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高田昭子日記


2005年6月

2005/6/22(wed)
孤島  ジャン・グルニエ (幸福の島)


  


 この本について書くのは三度目となる。我ながらあきれていますが、このように分割しながらでないと書いてゆけない。その上、わたしの言葉も想像力もまったくこの本に書かれたものに追いついていないことも自覚しています。すでに手厳しいご批判を頂いておりますが、それは「理解の差異」だと思うことに致します。ニンゲンが長く生きていれば、同じ一冊の本を読む時の理解や感動の質は当然違う。それは共有できない。拙いながらも、わたしの生きた貧しい時間と立ち位置から書くしかありません。(色文字の部分は引用です。)


 ひとはなぜ旅に出るのか?この「幸福の島」は、どこにでも名付けることができるでしょう。フランスやイタリアやギリシャ、どこでもいい。大聖堂や美術館や劇場や城や美しい墓地、大庭園あるいは湖や海をみることだけではない。あてもなくさまよい、陽射しや風を感じ、花の香りに出会う。あるいはベンチに腰をおろして人々が行き交う様子をみているだけでも充分「旅」と言えるだろう。以下はわたしがかつて書いた詩の抜粋、未発表のものです。


   荒れ果てた世界の片隅にある小さなベンチ
   置き忘れられたような二人は道ゆく人々を見ていた


   あなたが世界に名前をつける
   道ゆく人々の物語を作る
   わたしは笑ったり 哀しんだり 
   その続きを作り直したり……


 『大景観の美は、人間の強さにつりあわない。ギリシャの神殿が比較的小さいのは、それが人間たちの避難所として建築されたからだ。希望のない光り。度はずれた光景は人間たちを途方に暮れさせたであろう。』


 ささやかな旅もあれば圧倒的な旅もある。かつて訪れたモンゴル草原を思う。そこは空に接していた。いや足元からすでに空だったのだ。この広大さのなかに自分を立たせることだけがわたしのこの旅の目的だった。しかし広大さは豊かさではない。貧しい土地だからこそ広さが必要だったのだ。遊牧の人々の住む小さなゲルは集落をなさず、気の遠くなるような距離を隔てていた。わたしを途方に暮れさせる光景はそこにあったと思う。言葉はなかった。無力な自分に出会うだけ、そうして「死」が親しいもの、なつかしいものに変わってゆく感覚が産まれた。「島」から離れた話題になっていますが、ご容赦を。


  『至上の幸福感は、悲劇的なものの頂点なのだ。激情のざわめきが最高潮に達するとき、まさにその瞬間に、魂のなかに大きな沈黙がつくられる。(中略)そのような瞬間のあと、ただちに、人生はふたたびもとにもどるだろう。――だが、さしあたってひととき人生は停止して、人生は無限に越える何物かにまたがるのだ。何か?私は知らない。その沈黙には多くのものが宿っている。そこには、物音も、感動も、欠けてはいない。』


 生きるということは、沈黙の虹をかけるようなものかもしれません。繰り返し繰り返し、虹をかけること。人間も自然も、あまたのいのちあるものすべて。それを決してやめないこと。虹は消える。しかし幾度でも生まれるもの。ここで、ふいに「虹」を持ち出してしまったのは、おそらく『人生は無限に越える何物かにまたがるのだ。』からのわたしの連想でしょう。念の為。ラ〜〜ララ〜ララ〜〜ラ♪♪


 『ああ、それら私の幸福の島々よ!朝の偶然のおどろき、夕べの思いがけない希望、――きみたちに、まだときどき私はあうことができるだろうか?きみたちだけが、私を解放してくれる、そしてきみたちだけのなかに、私は自己を知ることができる。錫をつけない鏡、光りを出さない空、対象をもたない愛よ・・・。』

2005/6/17(fri)
孤島 ジャン・グルニエ (空白の魔力)


  


 九日に、ジャン・グルニエの「孤島」のなかの「消え去った日々」について少しだけ書きました。この本は1968年初版、1969年第四版、竹内書店刊です。翻訳は井上究一郎、すでにセピア色になっています。これはわたしが望んだものではなく、ふいに差し出された本ですので、少々戸惑いがありました。この本の伝えようとしたもの、あるいは貸して下さった方の意図について、わたしは間違いなく受け取れるのだろうか?と・・・・・・。しかし、それはわたしの勝手な気構えかもしれません。さりげなく読めばいいのでしょう。また、わたしがまったく「フランス」という土地に立ったことがないという「断念」から出発するということも前記しておきます。以下は冒頭の章より。『 』で括られた青文字の文章はこの書からの引用部分です。念の為。



