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高田昭子日記


2004年12月

2004/12/31(fri)
大晦日の雪

 
  


   地の涯に倖せありと来しが雪   細谷源二


29日と大晦日の今日、2度も雪が降った。不思議な年末である。
思えば1日から咽喉の軽い痛みから始まり、6日には声がかすれ、7日には声帯ポリープと診断をされた。ポリープの治癒後も、声は完全に元にもどらないままの越年となったが、とりあえず元気ではある。


28日だけは、年内1回だけの私的な外出をする。買い物、映画鑑賞、そしてお酒を呑んだ。異常なし、というよりは悪化はなし、というべきだろうか。雪の降る日よりも1日前の晴天にめぐまれた1日であった。


これで今年にはさよなら。来年よこんにちは。



※ あ、ヘンな文章だったようだ。28日の年内1回だけの外出とは、病後初の年内1回だけの外出と書くべきか(^^;。年末までドジでした。これでよし。映画は「ハウルの動く城」でした。

2004/12/30(thu)
初雪


  


29日朝から初雪が降りました。夜まで降り続きました。あまりよい写真ではありませんが、初雪記念です。



君かへす朝の鋪石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ  白秋

2004/12/27(mon)
定点観測(^^)。


この数日間、同じ空ばかり撮っていました。








2004/12/24(fri)
聖夜


   
   (マッチ売りの少女)

どこにも出掛けられないクリスマスでした。
今年最後の病院の診察でした。確実に快方に向かっています。二週間分の薬が処方されて、これがプレゼント(^^)。
でも、手作りのケーキの写真をメールで送って下さった方(あ〜〜ん、食べられないよー。)、クリスマスカードを送って下さった方、ありがとうございました。

2004/12/23(thu)
冬の虹


  


  (今日の午後に撮った写真です。)


    玻璃ごしにくちづけせしや冬の虹

2004/12/22(wed)
回復期・サンタさんは本当にいるのです♪


  

  (この寒空に健気に咲いているパンジー)


 17日に声帯のポリープ消滅という朗報にやれやれと思っていましたが、19日は午前中から頭痛、夕刻から腹痛、夜には発熱(37,8度)。18日朝には熱は平熱に戻る。頭痛、腹痛はまだ軽い症状として残る。念のために耳鼻咽喉科に相談に行く。耳鼻咽喉科の問題ではない、毎日の吸入ももういいだろうという診断。内科にまわされる。お腹の薬と頭痛解熱の薬のみ処方される。これ以上の薬は御免こうむりたい(^^)。


 幸いにもそれ以後は一日で平常に戻る。20日には思いきって少し外出に挑戦。少し遠いお店まで買い物に出掛ける。冬物の買い物、化粧品など。無事帰宅。何事もなし。


 この病気の期間、詩友Kの過去30年間の作品の流れを読むという幸運に恵まれた。この詩人とは、「ささやかな奇跡」のように、同じものを見つめているという詩行に何度も出会った。そのことを共に歓びあうこともできた。これはさりげないわたしへのお見舞いだと、勝手に思うことにしている。当人は過去の紙版の作品を改めて、パソコンに入力保存する作業の「お裾分け」にすぎないのだろうが(^^;。わたしはもともとノー天気なのである(^^)。


 さらにこの病気の時期に、わたしがこの詩友とともに必死にさがしていた、もう復刻版を捜すのさえ難しいと思っていた本四冊を、お見舞いも兼ねて進呈して下さるというお話が舞い込んだのです。これは夢のようなお話です。わたしが一方的にご迷惑惑も考えずに詩集をお送りしていた、とても好きな詩人からの贈り物だったのです。ちなみに面識もありません。本はすぐに送っていただけましたが、まだ夢のなかにいる気分です。ありがとうございました。


 先日の発熱は、このあまりにも夢のような本の贈り物にびっくりしたので、「知恵熱」だったのかもしれません(^^)。この病気のお陰でわたしはかかえきれないほどの「やさしさ」に触れることができました。ありがとうございます。これからはさらによく読み、きちんと書くことをあらためて、やってゆきます。完全な声の回復まであと一歩です。

2004/12/19(sun)
沈黙生活ー終末期

  
  


 17日、病院の耳鼻咽喉科で内視鏡検査を受ける。声帯ポリープはほとんど消滅。手術に至らずに済んだ。やれやれ。声帯の内視鏡検査は鼻から咽喉へカメラをいれるのだが、その度にドクターは「小さいですねぇ。」とおっしゃるのだ。わたしの鼻の穴のことです。大きな鼻の穴ってどんなものかと考える。なにかいいことがあるの?わたしはこの鼻で??年生きてきて別に不便はなかったわ。


