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高田昭子日記


2004年10月

2004/10/26(tue)
訂正します。


昨日書いた日記に、広尾の東江寺は浄土真宗と書いてしまいましたが、間違いでした。東江寺は禅宗の一派である「臨済宗」でありました。「だからなんでもありですよ。」と教えていただきました。ありがとうございました。


浄土真宗は亡き父母のお寺です。
「言い訳」にもならない(^^;。

2004/10/25(mon)
宮沢賢治&高橋昭八郎


奇妙なとり合わせと言ふなかれ。


23日午後2時から、広尾の東江寺本堂で行われた「宮沢賢治朗読会」を聴いた後に、コーヒーを飲んで休憩をとってから、神宮前のワタリウム美術館で展示されている「高橋昭八郎展」の「はしご」をしたのでした。方向音痴のわたしはひたすら同行者の後をついてゆくだけでした(^^)。


東江寺の本堂では、まず住職とそのご子息(かわいい小坊主♪)による「あめにもまけず」をお経を唱えるリズムで朗読という試み。宮沢賢治はたしか法華経だったと思うが、ここのお寺の宗派は浄土真宗である。ま、いいか。
その後で、吉田文憲氏によるレクチャーです。いろいろと彼なりの賢治の「鹿踊りのはじまり」論をお聞きしましたが、こころに残ったものは「すすきの穂の輝く波」とか「赤い夕日」とか「ハンの木」だった。
「鹿踊りのはじまり」の朗読はオペラ経験のある野口田鶴子さん。彼女は宮沢賢治の高校の後輩にあたる方です。美しい声の岩手弁ってわかるかなぁ〜。子供が小さかった頃に「読み聞かせ」をしてあげた経験は覚えているが、あの感覚とまったく逆なのね。子供になったわたしが「読み聞かせ」をしてもらっているような気分になった。目を輝かせて聞いている子供のようなわたしがたしかにそこにいた。知っているお話なのに「また聞かせてよ。」と繰り返しせがんでいる子供がその時間のなかにたしかにいたの。不思議な時間だったな。


さて次は「高橋昭八郎展 」です。書店の一角にある展示場でした。さまざまなペーパー・クラフトによる小さな本、巻物、折り物。ああ、今度は納得のいく装丁の小さくて可愛い詩集が作りたいなぁ〜と思ってしまう。その後は書店内をうろうろ……欲しいと思えば全部欲しい、どれか選べといわれたら選べないから見てきただけ♪


その後は前記の「地震体験」に続きます。思えば子供の時間から死の時間までの感覚を生きた一日でした。(ちとオーバーかな。)

2004/10/24(sun)
地震の時思うこと。


地震の被害にあわれた方々には大変失礼なお話ですが、どうかお許しください。


昨夜の地震の時には、友人とともにビルの九階にいました。かなり長く強い揺れを感じました。隣席にいらした見知らぬ若い女性が携帯電話で収集して下さった情報によると新潟が震度6強、被害は大きいだろうと想像はできました。こんな時には急に見知らぬ隣人と親しくなったりする。


あわてて、恐がるわたしを見ながら友人は悠然としている。「なるようにしかならない。」という。それはそうかもしれない。でも「今度こそ死ぬかもしれない。」と思うと、その時一緒にいた人とか場所がわたしの最後の人生の舞台になるのだと思ったり、苦しい思いや痛い感覚が少ないことを願ったりする。きれいな(?)顔でいたいと思ったりする。友人は笑うけれど……。


そしてまた、わたしは無事怪我もなく生きていて、深夜の駅ですこやかに友人と「また!」と言って別れて、どうやら順調に動き出した電車に乗って帰った。電車のなかでは友人がかしてくださった、とっても楽しい詩集を笑いながら読んでいたわたしだった。人生にいつか来るかもしれない死は思うもの、惨事に対しては強靭な想像力がいるもの。

