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高田昭子日記


2005年1月

2005/1/31(mon)
夕空の贈り物





十日程前にプレゼントされた空です。送り主さんのお名前は……。


上の空 空色 空箱 虚空 空中 空間 空耳 空似 身空 etc.
うううーん。寿限無ではありませぬ。 

2005/1/29(sat)
三度目の雪


  


 26日朝に窓の外を見たら、この冬三度目の雪が降っていました。「午後からの外出があるのにこまったな。」とつぶやきつつ、テレビや新聞の天気予報を何度も確認しましたが、予報通りに午後には雪は止み、まもなく晴天となりました。わたしの心がけのよいこと♪


 さて、夕方から法政大学市ヶ谷キャンパスの「ボアソナード・タワー」において、岡村民夫教授ゼミ主催による映画上映と関係者によるトークという試みに参加。またしてもわたしは桐田真輔さんの「金魚のフン?」でした(^^)。上映された映画は、詩人稲川方人監督『たった8秒のこの世に、花を――画家福山知佐子の世界』、その後のトークでは稲川氏は出席されていなかったのですが、画家福山知佐子さん、この映画の企画をされた詩人吉田文憲氏、さらに詩人吉増剛造氏、のトーク、司会進行役は岡村民夫教授でした。お二人の詩人は映画のなかにも登場なさっていました。


 この映画についての感想は書けません。実は思うこと、思い出したことが、たくさんありすぎて、それらがみんな細い道で繋がっていて、うまく整理できません。きっと桐田さんが日曜日に「吸殻山日記」にお書きになると思います。そちらをお読みください。てへへ♪

2005/1/24(mon)
陶器


  
   


この二点の陶器は、過日友人の陶芸家Iさんから頂いたものです。「辰砂」のコーヒーカップとソーサー、「焼締」の急須です。「お気軽にお使いください。」とおっしゃってくださいましたが、ちと緊張いたします。


★ 辰砂(しんしゃ)とは、還元炎焼成により、銅化合物が辰砂のような朱色になったもの。
★ 焼締(やきしめ)とは、成形した器を釉(うわぐすり)にかける前に乾燥させ、無釉で素地(きじ)を強く焼き締めること。

2005/1/20(thu)
無意識な残酷


 


 決して書き慣れているわけではない「書評」や「映画評」などをいくつか書いてきて、ふと気付いたことがある。わたしは作品のなかの登場人物に向かってみずからの考え方を書いているだけであって、それを書いている、あるいは制作している作者については考えることはなかったということです。勿論それでいいという思いもわたしにはあります。作品はあくまでも作品、読者はそれを自由に解釈することは赦されているはずですから。


 しかし、友人知人の方々からその作者や制作者のおかれた精神的に困難な状況などを知らされたり、解釈の変更を「説得」をされたるすると、わずかにたじろぐわたしがいることも否定はできない。でもそれを知ったところで、わたしの作品への考え方は変わらない。反対の論理を展開させれば、わたしの書いた作品が、わたしの生活背景、こころの病み(あるいは闇)、いのちの来歴を通して理解されたことなど一度もないし、わたしがそれを望んだこともない。一編の作品というものはそういうものではないのだろうか?


 今日「あなたの六年前の手紙が出てきました。」とお電話を下さった方がいます。電話の向うでその一部を読み上げられて、わたしはかゆいような気持だったけれど、あの時からわたしは少しも変わっていないのだとも思いました。えーーと、たしかこんなことでした。


『わたしの一冊の詩集がひっそりと歩き出して、読者にめぐりあい、一編の詩に立ち止まっていただき、そのひとのこころのなかに、おずおずと棲まわせていただくことができましたら、それで幸せです。』(やっぱり恥ずかしい。何を言いたかったのかしらん?)