 あら、お話が逸れた。声がれ、咳がまだ回復していないので、しばらくは「沈黙生活」を続けるけれど、「回復」という感覚が掴めてきた。しかし不思議な病気です。熱は出ない。食欲も平常。行動を妨げるものは何もない。ただ「沈黙」「毎日の吸入」「煙草の煙を吸わない」「薬を飲む」「禁酒」を守るだけです。

2004/12/16(thu)
沈黙生活―2


  


    唄を忘れた金糸雀は、後の山に棄てましよか。
    いえ、いえ、それはなりませぬ。


    唄を忘れた金糸雀は、背戸の小薮に埋けましよか。
    いえ、いえ、それもなりませぬ。


    唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましよか。
    いえ、いえ、それはかはいさう。
 

    唄を忘れた金糸雀は、象牙の船に銀の櫂
    月夜の海に浮べれば、忘れた唄を思ひだす。


 「沈黙生活」も日を重ねてゆくと、普段の生活のなかではほとんど忘れているようなことを思い出すもの。まずは「へレンケラー」と「サリバン先生」、彼女たちがお互いに理解と伝達に一番苦しんだという「Water」と「Glass」という言葉など。そしてへレンケラーが「Water」を手のひらの感触と言葉で憶えた時から、彼女は世界を理解した。「Glass」は入れ物にすぎなかったことも。彼女の知識欲はそこから急速に花開いた。サリバン先生の咽喉の震動に触れながらへレンケラーは言葉の発声法を理解する。そのためにサリバン先生は幾度も嘔吐に苦しんだそうだ。


 上記の童謡「かなりあ」は詩人西条八十が、詩が書けなくて悩んでいた時期の自分をカナリヤになぞらえた歌だという。声の出なくなった「かなりあ」ではなかったのだ(^^)。童謡というのは唱歌ではない。唱歌は明治時代に教育のために国が主導して作られた歌であり、童謡というのは大正時代に、鈴木三重吉、北原白秋など唱歌に飽きたらぬ文学者や詩人たちによって作られた子供のための文学なのだそうです。


 わたしの病気はいずれ直り、またいつもの日常が帰ってくるだろう。少し用心深い日常になるのかもしれない。今はわたしに関わる人にも心に重い負担をかけているのだろうと思う。そして哀しませてもいるのだろう。「かなりあ」はまた歌う。初めに「Water」と歌ってみようかな。

2004/12/14(tue)
沈黙生活


  

(病院の庭のさざんか)


 一応経過を書いてみよう。
11月30日、映画の試写会を観る。その後詩画展を観る。
12月1日、咽喉の痛みを覚える。市販の薬を服用。
12月4日、痛みは治まる。
12月5日、PSPの会出席。その帰り道に声がかすれる。
12月7日、内科へ行く。改善されず。
12月10日、耳鼻咽喉科へ、検査の結果声帯にポリ―プがあるという診断。


 以後、治療法は「沈黙」「煙草の煙を吸わないこと」「毎日病院で吸入」「薬を飲む」「禁酒」だけ、そのまま今日に至る。これは声楽家やアナウンサーなどがよくかかる病気、わたしが何故かかったのかはわからないが、咽喉風邪が引き金だったことはたしかなことだ。平熱、食事も平常、からだのだるさもない。何のバチやらわからない?


 さて、「沈黙」生活は初体験。以前、もしも「聴く」「視る」「話す」のいずれかを神さまに捧げなければならない時が来たとしたらという仮想の話をしたことがある。その時わたしは「話す」を差し上げてもいいと言った記憶がある。その通りの生活が始まっている。「伝達手段」としての「話す」は「筆談」や「手話もどき」にとって変わる。憂鬱になってしまってはその期間を空しくさせるだけだ。電話はダメでもFAXがある。メールもある。BBSもある。まめにメールを頂くという嬉しいことも起こる。I love you ♪


 スーパー・マーケット、銀行は会話なしでも用は足りる。病院などの外出にはメモ用紙とサインペンを持っていく。自宅でも、わたしは大半は一人で過ごしているから、必要最低限の連絡はメモ用紙でやる。これが幾日続くのか、まだわからない。しかし過ぎてしまえば、きっとば笑い話になるような日々だろう。そう思うとその日々の自分を書きとめておこうと思いたった。いやこれは初体験の不思議で、ロマンチックな世界かもしれないのだ。「言葉」は書かれるもの、そして読まれるもの、というあたりまえのことにも気付く。一応「詩人」としては。


 ふと「オンディーヌ」を思い出す。オンディーヌは、地上に住む愛する人のもとへ行くために、怒る海神に「うつくしい声」を差し出した。う〜〜ん、やっぱりロマンチックじゃないの。 

2004/12/11(sat)
袋小路の男  絲山秋子 


  


 この小説の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれている。『「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」』……これを「女」を「男」に置き換えてみるのはどうだろうか?うふふ。