2004/10/22(fri)
今日の秋


コスモス
色づきはじめた銀杏
白いひつじ雲
あおい空
半透明の昼の半月


ベイリーブス三枚
薄水色の手紙
風邪薬
りんご
セーター

2004/10/16(sat)
父母の手記


このHPにある『声「非戦」を読む』のページのはじめに、わたしは父母の敗戦時から祖国引揚げまでの手記を掲載しました。二人の手記を入力しながら、わたしは父母の記憶に「ずれ」がないことにとても驚きました。同時に嬉しかった。父母はともに亡くなりましたが、わたしのこのいのちは父母が守り、祖国へ無事に連れかえってくれたものだと再確認した次第です。


この二人の手記を読んで下さった方から、メールにて感想をいただきました。まず、わたしより年長の女性詩人Sさんはこのように書いて下さいました。(抜粋)


『高田さま。HPの『声「非戦」を読む』を拝読いたしました。大変な記録ですね。戦後の混乱期にご苦労なさった方は多くあるでしょうが、そんな中、ご家族全部が無事にご帰国なされた事は、お父様の賢さ、運のよさ、などでしょうけれど、貴女、という書き手をお遺しになられたこと、大きな意味の一つでしょうね。』


嬉しかった!ささやかながらものを書き続けていてよかったと思いました。そして父母はインターネットの世界など知らないままこの世を去りましたが、今頃天上からここを覗いているやもしれません。ねぇ〜Sさん。


次に、わたしより少し若い(多分…?)K氏からもメールを頂きました。(これも抜粋)


『危機的状況になったとき、助けてくれるひともいれば、保身に走るひともいるし、群衆心理で暴徒になる人たちもいる。そういうこともよくわかりますね。
それから、手記にかかれているようなことは、今でも世界中のあちこちで起きていることですね、とくにイラクの状態をうつす鏡みたいなところもあると思います。そういう想像力も大切にしたいと思いました。』


そうですね。Kさんありがとう。「想像力」はとっても重い言葉なのですね。

2004/10/12(tue)
新米で稲荷寿司を。


先日詩人のYさんが送ってくださった新米の終わらないうちに、おいしいお米料理をしようと思って今夜は稲荷寿司を作った。油揚げは薄味で煮る。ご飯はかために炊く。軽く茹でたレンコン、チリメンジャコ、湯通ししたひじきを酢につけておいて、酢飯にまぜる。これを油揚げに詰める。まるまると太った稲荷寿司ができちゃった♪

それからけんちん汁を作りました。あったかい汁物が飲みたい季節がふいに来てしまったようですね。キッチンで3時間の奮闘!!誰か誉めてくださーい。

2004/10/4(mon)
吉本隆明の読む明石海人―その2


3日に(つづく)と書いてしまった以上、書かずばなるまい。何故こんな大変なテーマについて、無力なわたしがあえて書くのか、自分でもわからないのだが、無力を承知で書くしかないのだ。少しだけ明石海人についての簡単なメモも書いておこうか。海人は1901年生まれ、1926年頃にハンセン病を発病、1933年作歌を始める。1939年逝去。下記は歌集「白猫」に書かれた明石海人自身の言葉です。(抜粋)


『第一部白描は癩者としての生活感情を有りの儘に歌ったものである。けれども私の歌心はまだ何か物足りないものを感じていた。あらゆる假装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思いの儘に飛躍させたい、かういう気持ちから生まれたのが第二部翳で、概ね日本歌人誌に発表したものである。が、仔細にみれば此處にも現實の生活の翳が射してゐることは否むべくもない。この二つの行き方は所詮一に帰すべきものなのであろうが、私の未熟さはまだ其處に至ってゐない。第一部第二部共に昭和十ニ年乃至十三年の作で、中には回想に據ったものも少なくない――昭和十四年一月、長島愛生園にて。』
この歌集が出版されたのは2月、この年(1939年)の6月に明石海人にこの世を去った。