2005/1/15(sat)
イッツ・オンリー・トーク  絲山秋子


  


この小説については、どこから手をつけたらよいものやら苦慮していました。どこからか執筆依頼をされたわけでもなく、わたしが書かなければならないものでもないのに、何故か「書かなければ。」と心が急くのでした。


昨年の12月11日の日記では、絲山秋子の「袋小路の男・2004年10月29日・講談社刊」について書きました。その小説の扉には、ロレンス・ダレルの「ジュスティ―ヌ」の一節が置かれていましたが、この引用の意味はもう一つあったように思えます。


「袋小路の男」に同時収録されていた「小田切孝の言い分」との二編の重複構造のような展開法は、ロレンス・ダレルの「ジェスティーヌ」「バルタザール」「マウントオリーヴ」「クレア」の四部作から成る「アレキサンドリア・カルテット」の多重構造の展開方法に似ているように思えたのです。これについてはまだ確信はもてませんが、「ジェスティ-ヌ」だけをかじり読みをして、ちょっと気持が落ち着いたので、今日は「イッツ・オンリー・トーク」について書いてみます。やれやれ前書きが長すぎるわね。


主人公「橘優子」は蒲田在住の売れない絵描きです。彼女の周囲には四人の男性が登場する。まず都議会議員の「本間俊徳」、彼は典型的なマザコンであり、優子との肉体関係を結ぶことができない。次は「痴漢K」、彼とは合意のもとで痴漢的な性的関係だけを結ぶ。そして「林祥一」は優子のいとこだが通常の社会生活が営めず、優子は自分の部屋に同居させながら面倒をみている。四人目は「安田昇」という鬱病のやくざであり、彼女は同病者としてネットを通して出会うことになる。一見して淫らな男女関係のように見える。「イッツ・オンリー・トーク」「すべてはムダ話だ。」とは、エイドリアン・ブリュ―の歌の一節らしい。たしかに読み終わった直後は正直言って「ムダ話」を読んだという気分だった。


一つの季節に一人の男性に思いを寄せるというのは、ごく普通の恋愛の形だろう。その時の女性は心もからだもすべてを注ぎこんでゆくだろう。これが幸福な結果を生むならばそれでいい。しかしこの視野狭窄的な行為がやがては孤独や狂気を産み、崩壊を招き、深い哀しみとともに次の季節への移ろいをも産み出すことにもなるだろう。「優子」はその恋愛の残酷な構造を柔らかく補強するかのように、あるいは避けるために、このような愛の構築法を無意識に行っているのではないだろうか?「純愛」「性愛」「母性愛」「友情」をそれぞれの男性に振り分けたのではないだろうか?わたしは時間を経てそのような考えにやっと辿り着いたようだ。


一人の女性が生きてゆくためには何が必要なのだろうか?絲山秋子の描き出す女性像は複雑であり、しかし非常に単純な姿をしている。そしてしなやかで、壊れることのない「竹籠」のような人間の絡み合いがそこには見えてくる。この小説を読みながら、わたしがしきりに思い出した小説は十代の終わり頃に出会った柴田翔の「されどわれらが日々」でした。あの時代の若者たちのひりひりとした剥き出しの痛覚のようなものは、すでにもう絲山ワールドには存在していないようだ。だからって「昔はよかった。」なんて言わない。わたしが絲山秋子を読むのは、おそらく「今はどうなの?」という問いのためなのだ。


(2004年・文藝春秋社刊)

2005/1/10(mon)
花の処刑 言葉の処刑


8日は、茅場町にあるギャラリーマキで、俳句朗読と「はないけ所作」を組み合わせたイベント「冥花」を見ました。詳しい内容は桐田真輔さんのHPの「吸殻山日記」をご覧下さい。わたしはその時の印象を詩作品として書いてみました。こっちの方が楽ちんですので……。


  
  (ギャラリーに行く途中にこんな橋を渡りました。)



   言葉の処刑


   執拗に絡みあういのちの根をたち切り
   重い根のかたまりを抱いたまま
   弓形の一本の竹は
   淡いひかりのなかに姿を現わす 影


   ことばはめぐる めぐる


   竹は傷つけられ
   傷口には枝をへし折られた異種の花が咲く
   寒椿 まだ咲かない木瓜
   二つ目の傷口には
   枯れた柳はしなやかにひろがるひかりの糸
   歓喜の一瞬(それは わたしのもの。)
   そこで時よ止まれ。


