[HOME]
 

高田昭子日記


2005年2月

2005/2/26(sat)
「踊るサテュロス」と「春の雪」


 


 二月二四日の午後の上野公園は曇天の静かな空でした。池の噴水はかき氷のように真っ白で、寒緋桜(緋寒桜とも言う。)、紅椿、白梅、紅梅などが、まだ冬枯れ一色の樹々の世界にわずかな灯りのように咲いていました。わたしたちは真っ直ぐに東京国立博物館の表慶館に向かいました。二千年の眠りから覚めた「踊るサテュロス」に会うために。


 「サテュロス」は、ギリシャ・ローマ神話に登場する「森の精」で、葡萄酒と享楽の神「デュオニュソス(バッカス)」の従者です。このブロンズ像は古代ギリシャ最高の彫刻家プラクシテレスの作品と言われています。
 一九九九八年イタリア南部シチリア島沖で漁船の網にかかり、奇跡的に発見されました。この像は二千年以上前にギリシャで制作され、アテネから輸送中に船もろとも海に沈んだものと考えられているそうです。両腕、軸足となるはずの右足がなく、頭部中央も欠けていますが、お酒に酔い、舞い踊るサテュロスのからだのうつくしい躍動感、なびく髪は、その欠損を感じさせないほどでした。この像は海から引揚げられた後、ローマの中央修復研究所で、四年にわたる修復を経ています。同行者は「美しいね。」とつぶやきましたが、それ以外の言葉はなかったとわたしも思います。


 観終わってから、寒い公園を少し歩いて、都美術館のティー・ルームであたたかいコーヒーを飲みながら休憩。なんとなくまだ言葉がみつからない精神状態でした。二千年という時間を超える心の作業が簡単にできるはずがないのです。わたしにはたった数十年の時間さえ超えることができないのですから。


 そこを出て「動物園に行ってみようか?」となったのですが、動物園はもう入場時間を過ぎていました。「では、アメヤ横丁へ行こう。」ということになり、ブラブラとあちこちをのぞきながら、わたしは「ロッテ・ラミー・チョコレート」を十箱買いました。このチョコレートは冬季限定販売の上、最近は近所のマーケットで入手不可能になってしまった、わたしだけの「マイブーム・チョコレート」なのです。同行者は少々あきれた顔をしていましたが、これはわたしの大切な越冬用食糧なのです。その後、新宿に出て、いつもの面子でいつもの場所でいつものごとくお酒を呑んで、「サテュロス」の報告やら、ネットのお話やら、遅いバレンタインもどきやら。


 帰路、春の雪が盛大に降りました。牡丹雪でした。白い道を歩きながら、降りかえっては自分の足跡を見ていました。あれは数十秒前のわたしの足跡。もっと向こうには数分前のわたしの足跡がすでに消されそうになっているのだろう。このわたしの一日のなかに流れた二千年の不思議な時間。


2005/2/25(fri)
ピアノ



 桐田真輔さんの2月20日付けの「吸殻山日記」に、ペーパー・クラフトのピアノの作り方が紹介されています。たった1枚のペーパーから、この写真のような立体が生まれるのです。譜面台は起き上がり、白い鍵盤も立体的で、さらに黒鍵はたった2ミリほどの巾ですが、白い鍵盤からさらに立体化されています。ふぅ〜〜。


 このピアノを手にした時、わたしの少女期が堰を切ったように戻ってきました。定期的に強制されるピアノのレッスンがいやだったこと。工作のコンクールでペーパー・クラフトの向日葵が賞をとったこと。つづりかたコンクールやコーラスのコンクールなど。そしてその頃から「書く」ことを知ったことなど。



2005/2/22(tue)
大きな樹


 
二月二十日の午後。大きな古いクスノキに会ってきました。

2005/2/17(thu)
オニババ化する女たち


女性の身体性を取り戻す―――三砂ちづる


   


 この著書の感想を書く前に、まず申し上げておきます。女性には子供を「産まない。」と主張する人生と、「産めない。」という喪失の人生があります。後者の女性にとって、これはまことに残酷な著書だと思えます。この著書の趣旨は「女性よ、性をできうる限り幸福な営みとして受け入れ、子供を産みなさい。それもできるだけ早期に。」というものなのです。これはまさに酒井順子の著書「負け犬の遠吠え・講談社・2003年刊」の対極にあるかのようだが?