さて、吉本隆明は一旦は明石海人の短歌の昇華を見たようだが、さらに別の視点から考察を続けた。たとえば短歌的声調をを整えてはいるが、修辞的な統合を欠いた作品が海人の短歌に頻出することが、吉本にはどうしても気がかりだったらしいのだ。下記の短歌は吉本がその例としてあげた作品の一部である。


(1)銃口の揚羽蝶(あげは)はついに眼(ま)じろがずまひる邪心しばしたじろぐ
(2)水銀柱窓にくだけて仔羊ら光を消して星の座をのぼる


(1)については、わたし自身は、詩「韃靼海峡と蝶―安西冬衛(1898〜1975)」の最後の一節である『すると一匹の蝶がきて静かに銃口を覆うた』をふと思い出すが、この関連性については残念ながら、わたしには裏付けはとれない。


そして、吉本隆明は一気に明石海人の短歌から彼の散文詩へと飛ぶ。この散文詩こそが明石海人が自己についても自己の死についても、非常によく相対化されていると吉本隆明は断言するのである。海人の短歌の特徴である「過剰性」は、短歌のなかに散文的な資質が内包されていたことに起因するのかもしれない。


明石海人が生きた時代は、ハンセン病は絶望的な病気であり、さらに社会からの隔離、隠蔽が強いられた時代である。作歌の手法としても、過剰と思えるほどの意味づけへの欲求がありながら、それを押しとどめることを余儀なくされたという「理不尽」が明石海人の短歌の混迷を生んだのではないだろうか?ともわたしには思える。その理不尽の一例はこれだ。


そのかみの悲田施薬のおん后今も坐すかとをろがみまつる
みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生れて我が悔ゆるなし

ふぅ〜〜疲れた。とても書ききれるものではないなぁ〜。わたしの未熟さはわたしが一番よくわかっているが、それでも書いておかなければ先へ進めないという思いがあるので、書いておきました。最後にこの一首を置いて、とりあえずこの項を終わることにする。


いずくにか日の照れるらし暗がりの枕にかよふ管絃のこゑ

2004/10/3(sun)
吉本隆明の読む「明石海人」―その1


吉本隆明著「写生の物語・講談社・2000年刊」は、短歌と和歌に関する評論集である。このなかで吉本は歌人「明石海人」について書いている。この章はわたしがここ数年胸のうちで「病と言葉との関係」について揺れ続けていた疑問への解答をいただいたような気がするのだ。吉本は海人の作品を「療養所文学」あるいは「ハンセン病」という括りのなかで読んだのではなく、「困難な病と言葉との均衡関係」について書いているのだ。……と言ってもこれについて書くことはちょっとしんどいけれど、ま、書いてみようか。わたしは下記の一首が明石海人の歌人としての個性をもっともよく物語っていると思うが、どうだろうか?


あかあかと海に落ちゆく日の光みじかき歌はうたひかねたり


まず、吉本隆明は明石海人の短歌を、ハンセン病の初期症状の段階と非常に病状が進んだ時期に書かれたものを、分けて批評している。初期の明石海人の短歌は、病への恐怖と絶望感のなかにあっても精神の均衡は整っていたので、作品の透明感はこの段階では保たれていると吉本は見るのだ。まず初期の短歌を。


人間の類を遂はれて今日も見る狙仙(そせん)が猿のむげなる清さ
診断を今はうたがはず春まひる癩(かたい)に堕ちし身の影をぞ踏む


しかし、吉本は海人の病状が進み、意識不明に陥るような状況が頻発する時期に書かれた短歌は、その痛切さのために短歌にあるべき音韻とリズムの乱れが見えてくるというのだ。この時期の海人の短歌にはたしかに一首に盛り込むことが不可能と思われるものを盛り込んでしまったという「過剰性」が見られる。この特徴が海人自身の個性によるものか、彼のおかれた状況の痛切さによるものなのかを「解体」するために、吉本は海人の「叙景歌」のみを引き出してきて考察を試みるこというもしている。そこから吉本は海人の歌人としての資質を探ろうとする。下記の短歌(1)(2)は病状の深刻な時期に書かれたもの。(3)は叙景歌として抜き取ったものである。