 【空白の魔力】
 

 この本を受け取った日の深夜、帰宅してからすぐにこの第一章だけを読みました。まず「虚無」という言葉に出会ってしまいました。その日の午後はある絵画展を観て、夕刻からお酒を呑み、さまざまなとりとめのない会話をしました。正体不明の哀しみ(のようなもの)をかかえたまま帰宅しましたので、この「虚無」はその時にはとても辛いものでした。冷静に受け止めることができずに、涙ぐむという始末の悪さでした。我ながら情けない。。。


 『私はこの世の「むなしさ」について人からきかされる必要はなかった。それについては、それ以上のものを、つまり「からっぽ」を感じていたのである。』


 『六歳か七歳だったと思う。菩提樹のかげにねそべり、ほとんど雲一つない空をながめていた私は、その空がゆれて、空白のなかにのみこまれるのを見た。それは、虚無についての私の最初の印象だった。』



 これはグルニエの少年期の感性であり、これが彼の思索の出発点であろうかと思われます。この「空白の魔力」がグルニエをさまざまな旅へいざなうことになるのでしょう。この旅によって、その欲望が満たされようとする瞬間こそ美しい。この美しい瞬間にのみ生きてきたのだとグルニエは言いたいのでしょうか?

 
 『私は海を愛していたとはいえない。私は海の力にじっと耐えていたのだ。』


 このグルニエの少年期の「空白」は、グルニエに親しいブルターニュの海に起因するようです。「海の力に耐える」――それに似た心の作業がこれからのわたしにはたくさんあるでしょう。今までもずっとありました。それに、とてもふさわしい言葉を与えられただけなのだと思います。それらが苦しみとしてではなく、心の根源への接近であることは確かなことです。この章を読みながら、しきりに思い出される詩集がありました。それは有働薫さんが翻訳された、ジャン=ミッシェル・モルポアの「青の物語」です。


 『人は、自分をとりまく物を拒み、ある中立した領域にとじこもることができる。その領域は、われわれを孤立させ、しかもわれわれを守っている。つまり、自分を愛し、エゴイズムによって幸福に暮らせる、ということだ。』


 この文章に出会った時には心が凍るようでした。わたしは永い間「幸福」という言葉の魔法にかかっていたのでしょうか?その魔法から解かれて、わたしは「幸福」から激しい報復を受けたのだと思います。そして「エゴイズム」はわたしが最も憎悪していたものでした。「幸福」と「エゴイズム」とは、わたしの心のなかで大きな配置転換を迫られていますが、この心の作業はまだ終わっていません。

2005/6/10(fri)
塚本邦雄 逝去


  


 歌人の塚本邦雄が9日呼吸不全のため死去しました。84歳でした。「男歌」という言葉があるかどうかはわかりませんが、わたしは勝手にそう名付けていました。愛する歌人でした。好きな短歌はたくさんありますが、思いついたものを記しておきます。わたしの好きな順です。作品の書かれた時代については省きます。


馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば人あやむるこころ


少女死するまで炎天の繩跳びのみづからの圓駆けぬけられぬ


絶唱にちかき一首を書きとめつ机上突然枯野のにほひ


鮮紅のダリアのあたり君がゆかずとも戦争ははじまつてゐる


はつなつのゆふべひたひを光らせて保険屋が遠き死を売りにくる

2005/6/9(thu)
ジャン・グルニエの誕生日


  


 ジャン・グルニエの「孤島」を読みました。アルベール・カミュは「アルジェで、はじめてこの本を読んだとき、私は二十歳だった。」と、この本とのよき出合いについて序文をよせています。これは十三章の作品から構成されていますが、そのなかの「消え去った日々」について少しだけ書いてみます。これはグルニエの誕生日(二月六日)の過ごし方について書かれています。七月にはわたしの誕生日がきますので、それへの願いもこめて。。


 『その誕生日に、私は自分の一日のヴァカンスを――空いた日を――もうけようと工夫した。(中略)私は空白をつくろうとつとめ、時間を中断しようと欲した。』


 『睡眠と覚醒とのあいだの、あの薄明の状態。それは昼と夜との専制的な王位継承からまぬかれている状態、抗しがたい時の分割からぬけ出るという幸福な意識を失わせない状態。』