 さて、女性が仕事を持ち、自立できる時代が来たことは、おおいに喜ぶべきことです。しかしここでいつも問われるのは「母」と「子供」の問題なのでしょう。「母」が自立するために「子供」の存在は大問題となってしまった。まず今の出産適齢期にいる女性たちは「子供を産むか否か?」を考えるようになり、その後で「出産と育児の困難さ」に直面し、そして「仕事との両立は可能か否か?」という構図で考えるようになってしまったようです。


 しかし本来「子供」が産まれ、育ってゆくことは原初から引き継がれたものであり、特別なできことではない。無意識下にあった自然ないのちの営みを、女性の生き方の「大テーマ」として考えなければならない時代になってしまったということではないだろうか?元より「子供の生誕」と「女性の現代の生き方」とを並列して考えることには無理があるのではないだろうか?


 わたし個人の過去の体験を思うとき、出産後に、みずからのからだに内包されていた「人間の原初」を見たという鮮明な記憶があります。そして赤子は、母親の胎内で人間の進化の永い歴史を十月十日でやり遂げて、その時代に産まれてきたのです。口元に触れてくるものを「吸う」という記憶行為だけを母親の胎内からたずさえて……。そしてその行為の力強さも驚嘆に値するものでした。さらに四足歩行から二足歩行のいきものに変わるまでには約一年の期間があり、それらの過程は母と赤子の「蜜月時間」となるわけです。この相互の関わりが母と子供とのいのちの連鎖を自然に取り結ぶのではないでしょうか。そこは「フェミニズム」も「ジェンダー」も介在できない「アジール」的な世界なのではないかと思われます。


 この著書にはさまざまな事例が挙げられていて、列挙することは到底無理なことですが、お雛祭りも近いので「京言葉」についての事例のみご紹介いたします。わたしにとっては一番興味深いところでもありましたので。
 「おいど」は通常「おしり」と解釈されていますが、実は「肛門、膣、子宮、外性器」全体を表現する言葉だそうです。また「おひし」は「女性性器」を表わす言葉で、お雛祭りの「菱餅」はこの「おひし」に由来するもの。ですから上方では「正座しなさい。」は「おいどをしめなさい。」となり、正座を崩すと「おひしが崩れますえ。」というお叱りを受けることになります。このなにげない日常の躾が、実はとても大切な女性の身体性を強靭に育てあげる教訓だったのです。


 また、著者はさまざまな提言の根拠として、世界各地での母子に関する取材や保険活動の現状や統計報告もたくさん提出しています。また著者自身の「気付き」にすぎないものも記されています。この混在がこの著書の「生煮え」状況をつくっていることも否めません。この著書は「ジェンダー」「フェミニズム」の流れに「投げられた小石」の一つだと受け止めます。


「オニババ」を三砂ちづるはこのように定義しています。性と生殖にきちんと向き合えないまま、その時期を逸してしまった女性を昔話の「山姥」や「オニババ」に喩えたにすぎません。子供を持たぬ女性たちよ、早急に解釈して憤怒するなかれ。女性が「子供を産まない自由」について考えることのできる今日に至るまでには、過去の女性たちの永い永い歴史があるのだと考えてみてはどうか?ということなのですから。


(光文社新書・2004年刊)

2005/2/12(sat)
僕の叔父さん 網野善彦      中沢新一


  


 この本を読むきっかけは、「一気に読んでしまった。」という桐田真輔さんの【走り書き「新刊」読書メモ(28)】にありました。桐田さんからこの本をお借りして読みました。


 読了後、一番はじめにぼんやりと感じとったことなのですが、一人の学者が育ってゆくこと、あるいは育てられてゆくためには、わずかな人数でいいのだが他者の大きな愛がいる。また一筋の思想が頑なでもなく偏りもなく育ってゆくためには、人間の根源から涌き出るような深い愛の力がいるのだということでした。網野善彦の言葉を借りれば「彼はたいへんしゃれた、うまいいい方のできる人で、なかなか本質的な表現で私がぼんやり考えていることをいってくれます。」というような中沢新一の美しい文体とともに、そのような深い感銘を受けました。


 まず、哲学者であり宗教学者の中沢新一を育てた親族を記してみよう。すべて山梨県出身者でることにも注目して下さい。父親の中沢厚は在野の民族学者、コミュニストである。叔父の中沢護人も「鉄の歴史家」と言われた在野の研究者です。そして中沢新一が五歳の時に、父中沢厚の妹の真知子叔母の婚約者として登場するのが、この本のタイトルとなっている歴史学者「網野善彦」です。この四人の真摯で豊かな対話の積み重ねが、さらに思考のおおきな流れをつくっていったようです。


