆が布に当たり、擦れる音が増幅され、足立 智美が自作の音響マシンの前で踊るように腕と身体を揺らしくねらせると、着衣に仕込まれた距離センサーの移動で音色が変わっていく。即興的に描くというこ とで、石田尚志の脳内に起こっていることがそのまま外に出されて、空間に広がって展開しているようだった。いや、むしろ音と身体とイメージのフィードバッ クが彼の内面に反響して、次のアクションを誘い出しているようにも見えた。描く手の動きが早まり、音を追う道筋で、最後にはそこにあった電子ピアノの鍵盤 の上に筆で押し当てて行き、絵筆を捨てた指が鍵盤を叩いて激しい音の幕を、喜びの頂点まで引き上げるようにしてパフォーマンスは終わったのだった。
 このパフォーマンスを見ることによって、わたしの石田尚志の表現についての理解はまるで違ったものになった。これまでは、彼を映像の可能性を探るアー ティスチックなアニメーション作家だと思っていたが、彼が目指しているのは映像作品を作ることではなく、「描く」ことをアニメイトする、つまり「描く」こ とを生きたまま見せることだったのだと理解できた。これまでの彼の映像作品は「描く」ことの「生な表現」に向かう道筋を辿るものだったのだ。
 わたしは、石田尚志の映像作品『部屋/形態』(1999)から『フーガの技法』(2001)を経て、『絵馬・絵巻(生成するエクランのために)』 (2003~2005)に到る作品制作の流れを一貫した表現としてイメージすることができたと思った。『部屋/形態』は作者自身の説明によれば、
 「実際の部屋(東大駒場寮)の壁にペンキで直接描かれたドローイングアニメーション。窓の内と外、窓と絵画の関係を軸に、一日数秒のペースで、その日そ の日の日記のように1年に渡り描き進められた。建造物がそのまま楽器になり、音楽になるというイメージからパイプオルガンが使用されている。」(石田尚志 official website)
という作品だ。この作品を見た当初から、わたしは現実の部屋をそのまま使った、実験的なアニメーション作品と思い込んできたが、実は違っていたわけだ。上 映する作品としてはアニメーションだが、「描く」ということの方に視点を置けば、描き進められるところを一コマ一コマ記録した映像だったのだ。描いている 石田尚志の姿は記録されてないが、実は、記録する術もない脳の働きも含めた「描く」というアクションが見えない姿として記録され、それが上映されると見え ない姿として再現されるという仕掛けだったのだ。
 そして、『フーガの技法』は、
 「J・Sバッハの『フーガの技法』の構造を絵画に翻訳したアブストラクトアニメーション。フーガのそれぞれの主題を聞き取るように、膨大な量の絵画素材 を描き進める。それらの原画を楽譜の構造に忠実に重ね合わせ、裏から直接強い光を当て、一コマごと、演奏するように撮影する。不断に介在する身体的息遣い と筆跡の集積。」(同上)
という作品だ。この作品も上映すればアニメーションだが、「一コマごと、演奏するように撮影する。不断に介在する身体的息遣いと筆跡の集積」というところから見れば、「描く」という見えない姿にフーガという音楽の確固とした構造を持たせて生き生きと甦らせた、といえよう。
 『絵馬・絵巻(生成するエクランのために)』に至っては、「描く」という行為を生きたまま甦らせようという意図が明白になってくる。
 「絵画と映像の双方を成立させるためのプロジェクトである。現時点で極めて綿密なドローイングとその増殖を残した映像が4枚あり、それらを版として映像内部での合成を試みている。」(同上)
ということで、これが今回のパフォーマンスに直結しているわけだ。
 実際、パフォーマンスの前半でこの作品が上映されて、作曲家の石田匡志自身がスクリーン上のドローイングの展開に合わせて電子ピアノを演奏した。この 『ライヴ・ペインティング』は、前半で『フーガの技法』のフーガが展開する部分が上映され、続いて『絵馬・絵巻(生成するエクランのために)』の上映で生 演奏があって、後半で「描く」ということを生で見せるパフォーマンスが行われ、全体で「表現の現前」を追求して来た道筋が辿られたというわけだ。これまで の「描く」という行為を描き続けてきた映像作品には、彼自身の姿が写ることはなかった。彼の映像作品は、「正確に言うならば、彼の映像は自らの直接的身体 を封印することによって成立する」(今回の案内状)ものだったのだ。このパフォーマンスでは、その封印を声と身体の演奏家であり作曲者である足立智美の声 に呼び出されたようにして共演することによって解き放したというわけである。形を作っていくドローイングと形が生まれた瞬間に別の形に変容していく音とを 合わせることによって、「表現」を「今を生きる」こととして現前させたといえよう。

8.
 「表現」を、その行為の「現前」というところで考えてみた。最近は、表現の行為の結果にしか過ぎない作品が重んじられ、作る喜びを受け取る者と共有する のが軽視される傾向があると感じる。「作品」は表現の抜け殻だ。そして、その「抜け殻」が商品として流通する社会にわたしたちは生活している。わたしたち はその流通に目を奪われがちになる。そして「表現」の「熱い部分」を忘れがちになる。「表現」は形の細部を一つ一つ作っていく行為であり、その喜びだ、そ れを取り戻す、ということを忘れないようにしたい。
 

鈴木志郎康 (srys@catnet.ne.jp)