 『あなたは、袋小路に住んでいる。つきあたりは別の番地の裏の塀で、猫だけが何の苦もなく往来している。』……と始まる小説である。主人公は「私」。『それでもくじけない。どこかの作家が言っていた。「もっともゆたかな愛は時の仲裁に服するものである」って。私の味方は時間だ。今はだめでもきっといつか。』……中間部では「私」はこんなつぶやきをもらした。
 
 
 読み終えてわたしはこの「私」を哀しんだ。愛している「あなた」は約束を次々に破ってばかり、長い期間放っておかれたり、気まぐれに呼び出されたり、すべてを「時の仲裁」に服して生きている「私」。これは「純愛」ではない。「私」の生きている「存在証明」を「あなた」に仮託しているだけではないのか?しかもこの「あなた」は「私」が無意識に作りあげた「袋小路」から抜け出ることをしないのだ。「私」は傷だらけの自分に気づいていない。
 

 この本にはもう一編「小田切孝の言い分」が収められている。主人公は「あなた」から「小田切孝」に代わる。そして「私」は「大谷日向子」として登場する。「袋小路の男」の物語が裏がえされたように展開する。ここでわたしの「哀しみ」は少しだけ救済される。物語の最後では「小田切孝」は「大谷日向子」の愛を受け入れるからだ。決して「結ばれる」という形ではないが……。


 女性が仕事を持ち、一人で生きてゆける時代は来たが、しかしこの女性たちの生き方が真の自立というものではないのだと思えてくる。出会う男性がやはり女性の生き方に大きく影を落しもするし、振りまわされもする。かつての「男尊女卑」の色濃い時代を生きた女性たちよりも、はるかにあやうい生き方をしているように見える。彼女たちは決して「新しい女性」でも「自立した女性」でもないようだ。


 この本にはさらに短篇「アーリオ オーリオ」が収められている。主人公「松尾哲」は清掃工場の機械制御室に勤務する中年男性。「美由」は哲の姪(中学3年生)である。ある日二人はプラネタリウムを観に行く。その時の哲のランチ・メニューが「アーリオ オーリオ エ ペペロンチーノ」だった。これはオリーヴオイル、ニンニク、唐辛子だけで作るスパゲティー料理の名前である。それから二人は文通を始める。すべてが「宇宙」についての話題であった。「破壊」や「消滅」をこわがる少女、「今我々が見ている星の光は、すでに破壊した星の光ではないだろうか。」と思う男とのやさしさに満ちた文通だった。この三篇目でわたしはようやく微笑むことができたようだ。


 この三篇に共通するテーマは、ある意味では社会の背面のようなところで生きている男性が、女性の生き方を目には見えないようだが、しかし大きく揺さぶりをかけているというところにあるように思える。


(2004年10月29日・講談社刊)

2004/12/9(thu)
子守歌


 風邪をひいている。熱もないし、食事もとれるのだが、声がかすれる。一人でいる時、声を出してみて確かめる。声はとりあえず出る。しかし急に不安になって叔母に電話をかけた。叔母は死んだ母と16歳も歳が離れていたので、母がこの叔母をほとんど育てたそうだ。母が旧満州にいた父に嫁いだ後は毎日泣きながら手紙を書いたのだそうだ。それ故に叔母はわたしにとって母だったり姉だったりという存在。母の死後、嬉しい出来事、辛い出来事などはみんなこの叔母に話してきたのだった。


 かすれ声で近況報告をする。叔母は幼い頃に、母が歌ってくれたという「子守歌」の話をしてくれた。その楽譜と題名と歌詞が全部知りたいと言う。楽譜はみつからなかったが、ネット検索で歌詞と題名はみつかった。メロディーが聴けるので、電話をとおして聴かせてあげました。叔母は大変喜んでくれた。


 老いて痴呆になってしまった母は、わたしとこの叔母の区別がつかなくなったことがあることを思い出した。その度に叔母は「ごめんなさいね。」と言ったが、わたしはそれを寂しいと思ったことはなかった。そしてこの「子守歌」をわたしが知らなかったことにも叔母は「ごめんなさいね。」と言う。しかしそれも寂しいとは思わなかった。わたしが幼い頃は母が「子守唄」を唄えるような時代ではなかったからだ。


    あさね


   作詞者 村上至大  作曲者 弘田龍太郎 


   とろろん とろろん 鳥がなく
   ねんねの森から 眼がさめた
   さめるにゃさめたが まだねむい


   とろろん とろろん 鳥がなく
   鳥のなく声 きくほどに
   わたしのお眼(めめ)が まだねむい


   舌を切られた雀なら
   ちゅうっちゅ ちゅうっちゅと なくけれど
   とろろん小鳥は 何(なん)の鳥


   御飯はたべたし まだねむし
   学校にゃ行きたし まだねむし
   とろろん小鳥が ないている




   
    声枯れやアダムのりんごなき身にて 

2004/12/6(mon)