 この網野善彦は若き日の中沢新一にこのように語っています。『貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まない土地だと言われてきたけれども、そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始、未開の精神性のおもかげが、生き残ることができたともいえるなあ。貧しいということは、偉大なことでもあるのさ。』この一冊に貫かれているものはこの網野の言葉に集約されているようです。 


 中沢厚の著書に『つぶて・一九八一年・法政大学出版局刊』がある。「飛礫(つぶて)あるいは(ひれき)」の歴史の再発見がテーマとなった著書のようだ。この論考の発端となった厚の意外な視点についての、新一の記述部分は心が躍り出すほどに面白かった!
 一九六八年一月、佐世保港にアメリカの原子空母「エンタープライズ」が給油のため入港する。それを阻止しようとした「反代々木系」の学生たちはヘルメット、角棒、旗竿を持って機動隊に激突、そして彼等のとった行動は「投石」であった。機動隊はおおいにたじろいだ。このテレビ報道を食い入るように観ていた父親が最初に語ったことは、父親の少年期の、笛吹川の対岸の万土村や正徳寺村の子供たちと、こちら側の加納岩村の子供たちとの「投石合戦」だったのだ。「投石」という人類の根源的な衝動の働きかけを厚はそこに感じとったのである。原初の人間から引き継がれている行為は、消えることなく現代の人間たちに内在されていたということだろうか?中沢厚のこの研究はそこから出発したらしい。


 この中沢厚の「つぶて」は網野善彦の著書『蒙古襲来』に引き継がれる。この著書の章のタイトルは「飛礫、博奕(ばくえき)、道祖神」から始まった。難しいことはわからないが、わたしが感覚的に理解できたことは「アジール」的な精神世界の存在が、歴史の根底にはいつもしっかりとあって、その上で人間の侵略戦争、反権力闘争は続いてきたのだろうということでした。


 これ以後、網野善彦と中沢新一の仕事は弛むことなく続くのですが、以上書いたことは、この一冊から極私的にわたしの心の琴線に触れた部分だけです、と責任放棄しておきます(^^;。


(2004年・集英社新書)

2005/2/9(wed)
おとうちゃん  シルヴィア・プラス


あなたはおしまい、もうおしまいよ、
あわれな足のように、その中であたしが
三十年間、貧しく白く
呼吸(いき)することも、くしゃみもできずに、
がまんを重ねた黒い靴は、もうおしまいよ。


おとうちゃん、あなたを殺さねばならないといつも思ってたの。
間に合わないうちに、あなたが死んじゃったものだから。
大理石みたいに重くて、神さまがつまった鞄さながら、
サンフランシスコのあざらしのように
大きな灰色の足一つを持って
気まぐれな大西洋に頭を浮べた恐ろしい像のよう。
そこでは美しいノーセットの沖合の
波間で青に緑が混ぜられているわ。
あたしはあなたを取り戻すようにお祈りしてたの。
ああ、ドイツ人のあなたを。


ドイツ語でお祈りを続けたわ、
戦争、戦争、戦争と言うローラーに
ぺしゃんこにされたポーランドの町で。
でも町の名は珍しくもないもので、
あたしのポーランドの友だちに言わせると


一ダースも二ダースもそんな町があるそうよ。
だからあたしには判らなかったの、
どこにあなたが、足を、根っこをおいたのか。
あたしはあなたに話しかけることもできなかった。
舌があたしのあごの中で動かなくなり、


ひげ文字のような、有刺鉄線の中に囚われた。
あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)は、あたし(イッヒ)
は。
あたしはドイツ語で話せなかった。
ドイツ人はみんなあなただと思っちゃた。
そしてあのみだらな言葉は


機関車なのよ、機関車なの、
あたしをユダヤ人みんなのように駆り立てて行く。
ダッハウへ、アウシュヴィッツへ、ベルゼンの悲劇へとまっしぐら。
あたしはユダヤ人みたいに話し始めた。
あたしはユダヤ人だと言ってもいいわ。


チロル地方の雪も、ウィーンの澄んだビールも、
そんなに純粋でも真実でもないわ。
ジプシー女の御先祖と不幸を担って、
タロット・カードの予言を受けて、
あたしはユダヤ人の端くれと言ってもいい。


あたしはずっと「あなた」を恐れて来たの、
ナチの空軍を持ち、わけのわからぬ言葉をしゃべるあなたを。
それに小ぎれいな口ひげと
青くきれいなゲルマンの眼とを。
戦車兵、戦車兵、ああファシスト、