   一瞬を崩壊するために(わたしを裏切って。)
   おびただしいピラカンサスの実がはじけとび
   はじめて生きた植物の強い匂いがあたりを満たす


   竹をめぐりながら
   言葉を吐くひとがいる
   言葉よ めぐれ めぐれ


   竹を殺し 花を殺す ひと
   汗を光らせ 荒い呼吸


   言葉は次第に凍りつき
   花を殺すひとは言葉も処刑する
   言葉の熱い呼吸 


   植物の匂いに包囲されながら
   わたしはつぶやく 放心

   
   「それでもわたしは言葉を咲かせます。」

2005/1/8(sat)
午後の冬陽


  


七日午後、今年初めての耳鼻咽喉科の診察に行きました。
順調に快方に向かってはいるものの、完全な快復には辿り着けない。ドクターもさすがに「時間がかかりますねぇ。」とおっしゃる。元の声になかなかもどらないというだけのことなのですが。しかしお薬は三種類から一種類に減りました。ドクターには内緒ですが、「禁酒」だけは自主的(?)に、ささやかに「解禁」しましたけれど(^^)。


病院の待合室は、一角が全面ガラス窓になっていて、大きな温室にいるようなのです。冬陽がフロア―に美しい模様を描いていましたので、撮影してみました。

2005/1/6(thu)
からすのいたずらにおこるな


  


前回の日記には、桐田さんの爆笑批評の件を書きました。これにはちょっとした後日談があります。桐田さんの批評(というよりはお料理かな?)の材料(だから対象ではない?)となった作品のうちの一編「しんしゅけしゃん」は、藤富保男さんの詩集「客と規約」を知らずに書いていたのです。この作品を書いた後で、桐田さんからこの詩集をお借りして読みました。そのなかの作品「客」にわたしのこの作品はシチュエーションがあまりにも似ていたのでした!!


   「しんしゅけしゃん」(「詩日記2002−2005」)


この藤富さんの詩「客」は女性が家のなかに上がり込んできて、主人の戸惑いにも無頓着に家中を歩きまわり、それが済むとカラスになってみずから鳥篭に入ってしまうのです。もう一編はこの成行きを逆転させて、カラスが鳥篭から出て、女性に変身して家中を歩きまわり、そして外へ出ていってしまうのです。


この詩集はそれだけでは終っていません。この「客」一編をもとにして、さまざまな言葉遊びを展開させているのでした。たとえば詩の各行から一文字づつ抜き取って空白を作り、その空白を繋いでゆくと「からすのいたずらにおこるな」となったりするのです。とっても楽しい詩集で一気に読んでしまいました。詩はこれくらい楽しんでいい、ばらけてもいいのだと思いました。しかし「詩を遊ぶ」ということは、本当は大変に優れた力量がいるのだと、反省もした次第です。この詩集に出会った日には大きな地震がありました。

2005/1/3(mon)
実はわたしは白呪術師なのです(^^)。


灰皿町住人の桐田真輔さんのHPの「吸殻山日記」では、お正月気分の勢いにのって、わたしの「詩日記」の二篇の作品について、爆笑的批評を展開しています。題して「高田昭子さんの千里眼的挨拶詩」です。お時間のある方は覗いてみて下さいませ。


http://www.haizara.net/~kirita/nikki/ec/shin.html


どなたもご存知ないかもしれませんが、実はわたしは白呪術師なのです。ただその力は数ヶ月が限度でして、次にその力が出るのはいつのことやらわかりません(^^;。

2005/1/2(sun)
あけましておめでとうございます。


  


   新年


   真夜中の庭には
   過去からの雪が降っています。
   わたくしたちは ゆっくりと
   少年と少女の時間へかえってゆきましょう。


   往きついたところから
   もう一度歩きはじめましょう。
   夢のつづきのような朝への道に
   灯りをかかげながら。


★ 新年のご挨拶が遅くなりました。これがわたしのペースかな?



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