  


4日の夜から降り出した雨は5日の朝には止んで、この日はコートも上着もいらないほどの温かい1日でした。これは中央線の車窓から撮った写真です。美しい空でした。

2004/12/3(fri)
映画 『またの日の知華』


  


 これは、ドキュメンタリー映画の鬼才といわれる映画監督の原一男さんが初めて挑戦した劇映画です。製作と脚本は原一男さんのパートナーの小林佐智子さんです。この小林さんからのお誘いを戴き、11月30日に桐田真輔さんに同行をお願いして、マスコミ試写会を観てまいりました。


 原一男さんと小林佐智子さんが設立した「疾走プロダクション」の代表作品は「ゆきゆきて神軍」「全身小説家」などのドキュメンタリー映画、「映画監督・浦山桐郎の肖像」「ドキュメント・七三一部隊中国遺族の証言」などのテレビ・ドキュメンタリーなど、その他にも。


 「またの日の知華」は、ヒロイン知華の青春期から最後の恋人に殺されるまでの十数年を時間の経過に沿って丹念に描かれたドラマである。四人の男たちとの愛のドラマは四章に分かれていて、それぞれの章で「知華」を演じる女優が代わるという仕掛けがあった。原監督は「男たちから見たヒロインは、それぞれ違って見えるはずだ。」という観点から、この仕掛けへの初挑戦を試みている。子供時代から老婆までを演じるという永い時間の経過がないなら、一人の女優がすべてを演じることは可能だとは思うのですが、原監督はあえてこの仕掛けを選んだようです。このドラマの時代的背景には、「六〇年・七〇年安保闘争」「連合赤軍あさま山荘事件」「東大の学園闘争事件」「セクトの内ゲバ事件」「三菱重工爆破事件」などのニュース映像が挿入されています。「東京オリンピック」などはない。


 ヒロイン知華は、少女時代から体操選手として将来を期待されていたのですが、小さな事故によって挫折する。そして中学の体操教師となる。そこから彼女の生きる意識は「張り詰めていた糸がぷつんと切れたみたい。永遠に落ちてゆく感じ……。」を拭うことが出来ない。結婚し、子供を産み、仕事、妻、母を賢明に生きながらも、子供への授乳の折に「いのちを吸い取られるような感じ……。」となる。そして夫の病気と長期入院、その間に起こる同僚の教師との不倫、退職、そこから彼女は「永遠に落ちてゆく……。」子供も夫も置き去りにして。この映画のパンフレットに挟みこまれていた作家柳美里さんの批評の言葉をお借りすれば「このやりきれなさはどこへ向かうのだろう。」という感覚が観終わってもひきずるような感覚として残る。


 わたしは「授乳」という女性だけに与えられた行為は、子供が産まれ出る時に胎内から持ち出した唯一の記憶と、女性がそれとは知らずにからだのなかに眠っていた原初からの記憶との「初めての出会いの時」なのだと思ってきました。それはもっとも自然な「いのちのシンフォニー」であり、授乳後に訪れる母親の空腹感は透明な清清しい感覚でさえあったと記憶しています。この知華の「授乳発言」シーンは、この映画完成前のフラッシュとして、すでに観せて戴いていました。その折にわたしは原監督に対して「異議を申し上げたい。」と言いましたが、「完成まで待って下さい。」というお答だったと記憶しています。しかし完成した映画を観て、わたしはやはりこの知華の発言には違和感を拭いきれませんでした。女性というものは、根源的に男性よりも「生きる」ということに肯定的なのだというのがわたしの考え方です。しかし知華は否定に向かい続ける。


 一章で、知華の夫となる男は六〇年安保闘争時代の元機動隊員、二章は同僚の体育教師、三章では教師時代の教え子、四章では恋人を殺した過去を持つ男、という設定である。この四人の男との関わりのなかで、知華からは「母性」「潔癖性」「魔性」などがかすかに炙り出されるのみであり、非常に個性の乏しい女性でした。、この物語の底流はやはり「不毛」であり「低迷」であり「貧困」であったように思えます。


 この映画は2005年1月15日(土)、「シネマスクエアとうきゅう」にてロードショー決定となりました。詳しくは↓をご覧下さい。


http://www.shisso.com./chika/

2004/12/1(wed)
女王さまのスリッパ





この花の名前です。(写真は桐田真輔さんから頂きました。)


11月28日に、新宿御苑にいきました。御苑の温室にありました。素敵ななまえ♪その日はとてもよいお天気。あたたかくて風もおだやか。沼の近くに少し傾斜面の芝草に坐っていると、時々転げ落ちそうになる。背中があたたかくて翼が生えてくるような気がする。「日々はただ静かに過ぎてゆけばいい。」



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