神ではなくてかぎ十字、
影が真黒、青い空さえすり抜けられない。
女は誰でもファシストを讃える、
凶暴な長靴(ブーツ)のような顔、野獣みたいな
あなたのような凶悪な男たちを。


あなたは黒板に向かっているわ、おとうちゃん、
あたしが持ってる写真の中でね。
足の代りにあごに裂け目、
それでもやっぱり悪魔のかたわれ、
あの腹黒い男と同じ仲間ね、


あたしの可憐な赤い心を真二つに裂いた奴。
あなたの埋葬の時に、あたしは十歳のはず。
二十歳(はたち)の時には、あたしは死んで
あなたのもとへぜひ戻ろうと志す、
骨だけだって何とかなると思ったの。


だけどあたしは引き出され、
にかわで接着されました。
それからわたしは手段(てくだ)を知った。
あなたのモデルを作ったわ。
黒服を着て総統のほまれ、


それに拷問も好きな男。
それを夫に迎えたの。
ねえ、おとうちゃん、やりとげたのよ。
黒い電話は根元で切れて、
しつこい声ももう伝わらないわ。


一人の男を殺したのなら、あたしは二人殺したわけよ。
自分があなただと言い張ったあの吸血鬼、
あたしの血を一年間吸った男、
本当を言えば七年にもなる。
おとうちゃん、やっとあなたは休めるの。


あなたの肥った黒い心臓に呪いのくいが打たれる。
村人たちはあなたを嫌った。
躍り廻って、みんなあなたを踏みつける。
それがあなただといつもみんな知ってたの。
おとうちゃん、やくざなあなた、あたしはすっかりやりとげたのよ。



皆見昭訳『シルヴィア・プラス詩集』(鷹書房)より。

2005/2/8(tue)
シルヴィア


  


 人間は「詩」なんてなくても、きっと生きてゆける。けれども「詩」はありつづける。「詩」という魔物のためにいのちを捧げた人間もいる。過去においても未来においても「詩」を離れることはいつでもありえたし、またありうると、わたしは思っているのだけれど……。


 二月三日午後、立春の前日とはいえ風は頬に痛く冷たく、空は見事に晴れていて、白い雲が美しく浮んでいた。いつものように空ばかり見ながら駅への道を歩いた。この時間がとても好きだ。渋谷着午後三時二〇分、渋谷の方が少しあたたかく、風もおさまっている。ここに来ると空は見なくなる。駅の人混みのなかから見つけた同行者の最初の笑顔を見るのが好きだ。わたしたちは「渋谷ぶんかむら」にて、映画「シルヴィア」を観る。


 「シルヴィア」のヒロインは詩人シルヴィア・プラスのこと。映画は、フルブライト奨学生として、イギリスのケンブリッジ大学に留学中のシルヴィアと詩人テッド・ヒューズとの電撃的な恋からはじまる。結婚してからはテッドの女性問題に嫉妬し、さらに家事と育児に翻弄されながら詩作に苦しみ、作品が世に認められないことに苛立つ、かなり世俗的な描き方がされている。わたしは詩作の停滞はそうした具体的な事情によるものではない、それはもっと内面的なものに起因するのではないかと思う。映画がそれを描ききることはやはり無理なことだったのだろうか。


 シルヴィアは結局夫と別れ、幼い二人の子供を残して、ガス・オーヴンにて自殺、三〇年の短い生涯を閉じている。映画のエピローグあたりからわたしのからだは震えはじめた。シルビアは、深夜に同じアパートに住む老教授から切手を譲ってもらい、友人宛ての遺書(多分)を送る。眠っている幼い二人の子供の部屋の窓を半分だけ開けて、二人分の朝食用のバターつきパンとミルクを置き、子供部屋のドア―に目張りをしてからキッチンへ。シルヴィアは静かな死に顔だった。映画はそこで終わる。


 かつてわたしにも幼い子供と暮らした時間はあった。その時期わたしは強いて詩に拘ろうとは思わなかった。しかもある時には自分の書棚をすべて空にしたこともあった。(この事情は子供が原因ではないが。)幼い子供と過ごすことは、心身ともに困窮の時間でもあり、また至福の時間でもあった。そして「この幼い子供のためにわたしは死ねない。」という、いのちの原郷にわたしは無意識に立っていたのだった。幼い子供がわたしを生かし、育んでくれた時間でもあったのだ。