(1)しんしんと振る鐸音に我を繞りわが眷族(うから)みな遂はれて走る
(2)息つめてぢゃんけんぽんを争ひき何かは知らぬ爪もなき手と
(3)庭さきにさかりの朱(あか)をうとみたる松葉牡丹はうらがれそめぬ


そして吉本は下記のこれらの短歌に出会って、ようやくほっとする。ここには音韻とリズムが充たされたのちに、明石海人の短歌は天上に届いたと一旦は断言するのだが……。

鳴き交すこゑ聴きをれば雀らの一つ一つが別のこと言ふ
嚔(はなび)れば星も花瓣もけし飛んで午後をしづかに頭蓋のきしむ

(つづく)

2004/10/2(sat)
新米



米農家の長男として産まれ、その農業を継ぎ、生涯のほとんどを米農業に生きた詩人Y氏から、今年も新米が送られてきました。宅急便の品名欄にはいつもの通りに「野産物」と記してありました。米の代表的な産地は新潟、秋田、宮城などと言われていますが、Y氏は埼玉在住である。そのお米は素朴さと甘味のある実に美味しいお米なのです。つまりお米の美味しさとは土地や風土や水で決まるのではなく、作り手の適切な判断と丹精によって決まるということです。ただし決してかなわないのは「棚田」のお米だそうで、それは山を降りてきたばかりのミネラルの豊富な水を田水として使えるからです。
埼玉のような平野では、それは望めないことですが、まず大切なことは肥料の配合で「チッソ、リン、カリウムの配合のバランス」。それから一反あたりの収穫量が多ければ、それが優れているお米であるということではない。また米粒が大きいことも優れたお米であるということではない。(これはクズ米の出る割合も多いのだそうです。)米粒が多少小さくとも、全体の米粒の大きさが揃っていることの方がお米のおいしさに繋がるそうです。


それから今年の猛暑の記録的な長さは、米の収穫を早めました。米には「積算温度」というものがあって、それが満たされてしまえばお米は実ってしまうのです。こういう気象条件のもとでは、この暑さからお米自身の「保身作用」も働いて、籾殻は厚くなり、米粒はその分小さくなり、お米の白い部分が増え、半透明な部分がわずかに減るそうです。これはお米の味にも影響します。Y氏曰く「今年の新米はわずかに味が落ちるかもしれない。」とのこと。


俳句の季語に「田水落す」「落し水」などがありますが、これは秋に稲が成熟して刈り入れをする前に田を乾かすためです。また「堰外す」という季語は春に稲の花の咲く頃、つまり穂が実りはじめる前に、稲が土の栄養と酸素を必要とするために、一旦田水を抜き、酸素と肥料を補給してやるため。


「米は果実とも違う。野菜とも違うのですよ。水稲という作物なのです。」なるほど。それから稲は三度枯れるそうです。それが「栄養を下さい。」という稲のメッセージだと。その時にきちんと答えることだそうです。そして三度目に枯れ色を見せた時が「刈り入れ」の時となるわけです。


以上はY氏へお礼の電話を入れて、メモを片手にお聞きしたお話です。


以前にY氏からお聞ききした、忘れられないお話もあります。まだ農業が機械化されず、牛馬に頼っていた頃のこと。代掻きのために牛馬に馬鍬を引いてもらわなくてはなりません。一日中田のなかを行ったり来たりを繰り返し、夕方近くまで働けば人間も牛馬も疲れてくる。その頃になると牛馬は自分の家のある方角へ向かって馬鍬を引く時の足取りは速く、その反対の方角へ引く時は鈍くなるのだそうです。少年期のY氏のやさしい視線を思いました。それから「活着」という言葉を初めて知ったのもY氏のお話からでした。



   新米の其一粒の光かな    高浜虚子


Y氏の言葉をまた思い出す。「米の形は炎に似ていますね。これはアジアの希望なのですよ。」



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