 この二つの抜粋した文章は、とりわけ魅力的でありました。わたしの誕生日もこんな一日であればいいと思いました。どのような一日であっても、振り返ってみればおそらくは同じような表情をしていたのだろうと思えます。そんな日々をわたしは生きてきたのでしょう。狂気寸前まで哀しんだ記憶も、死ぬほどの寂しさの記憶も、あるいは甘やかな幸福の束の間の記憶も、潔く過去に流してしまえば死に絶えるもの、いつまでも抱いていれば腐乱するだけのもの。そして未来はまだ形をなしていないが、そのあたりから新鮮な果実のような香りがすでに漂ってくるように思えるのだ。


 その記憶の時間と未知の時間とのあいだに、一年に一度くらいは「十三時」とか「二十五時」とか、どこにも所属しない、時間ではない時間があるに違いない。そんな時間をわたしはわたしの誕生日にプレゼントしたいと思う。とりあえずは「薄明の祝福」とでも名づけておきましょうか。名づけようもない時間かもしれませんが。そしてわたしはその日に一編の詩を書くことでしょう。

2005/6/4(sat)
エレ二の旅


  


 これはギリシャ人監督テオ・アンゲロプロスの映画である。「一言でジャンルを。」と問われれば「反戦映画です。」ですと答えることになるのでしょうか。これはわずか三歳で戦争によって孤児になったヒロインのエレニが、その後の人生のなかで、またもや戦争によって夫と二人の子供を
失い、人生の孤児になる生涯を描いた物語です。この物語の時代背景は「ロシア革命・1917年」にはじまり「第二次世界大戦・1939〜1945)」までの約三十年間です。


 この映画には血生臭い戦場シーンはまったくない。上映時間は長かったが、シーンの展開が非常にゆるやかな速度で進められているためでしょう。この速度はわたしにはちょうどここちよい。映画の登場人物はみな哀しく、貧しい人々ばかりだが、美しい音楽がたえずわたしの耳を満たしていました。


 ロシアのオデッサに移民したギリシャ人たちは、革命の勃発と赤軍のオデッサ入城により、1919年頃には難民としてギリシャのテサロニキ湾岸の荒野に戻る。その一行の長はスピロス、病弱な妻ダナエ、息子のアレクシス。そのアレクシスの手を離さない孤児の少女がエレニだった。エレニはこの長の家族として育つ。やがて一行は、河の近くに「ニューオデッサ」という村を築く。
 人間の暮らしの場はいつでも「水辺」から始まるものだが、その暮らしを崩壊させるものも、実はいつでも「水」なのであり、この村は水害をきっかけに水没する運命を辿ることになる。このコミューンのなかに、監督は「エディポスの神話」や「テーパイの神話」の痕跡を残そうとしているのだろうと思われます。わたしが「なぜ?」という思いにかられる物語の展開の裏には、これらの「神話」の仕掛けがあるようでした。


 やがてエレニの夫となるアレクシスはアコーディオン奏者、仕事を求めて「夢のアメリカ」へ行き、エレニと双子の息子たちを呼び寄せるはずだったが、国籍取得のために米軍兵士となり、「オキナワ」にて戦死。双子の息子は、皮肉な運命を辿り(これがわたしの最も深い哀しみだった。。)、ギリシャ国軍兵士と反乱軍兵士とに生き方をわかち、そして共に戦死。エレニ自身も投獄される数年があった。映画の最後のシーンは反乱軍兵士の息子の遺体のそばで号泣するエレニの姿だった。その姿は、オデッサの路上で死んだ母親にすがりついて泣いていた、三歳のエレニに重なる。その後のエレニはどう生きるのだろか?


 かつて若かったエレニとアレクシスとの約束「いつか二人で、河のはじまりを探しに行こう。」は、ついに果たされることはなかった。二人は「地に降る涙のように」流れる時代の大きな河に押し流されてしまったのだ。


 観終わってから、わたしはあの荒涼たるテサロニキの風景と美しい音楽に、ただぼんやりとしていた。同行者に促されて席を立ち、明るいロビーに出てから、わたしが一番先にさがしたものは、この映画音楽のCDであった。この原稿を書く間もいつもこの音楽と一緒でした。

2005/6/1(wed)
六月


  


 この日記を書き始めてから一年が経ちました。ふたたび紫陽花の季節がめぐってきました。



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