 それでも幾度も同じ夢をみた。幼い子供を置いてわたしはふいに旅立つ。しかし旅の途中で、母親の不在に泣き叫ぶ幼い子供の声を聴いて、わたしは大急ぎで帰ろうとするのに、どうしたことか道に迷ったり、行先の違う列車に乗ってしまったりする。疲れ果てて目覚めて、それが夢だったことに安堵する。
 一方、子育てに疲れた母親による「子殺し」事件に共振するわたしもいたし、理由もわからず泣きやまない子供を、窓から放り出したい衝動にかられたこともあった。しかしそれらのことは「詩」との繋がりを産む出来事ではなかった。むしろ子供の心に「傷」として残存することを恐れ続けた。


 上の子供が十歳を迎えた時、わたしは自然に詩に向き合う時を迎えた。その時のわたしは子供の詩から書きはじめた。わたしは三度(一度目はわたし自身の子供の時間)の子供の時間を生きて、それを過去に送った。


 シルヴィアは八歳で深く愛した父親を亡くしている。それが彼女の短い生涯に影を落とし続けているのではないか?シルヴィアが「父の蘇えり」とさえ思い込み、結婚した夫テッド・ヒューズとの別離、彼女の詩の理解者である編集者アル・アルヴァレズからの愛の拒否。人間は人生のある時期に一つの心の「躓き」があると、同じ「躓き」を繰り返すものではないだろうか、とふと思う。映画のなかで、死の数ヶ月前に、シルヴィアが泣きながら書いた詩「Daddy=おとうちゃん」はそれを象徴してはいないだろうか? 
 それに加えて、少女期からその才能を高く評価されたがために、少女シルヴィアの心がそれに追いつけなかったということ、さらに大学の一回だけの不合格、その後の自殺未遂(これも父のもとへ行こうとしたと思えます。)など、すべて見えないものに繋がれてゆく「躓き」だったのではないだろうか?


 このようなシルヴィアの事情があったにせよ、わたしは映画「シルヴィア」にからだが震えたのだった。それは幼い子供のために、何故生きることを選択できなかったのかという、シルヴィアへの密かな怒りだったかもしれない。幼い子供へは「生きる」ことを望み、シルヴィアは「死」を選ぶ。それは生き残された幼い二人の子供にとって、やがて人生の一回目のもっとも大きな「躓き」になったことだろう。シルヴィアが「詩」に支払った代償はあまりにも大きすぎる。それはほとんど「恐怖」となって、わたしに襲ってきたのだった。


 この「からだの震え」は、映画の後に同行者と話をする時間の前半まで続き、その時間を過ぎてからまた深夜まで続いた。深夜同行者にメールを書いた。「迷惑メールだなぁ。」と思ったが送信してしまった。返信がなかったとしても仕方がないと思っていたが、さらに深夜に返信は届いた。『あの映画から、あまり過大なものをうけとると、虚像を相手にしてしまうことになりますよ。』うん。シルヴィアの結婚後の第一詩集は「The Colossus=巨像」だった。


 どうやらわたしは映画「シルヴィア」について書きながら、結果はみずからを曝しただけだった(笑)。シルヴィア・プラスの詩「おとうちゃん」は明日ここに書きます。この詩の入力は映画の同行者にお願いしたものです。ありがとうございました。

2005/2/5(sat)
太陽も死も……


二月二日に日記に太陽光の写真を掲載しましたら、メールにて、「こんな言葉を思い出しました。」というお便りを頂きました。


『太陽も死もじっと見つめることはできない。』


(『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳・岩波文庫)より)




三島由紀夫のあの小説の背景にも、この言葉がおそらくはあったのでしょうね。

2005/2/2(wed)
太陽の不思議


  
  


今年に入ってから撮った二枚の写真です。
二枚とも、意識的にまぶしい陽射しに携帯電話のカメラを向けて撮ってみました。その時のカメラの画面はほとんど真っ暗に近い状態ですので、当てずっぽうに数枚撮ってみるしかありません。そのなかから良く撮れたものを後で選びました。画像を見てから気付いたのですが、二枚とも小さな黒い点があります。「ゴミ」ではありません(笑)。わたしはこういう知識がありませんので、どなたかご存知でしたら、教えて下さい。


かつてあるカメラマンが、太陽に真っ直ぐにカメラを向けてしまって、片目を失ったというお話を読んだことがあります。また、三島由紀夫の小説(タイトルは忘れました。)に、太陽を直視することにこだわり続けた若者のお話もあったような気がします。



BACK NEXT


エース